2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した10回目の「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐

ツォゾォさん

子供たちと一緒にバスケットボールをしている時、通りかかった学生がよく声をかけてきました。ある日、3人でシュート練習をしていましたら、1人の大柄なショナ人の学生が、どこから来たんですかと気軽に聞いてきました。日本からですと答えますと、
私の方をまじまじと見つめながら、日本人でもバスケットボールをするんですねと言います。それから、こんな風にお辞儀するだけかと思ってましたよ、今まで見た日本人はたいていこうでしたからねと言いながら、腰を曲げて深々とお辞儀をしてみせてくれました。

ジンバブエ大学構内

その学生は、その後も子供たちを見かけると遠くの方からでもバスケットを一緒にしようと声をかけてくれました。日曜日にはたくさんの人が集まって練習しているから一緒にやりませんかとも誘ってくれました。間もなく子供たちの学校が始まったり、冬期休暇でキャンパスからすっかり学生が姿を消したりで、練習には一度も参加出来ませんでしたが、もう少し時間的な余裕があり、うまく時間が合っていれば、日本人がバスケットをする姿を見てもらえたのにと今でも心残りです。日本では、留学生や教員や学生といっしょに毎週試合をしていましたので、体力的には何とかやれたでしょうから。その学生とは一緒にやれませんでしたが、高校生くらいの青年とはしばらくの間一緒にプレイすることが出来ました。長女と2人でやっているのを近くでじっと見ていましたから、一緒にどうですかと声をかけたんですが、その青年は待っていたように2人に加わりました。コートはもちろんですが、ボール自体がなかなか手の届かない存在ですから、バスケットボールをする機会があまりないのでしょう。専門的にやったような動きではありませんでしたが、いかにも楽しそうに動いていました。じゃあ又ねと子供たちとも気軽に挨拶を交わして別れましたが、その人とはその時が一度きりのプレイとなりました。

今でこそ学生や教職員の大半がアフリカ人ですが、1980年の独立までは白人地区にある白人中心の大学だったそうですから、その名残りでもあるのでしょうか、バスケットコートに限らず、大学の施設を部外者が使うのはなかなか難しいようです。安易に許すと、人で溢れかえる可能性があるからでしょう。

バスケットコートを使い始めてしばらくした頃、ガードマンがやって来ました。許可証を見せて下さいと聞かれました。在外研究員で日本から来ましたと事情を説明しましたが、学校から正式に許可証をもらって下さい、そうでないと使えませんと強硬です。
一向に近くを離れそうにありませんので、仕方なく途中で止めざるを得ませんでしたが、外のコートを使うのに許可証を強く求められるとは夢にも思いませんでした。舗装されたコートが減るわけでもないのでしょうに。

歓迎されていないとはいえ、一応は大学の在外研究員でという話になっていますので、許可証くらいはすぐに出してもらえると高を括っていましたが、書類には時間がかかります。ミスタームランボに頼んでもツォゾォさんに頼んでも、いつも返事ばかりでした。

おそらく、ツォゾォさんが副学長補佐になるという時の偶然がなかったら、許可証は帰るまでもらえずじまいだったと思います。その思いはその場で感じた確信に近い実感です。ある日ツォゾォさんの部屋に行きましたら、表札がM・ムランボの名前に変わっています。2人部屋に居たムランボさんがお蔭で独立できたようです。きのう会ったとき、ツォゾォさんは何も言っていませんでしたが、一体どこへ行ったのでしょうか。

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ツォゾォさん

英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋でした。なるほど、ツォゾォさんは管理職に昇進したのか。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいます。しばらくすると、年配の男の人が紅茶を運んで来ました。専用係のようです。部屋にはコピーの機械まで備えつけられていますし、秘書はパソコンを使っていました。図書館では一台のコピー機の前に人の列が出来ていますし、一般には手動のタイプライターでさえ貴重品だというのに、です。

それから2、3日して、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しで8月12日付けの「ヘラルド」紙に次のような記事が掲載されました。

