2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した6回目の「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

1日目は、吉國さんの奥さんが買って下さった食べ物で大助かりでしたが、2日目からは自分たちで食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、4人は地図をたよりに、セカンドストリートショッピングセンターに向けて出発しました。地図で見ると1キロほどですから、歩いて20分ほどの距離ですが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車はスピードを出しますし、道路を渡るのも命懸けに思えましたから、かなり遠くまで来たような気分でした。

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自転車で買い物に

おまけにたくさん買い込みましたので荷物が重く、帰りは余計に遠く感じられました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまで買ってしまい、運ぶのが大変でした。人数は四4人いても、平等とは限りません。人は生まれながらにして平等などというのは真っ赤な嘘で、「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ(種田山頭火)」です。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの必需品は大体半分から3分の1程度の値段です。例えば、この日買った英国風のパンは、日本のトースト用のパン2斤くらいの大きさですが、3ドルで80円足らずでした。選べば1ドルから2ドルくらいのもありました。ビールは小瓶よりやや小さ目ですが、2ドル足らずです。それも半分は瓶代ですから、1本が30円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も1ドル以下で、ビールよりも安い値段でした。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ると、スプライト類2本で1ドル90セント、紅茶2杯3ドル20セント計5ドル10セント、合わせて130円ほどです。空港での割高を差し引いても、かなりの安さでした。

街中で

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の2倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエの人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です。」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か2ヵ月半の間に目に見えて値上がりし、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくんだろうと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。タオルや文房具類は、日本と同じか高めでした。質の方はかなり落ちます。特に、紙の質はひどいもので、厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを2足買って来ましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、3日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも1足53ドル1300円ほどの値段でした。

5日目に、近くの国立植物園まで4人でスケッチに出かけました。広い敷地です。小学校と違ってフェンスはなく、入り口に次のような掲示がありました。
「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

長女、植物園の前で

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。花は期待していなかったのですが、所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

4日目に自転車が来て、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、2台の自転車にそれぞれ2人乗りして、4キロほど離れたアヴォンデイルショッピングセンターに買い出しに行きました。

植物園の前で

吉國さんに教えてもらった持ち帰りの中華料理を買うのも目的のひとつでした。中国人が経営している店らしく、ジンバブエでは持ち帰りを英国風にテイクアウェイと言いますが、その店はテイクアウェイ専門でした。年配の中国人らしい人がレジに座り、中の調理場のショナ人に横柄な口をきいています。注文した料理が出来上がるまで、色々と話しかけてきました。どこから来たか、何をしているかなどです。そのあと、アメリカドルを持っていないか、持っていたら替えてくれないかと聞いて来ました。ないわけではありませんでしたが、今回はやめておこうと思いました。

「中華料理といっても、あのじいさん、中国を離れてから何十年にもなりますから、味もジンバブエ化してますな。」という吉國さんの解説通り、味の方は油や塩加減がジンバブエ風(?)にも思えましたが、2つずつ買った焼き飯に焼きそばはなんとかいけそうでした。

4人は家まで待てずに、ショッピングセンター横の空き地で、食べ物を広げて食べ始めました。白人もアフリカ人も、道端に食べ物を広げて食べたりはしないようなので、自転車を空き地にとめて、日本人4人がテイクアウェイの中華料理を囲んでいる図は、
道往くアフリカ人の目にはさぞかし珍妙な光景と映ったに違いありません。

ハラレでは出前もなく持ち帰りも少ないので、この中華料理屋さんには、このあとも何度か世話になりました。レジの中国人のじいさんは、行く度にアメリカドルはないかと聞いて来ました。あまりしつこいので、にやっと笑って「いつも同じ質問ですね。」
と言ったら、それ以降2度とアメリカドルの話はしなくなりました。しかし、隅におけないじいさんで、平気な顔でレジを打ち間違え、余分にふっかけて来ました。何度も同じ説明をしたら、やっと向こうが折れて引き下がりましたが、危うく騙されるところでした。しかし、自分の計算間違いなど、どこ吹く風です。お蔭で数字の訓練をみっちりさせてもらいましたが、お金の計算を英語で説明するのもなかなか骨が折れます。

自転車の性能がすこぶる悪く、漕いでも漕いでも、ペダルを踏む分の七割か八割ほどしか進まないような気がしました。サドルはやたらに高いし、帰り道は登り坂、後ろに子供、前に荷物、これ以上の条件はありません。

