2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文

ジンバブ大学② ツォゾォさん

ハラレで暮らし始めてからしばらく経ったころ、「在外研究の計画を練りなおしてください」という手紙が舞いこんだ。日本を発ったあとに届いたジンバブエ大学からのもので、同僚の機転で転送されてきたのである。すでに家を借りて生活を始めているのに、まさかそんな手紙が日本から転送されてこようとは夢にも思わなかった。直接差出し人のツォゾォさんの部屋を訪ねたら、授業中だった。授業を中断して出てきたツォゾォさんと、科長室(CHAIRMAN)と書かれた狭い部屋で、二時間ほどは話していただろうか。しかし、七月七日の手紙を意に介している様子はなく、最後まで、手紙の遅れを詫びる言葉はなかった。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

こうして、ツォゾォさんの部屋に通う日々が始まった。

ある日ツォゾォさんの部屋に行ったら、表札の名前が変っていた。英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋だった。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいる。部屋にはコピー機まであり、秘書はパソコンを使っていた。図書館では一台のコピー機の前に人の列ができるし、手動のタイプライターでさえ貴重品だというのにである。それから二、三日後、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しの記事が「ヘラルド」に掲載された。「ヘラルド」はこの国の一大日刊紙である。かなり大きな記事だから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのだろう。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうだった。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくあった。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていた。インタビューを録音しているときなどは、何度もテープを止めなければならなかった。

「演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブウェに戻るか、迷いました」とも言う。

「大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですか」と尋ねたら、「ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよ」と言っていた。そう言えば、ツォゾォさんは「自分の車」に乗っている。それまであまり意識はしなかったが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのである。

「独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブウェを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですね」と言ったら、「まったくそのとおりですよ」とツォゾォさんが頷いた。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていた。

授業風景は日本の大学とはいささか違う。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっているが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはなかった。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もあるが、もう少し現実的な事情もある。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がない。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまう。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかない。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのである。質のよくないノートにインクの出方の悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのである。

しかし、演劇の授業はやや趣が違った。歌あり、演技指導ありである。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操をする。円になって踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせる。手拍子を取り、歌いながらである。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていた。発声のための体馴らしでもある例年十月に授業の集大成として公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていた。

十月四日の公演にはぜひ来てくださいと学生から言われていたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいない。何もなければ、パリにいるはずだった。

 

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんが生まれた1947年は第二次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期である。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていた。

ツォゾォさんは国の南東部にある小さな村で生まれた。その村には、第二次大戦の影響もほとんど及ばなかったと言う。

広大なアフリカ大陸である。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていた訳ではない。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会〓クランを形成し、一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめてきたという。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれたので、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。

ツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていた)に入学した1968年頃の社会情勢は非常に緊迫していた。1965年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからである。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていった。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていた。その政策によってツォゾォさんもジンバブウェ大学入学が可能になったという訳である。(大学案内によれば、入学者数は初年度1957年が68人、独立時の1980年が2240人、1990年が9300人となっている。ツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた1992年でも、学生総数は約一万人だと言われていたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かである)

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれている。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、1971年までの学生時代の三年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けた。

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていた。大学は白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言う。

学生1500百人のうち五分の一の300人がアフリカ人であったそうだが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、1971年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうである。その時は逮捕はされなかったものの、警察と激しく衝突したという。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾した。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えた。

 

1976年になると、アメリカが介入の手を延ばし始める。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからである。

アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返された。そして、1979年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立した。

翌年の1980年2月の選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、四月にはZANUのムガベを首班とする黒人政権が誕生した。

しかし合意された最終案は、白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまった。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わらなかったので、大半のアフリカ人の生活は苦しいままであった。

独立闘争での働きも大きかったので、ツォゾォさんは、新政権の下で重用されている。1984年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まった。1986年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、二年間で演劇と映画の学位を取ったそうである。帰国後、1992年の8月に副学長補佐に昇進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77ペイジ

