1976~89年の執筆物

概要(作業中)

 

本文(写真作業中)

庭では梅か満開です。木蓮の枝にさした二つ切リのみかんに、めじろやうぐいすが飛んで来て、春近しを告げてくれます。あとは、時を待つ沈丁花がにほひ出せば、春の始まりです。

紫木蓮

セスゥル、お変わりありませんか。カナダの冬はどうですか。ローズマリー、レイチェル、アレクセイは元気ですか。

レイチェルと

「遠い夜明け」を観ました。映画の間じゅう、涙が止まりませんでした。画面に写し出されるしなやかなスティーヴ・ビコの姿が、セスゥル、あなたやラ・グーマに重なって仕方がなかったからです。おそらく、ビコの黒人意識運動とラ・グーマの生きざま、あなたが夏に語ってくれた生き方の姿勢と私が常日ごろ思っている考えが、基本的なところで同じだったからでしょう。スクリーンに映る様々な光景が、あなたやラ・グーマの辿った過去の軌跡とまぶたの中で重なって来るのてす。

スティーヴ・ビコ

アフリカーナー(オランダ系ボーア人)と呼ばれる白人ドナルド・ウッズが編集長をしていたイーストロンドンの小さな新聞「デイリー・ディスパッチ」は、アパルトヘイトと勇敢に闘った伝統を持つ新聞だったそうですが、それはラ・グーマがコラム欄「わが街の奥で」を担当した「ニュー・エイジ」を想起させます。

ウッズかビコと出会ったあとで、社に二人の黒人を連れて来て、他の白人の社員に、仕事を教えてやってくれ、という場面は、黒人読者層の開拓をねらっていた「ニュー・エイジ」の社主が、ラ・グーマに白羽の矢をたてて記者としてむかえ入れ、のちにコラム欄を担当させてくれた局面と同じです。

拷問の果てに、志なかばで散った若き黒人運動家の心を全世界に伝えようと、自らの原稿を国外に持ち出すひたむきなウッズは、まさに『夜の彷徨』の原稿を国外に持ち出して出版したドイツ人作家のウーリ・バイアーです。その人についてよくは知りませんが、あなたの『アレックス・ラ・グーマ』を参考にして『夜の彷徨』の出版事情を述べたあと「ラ・グーマの機転、ブランシ夫入の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう……時代を越えた入間の魂のカを思わずにはいられない」という書き出しで『夜の彷徨』について、ちょうど書いている最中だったので、よけいにそんな思いにとらわれたのかも知れません。

 

ウッズは家族と示し合わせて、1977年の大晦日に、友人の助けを借りて国外に脱出するのですが、ラ・グーマが家族を連れてロンドンに逃れたのは1966年の9月、あなたの場合はそれより3年も前の1963年、あなたがまだわずか23歳のときでしたね。家族と一緒に亡命したラ・グーマでさえ、はた目が気遣う程深酒をあおったというのですから、あなたの望郷の念は如何ばかりだったでしょう。カナダに来た2、3年は、南アフリカが恋しくて恋しくて、と淡々とあなたは話していましたが、その思いは私の想像をはるかに越えています

クリスマスにサンフランシスコで会って、「ゴンドワナ」を渡した翌日、家族て写真を撮ったとき、「おれは普段はあまリ笑顔を見せないエイブラムズ氏だぞ」、と言ってレンズに向ってにーっと無理やり笑ってみんなを大笑いさせましたが、ローズマリーは、結婚してアレクセイが出来るまでは本当そうでしたよ、と言っていましたね。異国の地で生まれたアレクセイの存在が、おそらく諸々の思いのいくばくかを溶かせてくれているのでしょう。

ウッズが橋を渡って行った入国したレソトは、差別の厳しいヴィットヴァータースランド大学を一年で中退したのち、あなたが学士号を取得しに行った国でしたね。当時その地はバソトと呼ばれていたということでしたが、そこにはた易く行くことが出来たのですか。そこからはすんなり帰って来られたのですか。

63年に、夕方暗くなってから、ANC(アフリカ民族会議)のトラックで国境を越えスワジランドに入った、と教えてくれましたが、その時の気持ちはどんなものだったのですか。

ラ・グーマはどのような経路でロンドンに逃れたのでしょうか。もし飛行機を利用していたとしたら、ウッズが家族といっしょに空からながめたように、ラ・グーマも又、家族といっしょに飛行機の窓から南アフリカの大地をながめたのでしょうね。そのとき一体どんな思いがラ・グーマの脳裏をかすめたのでしょう。

ソ連に亡命中のラ・グーマ、ブランシさんと長男のユージーンさんと

ウッズの、少しばかり演出の効きすぎた国外脱出行を見ながら、私はそんなことを思い浮かべました。

「デイリー・ディスパッチ」の記事に抗議して、新聞社までウッズに会いに出かけた女性ランペーレの役のジョゼット・シモンはきれいな人でしたね。貧しい入たちのあいだで助産婦や看護婦をしていたブランシ夫人が闘争家ラ・グーマを理解したように、虐げられた人々のあいだで医者として現実とむかいあって生きているランペーレには、ビコの主張が痛いほど理解できたのでしょう。あの人は、ケープタウン郊外のキングウィリアムズタウンで警官に監視されながら暮らしているビコの居場所をウッズに告げました。

