2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

コンゴの悲劇2 上  ベルギー領コンゴの「独立」

■ ベルギー領コンゴ

前回の「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」(「ごんどわな」24号2-5頁。)では、遂にコンゴにまで植民地支配が及び、アフリカ人の暮らしが一変したことを書いた。

「悲劇2」では、ベルギー領コンゴが新植民地体制に組み込まれて行く悲劇について書こうと思う。

奴隷貿易による初期の資本蓄積で生産手段を機械に変えた西洋社会は、産業革命で作り過ぎた製品の世界市場と、安価な原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げた。

レオポルド2世が植民地獲得の夢を紡ぎ始めた1870年代には、既にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカは、ほぼ西洋列強の植民地支配下にあり、コンゴ盆地は列強国が手をつけていない世界地図の唯一の大きな空白だった。結果的には国王一人が暴利を貪ったが、そうでなくとも、後の歴史が示すように、いずれは侵略者の餌食になっていただろう。

 

レオポルド2世

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド二世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれた。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)である。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となった。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていた。」(註1)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だった。

レオポルド二世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡したが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまった。

アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされた。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註2)という惨状だった。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現された。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された。」(註3)

名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのである。

■ 豊かな大地

ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にある。

 

 

植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていった。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註4)になっていた。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となった。

行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域である。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく58年頃からである。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家へと移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていた。56年当時の総人口1200万人のうちの僅かに10万人から15万人程度であったが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていた。(註5)独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちである。

■ 独立

58年当時、アバコ党(註6)、コンゴ国民運動 (註7)、コナカ党(註8)などの政党が活動していた。

アバコ党が最も力を持ち、カサヴブ(Joseph Kasavubu)とボリカンゴ (Jean Bolikango) が党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていた。カサヴブは即時独立を求めたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていた。

 

カサヴブ

58年10月創設のコンゴ国民運動(MNC)は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を開始した。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ (Patrice Lumumba) が、若者を中心に国民的な支持を得て、第3の勢力に浮上した。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジ (Albert Kalonji) が第4勢力の地位を得たが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてMNCの勢力を二分した。イレオ(Joseph Ileo)など多数がカロンジと行動を共にした。

 

ルムンバ

カタンガ州では、チョンベ(Moїse Tshombe)がベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていた。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だなかったが、58年11月辺りから事態は急変する。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、12月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからである。

翌年1月4日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、50人以上の死者を出した。事態を無視できなくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、60年1月20日から27日にかけてコンゴ代表44名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年6月30日の独立承認を決めた。

■ 宣戦布告

5月に行なわれた選挙でMNCは137議席中の74議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得かった。民族的、経済的基盤を持たず、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となった。

6月30日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言した。

「……涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

80年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです。

私たちは、朝昼夜となく、侮蔑と屈辱と鉄拳を味わってきました。私たちが「黒人」だったからです……

私たちは、白人のための法律が決して黒人用の法律と同じではないのを味わってきました。白人用の法律は寛大でしたが、黒人用の法律は残酷で、非人間的だったからです。

政治的な意見や宗教上の信念を捨てることを強いられた人たちの酷い苦しみを私たちは見てきました。追放者としてのその人たちの運命は、死よりも惨いものでした。

私たちは、街の白人用の豪邸と、黒人用の崩れかけのあばら家を見てきました。黒人は「白人用」の映画館やレストランや店には行けませんでした。黒人は船に乗ればいつも、豪華な客室にいる白人の足元のまだ下の船底に押し込められて旅行をしてきました。

そして最後に、本当にたくさんの仲間が撃ち殺されたり、搾取や抑圧の「正義」の支配にこれ以上屈服しないぞと言った人たちが独房に入れられたりしたのですが、そういった射殺や独房を忘れることなど出来ません。

みなさん、そうしたすべてのことが、最も深い悲しみだったと思います。

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります……

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、黒人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう……

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう……

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行いがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行いがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです……

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います……」(註9)

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもあった。

(たまだよしゆき・アフリカ文学)

 

〈註〉

1 Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost (Boston, New York: Houghton Mifflin Company, 1998), p. 124.

