2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した21回目の「ジンバブエ滞在記21 ツォゾォさんの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんがアメリカでの誘いを断って、ジンバブエに戻ったのは生まれ育った国のためです。そして、いたずらっぽく笑いながら「独立戦争で国と深く係わり過ぎてしまいましたよ。」と付け加えました。

副学長補佐になってからますます忙しくなったにもかかわらず、ツォゾォさんは嫌な顔ひとつ見せずに、わざわざ細切れな時間を割いて、毎回私のインタビューに応じてくれました。

ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんが生まれた1947年は第2次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期です。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていました。ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれています。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうです。

広大なアフリカ大陸です。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていたわけではありません。私たちがルカリロ小学校を訪れた初めての外国人だったのも頷けます。

ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていましたので昔のようにはいきませんでしたが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうです。

サハラ砂漠以南の他の地域でもよく似た統治形態をとっていたようですが、ジンバブエも、同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会(クラン)を形成していました。15世紀に栄えたモノモタパは、他の小さなクランを支配して出来た最大のクランでした。グレートジンバブエなどの遺跡は、外敵から身を護るためのものではなく、そのクランの富や威信を示すための建物であったと言われます。

長女と長男、グレートジンバブエで

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていました。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたと言います。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれます。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念します。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通でしたので、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたそうです。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと言います。

夜になると集まって、女の子はおばあさんから、男の子はおじいさんから、色々な話を聞いて楽しいひと時を過ごします。ツォゾォさんのおじいさんはとても話が上手だったそうで、「第1作『わが子、タワンダ』は、そのとき話してもらったおじいさんの話が、実は下地になっているんですよ。」とツォゾォさんが話してくれたことがあります。

『わが子、タワンダ』

年令の高い年頃の男女は、お年寄りに教えられて、踊ったり歌ったりしながらの、言わば集団見合いのようなゲームをやって、自分に相応しい相手を見つけたそうです。演劇の授業で見た、準備体操代わりのあの踊りも、小さい頃から教えられてきた伝統的な踊りの一つなのでしょう。ショナの社会には、伝統的に子供たちを全員で育てるという意識があり、大人は誰隔てなく子供たちを「わが子」(マイサン)と呼ぶそうです。ツォゾォさんの第1作の英語版の小説『わが子、タワンダ』のわが子も、その言葉です。共同社会の絆が、それだけ深かったということでしょう。(ツォゾォさんには、小・中学生用のテキストから戯曲と小説をあわせて、22冊の著書があります。学生時代に書いた第1作を除いて、すべてがショナ語の著書です。)

当時、学校に通えるアフリカ人は少なく、学校の数もごく僅かで、すべて教会関係の学校(ミッションスクール)でした。学校は無料でしたが、学校に通えるのは、両親がキリスト教徒(クリスチャン)で、教会の学校まで歩いて通学出来るという条件にかなう人だけに限られていました。

 

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インタビューに応じて下さったツォゾォさん

就学年令は高く、小さい時から学校に行ける人はそう多くはなかったそうですが、それは子供も働き手の一人だったからです。ツォゾォさんが低学年の時には100人ほどの生徒がいて、学校嫌いの生徒がよく逃亡をくわだてたりしたそうです。学校側は生徒に食べ物を出していて、逃げる生徒には「逃げたら、食べ物をやらないぞ。」と脅してつなぎとめる努力もしたということです。「いつの時代でもどこの国でも、本当に学校の苦手な生徒がいるものなんですねえ。」と二人で大笑いをしました。

ツォゾォさんの父親は教育も受け読み書きが出来た上に、教会の有力な会員でもありましたので、村の一軒一軒を回って子供たちを学校にやるように説いて回りました。その甲斐もあって生徒数もだんだんと増えて、5年生の時には生徒が200人以上になっていたそうです。その辺りから学校が有料になりました。現金を払えない人が多かったので、たいていの親は煉瓦を焼いたり、木材を切ったり、運動場の整地をしたりする労働作業で支払いに変えていたと言います。

