2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した18回目の「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

アレックスの生い立ちアレックスと大学で

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれました。シィヤホクウェはグレートジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップです。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようですが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことだそうで、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップもそのひとつです。

ジンバブエの地図

1965年は、首相のイアン・スミスを担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、イギリス政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていました。

ゲイリーの場合もそうでしたが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようです。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行きました。アレックスの場合も、入学した時は40人いたクラスメイトが7年生になると25人になっていたそうで、特に女の子の数は少なかったようです。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったと言います。
中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに2人だけでした。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからです。

ハラレ近郊のムレワの風景(小島けい画)

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ています。小さい時から、1日じゅう家畜の世話です。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていません。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったそうです。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。」とアレックスが述懐します。

小学校では教師が生徒をよく殴ったようです。遅れてきたりした場合もそうですが、算数の時間などは特にひどかったようで、「50問の問題なら、出来る子は1、2発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ。48発も9発も殴られて、頭がぼこぼこでした。」と顔をしかめました。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした。」と続けました。
7年間の小学校のあとは、4年間の中学校(FORM1→FORM4)、2年間の高校、3年間の大学と続きます。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向があり、今もその傾向があるようです。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていました。「アレクサンドラパークスクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。」と言われてみれば、なるほどと思い当ります。

アレクサンドラパークスクールで

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは2人だけだったようです。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていません。最終学年の81年に、お父さんが死んだためです。田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもありませんでしたので、誰もが教員になりたがったと言います。アレックスも中学校の教師になりました。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうです。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があり、小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになりました。中学校もたくさん作られました。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれたわけです。アレックスもその一人でした。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった79年から独立時までは閉鎖されていました。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたと言います。勉強どころではなかったのです。そのあとの激変です。混乱の起きないはずはありません。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。」

アレックスは高校には行けませんでしたが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうです。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したと言います。その同僚の存在が大いに刺激になったようです。無事に通信課程を終えて、90年から大学に通うようになりました。

画像アレックス、大学で

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうです。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもありますが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだと言います。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えました。自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の1人が辞任した89年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうです。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったために、それ以降は警備も厳しくなったようです。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になると言います。その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていました。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめますと、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということでした。
最初に連れて行ってくれた学生寮「ニューホール」

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。」と私が話し始めると
「それは実際には少し違います。」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれました。

「独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファーストワールドカントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。
独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権についたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することばかりで、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。
この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。」

アレックス

最後の辺りのアレックスの語気は強く、どうしようもない怒りを必死に堪えているようでした。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。」と付け加えました。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていました。

地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第3回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は「地方の教員養成大学で養成された5500人の教員のうち、5000人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。」と語った。

「新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸6年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています……。

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていませんが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかでしょう。
「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないでしょう。

画像

アレックス

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるでしょう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れこんでいるようです。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていましたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらいましたが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことでした。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」とアレックスが言います。私にはその問いかけに答える術もありませんでしたが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

長女とアレックスと従姉妹と、スクウェアパークで

執筆年

2012年11月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」(No.51  2012年11月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した17回目の「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「モロシャマリヤング」

次の日、私はニューホールにアレックスを訪ねました。ショナ語と英語の家庭教師を頼むためです。ジンバブエに来る前は考えてもみませんでしたが、いざ住み始めてみますと、折角遠くまで来たのだからショナ語をやってみてもいいなあ、幸いショナ語で本を書いているツォゾォさんにも出会ったのだし、短期間に多くは望めないにしても、せめて辞書がひけるようになれば、帰ってから何とか独りでやっていけるかも知れない、と考えるようになっていました。

学生寮「ニューホール」

子供たちも、生活の中で英語の必要性を感じていますし、学校の授業を補うような形で楽しく教えてもらえれば有り難いと考えていました。事情を話してみましたら、アレックスは即座に快よく引き受けてくれました。

学生のアルバイトも見つけにくいうえ、1日に8時間半働いても月に500ドルも貰えればいい方らしいですので、取り敢えずは、月額500ドルで私のショナ語と子供たちの英語を3時間教えてもらうことにしました。子供たちはまだムランボ教室がありますので、私の方が先にショナ語を始めればいいでしょう。