ビコは、ウッズの人柄をすぐ肌で感じることができたのでしょう。ウッズをむかえ入れて、シビーンと呼ばれるもぐりの酒場に連れて行ったり、夜のスラム街に案内したりしました。あの世界は紛れもなく、ラ・グーマの小説『夜の彷徨』や『三根の縄』などに描き出されたケープタウンのスラム街第6区と同じです。ウッズと並んで歩きながら、暗闇のなかで、白人はどんな馬鹿でも豪邸に生まれて何不自由なく暮らして行けるのに、黒人はいくら優秀でもこの悲惨なスラム街で生まれ、こんな地獄のようなスラム街で死んで行くしかないのです、とつぶやくようにビコがウッズに語った時には、50年代、60年代にすでに、ラ・グーマが世界に真実を伝えようと、後世に歴史を書き留めようと、『夜の彷徨』や『三根の縄』など、数々の作品の中にその思いを託していた歴史的事実とラ・グーマの深い慈愛を思わずにはいられませんでした。そしてセスゥル、あなたはその姿を伝えたのです。

ケープタウンの第6区

映画は、ケープタウン郊外のクロスローヅというシャンティ・タウン(スラム街)の暁方のシーンから始まりました。(撮影は、ジンバブエの首都ハラレで行なわれたということですが)各小屋のまわりに見られた煙は、ガス、電気の来ないその地域の人たちが、朝餉の仕度に使う火から流れ出たもので、ソウェトの朝夕の煙は日本でも紹介されています。

『三根の縄』を読めば、辛うじて雨つゆを凌げるだけの小屋は、ほとんどが屑鉄や段ボール箱や古びたブリキ類から出来ているのがわかります。臭くて、うるさくて、穢ないスラム街に、大半の入は肩を寄せ合いながら、それでもなんとか力を合わせて生き永らえているのです。

トラックで乗リ込んで来た警官隊は、強制徹去の大義名分を掲げて、放水砲をむけ、犬をけしかけ、人々を追いまわしました。怪物のような大型車ランドローバーは、無残にも息をひそめて建ち並ぶ小屋を、次から次ヘとおし潰して行きました。スクリーンには、傾きかけの部屋に貼られてあるネルソン・マンデラのポスターが見えました。テレビの画面の中ではアナウンサーが「本日あけ方近く、住人の反対もなく、不法法居住クロスローヅは無事徹去され、住人はホームランドに送還されました」というニュースを無造作に流していました。ラ・グーマの生まれ育ったケープタウンの第6区も、あんな風に一瞬のうちに、壊されてしまったのでしょうか。

 

アフリカーナーのウッズは、あれで中流だそうですが、ビコの育ったキングウィリアムズタウンとは余りにも対照的でした。

ビコたちのコミュニティセンターを夜中に襲ったのが白人警官だと知ったウッズが直接掛け合いに出かけた警視総監クルーガーのオランタ風屋敷は、もっと壮大で豪勢でしたね。クルーガーは、応接間に並べてある何枚もの写真を見せながら、この国は我々の祖先のボーア人が汗と血を流して作り上げたものだ、とウッズに説きました。そのときは、部下を徹底的に調査する、と約束したクルーガーは結局、逆にウッズに自宅拘禁を命じました。

 

ビコが忽然と現われたサッカー場は、集会の場と変わりました。セスゥル、あなたもサッカーをやっていた、と言っていましたね。砂利だらけのところでサッカーをやるのは大変だったので芝生のしかれた白人専用の競技場にみんなを連れて行ったら逮捕されました、とも言っていましたね。わずか13歳のときだったそうですね。ビコがラクビーをやっていたところも、砂利の多そうな場所でしたよ。

ビコは、誇リ高く、機知に富んだ人ですね。サッカー場の演説で連行され、取り調べ中に警官に撲られ、脅されても卑屈になることはありませんでした。決然と撲り返しました。

裁判長かビコにむかって「どうしてあんた方の人々をブラウンと言わず、ブラックと言うのかね。だいたい、君らはブラックというよリブラウンに近いと思うんだがね」と言ったとき「それじゃあ、あなた方はホワイトよりむしろピンクに近いのにどうしてホワイトなんですかね」とやり返していましたね。黒人、カラード、インド人の分断をねらった三人種体制の政府の悪だくみを嫌って、今はカラードを使わないのです、とあなたが言ったように、ビコの真意は、ノン・ホワイトではない、あたりまえの人間としての、誇りを持ったブラックだったのですね。ラ・グーマが、なぜ楽天家なのですかと聞かれて「私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります」と答えたのを思い出しました。

 

誇り高きビコは、危険すぎるからと制止するまわりの人々を振り切ってケープタウンの集会に向かう途中、検問にひっかかって捕まりました。拷問のシーンもなく、突然あまリにも変リ果てたビコの姿を見せつけられたのですが、「脳損傷の兆候が出ており、危険な状態ですからすぐ専門医に……」という医師の診断結果を無視して、1100キロも離れたプレトリア中央刑務所に護送せよ、との命令が出されました。スクリーンには、がたがた道をひた走る車がクローズ・アップされていました。『夜の彷徨』の中で、撃ち倒したウィリーボーイに救急車を呼ばせず、警察署への護送を部下に命じた白人警官ラアルトの仕打ちと同じです。

1977年9月12日、そのプレトリア中央刑務所の床の上で、うつぶせになって口から泡を出しながら、ビコは脳損傷のために亡くなりました。警視総監クルーガーは、その日「あなたは黒人の指導者にハンストをする民主的な権利をお与えになったのですからご立派ですぞ」と称賛する白人の代表と談笑しなから、ビコの碑文を書いたということです。

ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・バーンズ氏は、一両日後に、プレトリアのクルーガーの部屋に呼ばれて、クルーガー本人から「ビコの真相」を聞かされたと言い、その時の模様を次のように記しています。

