2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した14回目の「ジンバブエ滞在⑭ ルカリロ小学校」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ルカリロ小学校

お別れ会では甥の友達に車を頼もうという話になっていましたが、ゲイリーは信用していなかったようで、新聞広告に出ているレンタカー会社に直接電話をして、予め1人で手続きに行く日を決めていました。私たちを連れて子供たちに会いに行きたいという思いが、それだけ強かったのでしょう。

出発日の3日前に、タクシーを呼んでゲーリーと2人でレンタカー会社に出かけました。VISAカードを保証金代わりに使って、手続きは簡単に済みました。車を返す時に、ガソリン代や超過料金も含めて精算するそうです。運転手つき10人乗りのミニバスだそうで、契約書では、運転手に35ドル支払うようになっています。全体で1000ドル程です。ゲイリーには大変な額ですが、運転手付きで終日契約ですから、約2万5000円は高くはないと思いました。

9月17日木曜日、予定より40分ほど遅れて車が到着しました。白の新しいワンピースを着たフローレンスは身も心も軽そうで、ゲイリーもネクタイを締めていつになくきめています。2人は明らかに小学校を訪れる保護者の装いです。メイビィも新品のワンピースを身につけ、赤い靴を履いてすましています。

私たちの方は、ウォルターとメリティに会い、うまく行けば2人のクラスに顔でも出せればという軽い気持でしたので、普段着のままでした。

運転手はケニーという青年でした。車はISUZUの10人乗りのワゴン車で、タクシーとは違って新しく、エアコンやカーステレオまでついています。

記念撮影のあと、車は快調に走り出しました。一番奥に陣取ったゲイリーとフローレンスの顔からは笑みがこぼれています。街中を抜けて、渇いた大地が続きます。所々に、土か煉瓦造りの壁に草葺き屋根の小屋が見えます。さっそくカメラを構えました。そばではゲイリーがにやにやと笑っています。

ショナ語では小屋風の建物はインバ(IMBA)と呼ばれています。日本や西洋で言う一軒の家(HOUSE)ではなく、両親の寝室用のインバ、居間用のインバ、子供用のインバなどのような、それぞれの独立した建物を指すようです。ジンバブエの名前は、非常に大きなと言う意味のジ(ZI)とこのインバと石を意味するブエ(BE)が集まったもので、大きな石の建物という意味だそうです。

インバ(小島けい画)

南アフリカでは都市部のアフリカ人居住地区をタウンシップ、田舎の居住地区をロケイションと呼んでいるようですが、この国では、都市部のアフリカ人居住地区がロケイションと呼ばれ、タウンシップは田舎地方で商店が集まった1区画を指すようです。

途中で1度、そのタウンシップに立ち寄って、みんなの飲み物を買いました。ゲイリーは家に持って帰る食料や飲み物などを買いこんでいたようです。

出発後1時間半ほどして、ゲイリーの家に着きました。ウォルターとメリティをハラレまで迎えにきたゲイリーのお母さんをはじめ、10数人の縁者と思しき人たちが出迎えて下さいました。よく見ますと、ゲイリーの家も小屋風の建物(インバ)でした。
道理で写真を撮っている時に、ゲイリーがにやにやしていたはずです。こういうことなら、走る車の中から何もわざわざ写真など撮らなかったのに、ゲイリーも人が悪い。

予定より遅れ気味ですからとゲイリーに急かされて、みんなを乗せたワゴン車は、急いでルカリロ小学校に向かいました。

そんな筈ではなかったのに……。車のドアを開けたら、人だらけでした。外に出ると小学生のかわいい黒い手が次々と差し出されています。握手攻めです。横を見ますと、妻も子供たちも初めての経験に戸惑いながら、まんざらでもなさそうな顔つきで握手の求めに応じています。1日皇室を引き受けたら、こんな感じでしょうか。

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ルカリロ小学校の子供たち

教師と思われる人が現われて、子供たちを蹴散らしています。そんなに乱暴に扱わなくてもいいものをと眺めていましたら、校長らしい人物が登場して、丁寧な歓迎の挨拶を受けました。見れば、全校生徒のお出迎えです。300人以上はいるでしょうか。

初めに校長室に案内されました。床土がむき出しの狭い部屋で、ムガベ大統領の写真が掲げられています。例によって、先ずは記念撮影です。

校長室に案内されて

そのあと、校舎の中を回りました。建てかけの煉瓦造りの建物があります。資金不足でこれ以上は作業が進まないのだそうです。一通り、教室などを見て回りました。もちろん教室にも電気はありませんし、地面の床はでこぼこで、全体にみすぼらしい感じです。白人地区の小学校に比べれば、すべての施設がはるかに見劣りします。政府の予算が都市部の開発に集中して、農村部にあまり回らないのは、ジンバブエでも他のアフリカ諸国と同じ状況のようです。