ジンバブウェ大学は今月の1日付けで、英語講師トンプソン・クンビライ・ツォゾォ氏を新副学長補佐に任命した。ツォゾォ氏の主な任務は、ゴードン・チャブンドゥカ教授の補佐として、ジンバブウェ大学内外の事情に精通することであり、精通すれば、大学と大学外の関係を改善するように副学長にも進言できる。45歳のツォゾォ氏は、1990年にスウェーデエン、デンマーク、ノールウェイ、フィンランド大使に任命されたンゴニ・チデヤ博士の後任である。
1984年からUZに勤務するツォゾォ氏は「このポストでの私の任務は、ジンバブウェ大学で行なわれている活動をうまく外部に伝え、大学のイメージを高めることであると思います。」と話している……

ジンバブウェ大学(UZ)

急に任務に燃え立ったというわけでもないのでしょうが、副学長補佐室に移ったその日に、学内施設が使えるようにという手紙を書いて、秘書にタイプ打ちを頼んでくれました。もちろん副学長補佐の署名入りです。その書類を持って係を訪ねたら、バスケットボールのコートだけでなく、テニスコートとプールまで使える許可証を即座に発行してくれました。ついでに図書館にも手紙を書いてくれて、その日のうちに二つもの許可証が手に入ってしまいました。図書館の許可証は、持って行った写真をホッチキスで留めただけのものですが、図書館のゴム印が押されているばかりか、れっきとした係の人の署名入りです。

「ヘラルド」はこの国の一大紙です。かなり大きな記事でしたから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのでしょう。ヨシ、ちょっとついて来いと言って、学内の小さな図書室にいる女性の所に案内してくれました。奥さんの妹さんだそうで、昇進の報告に来たということらしいです。

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ツォゾォさんと居合わせた職員

そこに居合わせた他の職員も含めて、わいわいと言いながら、如何にも嬉しそうなツォゾォさんと一緒に、5、6人で写真を撮りました。後日焼増しをして写真を届けに行きましたが、あなたは映りがいいとか悪いとか、ひとしきり写真の話で持ちきりでした。大学でも、写真を撮るのは一大行事なのです。(宮崎大学医学部教員)

ツォゾォさん

執筆年

  2012年4月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」(No.44)

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  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した9回目の「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

それから5日のちに、ゲイリーの家族がやって来ました。奥さんはフローレンス、男の子はウォルター、女の子は上がメリティ、下がメイビィと言います。すべて、英語の名前です。どうしてショナの名前ではないのでしょうか。メイビィは「多分」という意味なのでしょうか、名前としては初耳です。

ウォルターとメイビィ

フローレンスは鼻筋が通って、涼しそうな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちですが、私たちの子供たちは、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せないと言いますし、二人の方も日本語しか話せません。これから遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

フローレンス

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ますと、部屋に帰りかけています。どうするの?と聞きましたら、写真を取るんですから一帳羅に着替えて来ますという返事がかえって来ました。

ゲイリーたち

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってはみましたが、顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを動かさずによそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初めてですから、仕方がないのかも知れません。

しかし、日本から持ってきたフィルムが足りなくなってカメラ屋に行き、24枚撮りのフィルム1本が38ドルで、その焼増し料金が100ドル近くもすると知ったとき、気軽に笑えなかったはずだと思わずにはいられませんでした。写真を撮るのは、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールはすでに持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは169ドル99セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は189ドル99セントで優にゲイリーの月給を超えていました。

総じて、生活必需品でない品物は値段が高く、何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも50ドルもしました。硬式用のテニスボールを1個下さいと言って、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、1個35ドルでした。それでも、どのボールも充分に元が取れるほど子供たちには役に立っていたと思います。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようで、大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

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いっしょにボールを蹴る子供たち

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。日本からの2人にとっては最高の夏休み、ジンバブエのウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て5人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようですが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。
相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面に感情を表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女でした。お互いに感ずるところがあったのでしょうか、長女と一番近かったように思います。

メリティと長女長女

メイビィは茶目っ気たっぷりです。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれました。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩さず、表情はいつも真剣そのものでした。

メイビィ

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめでした。その態度は最後まで渝りませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも2人が庭に出てくるのを心待ちにしているようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、3人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。