クルーガーは、自らの最初の声明でほのめかしたように、ビコの死因がハンストではなく、脳損傷であることを認めました。それから、壁の方に歩いて行って壁に額をごつんとぶつけました。「こんな風だったのです。ヤツは私たちを困らせたいばっかりに、自分で自分を傷つけていたのです」(1987年11月1日付「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

ラ・グーマは『石の国』などで、自らの獄中生活をもとに「警察国家」と対峙しました。

「ソウェト」の高校生たちの躍動感は、スクリーンを飛び出して、大きく、大きく、こちら側に押し寄せて来ました。警官たちは、そんな高校生たちに、無情な死の銃弾を浴びせました。あなたの「ソウェト殉教者たちに寄せる詩」の再現です。

 

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか8歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

 

少年はまっ先に死んでいった

1番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

 

あれから10年余の歳月が流れました。これからはこの「ソウェト」を体験した若い人たちの時代です。ビコの葬式で、ビコが生前とても愛したという南アフリカ解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れました。あなたはその曲にあわせて踊り、突然、イッアフリカッ、アマンドラッを連発しましたね。

この映画の監督リチャード・アッテンボロー(63)は私のねらいは簡単でした。つまり、この映画を見た人は誰一人として南アフリカの状況に無関心でおれなくなり、立ち上がって、これは酷いというようになれば、ということでした」と語ったという。(同「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

日本では3月5日(土)より全国一斉に封切られる予定です。従って私は試写会で見たわけですが、会場の神戸朝日会館は開場前から長蛇の列でした。しかし、あの人たちの大半は「ガンジー」や「コーラスライン」のアッテンボローを見に来たのでしょう。その証拠に、映画が終わりかけた時、半数の人が席を立ちました。

そのとき画面では、まだ過去25年の拘禁中に死亡した80余名の名前と死因が次々と映し出されていました。席を立った人たちは、45番目のビコの名を見なかったことになります。

「何を見に来たんだ」と私がつぶやくのを聞いて、立ちかけていた前列の若いカップルが再び座り直していました。

でも、セスゥル、ざわめきの中でさえ、感動の余韻をこらえながら、最後に写し出された80数人目かの1987年3月26日という日付けをしっかりと見届けている人もいましたよ。

帰り途、グギさんの友人であるケニアのムアンギさんと奥さん、それに私の友人との4人で、あなたとビコを演じたデンゼル・ワシントンとどちらがハンサムか、という話になりました。意見はどうも分かれたようですが、セスゥル・エイブラハムズという名前が、ニッポンのコウベで話題になった、というのは本当です。どちらがハンサムかについては、8月にあなたの大学で開かれるアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッド記念大会に行ったときに、ローズマリーに直接聞いてみることにしましょう。    頓首

 

2月17日

セスゥルヘ                      ヨシ

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号22-28頁。

ダウンロード

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」gon11-cryfreedom(303KB)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信10(2019/9/20)

 

私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

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1 私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

ずっと以前は、小さなザック一つと竹かごのバスケットだけで、アラスカの氷河やゴビの砂漠、そしてパリにも行きましたが。

いつからか家を空けることが至難の技となりました。それはごく自然の流れで、子供たちだったり、犬だったり。そして今は猫たちという大切な存在を、第一に考えてのことでした。

そこで、私が旅に出るかわりに、行ってみたいなあ・・・・と思う街を、子猫たちに旅してもらうことにしました。

それは、モロッコの青い街<シャウエン>から始まり、今年で6作目となりましたが。 この絵は、旅する子猫シリーズの第2作目。青い海と白壁の家並が美しい、ギリシャの<サントリーニ島>です。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

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3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

街中のジャカランダ

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。今回は2回目です。

前回の「続モンド通信9」(2019年8月20日)→「小島けいのジンバブエ日記:1回目:7月21日」

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2回目:7月22日(晴れ)グレース来宅

グレースさん

長旅の疲れで全員がまだ寝ている朝七時、突然、この家のメイドをしているグレースがやって来ました。家では子供が三人もいて大変だから、家主のいない間も雇ってほしい、となまりの強い英語で訴えます。即答はできないので、とりあえず十ドルを渡して帰ってもらいました。この家には洗濯機がなく、掃除機は一円玉も吸えないうちに壊れました。(それでも私たちの帰国後、掃除機を壊したということで、相当額の修理代を請求されましたが・・・・。)ガスは無く、料理は電器コンロです。貴重な限られた時間を有効に使うため、結局働いてもらうことにしました。

右側の部屋を寝室に

翌朝グレースの要求した値段は、吉國さんから聞いた相場の二倍でしたが、午前中二時間、掃除と洗濯だけを頼みました。話が終わったと思ったら、往復四ドルのバス代を請求されました。後でゲイリーに確かめるとバスは片道一ドル、さらに吉國さんに報告すると、あの人は歩いて通っていたはずだ、とのことでした。なかなかのしたたかさです。

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4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)

(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

前回から、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」

前回は2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書きたいと思います。

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

 

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち続編:(1)戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

 

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。

5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。

入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。

結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。

マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。

そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。

その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、教育歴はなく研究業績もほとんどなし(「黒人研究」に2本だけ)なのに大学の職が見つかるわけないわなあ、どこも博士課程に入れてくれないし、ほんまどうしたらええんやろ、と文字通り、途方に暮れました。

教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職にはなりましたが。

7年在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

(→続モンド通信9(2019年8月20日)に収載)

2000~09年の執筆物

概要

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)の続編で、出版予定で送った原稿です。校正も終わっていました。印刷前の最終稿を載せています。

本文(写真作業中)