さっそく、アレックスを家に案内して3人に紹介しました。内気な長女は少し恥ずかしそうでしたが、長男の方は一面識で大いに気が合ったようです。ゲイリーにも紹介しましたら、2人はしばらくショナ語で楽しそうに話をしていました。

いよいよ、アレックスのショナ語教室の始まりです。

長女とアレックス

教室を始める前に、2人で本を探しに行こうという話になり、タクシーを呼んで街の本屋に出かけました。これから始めましょうとアレックスは小学校の教科書を何冊か選んでくれました。ゆくゆくは読めるようにと、ツォゾォさんのショナ語の本なども買っておきました。

本屋にはすでに何回か足を運んでいましたが、欧米や日本のように、多数の本が並んでいるわけではありません。一番大きな本屋で大量に本を買って、店の方から直接日本に送ってくれるように頼みましたが、そういうサービスはしていませんと断わられました。ジンバブエで大量に本を買い込んで自分の国まで送る人はそう多くはいないからしょう。結局、重い荷物を家に持ち帰り、質の悪い紙で梱包をして、郵便局で長い列に並んで順番を待つという過程を経なければなりませんでした。本を送るのも、ひと仕事です。

ツォゾォさんのショナ語の本

本屋を出たあと、アレックスは酒場に案内してくれました。中心街より少し南にあるので、ほとんどがアフリカ人です。入り口のガードマンらしき人と何やら話をしています。見学をしたいという 外国からきた友人を連れて来たといって2ドルを渡しましたと、席に着いてからアレックスが耳打ちしてくれました。アフリカ人以外の人がここに入るのは難しいのでしょうか。

アレックスは友人とよくここに来るそうです。酒場とは言っても、あまり清潔そうでない暗い部屋に何組かの椅子とテーブルが置いてあるだけです。食べ物が出るわけでもなく、ただビールを買って、そこで飲んで喋るだけです。グラスもありません。瓶も汚れている場合が多く、この前など、瓶の中に小さな蛇が入っていたらしいですよ、多分瓶を洗う時の検査がいい加減だったんでしょうねと吉國さんが話しておられたのを思い出しました。瓶の汚れ方を見ていますと、そんな事件が起こっても不思議はないなと思えて来ます。

それでも誰もかれも、話に花を咲かせて楽しそうです。エリザベスホテルというらしいのですが、これでホテルなのかと思えるほど、うらびれた感じでした。すすんでここに来る白人は、おそらくいないでしょう。

街で長女とアレックス

グレートジンバブエ行きやお別れ会や小学校の手続きなども重なって、ショナ語教室はすぐには始められませんでしたが、それでも8月中に2度機会を持つことが出来ました。

アレックスは陽気な青年です。来ると必ず片手を上げながら子供たちに向かって「ハロー、マイフレンド」とやります。陽気な長男はすぐにそれを真似て「ハロー、マイフレンド」とやり返すようになりました。

ある日、長女は「ハロー、マイフレンド」に相当するショナ「モロシャマリヤング」をゲイリーから聞き出して、アレックスやゲイリーを相手に「モロシャマリヤング!」とやり始めました。それ以来「モロシャマリヤング」がみんなの合い言葉になりました。

大学構内でアレックス

アレックスと長男の陽気な2人組は、時たま庭に出て、「アチョー!アチョー!」と、すっとんきょうな奇声をあげていました。

カンフー(中国拳法)の真似事のようです。アレックスはクンフー(Kung fu)と発音していたが、その種のアメリカ映画が大流行しているようで、日本人なら誰でもそのクンフーをやるものと信じていたと言います。長男はアレックス直伝のクンフーがすっかり気に入ったようです。2人は人目をはばかる様子もなく、その後も出会う毎に「アチョー!アチョー!」とやっていました。