最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインだったようです。子供たちを見ると、いつも大きな声で吠えるからです。陽気なメイビィも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込んでいました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えないで、アフリカ人を見ると吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、慣れているゲイリーとグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれた学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。

偵察(?)にきた中年女性やおばあさんを訪ねてきた男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人は吠えられませんでした。最初から吠えられなかった私たちはデインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があります。アパルトヘイト政権を支えるその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で高圧的、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えるとさえ言われるほどです。犬を借りてその偏狭性を表現したものでしょう。

デインを見ていると、そんな南アフリカの話を連想します。仔犬の時から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないかとさえ思えてきます。子供たちが5人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。そのせいでしょうか、休みが終わるころには、5人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになりました。

ゲイリーとデイン

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持っていった色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしましたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学2年生用の英語の教科書を持ってきて、6年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じたときには、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエでもサッカーが盛んです。ウォルターのボールの蹴り方を見ても、そのサッカー熱が伝わって来ます。人々の関心も想像以上に高く、大多数の人たちが食べるだけで精一杯の毎日ですから、せめて観て楽しもうと思うのも無理はないと思いました。
サッカーのナショナルチームに託す人々の思いも強く、観て楽しめるプロスポーツがそうあるわけではないようですので、外国との対抗試合はさながら国民のお祭りです。

ウォルター

8月16日の日曜日、国立競技場で南アフリカとの対抗試合が行なわれました。マンデラの釈放以来、南アフリカは徐々に国際社会にも復帰出来るようになって、今回のサッカーチームも、22年振りに国際試合への参加が叶い、アフリカカップのEグループの予選に飛行機で乗りこんできたというわけです。

その朝、ゲイリーとフローレンスが仲良く手をつないで台所の入り口に現われました。今日は南アフリカとのサッカーの試合があるので、テレビを見せてもらえないかと言っています。お安い御用で、さっそく二人を居間に案内し、どうぞと言って私は部屋を後にしました。

最初、ゲイリーは居間に入るとき、靴を脱ごうとしました。そんな必要はないよと言いましたら、にっこり笑ってそのまま上がってきました。今まで家に入る時は必ず靴を脱ぐように言われていたのでしょう。

ある日、テレビがあるのにどうして見ないのかとゲイリーから聞かれました。映りが悪いせいもありましたが、2局しかない国営放送は放映時間も短かく、内容が硬くてあまりおもしろくなかったからです。黒人霊歌やジャズに馴れている耳には、テレビから流れてくる音楽がどれも同じような曲に聞こえたせいもあります。それにテレビを見ている時間的な余裕もありませんでしたし。しかし、テレビがありながら見ようとはしない状況が、テレビやラジオなどの楽しみさえかなわないゲイリーには、納得出来ないようでした。

2時間ほどしてから部屋を覗いてみると、2人は黙って音の出ないテレビをじっと見つめていました。どうしたのと聞くと、色々やってみましたが音が出ないんですと言います。ずっと音なしで見ていたのと尋ねると、こっくりとうなずきました。そろそろ終わりも近いようで、ジンバブエが南アフリカを4対1で下したようです。ゲイリーもフローレンスも高揚しています。私は手を差し出して、ゲイリーとがっちりと握手しました。何もジンバブエが南アフリカに勝ったからといって、私までが喜ぶ理由は何も見当りませんが、ことの成り行きです。

この勝利によって、ザンビアなど他のチームとの得失点差次第で、94年にチュニジアで開催されるアフリカカップに代表として出場出来る可能性が大きくなったと、翌日の新聞で大々的に報じられていました。

フローレンスはスカートの上から、鮮やかな色の布を巻いています。洗って少し色が落ちているようですが、色といい鳥の図柄といい、なかなかアフリカ的な感じがします。それは何ですかと聞きましたら、手を拭いたり、座る時に広げて下に敷いたりする綿の布ですよとゲイリーが教えてくれました。エプロンや割烹着などの類です。赤ん坊を背中にくくり着けるのに使う時もあるようで、フローレンスがはずして見せてくれました。もともと北隣のザンビアやマラウィで使われていたらしく、ザンビアとかマラウィとか呼ばれているそうです。