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ジンバブエ大学② ツォゾさん

2000~09年の執筆物

概要

ジンバブエ大学の英語の授業で出会ったアレックス。教育学部3年生で、住んでいる学生寮に案内してくれ、友人も紹介してくれました。相性がよかったのか、いろんな話をして、アフリカ人の住むムバレにも案内してくれ、インタビューにも応じてくれました。長女と長男の英語の相手をしてくれ、長男とはカンフーのアチョーというかけ声をかけながら楽しそうに戯れたりしていました。卒業後は外国に出稼ぎに行くと行ってたけど、どうしてるかなあ。

本文

ジンバブ大学 ①  アレックス

ツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では五人の学生が授業を受けていたが、その中にアレックスがいた。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドゥルネイムのアレックスが英語の名前である。

アレックスと仲よしになったのは、偶然である。

教育学部棟を背景に

 アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていた映画・映像に関する特殊講義だった。

教育学部棟

 2回目の授業の時、ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出ていった。学生は1時間ほどして戻ってきたが、処女作の出来栄えが気になるらしく、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出した。

映画・映像に関する特殊講義のツォゾォさん

 私も誘われて、約束の金曜日の2時に、ツォゾォさんの部屋まで出かけて行った。しかし、半時間が過ぎても、人の気配がない。ツォゾォさんの部屋も閉まったままである。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わした。

ムタンデといっしょに

 階段の踊り場で、話をしながら三人でしばらく待ってみたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せなかった。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれた。

構内のアレックス

 図書館や管理棟や学生会館に案内してくれた。会館の入り口で、アイスキャンディを買い、三人は食べながら並んで歩いた。3本で、3ドル程度だったように思う。

ジンバブエ大学構内

 それから、アレックスが住んでいる寮に案内された。最上級の3年生用の寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで一時田舎の自宅に帰るらしい。机とベッドが備え付けられた狭い部屋だが、日当たりもよく清潔な感じである。3食付きで、共同のシャワーがあると言う。

学生寮ニューホール

 部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあった。

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスがいう。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多い。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変なのである。もちろん誘った私が払うつもりでいたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出した。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにした。

帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれた。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと話したら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですと言う。コーラの値段を聞いたら、中身は一本75セント(20円足らず)ですと教えてくれた。

長男に英語を

 アレックスとは色々な話をした。

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが言う。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えた。

寮でアレックスは、何人かの友人を紹介してくれた。それぞれ国中から集まってきた精鋭だが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいた。街には日本のメイカーの自動車が溢れているし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにである。

かっこいいジョージ(小島けい画)

 アメリカのニンジャ映画の影響らしい。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこだねと説明したら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言う。

しかし考えてみると、実質的に国内唯一の総合大学ですらこうなのだから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自らの利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいだろう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしみついている。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言う。周りの者も頷いている。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが怒りだした。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのである。

アレックスと

 車中心のこの社会では、車は必需品には違いないが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思った。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えた。

アレックスの生い立ち

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りの田舎で生まれた。田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようで、学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行ったそうだ。

中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活は小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした」と続けた。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった1979年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……」

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、1990年から大学に通うようになった。

借家内でアレックスと

 アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べるとという意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の一人が辞任した1989年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……」と私が話し始めると「それは実際には少し違います」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

ウォークマンで尾崎豊を聴くアレックス

 独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。

お昼に行ったシェラトンで従業員の人といっしょに

 最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪えているようだった。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです」と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの記事が掲載されていた。

記事では、アレックスの指摘した税金の重さについての言及はなかったが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

アレックスのい従姉妹と長女と、スクエア・ガーデンで

 私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104ペイジ

「ごんどわな」22号

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ジンバブエ大学① アレックス

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は、借りた家の家主に雇われていたゲイリーの家族の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 四  ゲイリーの家族  玉田吉行