案の定、自転車は故障しました。この日、いざ出発と心高らかに家を出たとたんに、長女が自転車の荷台から転げ落ちました。大事に至らなくてよかったのですが、突然でしたのでびっくりしてしまいました。サドルの下を見ると、荷台を留めておく止め金が2本とも外れています。初めから止め金がついていないとは思いもしませんでした。長女が落ちたのは大きい自転車からですが、その自転車、ある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。調べてみると、右のペダルの根元の止め金が取れています。家までまだ3キロほど残っていましたので、左側片方のペダルだけで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話すと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買って来てくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込みましたが、大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかしながら、こんな部品が走っている間に取れたりするものなのでしょうか。それでも何とか走るようになりました。日本に帰ってからその部分を調べてみたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれているようでした。これなら外れる心配も要りません。

街中で

子供用の自転車も、ある日ショッピングセンターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてしまいました。パンクといっても、タイヤが裂けてしまっています。また3キロの道が待っていました。今回は、押して帰るしか術がありませんでした。幸い前輪だったので取り外し、タクシーを呼んで、買ったマニカサイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明したら、新しいのと取り替えてくれました。それなら、初めから新しいのを着けてくれれば良かったものを。

自転車での買物は、あの地域ではやはり場違いだったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語の挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさを感じたことはありません。ただ、自転車の前篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかと、よくねだられました。しかし執拗さはなく、断ると何もなかったように去って行きました。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況を普段見かけることはありません。スーパーで買物が出来る白人や、ひと握りの金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。大半のアフリカ人は、時には玉蜀黍の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品をいれた小さな袋を持っているだけです。そう言えば、グレースが生ごみを入れてあるナイロン袋からわざわざごみを出し、洗って持って帰っていたのを思い出します。たくさん買わない限りもらえないのですから、ナイロン袋も粗末には出来ないわけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しく思えてきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいきませんでした。

スーパーでも、アフリカ人の店員が荷物を当然のように運ぼうとするので、断るのが大変でした。断るのにチップを払う場面がよくありましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンドストリートのスーパーでは、こちらが断っているのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。こちらが悪いわけではないのでしょうが、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣うことになりました。出来るだけ遠くに自転車を置くのですが、それでも目敏く見つけて近づいて来るのには閉口しました。足も悪いのだし、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくないという思いが先に立ちました。

街中で

ただでさえ気を遣いますので、食欲も衰えがちになります。体力が落ちると病気にやられる心配もあり、いかに食欲を維持するかは、大きな問題でした。

「アフリカに来るとなればいろいろ身構えて、食器や電化製品、日本の装飾品、食品、日用品などありとあらゆる品をそろえてやって来る人が普通ですが、その人たちはここに来てなお、日本の生活をしたい人達です。身ひとつでこちらに来られる方は、まずは、自分の身を保証するものからご準備なさればよいかと思います……日本食品も、これが切れると苦しいといったものをどうぞ、みそ、しょうゆなどは必需品です。」という吉國さんの奥さんの助言に従って、荷物を減らして来ましたが、味噌や醤油や茶などは何よりの貴重品でした。トランクが1つ増えて奥さんを困惑させてしまいましたが、無理をして大きな荷物を持ってきた甲斐があったと思いました。

ソースも醤油風のソイソースも、ケチャップもマヨネーズも、カレー粉までも味が違います。同じ味は塩くらいでした。空気も予想以上に乾燥していますし、9月には小学校も始まりますし、醤油がなかったら食欲が落ちなかったかどうか。味噌は1ヵ月ほどで切れてしまいましたが、何とか最後まで持ちこたえた醤油の方は、ロンドンで買い込んだ分も含めて大いに役に立ちました。

日本や中国のような大根などはありませんが、材料なら大概揃いました。2週間目くらいに、餃子を作って食べました。カナダの小さな町で作ったときは、葱とミンチ肉が手に入りませんでしたが、今回は他に、キャベツ、大蒜、生姜、胡椒、塩、ラードに至るまで、材料はみんな揃いました。餃子皮は望むべくもないので、小麦粉で一から作ることにしました。