8月の30日に、出会いの感謝も含めて、アレックスに8月分と9月分の謝礼金を手渡しました。今度はいよいよ、子供たちの英語教室も同時開講です。

しかし翌日、アレックスは現われませんでした。火急の用事でも出来たのでしょうか。それとも体の調子でも悪くなったのでしょうか。電話で確かめる術もありません。

小学校の学期初めで気を遣ったり、私自身の体の調子が思わしくなかったせいもありましので、アレックスと次に会ったのは3日のちでした。

何とか体の調子も戻りましたので寮にアレックスを訪ねますと、友人のムタンデと話し込んでいる最中でした。様子から判断すると、体の調子が悪かったようにも思えません。

教育棟前でムタンデと

アレックスによると、大金を手にしたその日、つい気が大きくなって友人を誘い、例のエリザベスホテルに繰り出して酔っ払ってしまったようです。気にはなっていましたが、約束を果たせなくてすみませんでしたと言います。

ミスタームランボの例もありますので、前金を渡したのがいけなかったのかなという思いが少しは頭をかすめていただけに、経緯を聞き、やはり出会いは嘘ではなかったのだと安堵感を覚えました。そして、何となく嬉しくなりました。

教育棟前でミスタームランボといっしょに

アレックスは煙草を吸います。箱では買えませんので、ばら売りを買って吸っているようです。そこで、百円ライターを一つプレゼントしました。火器類の機内持ち込みは禁止されていますが、百円ライターが貴重品だと聞いていましたので、何個かをトランクの中に忍ばせていたのです。

次の日、ライターを持っているはずのアレックスがマッチを使っているのに気がつきました。その理由を聞きますと、例のホテルの酒場で日本製のライターだと見せびらかしたら、我も我もと取り合いになって、たちまちガスがなくなってしまいましたと言います。その光景が目に浮かびそうで、吹き出してしまいました。アレッスは恥ずかしそうにしています。それまで半信半疑でいたのですが、百円ライターも確かに貴重品の一つだったようです。

アレックスはビールやチキンが大好物です。毎回、お昼を食べながらビールを一緒に飲みました。もともと肌の色が黒いので目立たなのですが、ビールが入ると少し赤くなって、陽気なアレックスが更に陽気になります。私の方も顔を赤くして、陽気になり、話も弾みます。

ビールを飲んで陽気なアレックス

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが話します。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えました。

妻にとっても、毎回の食事の準備は大変です。ある日、長男も食べたいと言いますので、アレックスにもフライドチキンを買ってきましたら、大好評でした。鳥肉の苦手な妻と長女は敬遠しましたが、それから時折、ビールとチキンが昼食のメニューに加わるようになりました。アレックスも大喜びし、妻も食事の用意の手間が多少軽減されて、まさに一石二鳥です。

ジンバブエでは鳥肉が一番高価です。南アフリカやケニアでもそうらしいようですが、鶏をつぶして客人に供するのが最高のもてなしだそうです。従って、ショッピングセンターや中心街にはチキンインという持ち帰り(テイクアウェイ)の店が必ずありますが、日本のケンタッキーフライドチキンなどよりは高級な扱いです。骨付きの3片にフライドポテトがついて、12ドルほどでした。アレックスも普段はとても食べられませんからと言いながら、おいしそうにチキンを食べていました。

アレックスと長男

ビールにしても、普段はそう飲めるわけではありません。私自身、チキンはあまり好きではありませんでしたが、ビールを飲みながら如何にもおいしそうにチキンを食べるアレックスにつられて、つい食べるようになってしまいました。

アレックスとは色々な話をしました。ゲイリーの場合は、ある程度話題が限定されていましたが、アレックスとは文学を中心にして、話の世界が広がっていったように思います。感性の響き合う部分が重なっていたせいもあるしょう。

ラ・グーマやグギ・ワ・ジオンゴなどのアフリカの作家だけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどのアメリカの作家についても、よく似た受けとめ方をしていました。『怒りの葡萄』に出てくる牧師が僕は好きでねえと私が言いますと、アレックスからジム・ケイシィは私も好きですよという返事が返ってきました。

アメリカ映画『怒りの葡萄』

ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑性がないですよ。」とアレックスは言います。3人とも私の好きな作家ですが、私自身も日頃から同じような感想を持っていましたので、これだけ違った環境で育った2人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思いませんでした。