家族

ハラレに暮らし始めてから一ヶ月ほど経ったある日、ゲイリーの家族がやって来ました。普段は侘びしい一人暮らしのゲイリーと一緒に冬休みを過ごすためです。奥さんはフローレンス、長男はウォルター、長女がメリティ、次女がメイビィです。すべて英語の名前、どうしてショナ語ではないんだろう、メイビィは「多分」という意味なのか。考えれば、おかしな名前です。名前としては初耳です。

フローレンスは鼻筋が通っていて、涼しげな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちです。私の長女と長男は、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せませんし、二人の方も日本語しか話せません。遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ると、部屋に帰りかけています。どうするのと聞いたら、写真を撮るのですから一帳羅に着替えて来ますということでした。

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってみても顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを固定し、よそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初対面だから仕方がないのかなとも思いましたが、フィルムがなくなってカメラ屋に行き、二十四枚撮りのフィルム一本が三十八ドルで、その焼増し料が百ドル近くもすると知った時、気軽に笑えなかった理由がわかったような気がしました。写真を撮るのも、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはいないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールは既に持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは百六十九ドル九十九セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は百八十九ドル九十九セントでゲイリーの月給を優に超えていました。総じて、生活必需品ではないこういった品物の値段は高いようです。何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも五十ドルくらいでした。硬式用のテニスボールを一個下さいといって、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、一個三十五ドルでした。どのボールも充分に元が取れるほど、子供たちには役に立っていました。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようでした。大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

冬休み・夏休み

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。北半球から来た二人にとっては最高の夏休み、南半球にいるウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て五人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようでが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面には感情をそう表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女です。お互いに感ずるところがあるのか、長女と一番近かったように思います。メイビィは茶目っ気たっぷりでした。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれます。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度も何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩しませんでした。表情はいつも真剣そのものだったのです。

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめで、最後まで変わりませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも二人が庭に出てくるのをじっと待っていたようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、三人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインでした。ゲイリーの子供たちを見ると、デインはいつも大きな声で吠えるのです。陽気なメイビイも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込みました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えませんが、アフリカ人を見ると必ず吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、ボーイとして働くゲイリーと元メイドのグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれたジンバブエ大学の学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。家主のスイス人のおばあさんの親戚だという中年女性や男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人にはデインは吠えませんでした。最初から吠えられなかった私たちは、デインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があって、アパルトヘイト政権を支えたその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えると言われたそうです。犬を借りて、極右翼のアフリカーナーの偏狭性を表現したものでしょうが、デインを見ていると、そんな南アフリカの話を思い出しました。恐らく仔犬の頃から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないでしょうか。子供たちが五人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。その甲斐があったのでしょうか、休みが終わる頃には、五人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになっていました。

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持って来た色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学二年生用の英語の教科書を持ってきて、六年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じた時には、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエ大学の学生から、日本には街にニンジャが走っていますかと真顔で聞かれましたが、ウォルターとメリティとメイビィが大きくなった時、そんな質問はしないような気がしました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です)

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「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」 (255KB)

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は大遺跡グレート・ジンバブエに行った時の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ  玉田吉行

グレート・ジンバブエ

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで行くのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観にいこうという気持ちがなくもなかったが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまって、親の方は遠出は止めようと言い出した。しかし、子供の好奇心は押しとどめようがない。結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけた。

遺跡グレート・ジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは遠い。遺跡は南に三百キロほど、滝は西に九百キロ近くも離れている。今は乾期だから、遺跡の方は大丈夫のようだが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にあるので、マラリアの危険がないわけではない。入院する事態を想像すると、ますます億劫になる。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレート・ジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着いた。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、三千七百三十三ドル、一人約九百三十三ドル、二万三千円あまりである。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいだろうか。しかし、千ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えない。