長男と校長、ルカリロ小学校の教室で

教師の多くは白人で、ショナ語を話し、聖書を中心に算数とショナ語と英語が教科として教えられていました。7年の小学校時代を終えて、30キロ離れた中学校に4年間、150キロ西のグウェルの高校に2年間通ったあと、ツォゾォさんは1968年にジンバブエ大学に入学しています。経済的に子供を中学校にやれる親は少なく、入学しても授業料が払えないので退学する同級生も多かったと言います。ツォゾォさんの兄弟はすべて学校教育を終えたそうですが、そういう例は極めて珍しかったようです。

ジンバブエ大学構内(小島けい画)

中学校も高校もオランダ改革派の教会が経営する学校で、白人教師の大半は南アフリカからきた人たちでした。少数のアフリカ人教師もいましたが、当時は人種的な差別の非常に厳しい時代で、制度的にもヨーロッパ人用とアフリカ人向けとがはっきり区別されていましたし、行政の管轄も違っていました。学校は人種別に分けられていましたので、当然、ツォゾォさんの学校には白人、カラード、インド人の生徒はいませんでした。両親がマラウィとザンビアから来て定住していた外国人の生徒が2人だけいたそうです。白人の学校は都市部にあり、建物も立派で、1クラス15人の少人数制でしたが、アフリカ人の場合は、1クラスの人数が45人だったそうです。

子供たちが通ったアレクサンドラパーク小学校で

ツォゾォさんがジンバブエ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていました)に入学した68年頃の社会情勢は非常に緊迫していました。65年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからです。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていきました。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していましたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていました。その政策によってツォゾォさんもジンバブエ大学への入学が可能になったというわけです。(大学案内によれば、入学者数は初年度57年が68人、独立時の80年が2240人、90年が9300人となっています。学生総数はツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた92年でも約10000人でしたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かです。)

ジンバブエ大学

しかし、白人の大土地所有農家と賃金労働者は、台頭しつつあったアフリカ人労働者階級との競争を恐れて、ヨーロッパ人移住者によるローデシア戦線党を支援しました。その結果、62年12月の選挙では、ローデシア戦線党が圧勝することになります。

経済的にも軍事的にも力をつけていた南ローデシアは、53年以来のローデシア・ニアサランド連邦を解体します。64年にはローデシア戦線党がスミスを首相に立て、時の勢いを借りながら、強硬な政策を推し進めました。更に、61年に創られたジンバブエ・アフリカ人同盟(ZAPU)と63年創設のジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)の活動を禁止して、ジョシュア・ンコモ、ロバート・ムガベ、ンダバニンギ・シトレなどの指導者を逮捕する一方で、抑圧的な法律を強化しました。

土地分配法に固執する大土地農家と職業での白人優先政策を望む労働者に支えられて65年に一方的な独立宣言(UDI)を強行したスミス政権に対抗して、アフリカ人側のZANUとZAPUはそれぞれ武力闘争部門を創設し、666年には武力闘争を開始します。

更にスミス政府は、69年に土地分配法を改訂した土地保有法を制定し、国土を2分して20倍の人口(白人25万人に対してアフリカ人は500万人)のアフリカ人を不毛の地に押し込める土地政策を強行しました。そして翌70年には、新貨幣制度を導入して、共和国宣言をするに及んだのです。強制移住に対するアフリカ人側の抵抗は一段と強まり、人種間の緊張は増していきました。

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれています。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、71年までの学生時代の3年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けました。

ハラレから車で一時間ほどのムレワ

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていました。大学は白人地区にありましたので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていましたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言います。

学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうですが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、71年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうです。その時は逮捕されなかったものの、警察と激しく衝突しました。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾します。ムゾレワは政府と穏健派に担がれて79年に短命内閣を組織した人物です。

「今は太ってしまっていますが、これでも100メートルと200メートルを専門に走っていたんですよ、演劇にも興味がありましたね。」とツォゾォさんは学生時代を振り返ります。