グギさん(小島けい画)

子供たちに英語を教えてもらうようにと話は決めたものの、ほとんど英語が聞き取れない2人にどうやって英語を教えるのか、ミスタームランボの時と同じように、心配でもあり興味もありました。

いざ始まってみますと、そんな心配は不要でした。子供の柔軟性は大人の想像をはるかに超えていました。それぞれ1時間ほど英語で英語の説明を受けて、結構反応しています。よく笑い声も聞こえてきました。おかしくもないのに笑ったりはしないでしょうから、それなりに言われている内容を理解し、心も通わせていたのでしょう。初めは恥ずかしそうにしていた長女も、毎日を楽しみにするようになりました。学校で出された宿題をアレックスに聞いたり、日本から持ってきた学校の教科書を読んでもらって録音したり、なかなか積極的に楽しんでいる風でした。時にはウォークマンを持ち出して、尾崎豊やイギリスの歌手グループテイクザットなどの歌をかけて、アレックスに聞かせていました。アレックスも初めて見る高性能のテープレコーダーに目を見張りながら、ヘッドフォンをかけては独り、音響の世界に浸っていました。ジンバブエの音楽とは随分とリズムが違うようですが、アレックスは日本の歌を大変気に入ったようです。長女は日本から持ってきていた音楽テープを録音して、アレックスにプレゼントしていました。

ウォークマンで音楽を聴くアレックス

寮でアレックスは、ジョージやイグネイシャスやメモリーなどの友人を何人か紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。街には日本のメイカーの自動車が溢れていますし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのに、です。

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ジョージ(小島けい画)

アメリカのニンジャ映画の影響のようです。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、「野性動物と一緒に暮らせていいですね」とか、「ライオンには気をつけて下さい」とか言う人もいたから、まあ、おあいこですねと説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言い出しました。さすがに精鋭の集団です。言われて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと気付き、自分たちの誤った認識をただしたいと考えたのです。しかし考えてみますと、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を意図的に正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいでしょう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしっかりとしみついています。

大柄なイグネイシャスは、小さい頃に大人から聞いた民話を書いたり、自ら詩を創ったりしている文学青年です。ヨシの奥さんに絵を描いてもらって、日本で僕の作品を紹介してくれませんかと真剣な顔つきで話します。日本に留学出来ませんかとも言います。

童顔のメモリーは空手に興味があるらしく、しきりに空手についての質問を浴びせかけてきます。経験のない私は、メモリーの質問にはお手上げでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言います。周りの者も頷いています。私が車に乗っていないと言いましたら、アレックスが怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張ります。ほぼ詰問です。

車なしでもやっていける、確かに車は便利だが、スピード感が変わってしまうし、今の季節感も失ないたくないなどと私なりに説明を加えてみましたが、アレックスは最後まで不服そうでした。

車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えてなりませんでした。(宮崎大学医学部教員)

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アレックス

執筆年

  2012年11月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」(No.52)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した16回目の「ジンバブエ滞在⑯ 75の出会い」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

75セントの出会い

ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では5人の学生が授業を受けていましたが、その中にアレックスがいました。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネームのアレックスが英語の名前です。どう呼んだらいいですかと尋ねましたら、アレックスがいいですねと言います。最近、親は好んで子供に英語の名前を付ける傾向があります、流行ですよとアレックスが呟きました。そう言えば、ゲイリーの子供たちは3人とも英語の名前です。

アレックスと仲よしになったのは、偶然です。

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教育棟前でアレックスと

アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、映画や映像に関する特殊講義でした。アメリカで学んだ映画学、映像学を、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていたのです。ツォゾォさんは、演劇や映画に大いに関心があるらしく、著書の半数は戯曲です。大学では演劇の講義も行なっていますし、学生や市民を対象に演劇の指導をしたり、毎日放映されているテレビのショナ語によるドラマ番組の企画も担当していると言うことでした。

