1990~99年の執筆物

概要

医学科1年生のsantoka授業を選択してくれた人たちと高千穂を訪れた時の紀行文です。

 当時医学科1年生だった5人(小林佑芙記さん、末田智紀くん、夏目寿彦くん、持田耕介くん、森田くん)と夏目くんの奥さん尚子さんの7人で高千穂を訪れたときの紀行文です。

当時の医学科のカリキュラムは全て必修で、必修の範囲内でも何とか選択クラスを作れないかと試行錯誤していましたが、その年は何とか Santoka (種田山頭火)のクラスを作って選択してもらいました。10回ほどの授業で、伝記的な部分の僕の解説と夏目くんの発表以外は、ほとんど日本語で行われた授業が果たして「英語」の授業なのかどうかは怪しいのですが、それでも毎回全員が集まって結構面白かった印象が残っています。県下の句碑の話題になった時に、高千穂神社の脇にある「分け入っても分け入っても青い山」の句碑の前で一句ひねるかという話が出ました。自然に、よし行こうやということになったように思います。車ではなく、列車で行くことにも抵抗がなかったようです。

夏目くんが「山頭火句碑めぐり」のちらし(「高千穂小紀行」のあとに掲載)を作ってくれました。当日、奥さんの尚子さんが飛び入り参加、延岡の手前で網棚においていた持田くんのダウンジャケットがなくなるというハプニングがありましたが、延岡で高千穂鉄道に乗り換え日之影駅で下車、ビールで乾杯して昼を済ませたあと、高千穂へ到着し、句碑の前であやしげな句をひねったというわけです。

句は夏目くんがあとでまとめてくれました。「山頭火句碑めぐり」のあとに掲載しています。我鬼子は13の時から使っている僕の雅号、ぶっぺは森田くん(?)、佑芙は小林さん、秀策は?(森田くんか持田くん?)、耕介は持田くん、いかがわしい拙如・須恵斗・文修羅・誤辞羅・我芽羅は末田くん、尚は夏目くんの奥さん、寿彦は夏目くんの俳号です。

句を詠んで散策したあと、森田くんはみんなと分かれて、夜を徹しての神楽を見に行きました。

文末の「我が死出の旅路となるか」は大仰に聞こえますが、当時、学校を出ることばかりを考えていましたから、自然にそんな言葉が出たのだと思います。

教授会の連中は徒党を組んで「こんな奴が教授になったら世の中お終い」みたいな人事を連発していました。一番迷惑を被るのは学生や事務局、医局の人たちです。一般教育は特にひどく、信頼していた同僚の宮田さんは堪えきれずに高知医科大学に出られ、代わりに訳のわからないアメリカ人が英語科に来て、もう大変な日々となりました。

研究室はいつでも出られるように引っ越しのための段ボールが溢れていました。しかし、悲しいかな、一匹狼の身の上では移動する術もなく、入試問題漏洩で揺れる香川医科大学にならと密かに期待して臨んだはずの面接でも断られ、毎日、学生のことを考えない体制に腹が立つし、出てもいけないし・・・そんな状態が続いていました。部屋によく出入りしていた蓮見くんは、放置されたままの段ボールを見て、今年もまた駄目なんですかと非情な言葉を浴びせるし。

ところが、世の中何が起こるかわかりませんねえ。万年講師を決め込んでいたつもりが、3年あたり前に何やら風が吹いて、教授選に出るように言われ、講演で晒し者になった末に、思わず教授になってしまいました。今度は何の見返りもなく投票してくれた人に義理を感じ始めて、当分は出て行けなくなってしまったという訳です。