そのあと案内された所は、運動場に設けられた来賓席でした。授業をやめて、私たちを迎えて全校あげての大歓迎会を計画したというわけです。

私たちがこの村ムレワにとっての初めての外国人訪問客だったのは光栄の至りですが、木陰には両親や村の人たちまで、たくさんの人たちが集まっています。まるで村のお祭りです。もう一度、こんな筈ではなかったのだがと思ってはみましたが、今となっては後の祭りです。今更、来賓席から逃げ出すわけにも行きません。観念して来賓席に座りました。校長から短かい挨拶があったあと、さっそく歓迎会が始りました。

来賓席で

太鼓を抱えた5人の女の子がさっと前に出て、棒切れを使って太鼓を鳴らし始めました。くり抜いた大きな木に、獣の皮を張りつけた手製の太鼓で、皮は牛か山羊でしょうか。ひょうたんで作った打楽器オーショを手に持っている生徒もいます。軽快なリズムと巧みな手さばきが独特です。太鼓を合図に、体育の教師に先導された体操服の生徒が弾むように入場して来ました。4年生か5年生あたりでしょうか、全員裸足です。女の子による太鼓と教師の笛に合わせて、体操演技が繰り広げられました。リズム感があって、腰の切れがなかなかです。小さい頃から、踊る機会も多いのでしょう。広大なサバンナによく似合っています。

手製の太鼓で

今度は、きれいな音楽の教師に先導された6年生がしとやかに入って来ました。ウォルターが神妙な顔をしています。来賓席には、日本の友だちと両親、それに自分の両親と妹が座っていますので、やや緊張気味です。澄んだコーラスを聞かせてくれました。さすがに上級生です。

音楽の教師に先導されて

各学年の出し物が続きます。歌や踊りの他に、英語の詩の暗唱というのもありました。1人ずつ交替で前に進み出て、マザーイズクッキング……アイアムルッキングなどとやるのですが、小さな頃から英語をたたき込まれているようです。声が小さな生徒は、校長から「もう一度」の声がかかります。見るからに人の良さそうな校長も、この時ばかりは怖そうです。中には生れつき声の小さな人だっているはずなのに、どうして無理やり大声を出させるのだろう、見ていて、気の毒になってきました。

乾燥しきった大地に、烈しい風が吹いています。木陰に座っていますと、寒いほどです。強い風にあおられた砂埃のせいで、喉がいがいがします。生徒は地べたに座って演技に見入っています。近づいて写真を撮るときに気づいたのですが、鼻をぐすぐすさせたり、空咳をしている生徒が予想外に多く、洟を垂らしている生徒もいます。暖かいのにと以外な感じもしましたが、貧しい暮らしの中では、充分な衛生状態を維持するのも難しいのでしょう。

演技は2時間ほど続きました。来年1年生になるプリスクールの生徒まで登場して歌を歌ってくれました。終わり頃に、来賓と職員だけに貴重品のファンタやコーラが配られました。全校生徒の目が一斉に飲み物の瓶に集中します。たくさんの大きな目に下から見つめられて飲むのも勇気が要るものです。妻も子供たちも、申し訳程度に口をつけています。全く口をつけないのも失礼だし、かと言って全部飲むのも気がひけるし、となかなか難しい状況でした。

何を思い着いたのか、校長は体育の教師を呼び付けて、もう一度体操演技をやれと言い出しました。歓迎の意を更に表してというつもりなのでしょうが、最初の場面からの再現です。

体操演技

体操演技の途中で、感極まったのでしょか、木の下の保護者席から聖歌隊用の赤い服をきたおばさんが飛び出してきました。踊りながら、若い体育の教師に10ドル紙幣をプレゼントしようとしています。観衆からは、やんやの喝采です。体育の教師は照れながらその10ドルを受け取りました。後で聞いたところでは、その青年は教育実習生で、間もなく大学に戻るということでした。

すべての演技が終わりました。

歓迎会の終わりは、生徒、職員、保護者、村の人など、参加者全員による大合唱でした。音楽の教師の指揮でイシェコンボレリアフリカの大合唱が始まりました。映画の中の集会の場面でコシシケレリアフリカの大合唱を聴いたことはありますが、目の前でその同じ曲が聴けるとは夢にも思っていませんでした。400人の大合唱はさすがに迫力があります。ゆったりとしたメロディーが、広々とした大地に木霊しました。

保護者、村の人など

それから校長が壷を抱えて立ち上がりました。私たちへの贈り物です。中には、木の実で作ったネックレスが入っています。相当に大きな壷です。壷の首の部分に、鮮やかな色の模様が描かれています。

こんな予定ではなかったのですが、手持ちのボールペンや鉛筆などの文房具とキャンディをお返しに手渡しました。17人いると聞いていた教員とウォルターとメリティのクラスの人たちにと用意してきた贈り物です。もう少し余計に用意しておけばよかったと思いましたが、今更どう仕様もありません。

