続モンド通信・モンド通信

続モンド通信14(2020/1/20)

 

私の絵画館:「三太とノアと子供たち」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記7回目:8月25日 ボローデール行き(小島けい)

3 2020新年のご挨拶(小島けい)

4 アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「三太とノアと子供たち」(小島けい)

この絵をいつ描いたのかは、はっきりしません。
いつものポーズで横たわり、優しくみんなを見ている犬の三太は、13年前に亡くなりました。お気楽に毛づくろいをしている猫のノアは、3年前に見送りました。
ノアは渋谷の中央郵便局の前で泣き叫んでいるのを、娘に保護されました。生まれてまもない状態だったとか。そしてある春の日、宮崎に帰ってきた娘のコートの胸元から、何の前ぶれもなくちょこんと顔を出しました。それが、三太とノアの新しい生活の始まりでした。
絵の中のノアは、まだ幼くて細身ですので、きっとその衝撃の出合いからそれほど時間をおかずに、この絵はできたのだろうと思います。
<人のいい>三太は、やんちゃ盛りの子猫のノアに何をされても怒りませんでした。熟睡中に突然耳をガキッ!とかまれたりと大変なこともありましたが。それでも新しい家族を迎えて、三太も楽しかったのではないかしらんと、この絵を久しぶりに見て思いました。

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2 小島けいのジンバブエ日記7回目:「8月25日ボローデール行き」(小島けい)

借家の玄関口

アフリカでは毎日<ふつう>に食べることが、なかなか大変です。ホテルに滞在せず、車を運転しない私たちにはなおさらです。

公の交通手段はほぼ無いものと思って下さい、とはハラレに来る前から聞いていました。けれども度重なる手続きや買い物に、いろいろお世話になっているハラレ在住の吉國さんの奥さんに、頼ってばかりもいられません。そこで自転車を二台購入しましたが、戦前の日本にあったような(?)、ペダルを懸命にこいでも思うようには進まない自転車では、どうしようにもありません。

ある日、少し勇気を出して、なかなかつながらない電話で、何とかタクシーを呼んでみました。街なかまで約十五分、三百円程度。運転手はみんな、人のいいショナ人です。ドアが閉まりにくかったり(きっちり閉まらない場合も、そのまま走ります)、窓ガラスが割れてギザギザだったり。ちょっとスリルはありますが、少し慣れれば、私たちには結構便利な乗り物でした。

日常の食料品はほとんど、自転車で20分ほどのショッピングセンターでかろうじてすませますが。限られた材料でメニューがまんねりになると、食欲も体力も落ちてしまいます。そこで、ちょっと遠くの白人街にある高級ショッピングセンター「ボローデール」まで、出かけてみることにしました。

今日の運転手も気持ちのいいショナ人です。場所を言うと地図で確認して、さあ出発。お昼はおいしいイタリア料理だ!と話題も弾みます。

が、どうも途中から様子が変です。前に吉國さんの奥さんに連れて行ってもらった道とは、明らかに違います。目的地からどんどん離れていくようなのです。そして運転手の顔にも、不安の色が浮かんできました。

何度も頼みこんでようやく、彼は人を見つけて道を尋ねてくれました。やはりずいぶん方角が違っていたようです。

借家の前の道路

そこで車はUターンしましたが。ほっとしたのもつかの間、また予想に反する方向に向かい始めます。こうなっては私の勘をを頼りに、かなり強い口調で指示するしかありません。そうこうして、通常の何倍もの時間をかけて、やっとのことでボローデールに着いた時には、運転手はじめ全員がぐったり疲れていました。

帰りは、食事と買い物の時間を考え、三時間後にこの場所に来てくれるように頼みました。

ところが、ゆったり楽しんだ三時間後、約束の場所にタクシーがいません。また、まっ青です。1台の公衆電話もバスもない白人街では、帰る方法が全くありません。

あせる気持ちをおさえながら、必死で手分けして探しまわったあげく、少し離れた広場に一台のタクシーを見つけました。その無線を借りてタクシーを呼んでもらおうと中をのぞくと、例の運転手が深く眠りこんでいます。彼は街へもどらずに、ずっとここで待っていてくれたのでした。

”まいったなあ”とつい微笑んでしまうしかないような、アフリカの「ミスター運転手」でした。

近くのショッピングセンターに行く途中で

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3 2020新年のご挨拶(小島けい)