ある日、妻がザンビアを着たフローレンスに絵のモデルになってもらえないかなと言い出しました。短期間の滞在でもありますし、子供と一緒なので何かと大変でしょうから、花のスケッチでも出来れば大満足と当初は考えていたようですが、フローレンスを見て、描いてみたいという気持ちが湧いてきた感じでした。スケッチした絵は毎日のようにゲイリーたちに見せに行っていましたので、フローレンスの方も絵には関心があったらしく、モデルになってくれませんかという依頼にまんざらでもなさそうな様子でした。

フローレンス(小島けい画)

体調が整わなかったりもして、フローレンスのスケッチを始めたのは、8月の終わりに近い頃でした。1週間のちには新学期が始まりますので、子供たちを田舎に連れて帰らなければいけませんとフローレンスは言います。お礼に10ドルを渡しました。日本ではとてもそんな値段でモデルさんには来てもらえませんが、この国では1日「メイド」をして働いてももらえない額なので、それで許してもらいました。時間給10ドルのモデルフローレンスの誕生です。

初めての経験ですので、フローレンスは相当緊張していましたが、慣れてくるに従って硬さも取れていきました。時折り通りすがりに私にからかわれてポーズを崩し、スケッチが中断される時もありましたが、二人とも真剣な様子でした。1日に1時間前後しか時間は取れませんでしたが、それでも予期せぬ幸運で有り難いことでした。

画像

フローレンス(小島けい画)

8月の最終土曜日に、お別れ会を計画しました。9月から学校が始まるとはいえ、子供たちにとっても遊び友達がいなくなるのは何よりもさびしいことです。お客様好きの子供たちが招待状を作り、前の日の夕方に4人でゲイリーの部屋まで届けに行きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2012年3月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」(No.43 )

ダウンロード・閲覧

  「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

グレートジンバブエ

長女と長男、遺跡を背に

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで来たのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観に行こうという気持ちが少しはありましたが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまい、親の方は遠出は止めようと言い出しました。しかし、子供たちの好奇心を押しとどめる術もなく、結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけました。

遺跡グレートジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは相当な距離があります。遺跡は南に300キロほど、滝は西に900キロ近くも離れています。今は乾期ですから、遺跡の方は大丈夫のようですが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にありますので、マラリアの危険がないわけではありません。入院する事態を想像すると、ますます億劫になります。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレートジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着きました。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、3733ドル、1人約933ドル、23000円あまりです。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいでしょうか。しかし、1000ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えません。

ジンバブエの地図

9月からは子供たちの学校も始まりますので、8月の半ばの土曜日に行くことにしました。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変です。家から空港まで20キロはあります。初めてでもありますので、8時過ぎの便に乗るには、6時くらいには家を出た方がよさそうです。タクシーの予約もしなければいけませんが、アフリカ時間が気にかかります。電話には慣れてきてはいましたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒ですので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしましょう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味があります。今後の参考にさせてもらおうと思います。

出発の朝です。アフリカ時間の心配は杞憂に終わりました。予定の6時きっかりにタクシーが来て、滑り出しは順調です。土曜日でもあり朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着きました。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想もしていませんでした。隙間といってもこぶし大はあります。石でも当たったのでしょうか。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っています。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないのですが、運転手の方は別に気にしている様子もありません。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンドブレイカーの衿を立てて震えています。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転出来ればいいという状態の車が多く、ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけません。その場合は運転手が気を遣って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれます。タイプは違いますが、一応は運転手による自動開閉式です。

国際空港もぱっとしませんでしたが、国内線の方は、更にぱっとせず、行けるのかなあと不安になるほどでした。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませました。

空港内で、日本からと思われる団体客を見かけました。ヴィクトリアの滝へ行くようです。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいました。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけています。4人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をつきました。

さあ、いよいよ出発です。飛行機は12人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッドエアと書いてあります。パイロットもアメリカ人のようで、乗客は12人、すべて外国人で、私たち以外は白人です。飛行機に弱い長男は前の席を希望しましたが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席でした。すでに、長男は酔わないかと身構えています。

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プロペラ機の前で

飛行機は飛び立ちました。小さいので音が大きく、会話も難しい状態です。目的地は南へ300キロのマシィンゴ空港です。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていました。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入って来ますが、湖や川などは一切見当りません。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていました。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じでした。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れませんでした。