10月の街での公演に向けての稽古、演劇クラスで

「政府による締め付けは厳しく、学生の中にもスパイがいて、同じ寮で暮らしていた学生があとでスパイだと分かってショックを受けたこともありますよ。武器の輸送を手伝っていたとき、そのスパイの通報で危うく逮捕されかけました。もしあの時逮捕されていたら、人生も大きく変わっていたでしょうね。捕まって30日間拘置された経験もありますがね。」とツォゾォさんは当時を述懐します。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えました。

その強硬な路線の餌食になって、78年の12月に、ツォゾォさんのお父さんは拷問がもとで亡くなっています。半年後の4月には、後を追うようにしてお母さんも亡くなったと言います。話しながら、当時の悲しい思い出が甦ったのでしょう。ツォゾォさんは机にわっと顔を伏せて、泣き出してしまいました。いつも陽気なツォゾォさんだけに、心の奥底を垣間見てしまったような気がして、しばらくの間、時間が止まってしまいました。停電のために薄暗かった部屋での、夕暮れの一刻でした。

映像学の授業でのツォゾォさん

76年になると、アメリカが介入し始めます。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからです。

国境を封鎖したり経済制裁に協力していたタンザニア、マラウィ、モザンビーク、ザンビア、ボツワナの近隣5ヶ国は、長引く闘争で経済的に苦しい状況に追い込まれていました。アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返されました。そして、79年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立します。

翌年の80年2月の選挙では、とZANUが57議席、とZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、4月にはZANUのムガベを首班とするアフリカ人政権が誕生します。国名をローデシアからジンバブエに変えての独立でした。

しかし合意された最終案は、僅か3パーセントの白人に対して5分の1に相当する20議席を与えたり、土地を含め白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまいました。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わりませんでしたので、ゲイリーたちを含む大半のアフリカ人にとっては経済面での大きな変化は期待すべくもなく、大半のアフリカ人の生活は相変わらず苦しいままでした。

独立闘争で大きな犠牲を払いながら戦ったツォゾォさんは、その働きも大きかったので、その分、新政権の下で重用されています。教育省の職員として青少年のスポーツ制度を視察するために、82年にユーゴスラビアとタンザニアと中国を、83年にはカナダをそれぞれ歴訪しています。

84年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まりました。86年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、2年間で演劇と映画の学位を取ったそうです。帰国後、92年の8月に副学長補佐に昇進しました。

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秘書とツォゾォさん

大学での講義をしたり、ショナ語のテキストを改訂したりする教師の顔、毎週月曜日に放映されるテレビの劇を演出したり、街や大学での演劇の指導をする監督の顔、母国語のショナ語で小説や戯曲を書いて国民に語りかける作家の顔、大学と外部との折衝役副学長補佐の顔、奥さんと共に2児を育む父親としての顔などの様々な顔を持ちながら、若者と古い世代との懸け橋として、ツォゾォさんは忙しい毎日を送っています。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年3月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55)

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「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」

2010年~の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の一覧です。

フローレンス(小島けい画)

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 59(2013/7/10)までです。

2011年

<1>→「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)

<2>→「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)

<3>→「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)

<4>→「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)

<5>→「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)

<6>→「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)

2012年

<7>→「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)

<8>→「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)

<9>→「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)

<10>→「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)

<11>→「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)

<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)

<13>→「ジンバブエ滞在記⑬ 制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)

<14>→「ジンバブエ滞在記⑭ ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)

<15>→「ジンバブエ滞在記⑮ ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)

<16>→「ジンバブエ滞在記⑯ 75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)

<17>→「ジンバブエ滞在記⑰ モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)

<18>→「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)

2013年

<19>→「ジンバブエ滞在記⑲ ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)

<20>→「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)

<21>→「ジンバブエ滞在21 ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)

<22>→「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)

<23>→「ジンバブエ滞在記23 チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)

<24>→「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)

<25>→「ジンバブエ滞在記25 『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)

ゲイリー(小島けい画)

「モンド通信」に連載分一覧→「玉田吉行の『ジンバブエ滞在記』」(小島けい絵のblog)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した20回目の「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「演劇クラス」