 

2 Leopold’s Ghost, p. 279.

3 Leopold’s Ghost, p. 278.

4 小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』(山川出版社、1986年)、118ペイジ。

5 ルムンバ著・中山毅訳「訳者あとがき」、『祖国はほほ笑む』(理論社、1965年)、270~271ペイジ。

6 The Abako: Association pour la Sauvearde de la Culture et des Intérêts des Bakongo.

7 MNC: the Mouvement National Congolais.

8 The Konakat: Confederation of Tribal Associations of Katanga.

9 Thomas Kanza, The Rise and Fall of Ptrice Lumumba (London: Red Collings, 1978), pp. 161-164. ルムンバ著・榊利夫編訳『息子よ未来は美しい』(理論社、1961年)、67頁~72ペイジにも収載されている。

 

執筆年

2004年

収録・公開

未出版(ごんどわな25号に収載予定でしたが、24号以降は出版されないままです。)

  後にまとめて出版→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

ダウンロード

コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』

2000~09年の執筆物

概要

ジンバブエ人口の九十数パーセントに及ぶアフリカ人の四分の三を占めるショナ人と母国語のショナ語と英語をめぐる論文である。イギリス系の南アフリカ人によって侵略されたジンバブエでは、1980年に独立後も、西洋人とその人たちと手を組む少数のアフリカ人が大多数のアフリカ人を搾取する構造を維持しており、その支配体制に応じて言語事情も変化している。多数のショナ人は仕事を求めて英語を使うことを余儀なくされているし、知識階級における英語の重要性も増している。そんな立場にいるショナ人と支配者の言葉英語と母国語ショナ語をめぐる文化状況を分析した。

本文(写真作業中)

ショナ人とことば

ジンバブエ大学

ジンバブエに行ってから、八年が経つ。むこうで色んなことがあったはずなのに、記憶は日常の出来事の中に一つ一つ消えてゆく。

しかし、時折り、脈絡もなく、ある光景が思い浮かぶこともある。ジンバブエ大学のキャンパスの光景など、である。

ジンバブエの人口の九十数パーセントはアフリカ人で、その約四分の三がショナ語を話し、残りはンデベレ語を話すという。その二つのアフリカの言葉と英語が公用語である。

ジンバブエ大学は、南アフリカから移り住んだイギリス系の白人が自分たちのために創った大学で、瀟洒な白人居住区マウント・プレザント地区にあり、広大なキャンパスを持つ。日本では30年振りの大旱魃、と報じられていたが、キャンパスの芝生の上では、毎日、スプリンクラーがくるりくるりとまわっていた。

今は学生の大半がアフリカ人で、講義では英語が使われていた。接した学生は殆んどショナ人だったように思う。見せてもらった授業は英語科の授業だったから、ショナ人同士のやりとりがすべて英語でもおかしくはないのだが、問題は、授業が終わった後も、キャンパスではアフリカ人同士が英語を喋っていたことである。たしか、あの人たちはショナ人かンデベレ人だったはずなのに、みんな英語をしゃべっていた、そう言えば、キャンパスでは一切ショナ語を耳にしなかったような気がする……。

学生数が約一万のジンバブエ大学は人口が約一千万の国の唯一の総合大学で、選ばれた人たちの空間だったが、誰もが生活に精一杯のようで、部外者の受け入れが可能だとはとても思えなかった。英語科に問い合わせをした時も、返事の手紙に、カローラの九十年型を手配してもらえないかとあったから、在外研究員といっても、大学の建物を見てきただけで終わりという可能性もあった。それでも、行く前は、アフリカで家族と暮らせるだけでいい、と思っていた。

ツォゾォさん、アレックス

大学では二人のアフリカ人と親しくなった。英語科の教員トンプソン・クンビライ・ツォゾォさんと、学生アレックス・ムチャデイ・ニョタである。二人とも英語のファーストネイムを持つが、生い立ちなどを聞いているうちに、国の歴史的な経緯や二人の立場の違いなどがわかってきた。

西洋人が来たのは1880年代の後半で、目的は金だった。ケープ植民地相セスゥル・ローズは、第二のヴィットバータースラント(現ジョハネスバーグ)を夢見て、私設軍を送りこんだ。豊かな鉱脈は見つからなかったが軍隊は立ち去らずに侵略を始め、後に大量の移住者が流れこむようになる。