そのあと400人の視線が一斉に私に向けられました。

マシィカティと私は大声を張り上げました。「こんにちは」と言うショナ語です。残念ながら、その後をショナ語では続けられません。こんなことなら、ショナ語を教えてもらっている学生のアレックスに頼んで準備しておくんだったなあ、折角の機会だったのに。

何をしゃべったのか正確には覚えていませんが、歓迎へのお礼や、子供たちがウォルターとメリティの大の仲良しだということや、教師に苛められて長女が学校を辞めた経緯や、道で会った心優しいショナの人たちなどの話をしたあと、白人に侵略され、負の遺産を背負わされた現状は厳しいでしょうが、優れた歴史や民族性に誇りを持って下さい、と締めくくったような気がします。最後のあたりはもう、日本国を代表しての演説です。少々お世辞も混じっていた感じもしますが、あんなにたくさんの目が一心に注がれる中で、しかも母国語では話せなかったのですから、あれが精一杯だったような思もします。

やっと終わったと思いましたが、それからがまた大変でした。ゲイリーが得意げに請け負ったのでしょう。各クラスの記念写真をと、それぞれのクラスが準備を始めています。全校生の19クラスに父兄、プリスクールの3クラス、職員、学校の教会の聖歌隊と続きます。あまり経験がなさそうなので無理もありませんが、たいていのクラスが太陽を背に勢揃いです。

クラス集合写真

逆光の説明も英語ではなかなか骨が折れます。暗い室内で並んでいるクラスもあります。電池の残りがあとわずかでしたので、大部分のクラスは外に並んでもらいました。前の日に街で電池を買ってはいましたが、すぐに使えなくなってしまうのです。もっと大量に買いこんでおけばよかったのですが、買う時にはまさか写真屋さんになるとは思ってもいませんでしたから。

後で焼き増しをして判ったのですが、暗い室内で撮ったのが1番映りがいいのです。黒い肌の人を撮るには、外の光では強すぎたようで、現像された写真を見ますと、光が反射し過ぎるか色が濃すぎるかで、顔がわかりにくい場合が多いのです。日本人と同じように考えていつものように何気なく写真を撮ったのですが、写真の光で肌の色の違いを改めて知ったのは新発見でした。

最後に、みんなで1枚撮ってくれと言います。みんなで1枚と気軽に言われても、300人もの人を一体どうやって1枚の写真に収めるというのでしょう。辺りを見回しました。あそこしかないでしょう。造りかけの教室の煉瓦の壁の上です。登ってみれば、1枚に収められるかも知れません。ちょうど足場も組まれたままです。ここまできたら、登るしかないでしょう。二階の高さほどの煉瓦の上に立って全校生を眺めおろしながらカメラを構える姿は、どこから見てもプロのカメラマンでした。(宮崎大学医学部教員)

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ルカリロ小学校の約300人の人たち

執筆年

2012年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑭ルカリロ小学校」(No.48)

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「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した13回目の「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

制服の好きな国

ジンバブエは制服の大好きな国です。いまだに学生服やセイラー服を脱げないでいる日本も相当なものですが、それでもジンバブエには勝てません。制服が買えないために学校に行けないアフリカ人も相当いるようです。

長男、クラスのみんなと

街角や白人街を歩いていますと、至る所で迷彩色の軍服や、職工や「庭師」などが着せられている青色のつなぎの服が目に飛び込んで来ます。制服は、アフリカ人=安い労働力という社会の一面を象徴する代名詞でもあります。

小学校の大変な交渉も終わり、あとはPTAの会費を払って制服や必要最低限の持ち物を買えば、子供たちも9月からやっと学校に通える、そう考えていました。しかしジンバンブエの現実は、またもやそう甘くはありませんでした。新学期が始まる前の週の月曜日に、学校までPTA会費を払いに行き、売店に立ち寄りました。売店とは言っても、再利用出来る品物を小さな部屋に並べているだけのものです。係のPTA会員が不用になった制服などを洗い直したり、繕ったりして必要な人に安く提供する便宜をはかっているようです。サイズが合えば安上がりですが、品数が非常に少なく、長男のネクタイが手に入っただけでした。アヴォンデイルショッピングセンターのスーパーにも制服類が置いてあると言われて、後日行ってみましたが見当らず、結局、街のバーバーズという高級デパートまで出かけなければなりませんでした。

バーバーズの前で

靴、ハイソックス、帽子、毛糸のセーターが男女共通で、そのほかに、男子はカーキ色のシャツと半ズボン、女子は水色のワンピースを着用しなければなりません。しめて470ドルです。これなら、法律では許されていても、白人地域に住んでいる「庭師」や「メイド」は、自分たちの子弟を学校に通わせようがありません。白人側の締め出し作戦は、大成功というわけです。