目次第1章(はじめに)第7章(哀しき人間の性)奥付けを載せています。↓

目次

第1章 はじめに
第2章 1995年ハラレ報告
第3章 1992年ハラレ滞在
第4章 エイズ発見の歴史
第5章 HIV感染とエイズ治療薬
第6章 アフリカの現状
第7章 哀しき人間の性●さが●

■第1章 はじめに■

この掌編は、『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』(門土社、二〇〇七年)の続編です。今回は、アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●について書こうと思います。

医学の基礎を学んだことのない私がエイズについて考えるようになったきっかけは、医学部での英語の授業です。

書くための時間を確保したいと考えて高校の教員を辞め、三十の歳から大学を探し始めて何とか見つかったのが宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)でした。以来、宮崎に移り住んで二十年の歳月が過ぎました。大学には一般教養の教官として採用され、医学科一、二年生の英語を担当し、その中でエイズの問題を取り上げるようになりました。

当時は一年次から解剖学や組織学の基礎医学科目もありましたし、「上級生になれば嫌でも医学のことばかりするのだから、授業では、出来るだけ医学に関係がないものを取り上げよう。」と決めました。特に受験勉強では「理解をして覚える」という作業を強いられるようですから、自分のことを自分で考える機会を少しでも提供出来ればと考えたわけです。

宮崎に引っ越しして来たその日に、ある方から分厚い手紙が届きました。兵庫県を離れる前に、何とか大学に居場所を見つけましたとその方に報告に出かけました。「僕はもともと頭が悪く受験の準備も出来なかったものですから行く大学が見つからず、仕方なく家から通える夜間課程に通うことになったんですが、そんな僕が受験勉強をやってきた頭のいい医学部の学生に授業をするのも不思議な話ですね。」というようなことを言ったのだと思います。医学部出身のその方は、そんなことを言う私に餞●はなむけ●として送って下さったのでしょう。医学部の学生に授業をする際の心構えとして今も大きな指針となっています。その手紙の一部です。

◆「……生物の成長というのは細胞が個数を増す細胞分裂と分裂によって小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさをとりもどす細胞成長とによって達成されます。生物は本質的に成長するものなのですから、各細胞は成長の第一条件たる細胞分裂の傾向がきわめて強いのです。しかし、無制限に細胞の個数が増加して、その結果、過成長すると、こんどは個体の生命が維持できなくなります。そこで、遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は不必要なときには抑制されています。この抑制因子をモノーという人はオペロンと名づけました。モノーのオペロン説です。フランスというところは困ったもので、いまだにデカルトの曽孫●そそん●のような顔をした人たちしかいません。このモノーもデカルトの曽孫にちがいありません。しかし、話を簡略にするためには、このオペロン説は便利です。化学変化を説明するのに結合手なる手を原子または原子団がもつものとするのに似て、こっけいですが御許しいただきたい。

さて、このオペロンがはずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき、細胞は遺伝子本来の〝分裂欲求〟に忠実に従って際限なく分裂を繰りかえします。ガンです。そして、ガンになりやすい体質は遺伝します。これはオペロンがはずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです。たしか、一九二◯年代に有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく、ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています。ヒトがすべて侵略者とならないのはこの恐ろしい〝遺伝子〟にもオペロンのおおいがかけられていて、容易には 形質を発現することがないためです。

ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは、窮迫によってはずされてしまったのです。それもほんの七千年か八千年ほど前のことです。そして、このオペロンのはずれやすい傾向は連綿と受けつがれ、いまなお子や孫が風を切って日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています。天孫降臨族●てんそんこうりんぞく●の末裔●まつえい●たちです。手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい四六時中蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく四方八方にくばるこの侵略者たちは、もちろん、効率百パーセントの水平思考を好み、鉛直思考など思いもよらぬことなのです。玉田先生が鉛直下の原言語に乱されて思考が中断するなら、私のほうは鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します。中断と消滅、軽重の違いはあっても、二人とも、やはり頭が悪いのは確かなようです。

その点最近の学生は、とくに、医学生は頭の良い子ばかりだそうです。なにしろなんかの方法で受験勉強をしなかった子はいないというのですから、〝学問〟に対するその真摯●しんし●な態度と勤勉に驚かずにはいられません。これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画がたてられる頭の良い子であることを意味しています。鉛直方向によそみをすることなど思いもよらぬ天才少年です。A先生がなにも書かず、深い読みに専念するよう注意してくださったそうですが、どこまで恐ろしい方なのか見当がつかぬほど驚いています。A先生は現在の医学や医療や医学部が∧行きつくところ∨まで行きついて、〝良い頭の〟学生たちが良いくらしだけを目標に青春をおくり、結局は良い人生が見つけられなくなっているのに心を痛めておられるのです。親しきといえどB先生に御遠慮されてこんな言葉になったのだと思われますが、よくみると、不幸がやくそくされている医学生たちが深い闇の奥に気づくように講義をしてやってほしいと読みとれます。A先生は子どもたちに無言で良い人生が〝教えられる〟教師の卵を無言で 教えておられる方に違いありません。

しかし、〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生、この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます。学生たちの眠っている意識以前に無言で語りかけてください。深い読みとA先生が仰言●おっしゃ●っておられるのはこのことです。意識下通信制御です。百億年の因縁なんぞ信じないぞ、数百万の祖霊、そんなものはミイラに食わせてやるなどと仰言●おっしゃ●ってはいけません。