餃子作りも大変
何とかそれらしきものが出来上がりました。無事に食べられたのは醤油のお蔭です。ゲイリーに試食してもらいましたら、神妙な顔つきで食べていました。
5日目には米を見つけて、早速翌日から食べ始めました。中国からの輸入米らしく、その日見つけたのは1キロ約5ドル120円あまりの米でした。品数は少なく、売場に米が見当らない時もありました。米粒がかなり砕けていて、たくさんの石が混じっています。その日から、炊く前に石の選り分けをするという仕事がまた一つ増えました。予想以上に時間がかかります。ここでは、毎日ご飯を食べるのも大仕事です。九月に入って、街の大きな店の片隅で、2キロ入りくらいで35ドル900円ほどの米の袋を見つけました。パンなどに較べると高級品です。今まで見つけた中では一番質のよさそうな米でした。お蔭で、石取り作業の負担が軽くなりました。(宮崎大学医学部教員)
植物園前で

執筆年

2011年12月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑥買物」(No.40 2011年12月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑥買物」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した5回目の「ジンバブエ滞在記 ⑤バケツ一杯の湯」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯

ゲイリーの一日の仕事は、デインの世話から始まります。陽が昇る少し前に起きて、玄関のデインの寝床の古びた毛布と、ドッグフードの入った容器を車庫の横に片づけます。庭の手入れは、先ず門の外の枯葉の掃き掃除から始めます。7時過ぎには、牛乳配達の人が牛乳を満載したカートを押してやって来ます。ゲイリーとは顔馴染みのようで、重そうなカートを毎回門の中に預かっています。配達している間に、ごっそりと盗まれてしまう危険性が高いからでしょう。配達される瓶牛乳も懐かしく思えて、日曜日を除く毎朝、ゲイリーに買ってもらうことにしました。1本30円ほどでした。牧畜の盛んな国だけあって、味もなかなかのものでした。

ゲイリー(小島けい画)

それから、玄関先の植木や草花に水をやります。ホースの届かないところは如露を使います。新聞では今世紀最大の旱魃と報じられていましたが、この辺りは水不足には縁がないようで、ゲイリーもたっぷりと水を撒き、隣の家先の芝生では、散水器がくるりくるりと回り続けていました。

10時くらいに、食事の支度に取りかかります。朝と昼を兼ねた食事のようで、食事が済むと、自分の部屋と野菜園の間に鉄製の庭椅子を置いて、本や新聞を見ながらのんびりと休みます。そのうち、顔に新聞を乗せて昼寝を始めます。

目が覚めたら、またのんびりと水撒きにかかります。東寄りの芝生に散水器をかけておいて、垣根には別なホースで、花には如露で水をやり、菜園にはホースで朝と夕方に水をかけます。菜園にはレタスや青野菜と玉葱などが植えられていました。

ゲイリーの菜園

あとは、まだ明るいうちに夕食を済ませ、日が暮れるころにデインの毛布とえさを用意して、ゲイリーの一日の仕事は終わります。

自分の買物がある時や、何か街に用事のある時以外、ゲイリーは敷地内のどこかに居ます。敷地内にいて家の番をするのが一番の仕事のようでした。
「得体の知れぬ日本人をそれとなく見張って、定期的にスイスまで報告の手紙を書くように、何かあれば妹に連絡するように。」、おそらくそんな風に言われていた見張り役のゲイリーと私たちがすっかり仲良しになってしまったので、おばあさんの筋書きどおりには事は運ばなかったようです。おばあさんの妹さんは、そのあと間もなくして姿を現わしました。その後も一週間おきに顔を出し、門の所でゲイリーに何かを手渡していました。

実は毎週、給料とデインのえさ代を持って来ているんです、とゲイリーが教えてくれました。ゲイリーの給料は月に170ドル約4200円、月末に支払われ、これでも今のハラレでは、仕事があるだけ、住む部屋があるだけましなんですとゲイリーは言います。

デイン

私たちが払った航空運賃は1人52万円、ゲイリーの給料の約10年分です。これでは自分の国が住み難いからと言っても、外国に逃れる術はありません。ラ・グーマなど、亡命を果たせた人たちは、極く少数の選ばれた人たちだったわけです。

それではデインのえさ代は?と聞くと、1日に5ドル、週単位に持って来るそうでした。「偵察」もあるし、えさ代を全額渡せば持ち逃げされないとも限らない、か。週に35ドル、30日だと150ドルになります。一人の大人が24時間拘束されている月額とほぼ同じです。