従って、「死出の旅路」は、学生から色々相談を受けても何も出来ず、さりとて外にも出て行けないというその時の自分の状況を伝えたかった表現だと思います。

追伸

20年ほど後の一昨年度(2017年)の後期に、木花のキャンパスの学士力発展科目(教養科目の枠組み)の一つで「俳人種田山頭火の世界」というのを持ちました。(定年退職後、新設学部の英語の手伝いをという名目で木花の語学教育センターの特別教授に、制度の不備で単位の取れない学生「学士力難民」が溢れ、統合後やっていた南アフリカ概論などを復活、半期の最高が3科目で933人、1クラスの最高が543人、350人収容の階段教室で、前人未踏の記録を達成?!、5年間で4000人ほどを担当、マンモスの私学やないねんからと、成績をつけるのに四苦八苦。今は人数制限をして何とか継続中。)

前期で単位を取ってしまう人が多く後期は前期ほど受講者はいませんが、それでも数十人集まりました。山頭火の足跡を辿ったり、参加者といっしょに俳句を詠んだり、山頭火の句を鑑賞したり、アメリカ人の英語の伝記を読んだり、映画やニュースの映像を使ったり。

2しか蓄えがない中で1を出しながらの授業は、難しいもんやなあ、というのが感想で。去年、今年と授業はしていませんが、もう一度「俳人種田山頭火の世界」を持つ機会はないやろなあ。

本文

高千穂小紀行               玉田吉行

味取観音堂をあとにした山頭火の心のうちは、決して穏やかでなかった筈である。安住にいたたまれず、義庵和尚の用意してくれた雲水装束に身を包んで、永平寺に向けて出発してはみたものの、自らを律し切れずに漂白の思いに身を任せてしまった。泥酔して市電に立ちはだかっても死に切れず、得度しての禅修行でも自分を納め切れなかった山頭火の行乞の旅は、無明の死出の旅路だった。

分け入っても 分け入っても 青い山     山頭火

高千穂神社脇の「青い山」の句碑

この死出の旅路の途上、熊本から宮崎に至る山中でこの句が生まれた。6月17日に熊本を出た山頭火は、浜町、馬見原、高千穂を経て、22日に五ヶ瀬川沿いに日向の滝下に出ている。新緑の候から初夏にかけての宮崎の山山の青さは目に染みいるばかりだが、深い山を分け入る現実の自分と、死出の旅路を歩む自らの姿の重なりから、分け入っても分け入ってものリズムが、そして結果的にこの句が滲み出てきたのではなかったのだろうか。

山頭火のその思いに比して、「青い山」の句碑の前で一句ひねり出そうというわれらの高千穂小紀行の、なんと軽やかで楽しかったことよ、混浴の噂も流れていた日之影での一浴はかなわなかったが、ビールで乾杯したときの、持田、森田両君の喜びようは、日頃の大学の閉塞性のなせる業だったのか。

今年一番の運動でした(小林さん)、翌日は寝てばかりでしたよ(末田くん)、という言葉は、日頃の大学生活がいかに不健康であるかを充分に証明している。

飛び入り参加で充分に溶けこんでいた夏目尚子さんは、医大に編入して下さい。夏目くんも喜びます。

個人的なことを言えば、僕だけが高千穂は初めてでなかった。今回で三度目である。最初は、二度目の大学院の試験で、大学なんかに行けるかと絶縁状を叩きつけたあと(白紙にして出しただけ、結局、大学に来てしまった)、その日のうちに企てた悲愴な自転車旅行の阿蘇からの行程の通過点として、独りで高千穂に立ち寄った。二度目は、子供を焚き付けた高千穂・阿蘇自転車旅行の後始末(子供が帰りは電車で帰ると言い出した)で、世話になったユース(大和屋)へのお礼と、宮崎に来て高千穂に行かないで終わるのもなあ・・・という思いを綯い交ぜにしながら、奥さんといっしょにやって来た。四半世紀の間の出来事である。高千穂からの復路の自転車小旅行を果たした去年の夏休みは、剥離骨折と診断された子供ともども、ごろごろしながら過ごすことになってしまった。