年令より1年歳下の7年生にいれてもらった長女は、1番大きなサイズでも肩幅が窮屈だと言います。新学期の前日だったので、無理を言って寸法直しをしてもらったものの、サイズが合わないとは思ってもいませんでした。

1番大きなサイズを目一杯広げてもらっても、やはり肩幅がきつそうです。明日はもう新学期が始まりますから、1日目は肩の縫い目をはずしてでも我慢するしかないでしょう。ただし、肩がぱかっと開いていますので、日中どんなに暑くても毛のセーターを脱ぐわけにはいきません。明日の朝、校長に事情を話してみれば、なんとかなるかも知れません。わずかですが、ブラウスにプリーツスカートの生徒もいたようですし、あの制服が認められるのなら、サイズの融通もきくでしょう。

翌朝、さっそく出かけて校長に事情を説明しましたが、プリーツスカートは選ばれた級長しか着られないから、今のままで我慢するか、特別に注文するかしかありませんな、とそっけない返事です。

長男と校長

後で知ったのですが、独立した今でも、校長にだけは生徒を殴る権利が法律で「保障」されているそうです。ひと目で教師に分かるように級長には他の生徒と違う制服を着せているのですと言う校長の態度が、いやに横柄に思えました。

またバーバーズ行きです。特別注文は普通なら1ヵ月はかかりますと言われましたが、縫製係の女性に直接会って事情を説明しましたら、何とか3日後には仕上げてあげましょうと約束してくれました。学校が終わるのを待って、その日のうちに長女を採寸に連れていきました。

しかし、苦労の末にやっと出来上がってきた新しい制服も、哀れ1日の命でした。教師の態度のあまりのひどさに、私たちが長女の学校行きをとめたからです。

担任の教師は神経質そうな中年の白人女性でした。子供と一緒に教室まで行ったとき、私たちは挨拶をするつもりでしたが、その人は親には目もくれずに長女だけを連れて中に入ってしまいました。1時間ほど部屋の外で待っていましたが、遂に姿を見せませんでしたので、互いに言葉も交わせませんでした。

その女性はアフリカ人が大嫌いで、その上、白人以外はすべてアフリカ人に属すると考えていたようです。従って、長女への風当たりもきつかったわけです。

ほとんど英語がわからない相手に自分の意志が伝わらず、自分の思い通りに行動しない生徒が気に入らなかったようです。英語も分からないくせに、難しいはずの算数を自分が教えているやり方とは違う暗算でやってしまう相手が、忌ま忌ましく思えたのか。
あるいは、自分の世界とは別のところで天真爛漫に漫画などの落書きに耽っている生徒が許せなかったのか。第2週目に、その人の堪忍袋の緒が切れてしまいました。自分の机に座って、大声で喚き散らす。机に近寄っては罵声を浴びせ、ノートを投げつける。英語の分からない人間に罵声を正確に理解する術もありませんが、それでも状況の判断は出来ます。小さい頃から外ではほとんど涙を見せたことのない長女が、我慢しきれずに泣き出してしまったと言います。

言葉の障壁があったにしろ、長くてもせいぜい1ヵ月の間です。

外国からの言わば客人を、もう少し大きな目で見てやれなかったものか。長女の方は「日本から来ました……。」で始まる自己紹介の英文をあれこれ考えて胸弾ませていたのです。自己紹介の機会すら与えられずじまい、最初からそんな雰囲気ではなかったそうです。

その国の事情もあるのでしょうが、7時45分から10時25分までが最初の区切り、20分のランチタイムのあと、10時45分から12時40分までが後半の区切りという授業時間の長さを含め、生徒への配慮不足を強く感じました。学校全体に潤いが少ないように思えたというのが小学校に対する正直な感想です。長女が学校に行かなくなった日から、ショナ人の友だちが学校の帰りに入れ替わり立ちかわり寄ってくれるようになりました。家が学校のすぐ近くにあって寄りやすかったせいもあるでしょうが、担任のひどさを知っているショナ人のクラスメイトが同情を示してくれたようです。あの人はアフリカ人が嫌いだから気にしないでねと慰めてくれたそうです。一度帰宅してから、わざわざ出直して来てくれる場合もありました。

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長女、訪ねてくれたクラスメイトといっしょに

クラスメイトの1人ヘザーは、両親に事情を話したそうで、気の毒に思った両親が長女を自宅に招いて下さいました。私たちの方も、家の方にどうですかと誘われました。残念ながら時間の余裕がなくてその機会を逸してしまいましたが、結果的には、ジンバブエに滞在している間にその国の人から誘われた唯一の招待でした。

フローレンスのモデルぶりが板についてきました。プロの雰囲気さえ漂っています。ある日、フローレンスのザンビアが新しくなっていました。相変わらず、ゲイリーは破れたシャツを着ていましたが、少し余裕が出てきたところでフローレンスに新しいザンビアをプレゼントしたのでしょう。

フローレンス(小島けい画)