「売春を仕事にしている人たちを取材して、エイズのビデオ映画も作ったよ、ヨシ。大変だったけど、実際映画に作ってみると、何とも深刻な問題だとしみじみと考えさせられたね。」とも言っていました。

何回か授業も見せてもらいましたが、その時は、ビデオ機器の説明と、実際の使い方が主体でした。英語科が購入していたのは日立製のカラーテレビと、オートフォーカスのナショナル製のビデオカメラでしたが、テレビの映像があまり鮮明ではありませんでしたし、ビデオカメラも大型でしたので、どちらもかなり旧式に違いないと思いました。

ビデオテープでも鍵を掛けて机にしまいこむのですから、ビデオカメラ自体が相当な貴重品です。英文科の学生でなかったら、ビデオカメラを使って撮影する機会など、そう簡単にはないでしょう。

ビデオカメラの使い方を解説するツォゾォさん

2回目の授業の時だったと思います。ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出て行きました。学生は1時間ほどして戻って来ましたが、初めての経験なので誰もが興奮気味です。処女作の出来栄えが気になるようで、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出しました。

「来週まで待てないほど観たいのか?」とツォゾォさんが尋ねています。「ウィアダイイングツーシー(死ぬほど観たい)"We’re dying to see."」と学生が口々に答えました。「ウェル、ウィルユーダイオンフライデイ?(じゃあ、金曜日に死ぬのはどうか?)"Well, well, you’re dying on Friday?"」とツォゾォさんが提案しました。英語で言葉遊びをしています。ツォゾォさんも学生もすべてショナ人ですが、授業中にショナ語は一言も聞かれませんでした。すべて英語です。何だか不思議な気もしましたが、日本で英語科の学生が英語を使う日本人教師の授業を受けていると思えばいいのかと考えました。学内ではショナ人同士の会話もほとんどが英語だったように思います。

授業でのアレックス

「ヨシも金曜日に観に来ませんか?」と学生の1人が言っています。仲間に入れてもらっていたのかと私は嬉しくなり、「では、金曜日に。」と承諾の返事をしました。

金曜日は2時にという約束でしたので、早めに出かけて、ツォゾォさんの部屋の前で待っていました。半時間ほど経っても、誰も来ません。ツォゾォさんの部屋も閉まったままです。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わしました。

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教育棟前でムタンデと

階段の踊り場で、話をしながら3人でしばらく待ってみましたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せませんでした。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれました。

ここが図書館で、ここが管理棟ですよと言いながら、アレックスは学生会館に案内してくれました。ゲーム機が置いてあったり、小さな売店があったりで、学生の憩いの場となっているようです。会館の入り口で、アイスクリームマンからアイスキャンディを買い、3人は並んで歩きながら食べました。自転車の荷台のアイスボックスは冷蔵する力が弱いせいでしょうか、アイスキャンディは少々柔らか目でしたが。3本で、3ドルほどだったように思います。

アイスクリームマン(小島けい画)

それから、アレックスが住んでいる寮に案内してくれました。最上級の3年生用のニューホールと呼ばれている寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで、一時田舎の自宅に帰るようです。机とベッドが備え付けられた狭い部屋ですが、日当たりもよく清潔な感じです。3食付きで、共同のシャワーがあるそうです。

部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあります。ゲイリーの生活水準なら到底考えられない光景です。

学生寮「ニューホール」

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスが言いました。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多いです。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変です。私は普段コーラは飲みませんが、郷に入れば郷に従えです。一緒にコーラを飲みました。
もちろん誘った私が払うつもりでしたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出しました。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにしました。帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれました。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと言いましたら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですという返事が返って来ました。精一杯背伸びをしている態度が私には気持ちよく思えました。

コーラの値段を聞きましたら、中身は1本75セント(20円足らず)ですからと教えてくれました。僅かな額でしたが、アレックスの気持ちが嬉しく感じられました。

8月19日のことです。ジンバブエに来て、ほぼ1ヵ月が過ぎていました。これが予想もしなかった75セントの出会いとなりました。(宮崎大学医学部教員)

ショナ語をアレックスから

執筆年

2012年10月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑯75セントの出会い」(No.50)

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「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した15回目の「ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの家