この高千穂小紀行が、思い出の旅となるか、我が死出の旅路となるか。

平成九年一月

<高千穂神社脇の句碑の前での作句>

ともに来て 青い山句碑の ひっそり       我鬼子

山頭火句碑めぐり     特選句集

 於、高千穂 一九九七年 正月

 

ともにきて 青い山句碑の ひっそり

山翁の跡を辿る 七、八十年を辿る

我鬼子

低い陽に目を凝らす 腹がへった

しぼってもしぼっても句がでない じっと手をみる

杜の中で 「藪の中」を 読みたいな

ひくい陽に射され 頭の中にくらいうた

さむかやま あつかみどり

ぶっぺ

こもれびの 影からあふれだす 句碑の苔

青い山の 落ち葉の下の 冬眠

佑芙

敷きつめられた 山道を ぶらり旅

高千穂の 倒木から きのこ

秀作

ゆるやかな 流れに 包まれて 青き山 我 ゆるされぬ

まあたらし 句碑の手ざわり 硬し 冷たし

山 訪ねきて 頭上げて 火屋 ここにも

耕介

落ち葉から 大木 こけと かずら   拙如

碧の中で開いた 木の葉の息と 足跡の声

須恵斗

山ん中 緑の家の 空色の窓

文修羅

分け入って 止まる 山ん中

誤辞羅

緑の雲の 曇りの空に 落ち葉

我芽羅

ゆられ 見上げる空 山そびえ

久々に ほっとすれば 山の中

木々のざわめきと こもれ陽の ここち良さ

汽車にゆられて たどりついたら 山頭火の足あと

寿彦

執筆年

1997年

収録・公開

未出版

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高千穂小旅行(59KB)

1990~99年の執筆物

概要

医学科1年生の授業の初めに配った僕の英語の「エセイ」です。

本文

Africa and I

My introductory note

Every year I hand my brief introductory handout to the freshmen in my English classes. This is the English manuscript of my introduction for the students of the 1997 school year. That year I handed the Japanese version, too.

I began to think of Africa by chance. Since that time I felt inclined to live somewhere in Africa for some period with my family.

In 1992 I visited Harare, Zimbabwe and lived there with my family for two months and a half. When I was there, I felt suffocated all the time, maybe because of subconscious feelings of guilt; I had come to realize that we are on the side of the robber in the world. The reality I faced was overwhelming; the gap between the rich and the poor was far more tremendous than I had imagined. I remember clearly how relieved I felt, when we dropped in to Paris on our way back home, and briefly benefited from its many comforts.

ジンバブエ大学構内

 I visited Africa as a research associate of the University of Zimbabwe. We rented a house near the University for \ 100,000 per month. The sum was about 800 US dollars (US$) and about 4,000 Zimbabwe dollars (ZW$). The house lot was about 1,600 square meters in area.

ハラレで住んだ500坪の借家

I met Mr. Garikayi Mhoyo there. He is a Shona, which is the majority ethnic group. He was hired as a 'garden boy,’ an ordinary domestic worker, by an elderly white woman. We became close friends. I called him Gary and he called me Yoshi. I found that he lived alone, except when his family came to stay with him during the school holidays. Our family came to spend much time with his. Our children played with his children all day long. My wife asked his wife to be a model for her water-paintings. They had no common languages, but enjoying their time together was no problem.

ゲイリー

フローレンス

I was told that his monthly wage was only ZW$170 and that most people could not afford to send their children even to secondary school. The basketball with which they enjoyed playing in the garden was worth ZW$199! I heard the minimum wage for domestic workers for white families was ZW$130 per month. Some workers might even have been paid less if the government had not controlled wages; women workers in particular might have earned significantly less. I found later that the room rate at the Sheraton Hotel was about US$150 a night, equivalent to about ZW$750. It would have taken Gary more than four months to earn enough money to stay only one night at the   Sheraton Hotel!