図柄と色の鮮やかさに惹かれ、ある日、ゲイリーに店屋のある場所を聞き、妻と二人でザンビアを買いに行きました。教えてもらった店が見つからなくて、どんどん歩いていくうちに、大量のザンビアを売っている別の店を見つけました。縦1メートル15センチ、横2メートル前後の布切れです。鳥や花の模様にアフリカ特有の雰囲気が漂っています。色の違う何種類かの図柄を探して買い求めました。粋なスカーフやテーブル敷きに変わりそうです。

ザンビアの上に置いた壺(小島けい画)

がらんとした倉庫のような建物のなかに、衣類や食器などの品物が大量に並べられているスーパーのような店でした。衣類は粗雑で、食器は壊れない金属性のものが多く、周りを見渡すとアフリカ人ばかり、向い側の遠距離バスの発着所には、人が溢れています。街の中心からだいぶ南に来たからでしょう。道路を越して工業地帯を過ぎれば、アフリカ人居住地区のロケイションです。後で、ゲイリーに教えてもらった店にも辿り着き、新たに違う種類のザンビアを手に入れました。中心街に近いせいか、こちらは店もさっぱりとした感じでした。店を教えてくれたゲイリーへのプレゼントに、クリーム色の半袖シャツをあわせて買い求めました。

ある日、門の方からフローレンスの鼻歌が聞こえてきた。ケイコ、ケイコと言いながら台所のガラス窓をとんとんと叩いています。何事が起きたのでしょうか。聞いてみますと、3人で街に行き、買物のあとで食事をしてきたのだそうです。よほど嬉しかったのでしょう。こんなに上機嫌のフローレンスを見たのは初めてでした。

フローレンス(小島けい画)

フローレンスを見ていると、女の人の毎日の仕事はきついだろうなと思います。今の日本のように、炊飯器や洗濯機や掃除機があるわけではりません。それどころか、電気も使えません。街に住んでいる人でも、経済的な理由で実質的に電気を使えない人が多いと聞います。

食事どきになると、いつも同じ匂いがして来ますので、ある日の夕方、部屋を覗いて食事作りを見せてもらいました。南アフリカやケニアなどの小説には主食の玉蜀黍の料理がよく出てきますので、1度は見てみたいと以前から思っていたからです。ケニアのムアンギさんから、日本ではとうもろこし粥と翻訳されている場合が多いけど、とうもろこし団子が1番近いね、と聞いたことがあります。

ゲイリーの部屋

ミリミールと呼ばれる白い玉蜀黍の粉を水にといて火にかけるだけなのですが、出来上がるまでかき混ぜ続ける作業は、米を炊くよりもはるかに重労働です。例の小さな携帯用のコンロですから火力も知れています。1つのコンロでおかずも作らなければなりません。

小1時間かき混ぜて出来上がったものは、ショナ語でサヅァと言われています。見せてもらった日に、フローレンスからおすそ分けをもらってみんなで食べてみましたが、さっぱりしていて食べやすいものでした。ご飯やパンのように、甘くないから常食になり得るのでしょう。ツォゾォさんの秘書のお弁当を見せてもらったことがありますが、サヅァをご飯に替えれば、日本のお弁当とまるで一緒だと思いました。

手伝ってもらうようになってから、洗濯は2家族分を風呂場の浴槽でお湯を使ってしてもらいましたが、その時、普段はフローレンスが湯や洗剤もままならず、時には水さえも不自由しながら洗濯しなければならない状況の中で生活しているのだと改めて思わざるを得ませんでした。

おそらく、フローレンスにとって、その日の外出は煩わしい家事から解放された初めてのひとときだったに違いありません。いつにないフローレンスの上機嫌の背後には、毎日の生活の大変さが潜んでいたのです。

ある朝、洗濯に来てくれたフローレンスが手首に緑の小さな布を巻いています。躓いて転んだ際に怪我をしたと言います。転んだ所に大きな石があって、打ち所が悪かったようです。傷を見せてもらいましたが、3センチほどの傷口がぱっくりと口を開け、中の肉が見えています。薬もつけています。さっそく手持ちの薬をつけて、包帯を巻きました。

化膿止めの薬の余分がなく薬屋に行って新しい薬を買ってもらいましたが、レシートを見ると、薬が11ドル、包帯が4ドルでした。食べるものもままならない生活では、怪我をしてもつける薬さえも思うように買えないのです。2、3日続けてその薬を塗ってみましたが、症状がよくならず、結局日本から持って行った手持ちの薬を使わなければなりませんでした。

ゲイリーの部屋のすぐ横にあるマルベリーの木は、たくさんの濃い赤紫色の実をつけています。木苺のように小さな種が口の中に残らないし、甘酸っぱくてなかなか食べやすい。家でも毎年、梅や苺などでジャムを作りますので、マルベリーをジャムにしてみようという話になりました。