あけまして おめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

遠い以前から繰り返されてきた昨日から今日に変わることが、どうしてそんなにおめでたいの?と肩ヒジ張っていた時代も、確かにありましたが。
今や「ふつう」に昨日が終わり「ふつう」に今日が始まる。ましてそれが、人も猫たちも何とか元気でむかえられるなら、それほど有り難いものはない、と思います。

亡くなった母は、元日の朝起きていくと、いつもより少し上等の着物にまっ白な割烹着を着て、改まって<あけましておめでとうございます>と、子供の私にも丁寧に挨拶をしました。
その母の思いが、この頃ようやくわかるようになりました。

わかることは、いつもそんなに遅すぎるのですが。

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4 アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

1985年に伯谷さんからMLA (Modern Language Association of America)に誘われたとき、ライトの発表だと思っていましたが、帰ってから届いた手紙では、English Literature Other than British and Americanと言う小さなセッションでアフリカの作家で発表をということのようでした。ライトの小説を理解したいという思いでアフリカ系アメリカの歴史を辿り、奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き始めていましたし、黒人研究の会の月例会での発表も半分はアフリカ関連でしたし、アフリカの作家の発表でもやれそう、さて、誰にするか、と割りとすんなりと切り替えが出来ました。

伯谷さんと奥さんの路子さんと長男の嘉樹くん

身近にアフリカのことをやっている人も多かったですし、大阪のこむらど委員会に手紙を出して反アパルトヘイト運動の集会にも参加したりしていたからもあったと思います。日本では専門にやっている人はいないようでしたので、アレックス・ラ・グーマをやってみようかと思いました。

ちょうどその頃、一冊の本『アレックス・ラ・グーマ』が届きました。1985年のライトのシンポジウムで知りあったミシシッピの本屋さんのリチャーズさんからでした。「もしラ・グーマの資料が入ったら送って下さい」とお願いしていたというわけです。

Alex La Guma

本格的な作品論・伝記を読んで、著者のセスル・A・エイブラハムズさんに会いたくなりました。ラ・グーマが亡命先のハバナで急死していなければ、たぶんキューバに会いに行ったと思いますが、その時点でラ・グーマのことを一番よく理解している人だと感じましたから。

さっそく住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を出すと、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が返ってきました。

手紙の通り北アメリカに行って電話しましたが、残念ながら繋がりませんでした。オハイオ州の伯谷さんのところに泊めてもらったり、ニューヨークに出かけたりしながら、電話をかけ続けました。何とかお会い出来たのは一週間ほどしてからです。

 エイブラハムズさん、レイチェルと。奥はローズマリーさん

南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の最悪の裏切り国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて、丸々三日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。七月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生一万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、一年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

エイブラハムズさん

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

ラ・グーマ

1985年に念願のファーブルさんにお会いして英語を話せるようになろうと決めてやり始めていましたが、まだ十分とまではいかずにいましたので、マイクロカセットテープをたくさん持って行って録音させてもらいました。帰ってから当時親交のあったイギリス人のジョンに手伝ってもらって内容を繰り返して確かめ、記事にまとめました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ” (August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

サンフランシスコで家族と

翌年ブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に誘われ、主に北米で亡命中の50人ほどの前でラ・グーマの初期の作品について発表し、日本での南アフリカ事情についてもお話しました。亡命先のロンドンから駆けつけたブランシ夫人とも初めてお会い出来ました。MLAで発表した原稿と、その時発表した原稿を元に作品論も書き、黒人研究の会でも紹介しました。

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(「中研所報」20巻3号359-375頁)

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」</a>(「黒人研究」58号36頁)

会議でのブランシさん

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になって長年の「管理職になって役に立ちたい」という願いを叶えました。学長を二期務めた後、米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校に招聘教授として招かれました。その頃に一度メールの遣り取りをしたきりです。

あの頃中学生だったレイチェル、変に気が合っていっしょに餃子を作るのを手伝ってくれたりしましたが、今頃どうしているでしょうか。(宮崎大学教員)

レイチェル

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続モンド通信11(2019/10/20)

 

私の絵画館:「子猫の四季 <秋>」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜9:「言語表現研究」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「3回目7月27日」(小島けい)

4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)
「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」

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1 私の絵画館:「子猫の四季 <秋>」(小島けい)