One day I visited his village to see his children who had already returned to school. His homestead was at the foot of a hill on a plateau. He pointed at the hill and explained, “This is our land, right up the flank of that hill." It was spacious, indeed. I felt stunned to find that he had been thrown into virtual serfdom, forced by economic necessity to work as a cheap labourer. Yet, Gary’s forefathers lived a self-sufficient, rich life, in peace, just a hundred years ago. Gary had to live alone in the city a whole year, apart from his family, though his family had spacious land in their village. That was the reality.

ゲイリーの家族

ルカリロ小学校の子供たち

My mind remained out of balance for a long time since then.

One day I wrote to Michel Fabre, a professor of English at the Sorbonne, Paris, “I’m sorry I can’t write soon. After coming back home from Africa, my mind is out of balance, I’m afraid. I sometimes feel too reluctant to write to anybody. Now 'I’m sorry I write too late.’ has become one of my mottoes." The reply came as follows: “It is always a pleasure to hear from you. But do not apologize if you are behind in your correspondence. Friends are people with whom one need not apologize because they like you for what you are and accept you as you are."

  I met him first in 1985 at an international symposium in Mississippi. He was one of the speakers. I had come to know his name through his writings. I was lucky enough to spend one night with him in the dormitory, but I was not able to make myself understood in English. I had long rejected English speaking and listening because of the overbearing American influence on Japan. I keenly felt that I wanted to share feelings with him. That motivation led me to polish my English.

I was glad to find that I was talking freely with him in Paris on our way home from Zimbabwe. He taught my children how to play domino in English. They enjoyed the play very much though they understood few English words.

ソルボンヌ大学を背景に家族と

 When I called him Mr. Fabre, he said, “I call you Yoshi. You call me Mr. Fabre. It’s not fair. Call me Michel." Outside the country I am called Yoshi. I was called Tama by my basketball teammates. When I was a high-school teacher, I was called “Tama-san." Some students called me “Tama," like a cat. I don’t like to be called “sensei." I cannot identify with that word. In the same way that I like to say “Michel," I hope you call me “Tama-san," not “sensei."

April, 1997                  Tama.

執筆年

1997年

収録・公開

未出版

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Africa and I (45KB)

1990~99年の執筆物

概要

宮崎医科大学のすずかけ祭実行委員会の委員から依頼があって書いたものです。

本文

なぜ英語が出来なかったか              英語助教授 玉田吉行

英語が出来なかったのか、英語をしなかったのか。僕はことごとく大学に落ちた。
家を出る望みも果たせず、崩壊家庭の家事をやりながらの、夜間学生となった。自らが切り拓いての夜間通いではなかったので、往路にすれ違う「同級生」に少しばかりの引け目を感じた。
しかも、それまで考えたこともない英米学科だった。六年間在籍したが、結局英語はしなかった。六年目に取り残していた教養の哲学の講義を受けながら、これなら自分ひとりでもやって行けるだろう、大学にいてもしようがないなと感じて、大学院にでもいくかという気持ちになった。
好きだった新田さんが面接官の一人だった。玉田くん、in itselfは、いんにとせるふと読むんですかと、にたり微笑みながら聞いた。あとで、研究室を訪ねたら、二十六人中飛び抜けて二十六番でしたねと言ったあと、夜間高校の先生とかあなたに出来ることがあるんですがねえ、と付け加えた。
今から考えると、それが英語をするきっかけだった。憐れまれるのが、それも好きな人に憐れまれるのが耐えられなかったからだ。一年後、再び大学院の試験を受けた。大学院を出たら大学を世話してやるよという先輩もいたが、書いた答案をきれいに消して、教室を出た。大学なんかに行けるか、心のなかでそんな声がしたからである。

神戸市外国語大学(旧学舎、ホームページより)