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マルベリーの木に登って

摘んだマルベリーをきれいに洗って芯を取り、レモンと砂糖を加えて火にかけます。あとは、灰汁を取りながら、焦げつかないように混ぜるだけです。時間はかかりましたが、なかなかの出来栄えです。さっそく、ゲイリーたちの所へ持って行きました。マルベリーがジャムになったのを見るのは初めてのようです。携帯用コンロで長時間煮詰めるのは大変です。普段は、砂糖も大量に使えないでしょう。大きな瓶に入ったジャム2本が、2日でなくなりました。パンなどの必需品に比べて、ジャム類は贅沢品で値段もはずみます。苺ジャムを買いましたら、29ドル98セントの値札がついていました。国産品ならもっと安いはずですが、国産の苺ジャムはないようで、ラベルには南アフリカ産と印されてありました。

マルベリー(小島けい画)

フローレンスにはマルベリージャムが珍しかったのか、田舎のウォルターとメリティへのお土産に、持って帰ってやりたいと言い出しました。さっそくみんなで大きな鍋一杯にマルベリーを摘み、私たちは再びジャム作りの職人となりました。次の日、新しく出来上がったマルベリージャムを持って、みんなはウォルターとメリティの通うルカリロ小学校に向けて出発しました。(宮崎大学医学部教員)

フローレンス(小島けい画)

執筆年

2012年7月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」(No.47  2012年7月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した12回目の「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの生い立ち

ある日、私はゲイリーの生い立ちを聞きました。

ゲイリーは英語の呼び名で、本名はガリカーイ・モヨだそうです。グレイスがゲイリーをガーリーと呼んでいるのを聞いて、何と訛りの強い英語だろうと思っていましたが、なるほど、ガーリーは言わばショナ語の愛称だったわけです。食堂で2人きりになって、いつかこの国や人々について書きたいので、少年時代、学校生活、家族、独立戦争、独立後の生活、国の現状と将来についてなど、ゲイリーの目からみたゲイリーのジンバブエを話してほしいと頼みましたら、次のように話してくれました。

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生い立ちを語るゲイリー

私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。

その頃、両親は大変だったと思います。白人の経営する農場や鉱山にたくさんの人が流れていました。石綿や金などの鉱山です。

1962年に私は父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移りました。労働許可証と住むところが確保できたので、市役所の警備係をしながら、私をハラレの小学校に通わせようとしたのです。そして、私はジョージ・スターク小学校に2年間通いました。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのは私だけでした。

都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。

2年後、父親が職を失なったので、ムレワに戻り、ルカリロ小学校に行きました。ルカリロ小学校は、今度みんなで行く予定の、ウォルターとメリティが現在通っている小学校です。7年生まで行って、小学校は修了しました。小学校では、英語、歴史、地理、算数、国語のショナ語と聖書をやり、進学のための主要科目は英語と算数でした。教師はいい人も少しはいましたが、人種による差別意識の強い人も多くて、教室で生徒をよく殴りました。サッカーもしましたが、聖書と歌が好きでした。

ルカリロ小学校

当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。

小学校を出たあとは、父親を助けて家で家畜の世話をしていました。74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働きました。そのあと、76年に別の煙草会社に採用されました。GAという会社で、給料は1週間に8ドルでした。今、空港の近くにある同じ系列の会社で弟が働いていますが、月給が600ドルですから、今ならたぶんそれくらいの額だと思います。事務員で、入金伝票を書いたりする事務所での仕事でした。そこには、6年間勤めました。

78年、独立戦争中のことです。ムレワは「保護地区」になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。

家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て「誰がテロリストか」と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。

独立後、再び同じ会社に戻って働きました。それも、次の年の81年までです。その後、会社は競買にかけられましたから、新しい仕事を探さなければならなくなりました。家族を支えていかなければならないので、必死で仕事を探しましたがなかなか見つかりませんでした。田舎とハラレを行ったり来たりしながら、農場で働いたり、石綿や食用油の工場に行ったりなど、臨時雇いの仕事を転々としました。

去年の暮れに、現在私が通っている教会に来ている人から、売りに出している家の世話をする人を探している友達がいるので働かないかと誘われて、この家に来ました。今、この家は55万ドル(約1375万円)で売りに出されています。家を見に来た人は、たいてい口をそろえたように、高すぎると言っていますから、すぐには買い手は決まらないと思いますが、この仕事もこの家が売れるまでです。ここに来たのは今年の1月の初めで、その月の終わりに他の所に住んでいた家主のおばあさんが戻ってきました。すでにお話したように、ここの給料は1ヵ月に170ドル(約4200)です。草花や樹の水やりと家の番が仕事ですが、買物や銀行や郵便局にも行かされます。週に1回、木曜日ですが、おばあさんの妹の車が来て、一緒に買物に連れて行かれます。その日は1日仕事で、銀行や郵便局にも立ち寄ります。