九月からは子供たちの学校も始まるので、八月の半ばの土曜日に行くことにした。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変である。家から空港まで二十キロはあるし初めてでもあるので、八時過ぎの便に乗るには六時くらいには家を出た方がよさそうだ。タクシーの予約もしなければならないが、アフリカ時間が気にかかる。電話には慣れてきたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒なので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしよう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味がある。今後の参考にさせてもらおう。

出発の朝である。アフリカ時間の心配は杞憂に終わった。予定の六時きっかりにタクシーがきて、滑りだしは順調である。土曜日でもあるし朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着いた。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想していなかった。隙間といってもこぶし大はある。石でも当たったのだろう。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っている。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないが、運転手の方は別に気にしている様子もない。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンド・ブレイカーの衿を立てて震えている。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転できればいいという状態の車が多い。ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけない。その場合は運転手が気を使って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれる。タイプは違うが、一応は運転手による自動開閉式である。

国際空港もぱっとしなかったが、国内線のほうは、もうひとつぱっとしなかった。行けるのかなあと不安になるほどだった。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませた。

空港内で、日本からと思われる団体客を見た。ヴィクトリアの滝へ行くらしい。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいた。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけている。四人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をついた。

さあ、いよいよ出発である。

飛行機は十二人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッド・エアと書いてある。パイロットもアメリカ人のようだ。乗客は十二人、すべて外国人で、私たち以外は白人である。飛行機に弱い長男は前の席を希望したが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席になった。すでに、長男は酔わないかと身構えている。

飛行機は飛び立った。小さいので音が大きく、会話も難しい。目的地は南へ三百キロのマシィンゴ空港である。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていた。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入ってくるが、湖や川などは一切見当らない。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていた。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じだった。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れなかった。 一時間でマシィンゴ空港に着いた。出迎えの車が二台待っていたが、自家用車である。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車三台で運ぶ、追って一台来るので待って欲しいという。

小さな空港である。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意された。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めた。よく事情はわからないが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめた。十分ほどして、白人のおばあさんが迎えにきた。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛ピードをあげて車は進む。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いている。頭に大きな荷物を乗せている人が多かった。グレート・ジンバブウェまで二十八キロと案内書には書いてあるが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着いた。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されている。さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれた。子猿がいる!と子供たちがカメラを出した。

一息ついたあと、グレート・ジンバブウェに出発した。運転手が若い女性に変わっている。休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で三時間ほどの所に住んでいるらしい。ターニャという。南アフリカは地続きだから、車で行けるのか。それにしても、三時間とは近いものだ。ここでは外国から来ても、必ずしも海外からとは言えないわけである。

しばらくして、遺跡に着いた。小高い丘に、石造りの建造物がある。想像していたほどの威圧感はない。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれる。説明を聞いてもあまりわからない三人は、ガイドから付かず離れずの別行動である。

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石が積み重ねられて作られている。この辺りには、このような遺跡が百五十ほどもあって、ここが最大級のものである。日本でも時たま特集番組で報じられたりしている。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたと聞く。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまった。それでも、遺跡の中で発見された陶器から、ヨーロッパ人が到来する以前より、遠くインドや中国との国交があったと推測されている。おそらく、イスラム商人が仲買人だったようだ。その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るベルベル人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われる。

はっきりとは断定出来ないが、十三世紀から十五世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明している。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうという。

ひと通り見終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内された。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せている。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりだ。山羊だと、長男が大声をあげた。しかしよく見ると牛である。この旱魃で、痩せ衰えているのだ。新聞で同じような写真を見てはいたが、山羊と間違えるとは思わなかった。予想以上である。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見た。ダンプカーよりもはるかに大きい。上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっている。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているから、多分サファリ用の車だろう。野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのだろう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がした。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻ったが、帰りの足がない。この時間帯には利用客がないからだろう、タクシーが見当らない。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれた。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれたので、有り難く便乗させてもらった。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしい。大助かりである。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していた。

降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りた。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、もう辺りは真っ暗だった。

 

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です)

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