そうすれば、玉田先生の学生のなかから、医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれることをかたく信じてください。そして、もちろん学生に好かれるように行動するのではなく、いつも御自分からすすんで学生のひとりひとりが好きになるようにつとめてください。〝良い頭の〟学生は医学生の責任だとはいえません。親はもちろん、あらゆるものがよってたかって腕によりかけ作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば、ある日ぱっちり眼を開き、心臓が鼓動をはじめ、体のすみずみにしだいにぬくもりがひろがっていくことが必ずあることを忘れないでください。

それと医学部の学生は最優秀と考えられていますが実際は外国語も自然科学も数学もなにもかもまったくだめだということを信じてください。子どもだから仕方のないことですが、世評がいかに無責任ででたらめなものであるかを、玉田先生も四月になればいやというほど思いしらされるはずです。たとえば、英語は百分講義で英文科三ページがやっとのところを、医学部は十ページをかるがるとこなすのですが、その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると、こいつほんまに入試をくぐってきたんかいなと思う奴ばかりです。それでもうんざりして見捨てたりせず、この愚劣なガキどものひとりひとりからけっして眼をはなすことなく、しっかりと 見守ってやっていただきたい。なにしろ、まだ人類とはならぬこどもなのですから。」◆

当時の私の関心事だったアフリカ系アメリカとアフリカの問題は、今の中学校や高校では意図的に避けられる傾向にあって学生には馴染●なじ●みの薄い分野ですが、今まで培●つちか●われた価値観や歴史観を問うにはうってつけの題材でした。日本に一番関わりのある米国をアフリカ系アメリカ史の側から眺めれば、今日の米国の繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築かれたことも容易に判りますし、全てが過去から繋●つな●がっている現在の問題であることにも気づきます。アフリカ史をひも解けば、英国人歴史家バズゥル・デヴィッドスンの「人種差別は比較的近代の病です」という名言にも合点●がてん●がいきますし、英語が一番侵略的だった英国人の言葉で、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造●ねつぞう●されて来た構図も一目瞭然●いちもくりょうぜん●です。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。その素養が価値観や歴史観の基盤になって人の生き方を決めるわけですから、入学するために知識を詰め込んできた人たちに、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいと考えたわけです。

しかし、現実はそう思い通りにはいきません。学生の反応は思い描いていたものとは少し違っていました。授業では資料のプリントも作って配り、録画したテレビの映像や映画なども編集して使い、出来る限り英語を使うなど、様々な工夫をして来ましたが、それでも、何割かの学生の関心を惹●ひ●けませんでした。「どうしてアフリカなのか?」「折角医学部に来たのに、いまいちモーチベーションが上がらないんですよね。」「同じ分野で出会っていればよかったですね、玉さん、がんばって下さい。」その辺りが正直な感想のようでした。

しかし、よく考えてみれば無理のない話ではあるのです。小さな頃から家でも学校でも頭がいいと持ち上げられ、「頭の良い両親の指導のもとに」「良いくらし」を身近な目標にして、「水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画」を立てて医学部に入学して来ています。アフリカに関しても、大半の学生が「アフリカの人たちは貧しくてかわいそう、ODAなどで日本が支援をして助けてあげなければ……」と考えているところに、「奴隷貿易で富を蓄積して産業革命を起こし生産手段を変えた西洋社会は作りすぎた製品を売り捌●さば●く市場の争奪戦を繰り広げて世界大戦を二度もやり、戦後は開発や援助の名目で第三世界に資本を投資して利子を取る戦略に変えた、つまり現在の繁栄もそういった第三世界の犠牲の上に築かれており、日本も加害者側にいるわけだから、それを承知でそんな社会で自分がどう生きればよいのか、自分自身について、自分の将来について考えて欲しい。」と講義形式で突然一方的に熱く語られても、あまりにも自分の現実とかけ離れていて「内容的に関心が持てない。」、「自分とは関係のない世界」、と思えてしまいます。医者になって患者の生き死にに直接かかわるようになれば少しは話も違って来ますが、特に低学年の頃にそういった事柄を自分自身の問題として考えるのは、実際にはむずかしいようです。

そこで、出来るだけ学生自身が自分の問題として考えられるようにと、関心の持てそうな医学的な話題とアフリカやアフリカ系アメリカの問題を結びつけて授業を展開できないかと考えました。その一つがエイズです。

二〇〇三年に旧宮崎大学と統合してからは、全学部生対象の教養科目と、教育文化学部日本語支援教育専修の大学院生対象の選択科目も担当していますが、教養科目名の一つを本の表題にして、南アフリカの歴史を軸に日頃考えていることを本にしたのが『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』です。

今回は新聞記事を軸に、最初のエイズ患者が出た八十年代初めから現在までのエイズ事情とHIV感染のメカニズムについて、英語や教養の授業をしながら考えたことも織り交ぜながら『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(上)』としてまとめました。

次回の『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(下)』では、ケニアの小説『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』を軸に、新植民地支配という社会の大きな枠組みとその中で展開されるエイズ治療薬をめぐる論争や、ケープタウンを拠点にエイズ治療に活躍するアーネスト・ダルコー医師などについて詳しく書こうと思います。

取り上げる内容は、平成十五年~十八年に「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」の題で文部科学省から交付された科学研究費補助金(註1)を使用して行なった研究の内容とも重なります。(註2)

一章では、すでに書いたようにこの掌編が生まれた経緯を、二章では九十五年のジンバブエの首都ハラレについての新聞記事について、三章では九十二年に家族で滞在したハラレでの出来事について、四章ではエイズ発見の歴史について、五章ではHIV感染とエイズ治療薬について、六章では、エイズ会議とアフリカの現状について、七章ではまとめとして、哀しき人間の性●さが●について書きました。