ツォゾォさんは英語科の学生であるアレックスの先生でもありますが、大学院や就職先の相談にも応じてくれるジンバブエ大学の先輩でもあります。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうでした。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくありました。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていました。インタビューを録音している時などは、何度もテープを止めなければなりませんでした。

忙しい合間にインタビューに応じて下さったツォゾォさん

国内にはツォゾォさんの代わりに映画や映像の講義を担当出来る人がいませんので、管理職に専念するのは当分の間は無理のようです。土曜日や日曜日でも、運動クラブの見周りなどで大学に出てきている日もありました。教育省時代には、独立直後にユーゴスラビアや中国に視察に行ったと言います。ムガベ政権の下で、スポーツ教育をどういった体制で行なうかを、同じ社会主義の国まで視察に出かけたというわけです。「今の体育制度はユーゴスラビアが手本ですよ。」と教えてくれました。

演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブエに戻るか、迷いましたとも言います。

映像学の授業でのツォゾォさん

大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですかと尋ねましたら、ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよと言っていました。そう言えば、ツォゾォさんは自分の車に乗っています。それまであまり意識はしませんでしたが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのです。

独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブエを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですねと言いましたら、全くその通りですよとツォゾォさんが頷きました。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていました。

アレックスは大学を楽園だと言っていましたが、授業風景も日本の大学とはずいぶんと違います。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっていますが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはありませんでした。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もありますが、もう少し現実的な事情もあります。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がありません。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまうそうです。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかありません。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのです。質のよくないノートにインクの出方がすこぶる悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのです。議論などはありません。

しかし、演劇の授業はやや趣が違いました。歌あり、演技指導ありです。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操もします。円になって全員が踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせています。手拍子を取り、歌いながらです。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていました。発声のための体馴らしでもあります。ゲイリーの踊りもそうでしたが、ショナの人の踊りは全般に動きが穏やかです。もともと、全体に性格の温厚な民族なのかも知れません。

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(演劇クラスの授業風景)

例年10月に授業の集大成として街で公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていました。ツォゾォさんは、太い大きな声を出し、身振り手振りを交えながら、その場合はこうやるんだよと演技指導に大忙しです。

演題は『誉れ高き国会議員』で、83年にジンバブエ大学を卒業したゴンゾウ・H・ムセンゲジィという若手の作家の英語の作品でした。毎年、受講する学生が話し合ってその年の出し物の脚本を選ぶそうです。独立闘争を支援し、ショナ語による本の出版を根強く続けるマンボプレスから出版されています。「マンボ作家シリーズ英語選集」の第16集に収められた2幕6場の戯曲で、B6版46ページの小品です。

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『誉れ高き国会議員』

民衆の代表として田舎の選挙区から国会議員に選出されたにもかかわらず、選挙民を忘れて贅沢三昧の毎日を送るシェイクスピア・プフェンデの話です。

10月4日の公演には是非ヨシも観に来て下さいと学生から招待されていましたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいません。何もなければ、パリにいるはずでした。折角の機会でしたが、授業の成果をこの目で確かめられなかったのは、返す返すも心残りです。(宮崎大学医学部教員)

ジャカランダの咲くハラレの街で

執筆年

2013年2月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」(No.54  2013年2月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した19回目の「ジンバブエ滞在記⑲ ロケイション」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ロケイション

ある時、音楽の話題になって、今ジンバブエでどんな歌が一番人気があるのと私が尋ねましたら、アレックスは「ミズミヤング」などの曲をあげてくれました。街に行けば、その歌のテープが簡単に手に入ると言うので、2人で出かけることにしました。