「リディキュラス!」とゲイリーが呟いていました。車のクラクションが鳴れば飛んで行きますし、銀行へ行けと言われれば黙って出かけもしますが、いつも心の中で「リディキュラス!(嘲笑ってしまうほど)馬鹿げている!」とゲイリーは呟いていたのでしょう。

デインと

ゲイリーは、大体いつも同じ身なりでした。服は所々破れ、靴は履き古されていました。洗濯のために他の服を着ている時もありましたが、やはり同じような質の服でした。それでもゲイリーの方から、何かを求めてきたりはせず、その姿勢は終始変わりませんでした。私たちがゲイリーの「雇い主」ではなかったから当たり前なのかもしれませんが、想像に難くないゲイリーの経済状況を考え、気苦労の絶えないグレイスとの関係と比較すれば、その生き方は尚更希有なものに思えました。ただ一度だけ、台所にバケツを持って現われて、お湯を一杯もらえませんかと言ったことがあります。後にも先にもゲイリーから頼まれたのはそれだけです。一番寒い、明け方は数度しかなかった気温の低い日だったと思います。

ゲイリー、自転車で

ゲイリーの寝泊りしている部屋を見せてもらいました。コンクリートの狭い二つの部屋は陽当たりの悪い南西の方角にあり、寒々としていました。ベッドもなく、奥の部屋でコンクリートの床の上に直かに質の悪そうな毛布を敷いて寝るようでした。それぞれの部屋に裸電球が天井からぶら下がっていましたが、コンセントはありませんでした。電気を「無駄には」使わせないという方針なのでしょう。従って、電熱器などの電気製品はありません。小型のコンロが一台置いてあるだけでした。燃料は灯油で、自前なのだそうです。ラ・グーマの小説に出てくるプライマス・ストーヴと同じタイプの暖房用兼炊事用の携帯用コンロです。

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集めたマルベリーと携帯用コンロ

入り口の所に、水道栓がひとつあります。その蛇口を使って、畑の水撒きや炊事や洗濯をしますが、排水の設備はありません。いつも汚水がたまったままでした。ゲイリーは毎日、お風呂代わりに水で体を洗っているようでしが、水の冷たさに耐えかねて、その日、台所にバケツを持って現われたというわけです。

ゲイリーは、それでも卑屈な態度は見せませんでした。私自身も卑屈になるのは嫌なので、ゲイリーの態度は好ましく思えました。親子の巡り合わせも偶然に過ぎません。家族や友人同士でも、それぞれ好みも資質も違うのだし、やれる方がやればいい、
お金もある方が出せばいい、今までそんな風に暮らして来ましたから、ゲイリーに媚びる態度がない限り、出来る範囲で付き合いをしていこうと考えました。

その日の夕方から、誰かがゲイリーの部屋にバケツ一杯のお湯を届けるのが家族の日課になりました。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリーと

執筆年

2011年11月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」(No.39)

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「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記 ④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国

ジンバブエ大学

次は大学です。日本経由の手紙を、吉國さんの奥さんが届けて下さったのは、4日目の朝でした。

「前略
1992年1月27日付けの貴殿の手紙が今日私の机に届きましたので、あなたがジンバブエに来られるための手配をする時間が十分にないように思われます。どの国の場合もそうですが、外国人が入国する際には、手続きに時間がかかります。
従いまして、貴殿の計画を新しく練りなおして下さるようお手紙を差し上げている次第です。敬具
7月7日 英語科科長代行トンプソン・ツォゾォ」

既に受け取っていた「貴殿の当大学での在外研究を歓迎いたします。」という英語科からの手紙を信じて日本でも手続きを済ませてやってきたわけです。

無事に税関を通り抜け、既に家を借りて生活も始めています。まさかそんな手紙が日本に送られ、その手紙が転送されていようとは夢にも思いませんでした。「予期せぬ事態」も次々と起こるし、小学校、教育省、移民局、市役所や銀行にも足を運ばねばならず、大学に出かけたのは二週目の半ばを過ぎてからで、直接、T・K・TSODZOと書かれた部屋の戸を叩きました。授業中なのか、部屋の中に数人の学生の姿が見えます。人懐っこいアフリカ人の顔が現われました。この人がツォゾォさんに違いない。私の名前を告げると、一瞬困惑の表情が浮かぶ。きっと、7月7日に書いた手紙を思い出したのでしょう。