最後に、註を載せています。

第5章の「HIV感染」と「エイズ治療薬」の部分は、同僚の林哲也教授(感染症学講座微生物分野・フロンティア科学実験総合センター)に校閲をお願いしました。厚くお礼申し上げます。

■第7章 哀しき人間の性●さが●■

そのジンバブエは、今大変な事態に陥っています。経済は破綻●はたん●し、多くの国民が生き延びるために国を逃れています。二〇〇七年十月の朝日新聞の特集「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」からもその凄●すさ●まじさが伝わってきます。

◆「『アフリカの希望の星』と呼ばれた国があった。80年に白人支配から独立を果たした南部のジンバブエ。農産物は需要を満たし、輸出で外貨収入の3分の1を稼ぎ出した。識字率は90%を超え、労働力の質は高く、鉄道の独自運行も可能だった。それが今―。農業はやせ細り、飢えが広がる。インフレ率が7千%を超えた。苦しさに耐えかね、国民の4分の1が近隣国に脱出している。」(註17)◆

「インフレ率が7千%」と言われても、実感はわきません。十年前にザイール(現在のコンゴ民主共和国)でエボラ出血熱が発生して話題になった時、「五桁のインフレ率」というのを初めて新聞記事で読みました。DIGITという英語が数字の桁●けた●を意味するとはすぐには思いつかなくて、活字の間違いだろうと思いました。しかし、翌年に大統領モブツが追いやられて、ローラン・カビラが国を掌握●しょうあく●して、内実が明らかになるに連れて、その数字の意味合いが徐々に判明してきました。五桁は一万以上の数字ですから、このジンバブエの記事よりも経済破綻●はたん●の状態が進んでいたということでしょうか。

その時の経済破綻の状況や政治的混乱が、今のジンバブエに酷似しています。十年前のザイールの記事を引用してみましょう。

◆「『ザイール、エボラウィルスで再び世界の脚光を浴びる』

ザイールでエボラウィルスが発生して、一九六三年(原文のまま)のベルギーからの独立以来、数々の危機に揺れ動いて来たアフリカ中部にある四〇〇〇万人の広大な国に再び注目が集まりました。

治療薬もワクチンも知られていないウィルスは、少なくとも六十四人の死者を出しました。

批評家によれば、多くのザイール人が過去三十年間無投票で当選し、不正に貯めこんだ個人の資産が数十億ドルにのぼるといわれるモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。

反対派の批評家やフリーのジャーナリストは、流行病が頻繁●ひんぱん●に起こるのも、取り扱う資源が不足するのも、既知のあらゆる戦略的に重要な鉱物資源に恵まれている国の富の管理ミスと賄賂●わいろ●のせいだと指摘しています。

『環境の管理不備に繋●つな●がる、公共資源の管理ミスが日和見●ひよりみ●的な要因を作り出して、流行病を発生させたり、広げたりしている。』と反対派の新聞ル・パルメールの社説は嘆いています。

『医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。』とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディのスポークスマン、ランバエルト・メンデ氏は言いました。

賄賂●わいろ●はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、五百万人が住む首都をエボラウィルスから守るために発令された隔離手段でさえも賄賂がきく有様です、とキンシャサ市職員が言います。

公務員は何ヶ月分もの給料を払ってもらえず、賄賂は生活の一手段となってしまっています。

ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍●か●の対応に追われています。

ザイールの政治の問題は早くに始まりました。鉱物の豊かな現シャバ州であるカタンガ州はベルギーから独立した十一日後に、不幸な結果に終わった分離工作が謀●はか●られました。その分離工作は血まみれの闘争の三年後に排除されました。

サハラ以南のアフリカで二番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。

その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが、経済のエンジンである国営巨大鉱山会社ゲカマインは、事実上操業を停止しています。

一九九四年には、銅の製造量は最盛期の五十万トンから五万トン以下にまで落ち込みました。コバルトの製造量も同じようにひどく落ちみました。

政府はゲカマイングループの中の三つの中心会社を解散させ、硬貨の七十パーセント以上を製造する国営会社の先行きについては言及していません。

世界銀行も国際通貨基金も旧宗主国ベルギーが仲立ちをする債権者たちも、ザイールをずっと以前に見放しています。

インフレ率が五桁●けた●近くなりつつあるインフレで、政府は定期的に価値のない紙幣を山のように印刷するようになっています……」(註18)◆

エイズ患者にとっては病気だけでも大変なのに、壊滅状態の医療施設に経済破綻●はたん●の追い打ちです。

「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」では、生き延びるために国を逃れるジンバブエの人たちの様子が次のように書かれています。

◆「ブライドはジンバブエ南部の都市ブラワヨの出身だ。98年に軍を除隊したが職がなく、農産物の行商で暮らした。

バスで農村に行き、穀物や卵、野菜を仕入れ、それを町で売り歩く。足を棒にしても、月の収入は80万ジンバブエドル(Zドル)前後だった。

『今年4月には卵1個が5万Zドルだった。1カ月必死に働いても卵2ダース分の収入にしかならない。14歳を頭に3人の子どもがいる。食事は1日に1回、夕方だけだ。最低の生活だった。』

それでもまだ生きていくことはできた。絶望的な事態になったのは6月26日以降だ。ムガベ大統領が突然、『あらゆる商品の価格を半額にする。』と声明した。インフレ対策であり、暴利をむさぼる悪徳商人は許さない、と大統領はいった。