作りかけの教室の足しにでも使って下さいと校長に寸志を手渡して、ルカリロ小学校を後にし、私たちは再びゲイリーの家に戻りました。

ゲイリーの家でも、大歓迎を受けました。両親や兄弟やその家族を紹介してもらいましたが、少々人が多過ぎて、両親以外は誰が誰だかわかりませんでした。

画像

ゲイリーの家族・親族

最初に案内された小屋風の建物は、みんなが集まって寛ぐ場所のようですから、さしづめ居間に相当するインバでしょう。円形の室内は、外から見る以上に天井が高くて広い感じです。周りの壁の一部には、座るのにちょうどいい高さに、ベンチとでも言うべき腰掛け台が設けられ、真ん中に掘られた囲炉裏には、火が入っています。ここで食事をしたり、団欒の時を過ごすのでしょう。採光や換気が充分でないと感じるのは、今の私が都会の生活に慣れてしまっているせいでしょうか。

ゲイリー夫妻のインバにも連れていってもらいました。セメントと土を混ぜて塗ったと思われる床はぴかぴかに光り、隅々にまで手入れが行き届いています。室内には清潔感が漂っていました。フローレンスがどうぞと、さっと床にザンビアを広げてくれました。ルカリロ小学校で録音したテープを聞こうということになって、テープレコーダーを回し始めましたら、だんだんと人の数が増えてきました。

妻は、ゲイリーのインバをスケッチしたいと外に出ました。たちまちの人だかりです。ゲイリーは、向こうにいる女性陣が歌って踊りたいと言っているので、録音しませんかと言っています。何らかの形で歓迎の意を伝えようとして下さっているのでしょう。

ゲイリーとフローレンスの寝室の前で

最後に、ゲイリーは家の墓に案内してくれました。家のすぐ傍の樹の下に、何個か大きな石が置いてあって、石には「……モヨ」という先祖の名前が刻まれています。前の日に用意しておいた36枚撮りのフィルムもあと僅かとなっていましたが、ゲイリーのたっての希望により、墓の写真を何枚かフィルムに収めました。

墓石の前に立ち、向こうに見える小高い山を見つめながら、あの山の麓までがモヨ家の土地なんですよと何気なくゲイリーが言いました。

何も遮るものがない向こうの山の麓まで、2、3キロはあるでしょうか。いや、もっとあるかも知れません。何ということでしょう。こんなに広い土地がありながら、家族と一緒にここで暮らせないなんて。

渇いた大地の中にゲイリーと並んで立ち、激しく吹きつける風を我が身に受けながら、これがアフリカの現実だとしみじみ思いました。おそらく、目の前の墓に眠っているゲイリーのひいおじいさんの世代までは、豊かな家畜の群れを持ち、日の出とともに起き、陽が沈む頃に休むという自給自足の生活を享受していたはずです。

対象が大きすぎて、当事者のゲイリーには把握する術もなく、あまりにも厳しい現実に、考える余裕すら持てないのが本当の所だと思いますが、「先進国」がアフリカ人の安価な労働力を食い物にしている搾取の縮図が、まさに目の前に広がっていました。

この国に本格的に西洋人が侵入して来たのは、19世紀の終わりで、わずか100年前のことです。金を掘り当てるのが目的でした。

最初に南アフリカにやって来たのは、オランダ系の入植者アフリカーナーですが、イギリス人はそのアフリカーナーを内陸部に追い遣って、次第に南アフリカの主導権を握るようになっていました。

1854年ころまでには、豊かで肥沃な海岸部のケープとナタールの2州をイギリス人が占有し、内陸部のオレンシ自由州とトランスヴァール州をアフリカーナーの自治領としてイギリス人が認める形で覇権が確立されていました。他のヨーロッパ列強の進出を阻むために南アフリカを押さえておく必要性がありましたが、イギリスにとって南アフリカ自体はまだそれほど重要性を持つ国ではありませんでした。

南アフリカの地図

しかし、1886年に、現在の南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグがあるヴィットヴァータースラント(ラント)地方に金が出てから、状況が一変します。ジンバブエへのイギリス人の侵略は、このラントでの金の発見と密接に関係しています。