西洋人の侵略と戦ったのは、ツォゾォさんたちのお爺さんの世代だろう。お父さんの世代には、既に豊かな土地は取り上げられ、アフリカ人の大半は安価な賃金労働者に仕立て上げられていた。ジンバブエでは、同じ先祖から枝分かれした一族(クラン)の指導者のもとで農耕や牧畜が行なわれており、二人のひいお爺さんの世代までは、白人の脅威は存在しなかったはずである。英語のファーストネームには、侵略者の享受する豊かな生活に対する、親の世代の憧れや、無意識の願いがこめられていたのかも知れない。

定住した白人は、1920年代に南アフリカとの合併を拒み、独自の路線を歩む。西洋の資本、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第二次大戦を境に一大工業国になっていた。充分に経済力と軍事力をつけた南ローデシアは、六十年代にイギリス政府の意向を無視して独自の路線を進むのだが、アフリカ人の力を知っていた政府は、アフリカ人中産階級を育てる政策をとった。クランの指導者の家系に生まれたツォゾォさんが、南ローデシア大学(現在のジンバブエ大学)に入学したのもその改革によるもので、1968年のことだった。1500人の学生のうち、300人がアフリカ人だったそうである。

1966年にはソ連と中国の支援を受けて独立闘争が始まり、1980年に独立を果たすのだが、独立は経済を欧米や日本に依存する妥協の産物だった。

独立闘争で活躍したツォゾォさんは、独立後、文部省を経て、ジンバブエ大学の教員となり、副学長補佐に昇任している。アレックスは、頭の良い普通の家の子弟で、奨学金をもらいながら大学生活を楽しんでいた。

ツォゾォさんには授業を見せてもらい、出来る限り話を聞いた。アレックスには子供の英語の家庭教師を頼み、学生寮やアフリカ人居住地区や街中に連れて行ってもらった。短かい期間ではあったが、二人を通してのジンバブエの一端を垣間見たように思う。

ゲイリー

ハラレでもう一人のアフリカ人と親しくなった。私たちがスイス人の老婆から借りた家に「ガーデンボーイ」として雇われていたガリカーイ・モヨ、通称ゲイリーである。ゲイリーは、同じ敷地内の小さな部屋に住んでいた。私たちは雇い主ではなかったから、最初から、友だちづきあいとなった。

到着した七月の終わりに、冬休み(北半球とは季節が逆)を利用してゲイリーの家族がやってきて、同じ敷地内に二家族が同居することになった。私たちの子供二人とゲイリーの三人の子供たちは、通じる共通の言葉こそなかったが、存分に楽しんでいた。

金持ちと貧乏人しかいない国の不動産事情は極めて悪いと言われていたので、ホテル住まいも覚悟していたが、運よく月額十万円の家賃で一軒の家を借りることが出来た。敷金などもなく五百坪ほどの敷地の家を、住んでいたままの状態で借りられたのだから、私たちに不満のあるはずもなかった。

一緒に暮らすうちに、ゲイリーの給料が月に四千円余り、一年の大半は家族と離れて暮らし、親子五人が寝泊りする部屋が、ベットもないコンクリート床の二つの小さな部屋だということなどがわかってきた。子供たちが庭で遊ぶ時に使っていたバスケットボールは、一個五千円ほどだった。

ある朝、ゲイリーは「バケツに一杯お湯をもらえませんか」と言ってきたが、その時初めて、「召し使い」の部屋では、トイレの水のシャワーしか使えないことを知ったのである。滞在中に私たちはゲイリーに色々頼み事をしたが、ゲイリーから頼まれたのは、そのバケツ一杯のお湯だけだった。

 

九月に入るとゲイリーの子供たちのうち二人は田舎に帰っていった。私たちは十月初めの帰国までに二人の小学校を訪ねる計画を立てた。ハラレから百キロほどの所にあるゲイリーの田舎のルカリロ小学校を訪ねたのは、九月の半ばである。運転手つきの車を借りて訪れた小学校では、全校あげての大歓迎を受けた。私たちは村始まって以来の外国人訪問客だったそうである。そこで、その住民の大半と、殆んどすべての小学生がショナ語しか話せず、ゲイリーの家族は、遥かに望む山裾までの広大な土地を持っている事実を知ったのである。ゲイリーも父親も、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るために村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのである。