すべてがヤミ市場に回り、物価は暴騰●ぼうとう●した。卵は店先から消え、闇市場で1個が5万Zドルもするようになった。月の稼ぎが卵1ダース分になってしまった。

4月までパン1斤は2万Zドルだった。価格半額令以後、行列でしか買えなくなった。7月は5万、8月には6万6千Zドルになった。2カ月で3倍以上だ。

『このままでは家族を死なせてしまう。南アに行く決心をした。』……

南ア外務省のパハド副大臣は『ジンバブエ人の不法入国は三百万人にのぼると見られる。』と明らかにした。ジンバブエ総人口の4分の1である。北隣のザンビアにも1日数百人の脱出者が出ているという。

そのほとんどが40歳以下の男性だ。働き盛りの大量脱出。国は壊れつつある……」◆

二〇〇八年になって状況は更に悪化し、インフレ率も2万6000%になったと報じられました。ザイールの場合と同じ五桁です。記事は「最も貧しい億万長者」の模様を次のように伝えています。

◆「ジンバブエ インフレ2万6000% 『最も貧しい億万長者』

南部アフリカ・ジンバブエの中央銀行はこのほど、07年11月のインフレ率が年率2万470・8%と、過去最高を記録したと発表した……

中央銀行の今年4日の発表によると、07年9月の時点で年率約8千%だったインフレ率が、2カ月間で3倍以上に跳ね上がった。もはや中央銀行がとれる対策は超高額紙幣の乱発しかない状況だ。07年8月に最高額紙幣を20万ジンバブエ(Z)ドルに上げたのもつかの間、12月には75万Zドルに、今年1月には1千万Zドル紙幣を発行した。

超インフレが加速したきっかけは07年6月、インフレを抑え込もうとムガベ政権が出した価格半減令。元値を割ることを恐れた商店側が物資を闇市場に横流ししたため店から商品が消えたかわり、あらゆる物資が闇市場で高値で取引されるようになった。ジュース1個に100万Zドルの値段が付き、市民は「これでは世界で最も貧しい億万長者だ」などと不満を募らせている……」(註20)◆

九十二年にハラレに行った時は、最低賃金が百三十ドルになったとか、ゲーリーの月給が百七十ドルだとか言っていたのに。高額の紙幣を刷ると、銀行員が不正を働くので最高二十Zドル紙幣が一番大きなお札なんですよ、と言われたりもした。僅●わず●か十数年で何という変わりようでしょうか。持ち帰って家にある十Zドル紙幣や二十Zドル紙幣も、帰国後もお金代わりに手紙に忍ばせようと思って大量に買いこんだ二Zドルの切手も、今ではほとんど価値のない紙切れに過ぎないということです。

アレックスの「この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。」という見方は残念ながら正しく、「僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。」という予想も、違う方向で当たってしまいました。

アレックスは、ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日に部屋で授業を受けていた五人の学生のうちの一人です。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネイムのアレックスが英語の名前です。アレックスが受けていた授業は、映画・映像に関する特殊講義で、その日は説明を受けたあと学生がキャンパスをビデオカメラで撮影するというのが内容でした。後日の撮影会に誘われて出かけて行ったものの参加者はアレックスも含めて二人でした。気の毒に思ったのか、アレックスはキャンパスを案内してくれたあと、自分が住んでいる寮に案内してくれました。キャンパスで私がアイスキャンディーをおごったお礼にアレックスがコーラをごちそうしてくれたのですが、中身の値段は一本が七十五セント、二十円足らずで、結果的には、予想もしていなかった七十五セントの出会いとなりました。

ゲーリーとは子どもや天気のこと以外はなかなか共通の話題が見つかりませんでしたが、アレックスとは色々な話をしました。南アフリカのラ・グーマやケニアのグギさんなどの作家についてだけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどの米国の作家についても、似通った受けとめ方をしていました。「『怒りの葡萄●ぶどう●』に出てくる牧師が僕は好きでねえ。」と私が言うと、アレックスから「ジム・ケイシィは私も好きですよ。」という返事が返ってきました。ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑●ぴょう●性がないですよ。」とアレックスは言っていました。三人とも私の好きな作家ですが、これだけ違った環境に育った二人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思っていませんでした。

ある日、アレックスは寮で友人のジョージやイグネイシャスやメモリーを紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本の街にはいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。ハラレの街には日本のメイカーの自動車が溢れていましたし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにです。原因は当時流行っていた米国のニンジャ映画の影響のようでした。「アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこやね。」と説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えました。さすがに精鋭の集団で、指摘されて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと悟ったのでしょう。しかし、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにメディアを巧妙に操作する自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいと思わずにはいられませんでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買ってぶっ飛ばすこと、のようでした。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが急に怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのです。車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。

アレックスにはロケイションと呼ばれるアフリカ人居住地区に連れて行ってもらいました。イマージェンシィ・タクシー(E・T)と呼ばれる乗り合いのタクシーを乗り継いで行きました。辺りにいるのは、アフリカ人だけでした。街の中心部から南西の方角に十キロほど離れたグレン・ノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、二度ETを乗り換えました。最初に乗り換えたのは一番の密集地帯ムバレで、ゲイリーがお父さんと住んでいた地区です。近くの市営住宅の中を歩きましたが、排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。それから、アレックスが寮を出てから下宿をさせてもらっている従妹の家に行きました。

アレックスには子どもたち二人の英語の、私のショナ語の家庭教師を頼みましたので、いっしょに過ごす時間も多かったのですが、ある時インタビューに応じてくれました。先に紹介した帰国してから半年後に絞り出した本の中の一節です。

◆「アレックスの生い立ち

アレックスは、一九六五年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれた。シィヤホクウェはグレート・ジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップである。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようだが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことである。規模の大小はあっても、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップと雰囲気は似通った場所だろう。