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ジンバブエ大学キャンパス
ツォゾォさんは学生に何やら指示を与えてから部屋を出て、ついて来て下さいと言う。廊下を少し歩いて行くと、そこは英語科の部屋でした。事務員の若い3人のアフリカ人女性に紹介を済ませたあと、ツォゾォさんは、さあどうぞと別室に私を招じ入れてくれました。狭い部屋です。ドアには科長室と書かれていました。
教育省や移民局などで鍛えられて、少しは英語に慣れてきていたせいか、ツォゾォさんの陽気な冗舌に誘われてでしょうか、私の方も言葉が滑らかに出てきました。二時間ほど話をしましたが、例の手紙を意に介している様子はありませんでしたし、手紙の遅れを詫びる言葉もありませんでした。
「来れば誰でも大歓迎ですよ。」
辛うじて、大学の方も一段落したようです。
ツォゾォさん
白人街アレクサンドラパークは白人街で、アメリカ映画「遠い夜明け」の世界です。幅の広い道路に大きな街路樹、プールやテニスコート付きの広い家……借りた家にはプールやテニスコートはありませんでしたが、両隣にはプールが、南側の家には、夜間照明つきのテニスコートがありました。泥棒にも3分の理と言いますが、白人街に住むアフリカ人が仮に盗みを働いたとしても、アフリカ人に5分の理があると感じました。ある場合には、9分の理すらあると思えるほど、持てる白人と持たざるアフリカ人との格差が大きく見えました。基本的に、車中心の街で車に乗るのは白人、歩くのはアフリカ人です。1980年の独立以降、白人街の家一軒分にも相当するベンツを乗り回すアフリカ人もいます。しかし、それは体制側にいる一握りの「白人化」したアフリカ人で、大半のアフリカ人には車は無論のこと、自転車を持つ余裕もありません。
白人街住宅地
「ここは車(金持ち)が歩行者(貧乏人)をけ散らして走るのが普通ですから……。」という吉國さんの手紙の内容は、まさにその通りでした。うっかり歩行者優先などと思っていると、大変な目に遭ってしまいます。車が最優先なのです。歩行者用の青信号の短かいこと、青になったとたんにもう点滅が始まっていると思えるほどでした。老人や身体の不自由な人は、到底信号は渡れません。乗用車に限らず、車は猛スピードを上げて走ります。広い道路を渡るのも命懸けだと最初は思いましたが、慣れるとそれほどの緊張感を持たずに道路を渡れるようになります。歩く方も、知恵を絞ります。

少し広い空き地には、蜘蛛の巣のように小道が出来ています。長い距離を少しでも縮めるためです。ほとんどの白人は、家の中に入るまで車を降りようとはしません。門の前まで来ると、クラクションを鳴らします。その音ですぐに「庭師」か「メイド」が走り出てきて、門の鍵を開けるのです。車を車庫に入れている間に「庭師」か「メイド」が鍵を閉めて、車庫に急ぎます。荷物があれば「庭師」か「メイド」が家の中に運びこみます。スーパーでも、買物の重い荷物を運ぶのは店員のアフリカ人で、白人は当然のように表情も変えず、わずかなチップを渡すだけです。

玄関正面には警備会社の掲示(実際は契約していなかったよう)

鍵の国

入居の日に、吉國さんの奥さんから、鍵の束といっしょに陶器の食器から銀のスプーンに至るまでの調度品の明細が書かれている用紙の分厚い束を渡されました。家主にしてみれば、独立以来風向きも変わって住みづらくなってきた今、家を貸して大金も欲しい、かといって我が家の宝ものを盗まれるのもかなわない、そんな心の葛藤に苦しんだ末に、この明細書を書いたのでしょう。家にある品物はどれも古くて趣味の悪いものばかりです。保証金2000ドルを取っていても、おばあさんの目には、日本はよほど未開で、野蛮な国と映っているようです。

500坪の借家

鍵の束は、重いものでした。普段出入りする門、玄関、居間、台所の鍵の他にも何本かの鍵がついていて、そのひとつひとつが大きいのです。鍵を使って、まず玄関に入ります。ドアにはチェーンロックと鍵穴の上下に2つ止め金がついている四重式です。
2畳ほどの空間に、電話台が置いてあり、左は寝室と風呂、トイレ、正面は食堂、右手は居間に通じていますが、それぞれの戸に鍵穴があるのです。どのドアも、内と外の両側から鍵がかけられるようになっていました。机にはどの抽出にも鍵がかかっています。台所では、冷蔵庫にまで鍵がついていました。