八十一年に初めてアメリカに行った。十五年前のことである。一ドルが三百円近かったように思う。たった五年間の高校教員の生活に疲れ果ててある大学院に進んでいたが、そこで修士論文に取り上げた作家の移り住んだ地を訪ねることと、その作家が一九四二年にだした短篇のコピーをニューヨーク市ハーレムの図書館で手に入れるのが目的だった。
英語なんかしゃべれるか、そんな思いを通してきたせいか、話されている言葉が殆んどわからなかった。高校の英語の教師をしている事実も障害だった。高校の英語教師をしていますとはさすがに言えなかったが、十年以上も英語をしてきたのにしゃべれないんですと繰り返す自分が馬鹿らしくなった。結局、図書館や古本屋や街の通りを黙々と歩いていた。ニューヨークの街中で、日本人の方ですかと日本語でしゃべりかけられたが、話す気になれなかった。

7年いた兵庫県立東播磨高校(ホームページより)

九年前に宮崎に来てから、自然に英語を話すようになった。スウェーデンの人、南アフリカの人、バングラデシュの人、エジプトの人。みんな英語を第二外国語として話している人たちだった。日本に来て間もなくという人たちで、英語の方がお互いに気持ちを通わせることができたからである。
言葉とは本来そういうものだろう。そう考えると、使うことを目的としない学校での英語がそもそも不自然なのだと思えて来る。英語が使えなくても高校の英語の教師がつとまるのは、やはり不自然である。
英語の偏重も不自然だろう。距離的に近いアジアの言葉や、侵略の言葉でないアフリカの言葉が選択の教科である方が、よほど自然ではないか。

宮崎医科大学(ホームページより)

四半世紀のち、英語の出来なかった僕が、医学生の英語の授業を担当している。(一九九六年八月)

執筆年

1996年

収録・公開

宮崎医科大学医学部医学科すずかけ祭第27回パンフレット
(現物がありません。誰かお持ちの方はいらっしゃいませんか?)

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なぜ英語ができなかったか(22KB)

1990~99年の執筆物

概要

医学科1年生の授業の初めに配った僕の英語の「エセイ」です。

本文

I Like Michel           TAMADA Yoshiyuki

My mind is still out of balance since my two and a half month stay in Harare, Zimbabwe. The devastating situation has left me speechless. I cannot find suitable words for expressing myself. One day I wrote to Michel Fabre, a professor of English at the Sorbonne, Paris, I’m sorry I can’t write soon. After coming back home from Africa, my mind is out of balance, I’m afraid. I sometimes feel too reluctant to write to anybody. Now ‘I’m sorry I write too late.’ has become one of my mottoes.” The reply came as follows: “It is always a pleasure to hear from you. But do not apologize if you are behind in your correspondence. Friends are people with whom one need not apologize because they like you for what you are and accept you as you are.”

ソルボンヌ大学を背景に家族と

  I met him first in 1985 at an international symposium at the Mississippi State University. He was one of the speakers. I had come to know his name through his writings. I was lucky enough to spend one night with him in the dormitory, but I was not able to make myself understood in English. I had long rejected English speaking and listening because the overbearing American influence on Japan.

 ライトのシンポジウムで、ミシシッピ大学にて

I keenly felt that I wanted to share feelings with him. That motivation led me to polish my English speaking and listening.

I was glad to find that I was talking freely with him in Paris when I dropped in on our way home from Zimbabwe in 1992. He taught my children how to play domino in English. They enjoyed the play though they understood few English words.

When I called him Mr. Fabre, he said, “I call you Yoshi. You call me Mr. Fabre. It’s not fair. Call me Michel.”

Outside the country I am called Yoshi. I was called Tama by my basketball teammates. When I was a high-school teacher, I was called Tama-san. Some students called me Tama, like a cat. I don’t like to be called sensei. Maybe I cannot identify with that word. In the same way that I like to say “Michel," I hope you call me Tama-san, not sensei.

April, 1995

Tama.

1990年の医学科一年生の英語のクラス、研究室で撮影

 

執筆年

1995年

収録・公開

未出版

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I Like Michel(33KB)