ウォークマンで音楽を聴くアレックス

大学でアレックスと待ち合わせて、大学からイマージェンシータクシー(Emergency Taxi)を使って街に出ました。ETは乗り合いのタクシーです。日本では馴染みはありませんが、利用者の多い2つの地点を結ぶもので、日本の乗り合いバスのタクシー版と考えればいいと思います。ただし、途中下車はなく、空席があれば途中でも拾ってくれます。ヴァン型の後部席の荷台と前の助手席に18人が詰め込まれます。普通は一杯になるまでは出発しません。
車を持てない大部分のアフリカ人は、仕事場のある白人街までバスかETを利用する場合が多いようです。うまく乗り継げない所は、歩くしかありません。ミスタームランボも、毎日2度ETを乗り継いだあと、45分も歩くんですよとぼやいていました。ETに使われている車はマツダ(MAZDA)が圧倒的に多いようです。

ミスタームランボといっしょに

料金はバスと同額で一律1ドルです。安い代わりに、窮屈な思いを強いられます。ETを利用してグレートジンバブエに行った経験のある吉國さんは、乗った時のこのままの姿勢で数時間ですよと、まるで満員電車の中にいるような仕草をしながら、その時の様子を教えて下さったことがあります。

アメリカ映画「遠い夜明け」の中で主人公のアフリカ人青年ビコが新聞社の編集長の白人ウッヅに「どうして俺たちのようにバスやタクシーを利用しないのか?」と問いかける場面を見て、タクシー?と疑問に思った記憶がありますが、あのタクシーはバスと同じ料金のこのイマージェンシータクシーだったわけです。

「遠い夜明け」の試写会でもらったパンフレット

何箇所かの店屋を回って3本のテープを買いました。1本が30ドル前後です。「ミュージシャンにはきつい時代ですよ、レコードでもテープでも、買う余裕のある人は非常に少ないんですから。ミュージシャンはみんな、他で稼ぎながらレコーディングをしています。」とアレックスが言います。

アレックスと一緒にみんなでまたシェラトンに出かけました。ゲイリーたちより2日遅れのお別れ会です。みんなで一緒にお別れ会をしてもよかったのですが、それぞれ接し方も思い入れも違いますので、別々の機会を持ちました。アレックスは、その日のために「食事を2回飛ばしてくるぞ!」と固い決意を見せていました。

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アレッククスと従業員の人といっしょに

ゲイリーは聖歌隊で歌うためにシェラトンに来たことがあったそうで、アレックスは教員の新任研修で丸2週間滞在した経験があると言います。普段はとても利用できないこの豪華なホテルを使って「これから君たちが新しい国造りをするように……。」と若い教員に政府の意気込みを見せようとしたのでしょうか。

また、みんなお腹一杯に料理を詰め込みました。飲みすぎたビールで私もアレックスも顔が真っ赤です。アレックスはもう動けませんと唸っています。

食事のあと、ホテルの職員に国際会議場をはじめ、ホテル内の施設を見せてもらいました。この前来た時に、子供たちが2人の職員と仲良しになり、今度来たときはお父さんやお母さんも一緒にホテル内を案内してあげようという約束をしてもらっていたようです。言葉もそれほど解らないはずなのに、子供の好奇心と柔軟性は大したものです。大人にはとても真似出来そうにありません。

お蔭様で、国際会議場も見せてもらいました。何とも豪華なものです。こんな会場で会議をしたあとホテルで存分に寛げば、ジンバブエも欧米諸国と何ら遜色はない、そんな錯覚に陥ったとしても不思議はありません。

シェラトンホテルでアレックスといっしょに

大半の人がその日の食事に事欠いている現実を見せつけられているだけに、その豪華さはどこか不釣り合いに思えました。「経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……いくら何でも不公平ですよ。」と言ったアレックスの言葉が思い出されて仕方がありませんでした。

アレックス

帰る前に、行ってみたいところがありました。ロケイションです。最初から、一度は訪ねてみたいと考えていました。アレックスに頼みましたら、意外と気軽に応じてくれました。今泊めてもらっている従妹の家まで連れていってくれると言います。

家庭教師を頼んだ時点ではまだ寮にいましたが、冬休みになって寮を追い出されたアレックスは、仕方なくロケイションにいる従妹の家に泊めてもらい、そこから毎日通って来てくれていたのです。