1時間でマシィンゴ空港に着きました。出迎えの車が2台待っていましたが、自家用車です。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車3台で運ぶ、追って1台来るので待って欲しいと言われました。

小さな空港です。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意されました。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めました。よく事情はわかりませんが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめました。

10分ほどして、白人のおばあさんが迎えに来ました。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛スピードをあげて車は進みます。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いています。大抵は、大きな荷物を頭に乗せて歩いていました。グレートジンバブエまで28キロと案内書には書いてありましたが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着きました。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されていて、さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれました。子猿がいる!と子供たちがカメラを出しました。

一息ついたあと、グレートジンバブエに出発しました。運転手が若い女性に変わっています。名前をターニャと言い、休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で3時間ほどの所に住んでいるとのことでした。南アフリカは地続きだから、車で行ける、それにしても3時間とはえらい近いなあ、そんな思いが頭をかすめました。ここでは外国から来ても、必ずしも「海外から」とは言えないわけです。

遺跡

しばらくして、遺跡に着きました。小高い丘に、石造りの建造物があります。想像していたほどの威圧感は感じませんでした。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれましたが、説明を聞いてもあまりわからない3人は、ガイドから付かず離れずの別行動です。

ガイドの男性

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石を積み重ねて作られています。この辺りには、このような遺跡が150ほどもあり、ここが最大級のものだそうで、日本でも時たま特集番組で報じられたりしています。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたそうです。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまったと言われます。それでも、遺跡の中で発見された陶磁器から、ヨーロッパ人が入植する以前から、遠くインドや中国との国交があったと推測されています。イスラム商人が仲買人だったようで、その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るトワレグ人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われます。

はっきりとは断定出来ませんが、13世紀から15世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明しています。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうと言われています。

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長女、遺跡を背に

ひと通り見学し終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内されました。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せています。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりです。山羊だ!と長男が大声をあげました。しかしよく見てみますと牛です。この旱魃で、痩せ衰えているのです。新聞で同じような写真を見てはいましたが、山羊と間違えるとは思いませんでした。予想以上です。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見かけました。ダンプカーよりもはるかに大きく、荷台で上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっています。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているところをみると、多分サファリ用の車で、野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのでしょう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がしました。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻りましたが、帰りの足がありません。この時間帯には利用客がないからでしょう、タクシーが見当りません。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれました。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれましたので、有り難く便乗させてもらいました。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしく、大助かりです。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していました。降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われましたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りました。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、辺りはもう真っ暗でした。(宮崎大学医学部教員)

遺跡

執筆年

  2012年2月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」(No.42  2012年2月10日)

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  「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した7回目の「ジンバブエ滞在記 ⑦ホテル」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

7月の終わりに、家族でホリデイインに行きました。
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ハラレの街

ハラレに来てから11日目、一応何とか落ち着いたところで、そろそろ味の新天地を開拓しようというわけです。アメリカには何度か行ってホリデイインにも泊まっていましたので、あの「ホリデイイン」ならジンバブエ風の味よりは馴染めるだろう、そんな思いがあったと思います。妻も子供たちも何年か前に、ハワイやサンフランシスコで食べた料理に自分の思いを重ねているようでした。4人がそれぞれ抱いていた味への幻想は、最初のポタージュスープで見事に打ち砕かれてしまいました。スープに限らず、オムレツもカレーもハンバーグもパイもコーヒーも、しっかりとジンバブエ風味でした。4人が取り合って食べたのは、じゃが芋の丸焼きだけです。4人で114ドル、1人7000円余り、ゲイリーの給料の額を聞いていただけに、何だか済まないような気がしました。外は真っ暗です。
白人街住宅地
暗くなってからの帰宅は初めてでしたが、ホテルの前のタクシーが4人を家まで無事に送り届けてくれました。いつもなら消えている筈のゲイリーの部屋の電気が、その日はまだ灯っていました。4日後、今度はシェラトンに挑戦しました。ホリデイインは4つ星ですが、シェラトンは、ミークルズ、モノマタパと並んでハラレでは最高級の5つ星のホテルです。