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白人地区アレクサンドラパークで借りた一軒家の門

家の中だけではありません。街のいたるところ、鍵、鍵、鍵です。レストランのトイレではトイレットペーパーにまで鍵がかかっていました。兼好法師ではありませんが、この鍵なからましかば、と溜息が出てきました。

大学では、ツォゾォさんも大きな鍵の束を持っていました。机の鍵を開けて、抽出の中からビデオテープを取り出した時には、ビデオテープが貴重品であるのを肌で感じました。窓の鉄格子と鍵を束ねる大きな金の輪には、最後まで馴染めませんでした。ある日、台所の戸棚を開けて、またびっくりです。透明のナイロン袋に入った20個から30個はあると思われる鍵の山が見つかったのです。台所の違う箇所にも、居間の机の引き戸の中にも、同じような鍵が入っていました。使いふるしなのか、予備の鍵なのかは分かりませんでしたが、一度にそんなにたくさんの鍵を見た経験がなかったので、何か見てはならない暗部を覗き見る思いでした。

鍵だけではありません。
一番大きな寝室の厚板ガラスの1枚を除いて、すべての窓に鉄製の格子が取り付けられていたのです。監獄のようなものでなく、花柄の模様が多かったのですが、確かに格子です。外からの侵入者を防げるかも知れませんが、中からも出られません。警察とは別に、その地区全体で私設のガードマンも雇っているようですし、玄関には「24時間警備会社と契約中」の掲示もあります。

部屋にはすべて格子戸

敷地内には見張り役の「庭師」や「番犬」もいますし、大きな塀もあります。生き垣の下には金網も張ってありますし、あちらにもこちらにも鍵がかけられています。それでも窓には格子です。私には白い花柄の鉄格子が、穏やかな言葉を操りながら、残虐な侵略行為を朝飯前にやってのけた英国人入植者の分身に思えてなりませんでした。

デインと

1日24時間扱き使われて「130ドル」では、車を盗もうと思っても不思議ではありません。うまく捌ければ、何年分ものお金にもなります。自転車なら更に盗み易く、鍵など掛かっていても、担いでいけばいいのです。自転車を停めて、ちょっとよそ見をして振り向くと、自転車がなくなっていた、といっても冗談ではないほどの状況でした。大学でも状況は同じで、廊下や部屋の中まで自転車を持ち込む光景を何度も見かけました。私も買物に行ったときは、標識の鉄柱か店の横の鉄柵か金網に、大学では階段の鉄の手摺りか鉄の支柱にチェーンロックをかけましたが、わびしい思いが先に立ちました。

門には電灯もブザーもありません。必要性がないからです。危険なので夜間外出は差し控えますし、仮に出掛けても客が来ても、門の前でクラクションを鳴らせば、誰かが呼べるのです。車の中にいる限りは「安全」なのですから。

門の前で、アフリカ人が口笛を吹く光景をよく見かけました。ブザーがないから、広い敷地内の片隅にいる「庭師」や家の中「メイド」を呼び出していたのです。垣根越しの会話もよく見かけました。縁者でも恋人でも、中に入れてはもらえないようでした。
口笛で合図を送って呼び出せても、門をはさんでの会話が許されるだけとは切ない限りです。

そんな中で生活していると、生い茂る街路樹や聳える大木は、初期の入植者たちが、理不尽な侵略で荒んだ心とアフリカ人への恐怖心を和らげるために植え付けたのではないかと思えてなりませんでした。(宮崎大学医学部教員)

ジャカランダの咲く街中

執筆年

2011年10月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」(No.38)

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「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した3回目の「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車 」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車

突然の訪問者

暮らし始めると、予期せぬ事態が起きるものです。

借家の門

第2日目、「玄関に誰か来てるよ。」という長男の声に起こされました。8時過ぎです。朝早くから誰だろう、そう考えながら玄関を開けてみると、すらっとしたショナ人らしき女の人が立っていました。突然のことで事態がよく飲みこめませんでしたが、育ち盛りの男の子が3人いるんです、今度来る人に雇ってもらえるから今日来るようにとここのおばあさんから言われました、と言っているようでした。取り敢えず10ドル(当時は1ジンバブエドルが25円程度でした。)を手渡して、引き取ってもらいましたが、また吉國さんに相談するしかなさそうです。