9月29日、9時半にアレックスと街で待ち合わせました。ラッシュは避けるという話になっていました。帰国する4日前です。

街の中心より南寄りのバス発着所の近くでETに乗りこみました。ラッシュ時ではありませんでしたが、バスの発着所は人で一杯でした。その辺りにいるのは、アフリカ人だけです。

街の中心部から南西の方角に10キロほど離れたグレンノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、2度ETを乗り換えました。直通のETはないようです。まずムバレに着きました。この国最大のスラムで、1番の密集地だそうです。ゲイリーがお父さんと住んでいた地区で、たくさんの人です。大きな青空市に連れて行ってくれました。ムバレムシカという有名なマーケットだそうです。
衣類や装飾品など、たくさんの品物が並べられていました。外国の品物もあるようです。次に、近くの市営住宅の中を歩きました。鉄筋コンクリート4、5階建ての、日本の市営住宅や県営住宅と似ています。ただ、1部屋にかなりたくさんの人が住んでいるようです。排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。途中で、ひとりのおばあさんが2人の方に大きな罵声を浴びせかけてきました。ショナ語のようです。何と言ってるの?とアレックスに尋ねましたが、ばつが悪そうに笑っているばかりでした。何かに怒りをぶちまけているようですから、アレックスも言い難いに違いありません。詮索はしませんでした。やはり、私がここにいるのが場違いなのでしょう。

またETに乗り、別のショッピングセンターで乗り換えました。今度はしばらく待ちました。ひとりのアフリカ人の男性が、大きな声でアレックスにショナ語で話しかけています。横にいるのはお前のボスかって聞いていますよとアレックスが小声で耳打ちしてくれました。ボスなら金を持っているだろうから、一杯になるのを待たずにETを借り切らないかという誘いのようで、ロケイションでの外国人はボスが相場のようです。しかし、ボスかと聞かれても、アレックスも私も答えようもなく、何とも複雑な心境です。

グレンノラ地区に着きました。ずーっと一戸建の家が続きます。
電気や水道も通っているようす。道から少し入ったところに従妹の家がありました。挨拶のあと、部屋の中に入れてもらいました。2つの部屋は人に貸していて、周りのどの家もそうだと言います。電気は通っていますが、実際には使っていないそうです。
そうでないとやっていけないと言います。恥ずかしそうにしていた2歳の女の子が近くまで来て、踊りを披露してくれました。小さいのに、腰を使ってさまになっています。メイビィに似て陽気です。初めて白人を見て、興奮しているんですと母親が言ってますよとアレックスが笑っています。この女の子の目には、私は白人と映るのでしょうか。アレックスはここから通ってくれているわけですが、夜は電気なしの生活だそうです。昼間は大学の図書館で本を読んでいますが、5時に閉まるので困りますと言います。

しばらく話をしたあと、家を出て、帰りはバスに乗りました。バスは直通でハラレまで行くようです。バスに乗る前に、また酒場に連れていってくれました。人影もまばらで、ゲーム機なども備えつけられていました。

バス乗り場では15分ほど待ちましたが、バスはさほど混んでいませんでした。入り口のドアはありません。工業地帯を抜けて、バスは進みます。予想以上にたくさんの工場があります。乗客は大人しく、そのバスのスピードは、早いとは思いませんでした。

街に着きました。2人でウィンピーというレストランに入って食事をしましたが、アレックスは終始不機嫌そうでした。

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ハラレの街の出店

「この1ヵ月、白人地区とロケイションを行き来して、大変でしたね。心のバランスが取れなかったんではないですか?」
「…………。」私の方もうまく言えませんでしたが、感受性の強いアレックスの心の綾が、何となく私には理解出来たような気がして、心がますます沈んでいきました。

食事が済んだ2人は外に出ました。辺りはすでに暗くなっていました。アレックスは遠くの方を見つめながら、1度大学に戻りますと呟きました。(宮崎大学医学部教員)

アレックス

執筆年

  2013年1月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」(No.53)

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  「ジンバブエ滞在記ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」