 <小島けい個展―2019->は、今年も無事に終えることができました。ご来場下さいました皆様に、心より御礼申し上げます。

今回から期間をこれまでの2週間から1週間に致しましたが、とても充実した日々となりました。短かくなった分、お会いできなかった方たちもおられますが、次の機会を楽しみに、と思っております。

 

楽しかった個展のご報告は、また次回に詳しく・・・・。

一昨年の個展の後、私はオーナーの映子さんに、来年は<子猫の四季>という題で4枚の絵を描いてきますね、とお約束しました。この絵はその<秋>です。

春は白木蓮、夏は白い百合、冬には赤いやぶ椿でと考えた時、秋はやっぱりイチョウだ!と思いました。そして、この絵ができました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜9:「言語表現研究」(玉田吉行)

前回紹介した「黒人研究」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)のほか、主に兵庫教育大学大学院の教官と院生が投稿する「言語表現研究」でも印刷物にしてもらいました。国語と英語の分野の教官と院生の発表の場で、毎月例会も行われています。院生の大部分が現職の教員でもありますので小中高校の英語教育も研究分野です。今まで

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」2号(1984年)

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」4号(1985年)

③ “Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels” 12号(1996年)

④ “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy" 19号(2003年)

が活字になりました。

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」は、乾亮一氏の「擬声語雑記」とOtto Jaspersenの“Sound Symbolism”を借用し、テーマとからめて擬声語表現の分析を試みた作品論です。パトカーのサイレンの音swishやマンホールの音clang, clankやタイヤの軋む音rumbleなどが効果的に用いられて臨場感を醸し出しているだけではなく、テーマとかかわる象徴性も表現していることなどを論証しました。

Michel Fabreさん(当時ソルボンヌ大学教授)の伝記The Unfinished Quest of Richard Wright『リチャード・ライトの未完の探求』に感動して、その人の評価を聞いてみたいと思い翻訳して本人に郵送しました。ミミシッピ大学でのライトの没後25周年国際シンポジウム(1985)ではライトの他の作品での擬声語表現についての発表があり、ゲストスピーカーであったFabreさんから、その発表と関連してこの作品論の評価も聞きました。パリはライトが後年移り住んだ地でもあります。1992年のジンバブエからの帰りにFabreさんの自宅にお邪魔して、色々な刺激を受けました。

「言語表現研究」2号

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」2号1~14頁、1984年2月

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」は、代表作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の冒頭部の擬声語表現を象徴性と隠喩の面から評価した作品論です。冒頭に巧みに用いられた目覚まし時計の音などの擬声語が、展開される物語の慌ただしさや住環境の劣悪さを象徴している点を指摘しました。ライトは主人公が殺人を犯して逃げまどい、やがては裁判にかけられて社会から葬りさられる運命と、逃げ回って殺される鼠の運命を重ね合わせて「黒人はアメリカの隠喩である」という問題提起をしていますが、それが巧みな擬声語表現に裏打ちされている点も指摘しました。

「言語表現研究」4号

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」4号29~45頁、1985年2月

③“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”は、ラ・グーマの初期の作品に見られる文学手法に焦点をあてた英文の作品論です。抑圧の厳しい社会では政治と文学を切り離して考えることは出来ませんが、作品を政治的な宣伝でなく文学として昇華出来るかどうかは、作者の文学技法によります。ラ・グーマの使うリアリズムとシンボリズムの手法が、読者に期待感を抱かせる役割を果たしている点を指摘しました。1987年のMLA (Modern Language Association of America)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで発表したものに加筆しました。

「言語表現研究」12号

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁、1996年3月

④"Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"は、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの英文の作家論、作品論です。本人は亡命しているわが身を「座礁した」と形容していますが、独立戦争後反体制側にまわり、逮捕・拘禁され、亡命を余儀なくされますが、その経緯を書いた『政治犯、作家の獄中記』(Detained: A Writer’s Prison Diary, 1981)、作家の役割と政治の関係を論じた『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)、体制を脅かした直接の原因となったギクユ語の劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)を軸に、亡命の意味とグギの生き方を論じました。

「言語表現研究」19号

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"「言語表現研究」19号12~21頁、2003年3月

言語表現学会では「アンクル・トムの子供たちの恐れと抗い」(1982年10月)と「Richard Wrightの対比的表現初期短篇数編から」(1986年4月)を口頭発表しました。一回目は院生の2年目、修士論文を書いている最中で、二度目は就職浪人中でした。