家主のおばあさんが住む家を借りて暮らした借家

あなたが来る前は、この家と交渉役の日本人の方の家とを何度も往復しました。家主のおばあさんの伝言を伝えるためです。でもそのお陰で、こうして運よくあなたに会えました。スミス政権の下では、人々の暮らしは大変でした。軍隊が村に解放軍の捜索に来て、たくさんの家が焼かれ、財産を失ないました。解放軍の支援をしたからという理由です。当時は、交通の手段が奪われて他に方法もありませんでしたから、誰もが長い距離を歩くしかなかったのです。私もムレワまでの約100キロの遠い、遠い道を歩いて帰りました。

軍隊は、老人も子供も容赦なく殴りました。友達もたくさん死にました。小学校以来の一番の親友も死にました。もう2度と帰って来ません。私など、今生きているだけでも幸運な方です。戦争で戦って独立したのに、終わってみれば仕事がありません。この国がどうなってゆくのか、私には全くわかりません。昔に比べれば、学校には行きやすくなりましたが、それでも物価が高くてかないません。私には家族がいるので、一生懸命に働くつもりですが、これから先はどうなるかやはり分かりません。

ウォルターとメリティを小学校にやるのに、毎年10ドルずつかかっています。170ドルでは大変ですが、ムレワの家では、玉蜀黍(とうもろこし)や野菜を育て、それらの一部を売ったお金で、何とか生活しています。

ウォルターとメリティ

今一番の願いは、一人立ちして自分でなんとかやっていけるように、子供たちを学校にやることです。そのためには早く運転免許を取って、タクシーの運転手になろうと思っています。そうすれば、何とかウォルターを中学校にやってやれると思います。

毎週日曜日の朝、ゲイリーは歩いて教会に出かけています。南の方に4キロほど行った所にある教会です。私たちが住むようになってからは、自転車に乗って出かけるようになったようです。家族が来てからは一度も出かけてはいませんが、そこで賛美歌を歌うのもゲイリーの楽しみだそうです。独立戦争で死ぬような目に遭いながら、戦争が終わっても、結局、苦しい生活は変らなかったようです。現金収入を得るために、田舎の家族と離れて、都会に来て働いて、今は侘しい独り暮らしです。画像

一人暮らしのゲイリーを訪ねて来た家族とお母さんと従兄弟

ほら、まだこんなに傷跡が残っているでしょうと、ゲイリーは腰骨の上についた古傷を見せてくれました。独立戦争で親友を失なった話をしてくれた時には、目に涙を浮かべていました。

話し終えたあと、賛美歌を何曲か歌ってくれました。おそらく、苦しい毎日の生活や不安な将来への思いを交錯させながら、もう二度とは帰って来ない親友を思い出して歌ってくれたのでしょう。憂いに沈んだゲイリーの歌声は、四方の白い壁に跳ね返り、
聴きいる私の胸のなかに、ずんと沁み入るようでした。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリー

執筆年

2012年6月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」(No.46)

ダウンロード・閲覧

「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した11回目の「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会

手紙には1時頃に皆さんでお越し下さいと書いてありましたので、4人は12時50分に盛装して玄関に現われました。フローレンスのモデル代や少しは私たちが援助出来た分で、それぞれ新しい服が買えたようです。前日私に少し熱があり早起きが出来なかったせいもあって、1時までには準備が整のわず、4人には一度部屋に帰ってもらいました。ハンバーガー、スパゲティ、肉と野菜の炒め物、こふき芋、ゆで卵、パンなどをバイキング形式に並べて、各自がお皿で取れるようにしました。前の日にシェラトンで買っておいたデコレーションケーキやアイスクリーム、それにお菓子や果物も並べました。ゲイリーたちはアルコール類を飲まないので、飲み物にはジュースや紅茶などを用意しました。これくらいのものでもいざ外国で準備をするとなると、なかなか大変でした。

画像

フローレンスといっしょに

お別れ会が始まったのは、1時間遅れの2時からでした。私たちはシャンペンで、あとはアップルジュースで乾杯をしました。なぜか、どちらの母国語でもない英語でチアーズ!と声を掛け合いました。

米が主食の日本人と玉蜀黍(とうもろこし)が主食のショナ人が、ハンバーガーとスパゲティというのも考えてみれば不思議な話ですが、それでも皆それぞれにおいしそうに食べていました。現実に、ゲイリーたちが肉を食べられるのは週に1度くらいだそうですから、ごちそうには違いありません。一生懸命に準備した気持ちは、汲んでもらえるでしょう。普段余りたくさんは食べられないはずなのに、子供たちもゲイリーもフローレンスもがつがつしたところがありません。