研究室も貰えず、途中でツォゾォさんの昇進人事がなかったら、図書館の利用許可証さえ貰えずじまいになる所だったが、二ヵ月半の短かい期間に、体制側にいるツォゾォさんとアレックスと、搾取される側にいるゲイリーに巡り会えたのは、実に幸運だった。

ことば

アレックスはアメリカ映画の影響で、日本では今も街中にニンジャが走っているのを疑わなかった学生の一人だったが、ある時、経済力のある日本はどうして他の人たちに日本語を話させないのかと聞いたことがあった。

考えてみれば、ほぼ百年の間で、アレックスたちの国の人たちは、侵略者の言葉の英語を日常に使うようになっている。ハラレにいるあいだ、市役所でも銀行でもデパートでも、レストランでもスーパーでも、接したのは殆んどアフリカ人だったが、英語で事足りた。ショナ語で話しかけられたことはない。生活の隅々にまで、英語が浸透していたのである。

ルカリロ小学校の生徒は、英語が苦手だったようである。卒業して街で働き出すときには英語が必要で、必死に言葉を覚えるのだろう。

ゲイリーも日常の生活に支障のない程度の英語を使っていた。その後も手紙の遣り取りをしているが、綴りの間違いはあるものの、意志の疎通には支障がない。

何事も一旦制度化されると、それが一人歩きする場合が多い。元々母国語以外の言葉を覚えるのは面倒で、日本に来る大半の欧米人は、片言以外の日本語を覚えようとしない。それは言葉を使う必然性に乏しいからで、周りにはそういった人がたくさんいる。

ことばが人の文化や生活を伝える手段ならば、昨今の英語の隆盛は、英語を母国語とする人たちの文化的侵略の延長線上にある、と言える。

当初はアメリカの軍事目的でつくられたコンピューターの普及は目覚ましく、使われる言語は圧倒的に英語である。裏を返せば、英語を母国語とする人たちの文化の侵略の度合いがますます高まっているということである。

ショナ人同士が母国語のショナ語を使わずに英語を使いたがる傾向は、その侵略の度合いが、もう抜き差しならない所まできているということだと思う。その現象は、ジンバブエだけでなく世界の至る所にまで及んでいる。

先日も、小田実さんが「まかり通るインド英語支配」というエセイのなかで、家庭内でも子供に英語を話し、欧米国で教育を受けさせるインドの親たちに「それは文化の侵略じゃないのかね」と尋ねたら、「何を言ってる、侵略そのものだ」と言い返されたいう話を記していたが、意識的にその状況に便乗して生きている中産階級層が増えているということだろう。

日本でも英語の第二公用語化の論議が喧しい。国際化に備えての運用能力を高めるためだそうである。そう遠くない将来、ジンバブエのように、都会では意識的に英語が使われ、大学のキャンパスでは、日本人同士が英語を喋るようになっているかも知れない。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号62-65ペイジ

ダウンロード

ショナ人とことば

2000~09年の執筆物

概要

エイズの世界的な蔓延や、エボラ出血熱の大流行の遠因となったザイールの過去の歴史を検証した論文である。ザイールの惨状は豊かな鉱物資源に群がる西洋資本と、その資本と手を結ぶ一握りのアフリカ人が多くのアフリカ人労働者を搾取する体制から生まれたものであるが、その基本構図はベルリン会議後の1886年に承認されたベルギーのレオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」によって築かれた史実を論証した。その基本構図が、その後ベルギー領コンゴ、ベルギーから独立を果たしたコンゴ、アメリカに後押しされたモブツ大統領の独裁国ザイール、そして現在のコンゴ民主共和国へと引き継がれている点も指摘した。

本文(写真作業中)

ごんどわな復刊3号(24号、2001年1月)2-5ペイジ

 

コンゴの悲劇(一) レオポルド二世と「コンゴ自由国」

 

悲劇の始まり

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一頁が始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている……。

しかし、ここ三年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。」

赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの実情を、米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)にそう誌した。(註1)

レオポルド二世

シェパードはコンゴに赴いた最初のアフリカ系アメリカ人で、「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたのである。