修士論文を書いた延長で、リチャード・ライトの没後25周年国際シンポジウム(1985年ミミシッピ大学)に参加し、本の中でしか知らなかった人たちや、憧れのファーブルさんにも会えました。その縁でMLA (Modern Language Association of America, 1987年、サンフランシスコ)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで、南アフリカのアレックス・ラ・グーマの発表が出来ました。

MLAで伯谷さんと

その準備の段階でラ・グーマの伝記『アレックス・ラ・グーマ』の著者セスゥル・エイブラハムズさんとも出会い、ラ・グーマの記念大会に呼んでもらえました。その中で①~③は生まれました。

セスゥル・エイブラハムズさん

④は『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)の翻訳を頼まれて、グギさんの作品を大体読んで背景を知る過程で、まとめの意味もこめて英文で書きました。

ライトもラ・グーマもグギさんも結構多作で、先ずは作品を集めることから始め時間もかかりましたが、アングロ・サクソン侵略の系譜の中から生まれた作家だと実感しました。(宮崎大学教員)

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3 小島けいのジンバブエ日記:「3回目7月27日」(小島けい)

「小島けいのジンバブエ日記:3回目:7月27日(曇り)ジンバブエ大学」

「小島けいのジンバブエ日記」の3回目です。

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。

ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。

あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。

そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。

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3回目:7月22日(曇り)ジンバブエ大学

(ジンバブエ大学構内。木の横にあるのは、アイスクリーム売りの自転車)

ジンバブエ大学は、この国唯一の総合大学です。ここが相方の留学先ですが、出発までに担当教授の受け入れ再確認の返事をもらえないまま、現地に来てしまいました。

さらに、私たちの出発後日本に届いた「もう一度手続きを」という手紙が、ハラレに転送されて来ました。彼は青くなり、その後、意を決して大学に乗り込みました。

けれども、再手続要請の手紙を書いた科長代行のツォゾォさんも、当の本人が目の前に現われてはどうしようもありません。一瞬のとまどいの後、歓迎して受け入れてくれました。いかにも、アフリカ的経過です。

ツォゾォさん

国民的作家であるツォゾォさんの授業を通して、幾人かの大学生と親しくなりました。なかでも「ハロー・マイフレンド!」といつも陽気に現われるアレックスには、タマさんはショナ語を、子供たちは英語を教えてもらいました。

アレックスと長男

また彼はアレックスに、日本人だけでは入り難い街の酒場や、ETと呼ばれる乗り合いタクシーに乗ってロケーション(黒人居住地区)にも、連れていってもらいました。

他にも優しくてひかえ目なジョージ、詩やお話しを書いているイグネイシャスなど、それぞれ素敵な若者です。家の状況は厳しそうですが、「三度の食事が保証されている三年間は天国です」と、大学生活を楽しんでいました。

ジョージ(小島けい画)

ジンバブエの精鋭たちである彼らから「日本の街では忍者が走っているのか」と真面目に質問されたのには驚きましたが、「アフリカに行くならライオンに気をつけて」と送り出してくれた日本人と<あいこ>かも知れません。

ハラレの街にも日本車は溢れていましたが、正しい情報は互いに欠けたままなのだと、つくづく思った一件でした。

アレックスたちの学生寮ニューホール

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4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)

概要(写真は作業中)

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の「公民権運動、その後」について書ました。

前回までジンバブエに行ったあとに書いた英文書「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)に沿って、アフリカ史、南アフリカ史、アフリカ系アメリカ史を12回に渡って紹介してきましたが、今回からは、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)の紹介をしようと思います。

1冊目は簡単なアフリカとアフロアメリカの歴史の紹介でしたので、2冊目は、アフリカについては

①第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造、

②アフリカの作家が書き残した書いた物語や小説、

③今日的な問題に絞り、

④アフロアメリカについてはゴスペルからラップにいたるアフリカ系アメリカ人の音楽

に絞って、内容を深めました。①が半分ほどを占め、引用なども含めて少し英文が難しくなっています。医学科の英語の授業で使うために書きました。

本文

書くための時間がほしくて30を過ぎてから大学を探し始め、38の時に教養の英語担当の講師として旧宮崎医科大学に辛うじて辿り着いたのですが、大学は学生のためにありますから、当然、教育と研究も求められます。元々人間も授業も嫌いではないようで、研究室にもよく学生が来てくれますし、授業も「仕事」だと思わないでやれるのは幸いだったように思います。

