2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した最終回の「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「ジンバブエ滞在記」の連載を終えて

ジンバブエに行ったのは1992年、あれからもう20年以上の月日が経ちました。二十年も前に書いたものを今頃メールマガジンに載せていいのかどうか少し迷いましたが、アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので、
連載することにしました。

前回の「ふたつの壷」で書きましたが、帰って来た当初、しばらくは何も書けませんでした。編集を担当して下さっていた方の奨めもあって、奥さんが書き残した日記を元に、半年ほどかけて何とか「ジンバブエ滞在記」を絞り出しました。

アフリカのことをやる限りは一度はアフリカに行かないと後ろめたい気がするなあというのが行ったきっかけですから、ハラレで家族といっしょに暮らせただけで目的は充分に果たせたわけですが、それでもやはり、行ったという事実は想像以上に重く、その後の歳月に深くかかわることになりました。

アレックスが学生寮に案内してくれたとき3人ほど友人が部屋に来てくれたのですが、一人が聞いた最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているのですか?」でした。当時ジンバブエ大学は唯一の総合大学で、約一万人の学生はその国を代表するエリートたちのようでした。その学生の口から最初に出た質問です。流行っていたハリウッドのニンジャ映画の影響でしょうが、街に走っている車の半分はMAZDAでもありました。私は「心配することあらへんで。日本人の大半はアフリカ人が裸同然で裸足で走り回ってると思ってるし、来る前には何人もの人からライオンに気をつけて下さいと言われたからねえ。」と言いました。

アレックスが案内してくれたジンバブエ大学の学生寮「ニューホール」

さすがにエリートたち、お互いの認識不足を自覚したようで、それじゃ実際日本はどうなんですか、と色々と質問をして来ました。

「アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので」と書きましたが、大半の人は、アフリカは貧しくてかわいそうだから、日本はODAや募金などを通じて援助してあげていると考えているようです。しかし、実態はまるで違います。第二次世界大戦後米国が中心となってつくりあげた搾取制度では、いわゆる先進国と発展途上国の「一握り」が手を携えて大衆から搾り取る仕組みになっています。開発や援助の名目で、多国籍企業、投資、貿易などを通じて搾取が「合法的に」行われています。たとえば、ケニアのナイロビ大学の建物を建てる名目の資金援助の予算がついた場合、国際入札で日本の大手建設会社が建築を請け負い、資材を大手の船舶会社が運び、金銭の取り扱いは日本の大手銀行が請け負う、何割かが「一握り」の懐に収まる、そういう構図です。

旧宮崎大学でいっしょにバスケットをやっていた元ナイロビ大学の教員で当時農学部の大学院生だったルヒア出身のサバが次のように話してくれたことがあります。

いっしょにバスケットをしていたサバや教員や学生たち

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサで空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。92年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(「『ナイスピープル』とケニア」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日)

書くための空間がほしくて30過ぎに大学の職を探し始めて1988年、38の時に宮崎医科大学に辿り着きました。在外研究でジンバブエに行ったのは4年目です。大学では教育と研究が求められますから、人も授業も嫌でなかったのは幸いだったと思います。人が人に何かを教えられるのか、人が人を評価出来るのか、といつも悩んでは来ましたが、研究室に学生がたくさん来てくれますし、授業を負担に感じたこともありません。

宮崎医科大学には一般教養の英語学科目等の講師として採用され、主に医学科一年生の一般教養の英語を担当していました。授業では、出来る限り英語を使い、新聞や雑誌の記事や音声や映像を駆使しながら、修士論文で背景も含めて考えたアフリカ系アメリカの歴史や文学や音楽と、その後始めたラ・グーマの文学や南アフリカの歴史などを取り上げました。受験に追われてあまり考える余裕のなかった学生に、中学校や高校では意図的に避けられて来たような虐げられた側から見た歴史や文学を取り上げることによって、歴史観や価値観を再認識して自分や社会について考えてもらいたい、と思ったからです。(ラ・グーマA Walk in the Night (1988) とAnd a Threefold Cord (1991)の2冊の英文編註書を出版してもらってテキストに使いました。)

ジンバブエに行ってからは、その思いがますます強くなり、授業もそのために準備するようになりました。リチャード・ライトの作品を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り、アフリカ系アフリカ人が連れて来られたアフリカ大陸や、富の蓄積を生み産業革命を経て、今の資本主義社会を作りあげ、今の先進国と発展途上国の経済格差を生んだ奴隷貿易などの基本構造を思い知るようになりました。そして何より今もその搾取構造が温存され、今の日本の繁栄もそう言った搾取構造の延長上にあることを知りました。

