1976~89年の執筆物

解説

高校教師5年目、4回生を3年間担任して一回り、7回生で2回り目に入りました。学年主任も同じ学年の人たちにも馴染めず、たえず腹を立てていたように思います。「教える」とか「指導する」とかを微塵も疑わない教員には、お前らが何を教えるねん、お前らが何が指導やねんと憤り、何をしても中途半端に思える生徒にはするんやったらちゃんとやれよと腹を立て、うちの子に勉強するように言って下さいという保護者には、冗談やないやろと呆れ返り、ずーっとそんな日が続いていたように思います。

久し振りに Wright の Black Power を開いたら目がちかちかして、このままでは死ぬより酷い状態になってしまうと感じ、高校を辞める決心をしました。

結局は、高校に在籍のまま教員再養成の大学院に行くことを決めました。

その学年にいた「淳ちゃん」とは、クラブのバスケットでも一年しかいっしょに付き合えませんでしたが、卒業後、家に訪ねてくるようになりました。宮崎への引っ越しを手伝ってくれ、引っ越しの日には見送りにも来てくれました。宮崎に来てからも、「鹿児島のおばあちゃん」の家から遊びに来てくれました。

しかし、ある日、相談もなく、手の届かないところに逝ってしまいました。

「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」

ドングリの実表紙

兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集

「どんぐりの実」(1981年)4ペイジ

本文

貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風     我鬼子

身にしみる冬の風です。何をやっても、自分の無能さが、思はれます。三十までに、これだけはやりたいと思って居たことのかけらも出来ずに、それぢゃ、死ぬまでにと、自分をなぐさめてみても、それもだうか、わかりません。

執筆年

1981年

収録・公開

兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集「どんぐりの実」 4ペイジ

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貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風(52KB)

1976~89年の執筆物

概要

教員3年目、兵庫県立東播磨高等学校文芸部の部員から頼まれて書いたものです。高校の教員になって3年目、担任をした文芸部の加納文代さんから頼まれて、同僚の2人とともにこの原稿を書きました。

馴染めず反発しか覚えなかった高校時代を再現するような新設高校に、今度は教員として行くことになりました。受験勉強も出来ずに外国学部の夜間課程に通った僕が、受験のためにと英語の成績で分けられたクラスの担任をするという、皮肉な事態となりました。

家庭にも、学校にも、地域社会にもすっかり希望を失なっていた僕は、生きても30くらいまでだろうと感じて、生き(死に)急いでいました。出口も見えず、生きる命題も見つからないまま、遮二無二自分を追い込みながら突っ走った日々だったように思いますが、もう一度その時点に戻ったら、きっと同じことをしただろうと思います。

教員になる前の写真は全部燃やしてありませんが、載せた写真は、竣工直前、非常勤講師とし女子バスケット部の人たちといっしょに淡路島の県大会に行った時に撮ったものです。3年目の写真はありません。

本文

露とくとく 誠に浮世 すすがばや

去年の春も、もう終わり頃だったか、吉野の桜の花を見に出かけた時であった。上千本の、奥の、西行庵の近くの夕暮れの、うす暗がりの中で、この芭蕉翁の句に出会ったのは………。

春は、僕にとって、いつも哀しい季節だった。春の頃には、なぜか、かなしいことが続いた。入学やら、卒業やら、花見やら、世の喧噪は、僕には、いつも、縁のないものだった。

冬は、寒くて、つらいこともあったが、そのつらさが、かえって、かろうじて、生きるバネとなった。寒い冬の夜に、暖房具を使わないで、過ごしたこともある。指が冷たくて、かじかんで動かなくなると、木刀を振りまわし、かけまわっては、体を暖め、又、机に向った。そんな寒さが去って、春めいてくると、なぜか、又、わけなく、ものがなしかった。

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

この句に、最初に出会ったのは、多分、中学校の頃ではなかったかと思う。文字の意味も何もわからなかった。高校になって、古典の時間に、奥の細道をやる頃になると、単行本を買ってきて、読むようになった。光陰は百代の過客にして、行き交ふ年も、又、旅人なり……あまりの句調のよさに、得意顔に覚えたりもした。しかし、本当にその句が切実なものになったのは、十九歳の春ではなかったか……。意味もわからない。背景もさほど知らない。その人がどんな時代に生きて、どんな生活をしたか、想像の域を出ることはない。ただ、感覚が残っている。感覚だけが伝わってくる……そんな気がした。ずっと、ずっと遠いことのようにも思えるし、きのうのことのようにも思われる。

十七から二十一くらいまでの期間は、僕には悪夢の歳月であった。おそらく自分の持つ価値観が、大きく移っていった時代だった。そんな大げさなものではないかも知れないが、それが過ぎた頃には、たしかに自分が、それまでの自分とは違うものになっていた。

(過ぎ去ってしまえば何ともないことでも、その時、本人には、それこそ、生死にかかわることもあるらしい。)

悪夢。

ぼくは、それまで、世に絶対的なものがあると信じて、疑ったことがなかった。そのことを考えたこともなかった。だからこそ、生きるということを疑ったこともなかったし、生きるからこそ、生きなければならないという命題があった。すべて思う通り生きられるはずもなかったが、それでも、思いどおりにゆかないときには、それこそ、事あるごとに後悔をし、自分を責めた。笑われるかもいしれないが。

一日、六時間も寝た日には、ああ惰眠をむさぼって、自分は何となさけない人間だと本気で思った。大阪の街に出て、人の多さと、建物の大きさに驚いて、自分の非力を嘆いて、涙した。笑われるかも知れない。しかし、僕は本気だった。