翌3日目の朝、昨日よりも早い時間です。

「玄関で何か言ってるよ。」という長男の声で戸を開けると、今度は中年の品の悪そうな白人女性です。車を置いてもらおうと中に入れたらエンストしてしまった、夫に連絡を取りたいから、電話を貸してほしいという事情のようでした。うまく夫に連絡がつきましたと言い、車に乗り込んでそそくさと帰って行きました。さては、おばあさんの偵察隊?

次は8日目、7月28日のことです。

10時過ぎにYAMAHAのバイクに乗ったおじさんが突然やって来ました。電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ、明日からでも電気を切るぞと脅しているようです。市役所か郵便局で、明日までに200ドルを払え、24時間は待ってやる、そうでないと、薪の生活だとにやにや笑っています。翌日、無事払い込んで郵便局で言われたように、市役所に電話をして、支払いを済ませた旨を告げると、その領収書を持って明日来るようにとの返事、何のために行くのかと尋ねたら、来られるでしょうの一言で電話は切れてしまいました。

借家

翌朝、市役所に係の人を尋ねて受け取りを見せたら、「いいですよ」の一言、何がいいものか。こっちは電話をかけるのも大変なのに……大体、支所の係の者が電話を1本入れれば済むことじゃないか。あとから吉國さんに確かめたところによると、ジンバブエでは電気を引く際には保障金(ディポジット)が必要で、電気を切った時には、払い込んだお金は戻ってくるとのことでした。おばあさんは電気を引く際に、保障金を払わなかったようです。支払いなどに関するデータは、すべてコンピューターに入力されるとのことでしたが、入力するコンピューター自体の性能がよくないので、半年後とか、1年後に突然こういった事態が起こり得るのだそうです。ともかく、電気を切られる事態だけは免れたようでした。

街中

今度は、生活にも慣れ始めた8月15日です。

朝早く、突然大きなトラックが進入してきました。
作業服を着た2人の青年が、ゲイリーと何やらショナ語で大声の会話を交わしています。ゲイリーの説明によると、家具のレンタル会社が、契約が切れたので、食堂のダイニングセットを引き取りに来たようです。しかし、突然椅子と食卓を持って帰ると言われても……。何回かのやり取りの末、何とか私たちがこの家を離れる次の日に、改めて引き取りに来てもらうことに落ち着きました。「独り暮らしだから、普段あそこは使ってなかったんでしょう。家を人に貸すことになって、ダイニングセットくらいは入れておかないとでも思ったんでしょうね。古き良き植民地時代にいい目をしたローデシアばあさんの一種の見栄ですな。」と吉國さんが説明して下さいましたが、何とも中途半端な契約をしたものです。

小学校

4日目、アレクサンドラパーク小学校に行きました。
中学2年生の長女と小学校4年生の長男を受け入れてもらうためです。9月から始まる3学期の最初の1ヵ月しか学校には通えませんし、英語もわかりませんが、2人には又とはない貴重な機会を最大限に生かして欲しいと考えていました。校長は、私たちより少し若そうなショナ人で、黙って事情を聞いたあと、本当に2人分のお金をお支払いになりますかと何回も念を押します。

アレクサンドラパーク小学校で

3学期分に1人当たり、授業料など約500ドルが必要だそうで、12500円ほどです。貴重な経験が出来ると思えば、高くはありません。「何とか空きがありますから、お姉さんは7年生に、弟さんの方は3年生に入ってもらいましょう、この手紙を持って教育省に行き、許可証を貰ってからもう一度学校に来て下さい。」と言う校長から手紙をもらいましたが、
「あそこの小学校の教員で七、八百から1000ドル、校長でも1500ドルの月給はもらってないでしょう。」という吉國さんの話を聞いた時、校長が念を押した理由に気づきました。実際に学校に通うためには、授業料などの他に経費も必要で、わずか1ヵ月のために大金を払ってまで子供を学校に通わせる理由が、校長には見当がつかなかったのでしょう。吉國さんの話によれば、1980年の独立以来、無償だった小学校が、2年前から有償になっているようでした。白人地区に住むアフリカ人の子供を同じ学校に通わせたくないための措置だそうで、植民地時代の良き思い出を捨てきれない反動勢力の巻き返しといったところでしょうか。制服が買えないで学校に行けないアフリカ人も多いと聞くのに、1学期に500ドルも一体誰が払えるというのでしょうか。そういった事情があるにしろ、校長も好意的な感じでしたし、まだ決まったわけではありませんが、先ずは一安心、週明けに教育省に行けば手続きも、予想していたよりは簡単に済みそうでした。しかし、実際にはそううまくは行きませんでした。