戦後アメリカに無条件降伏を強いられて日常がアメリカ化される生活を目の当たりにして来た世代でもありますので、元々アメリカも英語も「苦手」です。学校でやらされる英語には全く馴染めませんでした。中学や高校でやらされる「英語」は大学入試のためだけのもので、よけいに馴染めなかったようです。高校で英語をやらないということは、今の制度では「いい大学」には行けないということですので、今から思えば、嫌でも英語をやった方が楽だったのかも知れません。

したがって、大学で医学科の学生に英語の授業をするようになっても、最初から「英語をする」という発想はありませんでした。するなら、英語で何かをする、でした。

何をするか。

最初は一年生の担当で、100分を30回の授業でした。一回きりならともかく、30回ともなると、相当な内容が必要です。学生とは多くの時間をともにしますし、一番身近な存在の一つでもあります。学生の一人一人と向き合ってきちんと授業をやることは、自分にとっても大きなことでした。

おのずと答えは出てきました。自分がきちんと向き合って考えてきたことを題材にする、でした。それは、リチャード・ライトでアフロアメリカの歴史を、ラ・グーマでアフリカの歴史をみてゆくなかで辿り着いた結論でもあります。過去500年あまりの西洋諸国による奴隷貿易や植民地支配によって、現在の先進国と発展途上国の格差が出来、今も形を変えてその搾取構造が温存されている、しかも先進国に住む日本人は、発展途上国から搾り取ることで繁栄を続けていい思いをしているのに、加害者意識のかけらも持ち合わせていない、ということです。

将来社会的にも影響力のある立場になる医者の卵が、その意識のままで医者になってはいけない、という思いも少しありました。

それと英語も言葉の一つですから、実際に使えないと意味がありません。そこで、できるだけ英語を使い、実際の英語を記録した雑誌や新聞、ドキュメンタリーや映画など、いろんなものを題材にして、学生の意識下に働きかける、そんな方向で進んできたように思えます。

二冊の英文書も、その延長上で書きました。実際には、アメリカに反発して英語をしてこなかった僕が、授業で英語を使えるようになるのも、英文で本を書くのも、授業で使ういろんな材料を集めるのも、作ったりするのも、なかなか大変でした。ま、今も大変ですが。

今の大学に来て27年目で、今年度末の3月で定年退職です。まもなく最後の半期が始まります。

(「アフリカとその末裔たち1」1刷)

次回は「アフリカとその末裔たち②:(2)戦後再構築された制度②」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2014年

収録・公開

編集の手違いで「モンド通信」No. 71(2014年10月1日)に収録されていませんので、元原稿からここに収載しています。

全体は一覧にしています→「アフリカとその末裔たち2一覧」(2014年11月~2016年2月に「モンド通信」に連載。掲載分の番号、題などを修正)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度①」

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続モンド通信10(2019/9/20)

 

私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

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1 私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

ずっと以前は、小さなザック一つと竹かごのバスケットだけで、アラスカの氷河やゴビの砂漠、そしてパリにも行きましたが。

いつからか家を空けることが至難の技となりました。それはごく自然の流れで、子供たちだったり、犬だったり。そして今は猫たちという大切な存在を、第一に考えてのことでした。

そこで、私が旅に出るかわりに、行ってみたいなあ・・・・と思う街を、子猫たちに旅してもらうことにしました。

それは、モロッコの青い街<シャウエン>から始まり、今年で6作目となりましたが。 この絵は、旅する子猫シリーズの第2作目。青い海と白壁の家並が美しい、ギリシャの<サントリーニ島>です。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

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3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

街中のジャカランダ

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。今回は2回目です。

前回の「続モンド通信9」(2019年8月20日)→「小島けいのジンバブエ日記:1回目:7月21日」

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2回目:7月22日(晴れ)グレース来宅

グレースさん

長旅の疲れで全員がまだ寝ている朝七時、突然、この家のメイドをしているグレースがやって来ました。家では子供が三人もいて大変だから、家主のいない間も雇ってほしい、となまりの強い英語で訴えます。即答はできないので、とりあえず十ドルを渡して帰ってもらいました。この家には洗濯機がなく、掃除機は一円玉も吸えないうちに壊れました。(それでも私たちの帰国後、掃除機を壊したということで、相当額の修理代を請求されましたが・・・・。)ガスは無く、料理は電器コンロです。貴重な限られた時間を有効に使うため、結局働いてもらうことにしました。