金が出たラントは、イギリス人がアフリカーナーに自治領として認めたトランスヴァール州内にありました。のちに金の採掘権をめぐって、2国間で壮絶な第2次アングロボーア戦争(1899年~1902年)が繰り広げられますが、豊かな金を産出するラントの出現は、それまでアフリカ南部の覇権を誇っていたイギリスにとっての脅威となりました。

ジンバブエへの進出を積極的に推し進めたのは、すでにケープ植民地で権力を手にしていたセシル・ローズやその取り巻きです。ローズは、1868年にオレンジ自由州キンバリー付近でダイヤモンドが発見されてから南アフリカに渡って来た入植者の一人です。17歳の若さながら、次々と採掘権を奪いながら、次第に財力をつけ、やがて90年にローズはケープ植民地の首相になりました。

ダイヤモンドの採掘(「アフリカシリーズ」)

ラントの出現により優位を脅かされると懸念したイギリス政府はローズらを後押して89年にイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立させ、第2のラントを求めて、本格的に北部への進出を開始しました。翌年の6月には、武装したBSACの私設軍500人と入植者200人が、ローズの庇護をもくろむ350人のグワト人を従えて、北部のベチュアナランド(現在のボツワナ)からマショナランド(現在のジンバブエの北部)に侵入し、9月には現在のハラレに、入植者がイギリスの国旗を翻しました。

入植者は、その地をソールズベリと名付けました。のちに国はローズにちなんで、ローデシアと呼ばれるようになります。ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶ一大帝国を築く野望を持っていたローズにとって、この北部進出は一つの足掛かりでもありました。

相当の土地と金の採掘権とを約束されていた入植者は直ちに金探しに没頭しましたが、期待したほどの成果は得られませんでした。その土地が第2のラントにはならなかったわけです。

予め専門家に金鉱脈の調査を依頼していたローズは、94年に調査結果の報告を受け、南部のマタベレランドに少しは金が出るものの、ラントほど豊かな鉱脈をどこにも期待出来ないことを知りました。そして、ローズとBSACは、金の採掘に代わる手段として、その地に住むアフリカ人から富を奪う道を模索し始めます。北部のマショナランドと南部のマタベレランドを合わせて南ローデシアと呼び、ローズやBSACに守られた入植者は、そこに住むンデベレ人とショナ人から家畜と土地を奪います。その後、強制労働や税金を強要して貨幣経済に巻き込み、アフリカ人を安価な労働力として最大限に利用出来る搾取構造を、系統的に打ちたてていくのです。

セシル・ローズ(「アフリカシリーズ」)

税金をかけられて払えない村人には、働ける者が現金収入を求めて都会に出ていくしか術はありません。都会では、家族を養えるだけの賃金も得られずに重労働を強いられ、劣悪な環境の中での惨めな生活を余儀なくされました。搾取構造がしっかりしている限り、白人側には絶えずアフリカ人の安価な労働力が確保されています。アフリカ人が貧しくなればなるほど、搾取する側はますます豊かになって行く仕組みです。

ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。

渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。

画像

子供たち、ゲーリーたちの土地を背に

1980年の独立を機に、ローデシアはジンバブエに、ソールズベリはハラレに、入植地を記念して名付けられたセシルスクウェアはアフリカンユニティスクウェアにそれぞれ改名されました。アフリカンユニテスクウェアは、ミークルズホテルや国会議事堂や英国国教会に囲まれた街の中心地にあり、今は市民の憩いの場として親しまれています。学生のアレックスが記念撮影の名所ですよと教えてくれました。公園の真ん中にある噴水の前で、私たちも何度かシャッターを切りました。

アフリカンユニティスクウェアで

大変な1日でしたが、暗くならないうちにゲイリーの家をあとにしました。別れ際に、車の陰で、2番目のメリティが泣きたい気持ちを必死に堪えようとしているのが目に入って来ました。別れが妙に切なく思えました。(宮崎大学医学部教員)

メリティと長女

執筆年

  2012年9月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」