何がきっかけだったかは知らない。そんな自分が、本当に…絶対的なものを信じているのか…もしかりに、あるとしても、わからないものをあると信じる自分が果たして、本当に、自分なのか・・・そんなことを思い出してから、心の中のすべてが、がらがらと音をたてて、くずれはじめた。

一瞬には、くずれなかった。長い歳月が必要だった。悪夢の連続であった。夜すら、ねむれなかった。ちょうど、大学入試や、家のごたごたが重なった。が、それどころではなかった。自分の存在がわからない…くる日も、くる日も、同じことを考えた。生きる命題が見つからない…そんな言葉に換えた……生きる命題が、見つからない…

旅が、身近かなものになった。下駄ばきに寝袋で出かけるようになった。駅のベンチに寝た。道端に寝た。草花が目に入ってくるようもなった。

山陰に出かけたときのことだった。前日、松江止まりの列車にのって、駅に降り立ったのが、夜の十一時すぎだった。駅のあたりをぶらぶらしながら、その日は、駅のベンチに寝た。翌朝、修学旅行にゆくらしい中学生の声におこされた。別にこれといったあてもなかったが、入ってきた鈍行列車に乗った。益田まで、十時間以上かかったろうか。秋だった。山陰独特の、どんよりした空だった。目の前の景色が、どこまでいっても、かわらなかった。しかし、退屈だとは思わなかった。時の流れが、わからなかった。

そんな頃だったと思う。毎日、毎日、寝床の中の暗やみで、悪夢をみた。ねられぬことを、心底つらいと思った。ある夜いつものように、ねむられないまま、あかりを消して、何時間も疲れた体を海老のようにかがめながら、同じことをくり返しくり返し考えていた。いまにも砕けそうな体とは、うらはらに、とがった神経だけが、なぜか、冴え渡っていた。

頭の中を、一つの思いが去来した。

なぜ、その句が浮かんできたのか、わからない………

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

……浮かんでは消え、浮かんでは消えていった……知らずに泣いていた。

意識すればするほど、涙が止まらなかった。部屋には、他に誰もいないのに、なぜか、声が出せなかった。

今、僕は高校で英語の教員をしている。くる日も、くる日も、人に疲れながら、精一杯、精力的に、それこそ魂を削りながら、がたがたの体を引きずりながら……

三十の坂を、のぼりだした。

執筆年

1978年

収録・公開

同高校文芸部「黄昏」 6号 (1978年)32-34頁。

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露とくとく(52KB)

 

 

1976~89年の執筆物

概要

新設高校の教員1年目に「竣工記念誌」に書いたものです。

26歳で、普通科の県立高校の教員 になりました。
大学浪人1年、留年2年、大学院浪人1年、そんなつもりはなかったのですが、結果的にはそう いうことになってしまいました。
新設3年目の高校は、2年間の仮舎住まいを終えて、新校舎に移転しました。 その記念誌に寄せたもので、残っている数少な高校教員の頃の文章です。
新任研修の翌日4月2日、 職員室に足を踏み入れたとん、一日も早く辞めて「空間」を確保出来る場所探さなければと思いました。しかし、結局は7年間を高校の教員として過ごし ました。
1年目は、担任なしの教務担当、2年目から4年間は学級担任、6年目、7年目は在籍したまま 、教員再養成のめに新設され大学院修士課程に通いました。(大学にはあまり行きませんでしたが。)

正規の教員になる前の写真は全部燃やしてありませんが、載せた写真は、竣工直前、非常勤講師(産休の代わりで、週に15コマの授業。新任の際の職員紹介の時は、校長の鉄ちゃんが旧職員です、と紹介してました。)として女子バスケット部の人たちといっしょに淡路島の県大会に行った時に撮ったものです。学校としては初めての県大会参加で、職員室ではようやった、ようやったと言ってる人が多かったです。4部で全勝、上の3部、2部でも全勝、1部6位の三木高校に勝って県大会に。1回戦で負けましたが、一泊出来ました。

1月に非常勤で行ったとき、リーグ戦の最下部4部で勝ち残っていた時期で、顧問の人がいるのに、顧問みたいな顔をしていっしょに練習をしてました。4月からはそのまま顧問に。

本文

河川敷(かわはら)を歩みて一歳(ひととせ)過ぐしけり 春に蒲公英(たんぽぽ)まう枯れ薄(すすき)

こんな風な和歌(うた)を詠(よ)みながら、気負ってみせて、毎日河原を歩きまわっていた生活と、毎日学校に来る生活と一体何の違いが、ぼくには、あるだろう。結局、青春の無軌道でしかないんだろうか。挫折。希望。挫折。夢。シェイクスピアも続みたい。フロイトも。朔太郎も。ナイアガラにも行ってみたい。太宰さんを越えたい。ライトの作品も続みたい。体が、こちこちに張っても、強心剤を打ってでも。だけど生きる命題が見つからない。法華経を読んだ。長いこと。

「玉田、お前は読み方がたらんぞ。」

だれかしら、思いくそ、しかりとばした。読んでわかるのかしらん。かといって死ぬ命題も見つからない。

「川端さんが死んだ理由が、何となくわかります。」

「無茶いわんで下さいよ、玉田くん、二十代の君にわかったら困りますよ」

ぼくの好きな恩師と呼び得る人がつぶやかれた。36の坂まであと10年。生きゆけるかしら。旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる。十代に涙した。暗闇の寝間の中でふとんをかぶりながら。涙がどうしてもとまらなかった。秘すれば花、秘せずば花なるべからずとなり。ああ、わかった風のことを。

 

執筆年

1976年

収録・公開

「兵庫県立東播磨高等学校舎竣工記念誌」 21-22ペイジ

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生きゆけるかしら