校長と

月曜日の朝、教育省に行きました。建物に入ると、長い人の列、入場者は手荷物検査を受けていて、なかなか順番がまわって来ません。小学校の入学の許可証をもらうだけなのに手荷物まで検査されるとは。受け付けで指示された部屋に行き、一から事情を説明すると、分かったから次の人のところへ行けということです。
今度は女性で、また、一から説明です。少し時間はかかりましたが、やはり分かりましたと言い、教育省の便箋にタイプを打って書類を作ってくれました。正式な許可証のようです。これを持って移民局に行って下さいと言います。書類を見ると、移民局長から出されている貴殿の在外研究員許可証に従って、小学校への入学許可を認めると書いてありました。

担任と

さて、次は移民局です。何人もの人に場所を尋ねて、移民局に辿り着くと、また長蛇の列で、一時間以上待たされました。やっと順番が来て、また一からの説明です。

「以下のものを揃えて来て下さい。
 それぞれの子供に対する校長からの推薦状2通、
 子供のレントゲン撮影の公立病院での証明書2通、
 親の承諾書1通、
 保証人の推薦状1通、
 外国通貨で経費を支払える証明書1通、
 登録費1人151ドル2名分302ドル。
よろしいですか。はい、次の方。」

それで終わりでした。
病院を探し出し、子供たちを連れてレントゲンンの撮影に行かなければならないと思うだけで気が滅入ってきます。

街中

その夜はただ疲れ果てて、何もせずに寝てしまいました。
その後2日間は学校に出向く気が起こりませんでしたが、3日後に意を決して妻と2人で、再び校長を訪ねました。今までの経緯を説明し、移民局からたくさんの提出物を求められましたが、来たばかりの私たちには子供を病院に連れて行くのも大変です、校長の裁量で何とかなりませんか、わずか一ヵ月のことでもありますし、お金はきちんとお支払いしますからと目を見据えながら訴えました。これから先の手続きの煩わしさを考えたら、もし効き目があるものなら少々の寄付金を出してもいいとさえ思ったほどです。その思いが通じたのか、しばらく考えたあと、校長は「分かりました、移民局は無視しましょう。学校から手紙を出しますから、その手紙が着いたら、郵便局で経費を支払い、領収書を持って学校へ来て下さい。そのからもう一度、学校から手紙を出します。そのあとは、PTA会費を払ったらそれで完了です。それでどうですか。」と言います。それなら、最初からそのように取りはからってくれればよかったのに……。

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長男とクラスメイト、アレクサンドラパーク小学校にて

自転車

小学校の次は、足の確保です。

教育省に出かけた日に、電話で申しこんで初めてタクシーに乗りました。「公共運輸施設はほぼ無いとお考えください。タクシーは当てにならないし……。」と聞いていましたが、充分に利用出来そうです。窓ガラスの一部が壊れていたり、ドアの把手がないこともありますが、ショナ人の運転手も人が良さそうですし、料金も格段に安いようです。車中心の白人街には、小売店はなく、広い市街地にショッピングセンターが点在しているだけです。買物にも大学にも、自転車は必要なようです。

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敷地内で中古自転車に乗る長女

4日目、街まで自転車を買いに行きました。
マニカサイクルという店のフロアには、玩具や遊具と一緒に自転車が並べられており、1台1500ドル前後の値札がついていました。事情を説明すると、それなら中古車がいいでしょう、帰る時には引き取りますよと店主が薦めてくれます。結局、中古自転車を2台買うことにしました。1台2万円足らず、性能はあまりよくなさそうでしたが、2ヵ月半、何とか持ちこたえてくれますようにと祈るしかありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

街中で

執筆年

2011年9月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記 ③突然の訪問者・小学校・自転車」(モンド通信No. 37)

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「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」