1890年から20年間アフリカで過ごしたシェパードは、レオポルド二世の「コンゴ自由国」の下での「変わり様」を目撃した。

シェパードが続けて誌す。

「どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしてゆけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない。」(註1)

「認可」を出したのは、1865年に30歳で王位に着いたベルギーのレオポルド二世である。かつてスペイン、オーストリア、フランス、オランダの支配を受け、1830年に独立したばかりのベルギーは、大国フランスとドイツ両国に挟まれた弱小国家だった。両親も本人も、政略結婚を余儀なくされ、家族関係も冷たく、父母の情愛を受けずに成人している。

十歳から軍事教育を受けた王は学業に熱心ではなかったが、地理には関心を寄せた。貿易の利潤に興味を持ち、世界地図を眺めながら、いつかは植民地を手に入れたいと思うようになっていた。王位に着く前年に、イギリス所有のセイロン、インド、ビルマと、オランダ所有の東インド諸島を訪れてから、植民地獲得の夢はますます膨らんでゆく。

ほぼ20年後の1885年に、レオポルド二世は50歳で宿願の植民地「コンゴ自由国」を入手するのだが、小さな国の国王個人が、どうしてアフリカ奥地の広大な植民地を首尾よく手に入れることが出来たのか。

 

「コンゴ自由国」の成立

個人の植民地とは不思議な話だが、王の執念と、植民地列強の思惑と、時代の流れとが交錯して、現実に個人の植民地が成立した。

産業革命を果たした西洋社会は、作り過ぎた工業生産品を捌く市場と、労働者の安価な食料と工業の原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げていた。ヨーロッパでは、侵略を正当化するための世論が大勢を占めていた。

1876年に王は、アラブ人の奴隷貿易廃止と「野蛮人に文明を」という大義の下に国際アフリカ協会を設立し、本部をブルリュッセルに置いた。すべて、植民地獲得への布石だった。

王は、初めからアフリカに拘ったわけではなく、薄れつつあった王室の権力を取り戻しさえ出来れば、植民地はどこでもよかった。しかし、当時すでに植民地はすべて西欧列強の手中にあり、世界地図の空白は、赤道直下のコンゴ川流域だけだった。世界地図の空白は、ヨーロッパ人「未到」と、他の植民地で手一杯のイギリスも、その地域を挟んで牽制し合うフランスもドイツも、まだ手を出していないという意味合いを含んでいた。王は、その空白に目をつけ、すでに東側から大陸横断を終えて、支援者を探していた英国人探検家ヘンリ・スタンリーに、密かに急接近を開始した。

情報から、王は、コンゴ川流域が植民地には最適と判断し、直ちに、450人の首長からただ同然の価格で広大な土地を買収させた。

スタンリーは、情報と世論の支持とを得るには欠かせない人物だった。世論の操作と外交術に長けた王は、イギリス、ドイツ、フランスの首脳を宮廷に招いては、手厚く遇した。成否の鍵を握るアメリカには、自らも乗り込み、大統領官邸との繋ぎ役には、南部の黒人人口の増加に脅威を感じ、アフリカに黒人を移住させたがっていた下院外交委員会議長のジョン・モーガンを選んだ。アメリカと、「小国なら却って実害がない」と考える西欧主要国の支持を得て、1886年のベルリン会議で、王個人が所有する植民地として「コンゴ自由国」が承認された。

 

「コンゴ自由国」

王は生涯に一度もアフリカに行かなかった。本国から指示を出し、当初は象牙で、後にはゴムで利潤をあげた。力による支配を強行し、劣悪な条件下でアフリカ人を働かせ続けた。

1888年には、ベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げた。

支配の根底には、アフリカ人蔑視の考え方があり、鞭打ちなどの残忍な手法を用いた。象牙の輸送には、急流地域では陸路を使うしかなく、大量の人夫が必要だった。当然、多くの犠牲者も出た。特に、ゴムを運ぶための鉄道建設では「レール一本を繋ぐのにアフリカ人一人の犠牲者が出た」とまで言われた。

1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起きた。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。アジアやラテンアメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの二十年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業を強いられた。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされたが、その支配は23年間に及んだ。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能だが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されている。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われる。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んだ。