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ミークルズホテルを背に

玄関で、鮮やかな赤の制服を着たアフリカ人の案内係が、にこにこしながらコンニチワとたどたどしい日本語で挨拶をして来ました。日本人の出入りが多いのでしょう。内部はなかなか豪華です。これなら、マンハッタンのシェラトンと較べても見劣りはしません。1階奥のレストランから中庭のプールで泳いでいる泊まり客が見えます。冬とはいっても日差しが強く、昼間の温度が20数度にもなるのでいつでも泳げるのです。1品の料理メニューもありますが、目で見ながら選べるバイキング形式の料理も並んでいます。これなら好きなものを選べそうです。お米に芯が残ってはいますが、料理はまずまずです。パンの味も悪くありませんし、デザートのプリンやババロアやケーキなども豪華です。子供たちはオレンジジュース、大人の方はグラスワインとビールを取って、4人ともお腹一杯になるまで詰め込みました。久しぶりの満足感です。従業員はアフリカ人ですが、客は外国人が大半です。日本人と思しき商社員が白人と食事をしています。味も、外国人向けというところでしょうか。それもそのはずです。
4人で189ドル20セント、一回の昼食代がゲイリーの月給の額を超えてしまっています。ゲイリー、ごめんなさい。宿泊料金の方も一流です。一泊がアメリカドルで150ドル前後、約750ジンバブエドルにもなります。食事もするとなれば、1000ドルでは済まないでしょう。

吉國さんの話では、工場や店で働く人で300ドル、タクシーの運転手で600から700ドル、高級取りの部類に入る白人秘書で2000ドルほどの月給だそうですから、大多数のアフリカ人が1ヵ月働いても手に入らない金額を、このホテルでは一晩で使ってしまうわけです。外国人の観光客は、外貨獲得の為の国の貴重な収入源です。その収入源を確保するためには、国も最優先して設備を整えます。ですからその一区画だけは、言わば外国の延長といってもいいでしょう。旱魃とも無縁です。ホテルのロビーにいますと、水不足や食料不足などの連日の新聞報道が嘘のように思えて来ます。

ハラレの街

国としては、旱魃に対する国外からの援助も期待したいですし、かといって過剰な報道によって観光客を失なうのも困ります。8月10日の「ヘラルド」紙の「観光客を不安にさせてはならない」という見出しの社説は、そんな苦しい胸の内を明かしています。英国の旅行ジャーナリストは自らジンバブエに来て、大旱魃にもかかわらず、我が国の観光産業が如何に「正常である」かを自分の目で確かめるべきである。そうすれば、ヴィクトリアの滝が、現に音を立てて水飛沫をあげているのがわかるはずである。ライオンだって、一部の地域では多少痩せ気味ではあるが、それでもなお、他の動物を威圧しながら、悠然と歩いている……
欧州や米国やアジアでは、人々は我が国に対して全く違ったイメージを描いている。それらの地域では、食料不足や水不足、或いは電力不足によって頻繁に起こる停電のために、休業に追いやられるホテルが続出していると報じられている……
人や動物が多数死につつあるとも報じられている。アフリカ南部でも、エチオピアやスーダンに似た状況が迫りつつあるとも言われている。だから、ジンバブエに旅行するのは狂気の沙汰だというのである。この国に来れば、旱魃があるのは現実だが、以前と同じように観光地が充分に憩いの場を提供しているのが観光客にはわかるはずである……
同様に、国が非常に困難な状況にありながら、国民に対して必要最低限の食べ物を供給する最善の努力をしていることにも気づくに違いない……

高い利益をあげるジンバブエの観光産業が、このまま知恵を絞ることなくだめになってしまえば、食料を供給しようとしている政府の懸命の努力も水の泡になってしまう。我が国には食料も要るし、観光客も必要である。両者のバランスを如何にうまく保っていくかが、この困難な時局にこの国には要求されているのである。

この国の直面する窮状をよそに、4人はお腹を一杯にして帰ってきましたが、借家が見つからずにホテル住まいをしていたら、ハラレもアフリカもきっと違った風に映っていたでしょう。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2012年1月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」(No.41)

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「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」