右側の部屋を寝室に

翌朝グレースの要求した値段は、吉國さんから聞いた相場の二倍でしたが、午前中二時間、掃除と洗濯だけを頼みました。話が終わったと思ったら、往復四ドルのバス代を請求されました。後でゲイリーに確かめるとバスは片道一ドル、さらに吉國さんに報告すると、あの人は歩いて通っていたはずだ、とのことでした。なかなかのしたたかさです。

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4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)

(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

前回から、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」

前回は2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書きたいと思います。

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

 

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち続編:(1)戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

 

続モンド通信・モンド通信

私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

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1 私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

トイ・プードルのりんちゃん・すずちゃんの飼い主さんは、長い間メキシコで暮らしておられました。

そこで、絵の背景には<メキシコの太陽>と<ウチワサボテン><柱サボテン>を入れて、とのご希望でした。

知っているようで、実はあまりよく知らないメキシコでしたので、それから<メキシコの太陽>やサボテンがはえている大地の色などを、いろいろ調べました。

そして何回かラフ・スケッチのやりとりをした後、完成したのがこの絵です。

飼い主さんはこの絵をとても気に入って下さり、ご自分の行きつけのお店何軒かにも、この絵を使った個展の案内ハガキを、置いていただけるよう手配して下さいました。

今年ももうすぐ、大好きなりんちゃん・すずちゃんと飼い主さんにお会いできます。九月がとても楽しみです!

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。
5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。
入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。
結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。
マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。
そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。
その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、(「黒人研究」に2本だけ)のに大学の職が見つかるわけないわなあ、どうしよう、と文字通り途方に暮れました。
教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職になりました。

7年間在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

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3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。

ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。

あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。

そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。

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1回目:7月21日

1992年の夏、私たち家族は「アフリカで暮らす」ということだけを目標に、ジンバブエの首都ハラレで、3ヶ月をすごしました。

ジンバブエの地図

行く前もそうでしたが、帰った後も、アフリカは遠い。日常の雑事に追われていると、時の流れも加わり、あの鮮烈だった日々がどんどん遠ざかり薄れていきます。

「旅は終わった。けれど、私のアフリカは今から始まる」と旅の終わりに思いました。その想いを消さないためにも、ハラレでの<普通>の毎日を、少し書き綴ってみようと思います。

(1) 7月21日(快晴)ハラレ着

アフリカ文学、特に南アフリカの「アレックス・ラ・グーマ」の作品を読んでいた相方は、留学先に南アフリカを望んでいましたが、当時まだ日本とは教育や文化の交流が禁止されていました。

アレックス・ラ・グーマ(けい画)

ケープタウン遠景:テーブルマウンティンを望む

そこで南アフリカに一番近く治安も良いと聞くジンバブエの、ジンバブエ大学に短期留学を決めました。さらに14歳の娘と10歳の息子を、短かい期間でも現地の学校に通わせたい。そのような希望を実現するために、在ハラレの吉國さんご夫妻に多大なご迷惑をかけ、白人街に一軒の家を借りました。

私たちの滞在中スイスに里帰りする老婆の家は、月額10万円。大学の敷地に近く、広い道路をはさんで「アレクサンドラパーク小学校」があるという、願ってもない場所です。約500坪の家は、広い芝生の庭とL型の建物から成っています。玄関を中心に、広いリビング、食堂と明かるい台所。そして寝室が3つです。

500坪の借家

まず驚いたのは鍵の多さです。玄関の1枚のドアに3箇所、そこからどの部屋に行くにもまた鍵です。さらに、鏡台やたんすの引き出し、冷蔵庫に至るまで、家中が鍵だらけでした。

また家具付きとは聞いていましたが、庭番のゲイリーと番犬のデインもいました。すこぶる大きなデインが黒人に吠える姿には迫力がありますが、私たちには最初から吠えませんでした。きっと小さな時から、黒人にだけ吠える訓練をされているのでしょう。

日本の家に比べるとずいぶん大きなこの家ですが、プールや夜間照明付きのテニスコートのある両隣りは、敷地も数倍あり、庭番も3、4人います。

ゲイリーとデイン

 何はともあれ、まずまず快適なこの家で、私たちのアフリカでの生活が始まりました。