六十五年は、イアン・スミス首相を担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、英国政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていた。

ゲイリーの場合もそうだったが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようである。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行く。アレックスの場合も、入学した時は四十人いたクラスメイトが七年生になると二十五人になっていたそうだ。特に女の子の数は少なかったらしい。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったという。中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅●わず●かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出●ねんしゅつ●して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから再び日没まで、家畜の世話である。

『学校まで五キロから十キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした。それに食事は朝七時と晩の二回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。』とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。『五十問の問題なら、出来る子は一、二発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ、四十八発も九発も殴られて、頭がぼこぼこでした。』と顔をしかめる。

『植民地時代の西洋人の考え方の影響ですよ。西洋人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、西洋人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……。全寮制の中学校は、その点、まだましでした。』と続けた。 七年間の小学校のあとは、四年間の中学校(FORM1→FORM4)、二年間の高校、三年間の大学と続く。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向にあったそうだ。今もその傾向があるらしい。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていた。『アレクサンドラ・パーク・スクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。』と言われてみれば、なるほど思い当る。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。最終学年の八十一年に、お父さんが死んだためである。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが五キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄●にわか●仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった七十九年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

『もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……。だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。』

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、九十年から大学に通うようになった。

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着●ゆちゃく●が発覚して、閣僚の一人が辞任した八十九年の十月に、大学から街なかまで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街なかでは、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の四月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

『ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。』と私が話し始めると『それは実際には少し違います。』と遮●さえぎ●って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

『独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして『白人』以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は四十パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。』

最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪●こら●えているようだった。そして『教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。』と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、八月十七日の「ヘラルド」紙に『多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている』という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていた。

◆「地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。

ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第三回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は『地方の教員養成大学で養成された五千五百人の教員のうち、五千人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。』と語った。

新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸六年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています。」◆

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていないが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事に就いてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れ込んでいるようだ。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらったが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことだった。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。」◆

アレックスは今どうしているのか。ツォゾォさんは、そしてゲイリーは、そんな思いがめぐります。

僅●わず●か百年余り前に侵入して来た西洋の入植者に土地や財産を奪われ、安価な労働者として働かされるようになったゲーリーのおじいさんやお父さん、独立の戦いで大変な思いをしたゲイリーやツォゾォさん。歴史や時代を通しての巨大な機構の中で翻弄●ほんろう●されるジンバブエの人たち。そんな人たちとほんのひとときをいっしょに過ごしましたが、ハラレにいる時も、帰国してからも、加害者側にいる自己の存在を思うと、息詰まる思いが先にたちました。今もその思いは、かわりません。

HIVはコンゴで感染したハイチの難民がモブツの圧制を逃れて国に帰り、そこからフロリダに渡って感染を広げたようです。そのハイチ人の祖先は奴隷貿易でアフリカの西部から連れて来られた人たちで、巡り巡って地域を越えた大きな世界で、ウィルスというミクロの世界でも、歴史や大陸というマクロの世界でも、人々が苦しめられ続けているわけです。

ウィルスの仕組みが解明されて、感染の仕組みも明らかになったのですから、少なくとも予防策を抗じれば感染の拡大を防げるはずです。しかし、性感染症の厳しさや抗HIV製剤でさえ暴利の対象にしてしまう欧米の製薬会社の実態などを見せつけられると、人間の愚かしさを思わずにはいられません。

アフリカの問題を考えても、エイズの問題を考えても、出口は見い出せません。見えるのは人間の哀しき性●さが●だけです。どうも、妙な空間に迷い込んでしまったものです。

授業を担当している大学生の大半は、日本が開発や援助の名目でかわいそうなアフリカ人を助けていると考えています。その意識と厳しい現実との差は余りにも大きくて、呆●ぼう●然とします。

しかし、絶望的なボツワナや南アフリカでエイズと闘っているダルコー医師のような人もいます。見知らぬ大学生のために長い手紙を認●したため●めて、エールを送って下さる人もいます。

まだまだ捨てたものではないと諦めずに、「水平方向に己れの行く末を見つめ」、「良いくらしだけを目標に青春をおく」る人たちの「眠っている意識以前に無言で語りかけ」続けたいと思います。いつかは「医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれる」のですから。

玉田吉行 たまだよしゆき 1949年、兵庫県生まれ。

宮崎大学医学部医学科教員。英語、アフリカ文化論、基盤的研究方法特論(博士課程)、EMP (English for Medical Purposes)、アフリカ論特論(教育文化学部日本語支援教育専修)などの授業を担当。

著書にAfrica and its Descendants 2 (1998) 、 『アフリカ文化論[1]』(2007年)など、訳書にラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992年)、注釈書にLa Guma, And a Threefold Cord (1991年)などがある (いずれも門土社)。

「アフリカとエイズ」(2000年)、「医学生とエイズ―ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(2004年)、「医学生とエイズ―南アフリカとエイズ治療薬」(2005年)、「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって」(2006年)など、アフリカと感染症に関するエッセイもある。

アフリカ文化論[2]

著者●玉田吉行

編集●田邉道子

発行所●株式会社 門土社

〒232-0016 横浜市南区宮元町3-44

電話045-714-1471番 画電045-714-1472番

http://www.mondo-books.jp

発行者●關  功

発行日●平成20年10月1日

初版第1刷発行

copyright●Tamada Yoshiyuki 2007

ISBN 978-4-89561-263-0 C1322

印刷・製本●モリモト印刷株式会社

執筆年

2008年

収録・公開

出版予定で門土社 送った原稿です。64ページ。

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アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)