 

(註)

 

1) Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost A Story of Greed, Terror, and Heroism in  Colonial Africa    (Mariner Books, 1998)

 

2) 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びた。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号2-5ペイジ

 

ダウンロード

コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文

ジンバブ大学② ツォゾォさん

ハラレで暮らし始めてからしばらく経ったころ、「在外研究の計画を練りなおしてください」という手紙が舞いこんだ。日本を発ったあとに届いたジンバブエ大学からのもので、同僚の機転で転送されてきたのである。すでに家を借りて生活を始めているのに、まさかそんな手紙が日本から転送されてこようとは夢にも思わなかった。直接差出し人のツォゾォさんの部屋を訪ねたら、授業中だった。授業を中断して出てきたツォゾォさんと、科長室(CHAIRMAN)と書かれた狭い部屋で、二時間ほどは話していただろうか。しかし、七月七日の手紙を意に介している様子はなく、最後まで、手紙の遅れを詫びる言葉はなかった。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

こうして、ツォゾォさんの部屋に通う日々が始まった。

ある日ツォゾォさんの部屋に行ったら、表札の名前が変っていた。英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋だった。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいる。部屋にはコピー機まであり、秘書はパソコンを使っていた。図書館では一台のコピー機の前に人の列ができるし、手動のタイプライターでさえ貴重品だというのにである。それから二、三日後、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しの記事が「ヘラルド」に掲載された。「ヘラルド」はこの国の一大日刊紙である。かなり大きな記事だから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのだろう。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうだった。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくあった。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていた。インタビューを録音しているときなどは、何度もテープを止めなければならなかった。

「演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブウェに戻るか、迷いました」とも言う。

「大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですか」と尋ねたら、「ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよ」と言っていた。そう言えば、ツォゾォさんは「自分の車」に乗っている。それまであまり意識はしなかったが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのである。

「独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブウェを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですね」と言ったら、「まったくそのとおりですよ」とツォゾォさんが頷いた。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていた。

授業風景は日本の大学とはいささか違う。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっているが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはなかった。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もあるが、もう少し現実的な事情もある。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がない。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまう。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかない。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのである。質のよくないノートにインクの出方の悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのである。

しかし、演劇の授業はやや趣が違った。歌あり、演技指導ありである。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操をする。円になって踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせる。手拍子を取り、歌いながらである。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていた。発声のための体馴らしでもある例年十月に授業の集大成として公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていた。

十月四日の公演にはぜひ来てくださいと学生から言われていたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいない。何もなければ、パリにいるはずだった。

 

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんが生まれた1947年は第二次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期である。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていた。

ツォゾォさんは国の南東部にある小さな村で生まれた。その村には、第二次大戦の影響もほとんど及ばなかったと言う。

広大なアフリカ大陸である。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていた訳ではない。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会〓クランを形成し、一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめてきたという。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれたので、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。

ツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていた)に入学した1968年頃の社会情勢は非常に緊迫していた。1965年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからである。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていった。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていた。その政策によってツォゾォさんもジンバブウェ大学入学が可能になったという訳である。(大学案内によれば、入学者数は初年度1957年が68人、独立時の1980年が2240人、1990年が9300人となっている。ツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた1992年でも、学生総数は約一万人だと言われていたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かである)

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれている。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、1971年までの学生時代の三年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けた。

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていた。大学は白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言う。

学生1500百人のうち五分の一の300人がアフリカ人であったそうだが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、1971年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうである。その時は逮捕はされなかったものの、警察と激しく衝突したという。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾した。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えた。

 

1976年になると、アメリカが介入の手を延ばし始める。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからである。

アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返された。そして、1979年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立した。

翌年の1980年2月の選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、四月にはZANUのムガベを首班とする黒人政権が誕生した。

しかし合意された最終案は、白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまった。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わらなかったので、大半のアフリカ人の生活は苦しいままであった。

独立闘争での働きも大きかったので、ツォゾォさんは、新政権の下で重用されている。1984年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まった。1986年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、二年間で演劇と映画の学位を取ったそうである。帰国後、1992年の8月に副学長補佐に昇進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77ペイジ

ダウンロード

ジンバブエ大学② ツォゾさん