長女がテープレコーダーから、いま若者の間で流行っている日本の歌を次々と流します。大体食べ終えた頃、街の大きなスーパーの音楽コーナーで買ったヴィラ音楽のテープをかけてみましたら、ゲイリーとフローレンスが立ち上がって軽快に踊り始めました。軽く拳を握り、90度に曲げた両腕を前後に振り、足を軽く上げるだけの動作が主体で、時折り違うステップを踏んで向きを変える踊り方です。踊り自体は単純なのですが、腰の切れがよく、ぴたりと決まっています。踊りの好きな妻が、すかさずフローレンスの横に並んで、踊り始めました。今まで経験したことのない踊りを覚えて帰ろうと、フローレンスやゲイリーに合わせて踊っています。子供たちも加わりました。特にウォルターが軽快です。私はひとりカメラマンに専念しました。絶えずレンズを意識しながらも、メイビィが自分の踊りに酔い痴れています。曲が日本の歌に変っても、踊り方はあまり変わりませんでした。

フローレンス

何曲か踊ったあと、全員一休みです。ケーキやデザートを食べながら、今度はゲイリーとフローレンスがショナ語の歌を歌ってくれました。日本でも知られているコシシケレリアフリカのショナ語版です。コシシケレリアフリカは「神よアフリカに恵みを」というアフリカの解放を願って作られた賛美歌調の歌です。1897年に南アフリカのイーノック・ソントンガというテンブ人によって作られ、南部アフリカで親しまれています。南アフリカのほか、ザンビア、タンザニア、ジンバブエではそれぞれその国の言葉で国歌として歌われていると日本でも紹介されていました。ジンバブエ大学で歴史学を研究していたソロモン・ムッツワイロ氏が作詞した国歌が2年前に出来たそうで、今はこの曲が国歌ではありませんが、アフリカ人の間では広く歌われていると言われます。ショナ語の曲名は、イシェコンボレリアフリカでした。2人に途中から子供たちも加わって、きれいなハーモニーを聞かせてくれました。大学の授業で学生にも聞いてもらいたいからと録音の用意をして、今度はゲイリーとフローンスの2人に歌ってもらいました。

お返しに私たちもコサ語のコシシケレリアフリカを歌いました。
妻のピアノ伴奏で家でも時々歌っていたからです。1989年に来日した南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に迎えたとき、家でもミリアムさんと一緒にコサ語でその歌を歌ったことがあります。久し振りでしたので最後まで歌えるかどうか多少不安でしたが、なんとか無事に歌い終えました。

ミリアム・トラーディさんとコシシケレリアフリカを

デザートを食べ終えた頃、ゲイリーの甥が訪ねて来て、お別れ会に加わりました。それまでにもゲイリーをよく訪ねてきていましたので、すでに顔見知りです。若者の踊りには勢いがあります。
残っていた料理を動けないほどお腹一杯に詰め込んだあと、後半の部の踊りに加わりました。踊ったあとは、長女からウォークマンを借りて、ひとり音楽の世界に浸っていました。最後に、私の方から少しだけお別れの挨拶をして、妻と子供たちがプレゼントを手渡しました。ゲイリーにはお金とハンカチを、フローレンスにはネッカチーフや裁縫セットなどを、子供たちには辞書と文具やおもちゃなどをそれぞれかわいい布の袋に入れたプレゼントでした。今度はゲイリーが立ち上がって、みんなを代表してと挨拶を始めました。

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ゲイリーと

「7月21日以来、親切にしてもらったことに対して、また友だちになれたことに対して感謝しています。この日は一生忘れないでしょう。ヨシもケイコもサヤカもセイも今のままで渝らないでいて下さい。ウォルターとメリティは学校があるので帰りますが、フローレンスとメイビィは皆さんがお帰りになる日までここに残ることにしました。フローレンスは私の食事を作ってくれますが、モデルや洗濯のお手伝いも出来ると思います。」思わぬ事態になってきました。グレイスに辞めてもらうつもりでしたが、滞在期間も短かく時間も大切ですから、出来れば知り合いで洗濯だけでも手伝ってくれる人はいないだろうかと8月の半ば頃にゲイリーに相談を持ちかけていたのです。フローレンスがやってくれるというなら、願ったりかなったりです。よけいな気を使わなくて済みます。モデルの方も、あと1ヵ月も描けるとは思ってもいませんでした。

フローレンス(小島けい画)

ジンバブエを発つ前に、もう一度お別れを言うために、ウォルターとメリティの学校に行こうと言いましたら、タクシーの運転手をしている私の友人なら、500ドルも出せば車を出してくれるよとゲイリーの甥が言っています。金額の方は少々怪しいと思いますが、運転手付きの車か小型バスを確保して、みんなで学校の2人に会いに行くとしましょう。飛び入り客あり、ゲイリーの発言ありで、事態は思わぬ方向に進みましたが、いずれにしても、ゲイリーの家族とはますます付き合いが深まりそうです。2時に始まったお別れ会が終わったのは、5時半を少しまわった頃です。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリーたち

執筆年

  2012年5月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」(No.45  2012年5月10日)

ダウンロード・閲覧

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」