加害者側にいながらその意識のかけらも持ち合わせていない現状を知ってしまった責任を強く感じるようにもなりました。将来、社会的に影響力のある立場に立ち、人の命にかかわる仕事に就く人たちの意識に働きかけよう、それが見てしまったものの責任かも知れない、と信じ込んでしまったようです。

出版者の方の薦めもあり、この500年のアングロサクソンを中心にした侵略の歴史をまとめて英文のテキストを二冊書きました。Africa and its Descendants 12です。

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Africa and its Descendants 1の表紙)

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Africa and its Descendants 2の表紙

なぜ英語の時間にアフリカ?と反発する学生も多いので、関心を持ってもらいやすいように、医学とアフリカを繋ぐような話題にも目を向け、実際に授業でも取り上げて、聞いたり見たり読んだりするようになりました。

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁、2006年。)“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。)「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-392010年。などにまとめました。

2003年に旧宮崎大学と統合してからは、全学対象の科目「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」を担当して、教育学部や農学部、工学部の学生にも同じようにやってきました。それを『アフリカ文化論―アフリカの歴史と哀しき人間の性』(2007年)にまとめました。

また科学研究費の交付を受けて、→「(2003~2006) 科研費報告書:英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」
→科研費(2009~2011)報告書「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(https://kojimakei.jp/tamada/2003_06_Kaken_Report.pdf)にまとめています。

ハラレから帰った年に、300人が歓迎してくれたルカリロ小学校には全校生、教職員、村人をおさめた写真を大きく拡大して送りました。ゲイリーの子供たちウォルターとメリティには中学校を出るための学費も送りました。どちらも返事はきませんでしたが。

ルカリロ小学校での集合写真

その後インフレや赤痢などで大変な事態があったようですが、みんな無事に生きのびたでしょうか。

お世話になった吉國さんはすでにお亡くなりになったと死後出版された著書で知りました。定年まであと2年を切りましたが、一番身近で大切な家族に自分の思いを伝えるような気持ちで、自分の思いを伝え続けて来たように思います。

次回から3回は、「ジンバブエ滞在記」を書いた際に調べたジンバブエの歴史について書きたいと思います。

次回は「ジンバブエの歴史1:百年史概要と白人の侵略」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年7月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」(No.59)

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  「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した24回目の「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ふたつの壷

ザンビアと壺(小島けい画)

私の部屋の本棚に大小2つの壷が置いてあります。帰国前にゲイリーとフローレンスがくれた壷のうちの2つです。主食のサヅァやおかずなどを入れて使っていたものだそうです。私たちの大切な宝ものとなりました。大きい壷の下には、フローレンスが編んでくれたレースの敷物が敷いてあります。

今回はアフリカで暮らせたらと思っていただけでしたから、ゲイリーやアレックスを軸に、これほどまでに事態が急転回を見せるとは思ってもいませんでした。

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(アレックスと)

安価な労働力として大きな歴史の狭間で翻弄されるゲイリー、国の将来を担うアレックス、国民的な作家として活躍するツォゾォさんたちと身近に接しているとき、アフリカの仕組みとアフリカの置かれた厳しい現状の一端を垣間見ているような気がしました。

16世紀に始まった大規模な奴隷貿易によって経済の不均衡がもたらされ、その資本によって産業革命を起こした西洋社会は、資本主義の歯車を回し始めました。同時に、それまであったアフリカ人と西洋人との対等な関係を崩していきます。

しかし、奴隷貿易を可能にした原因は、実はアフリカ人の側にもあったのです。奴隷売買を覇権争いの道具に利用した人たちもいました。それに、奴隷を捕らえたのは、他ならぬアフリカ人でした。中には酒のジン1本と奴隷1人を交換した人もいたと言われます。ジンバブエで解放闘争が長引いたのは、力を合わせるべきアフリカ人同士が争いを止めなかったのも一因でした。もちろん、西洋人がアフリカ人を尊重し、自分たちの欲望をほんの少しでも抑えていたら、きっと歴史も違っていたでしょう。

ジンバブエでは、持てる白人も持たざるアフリカ人も、共に過去の負の遺産を背負って苦しんでいるように見えました。パリに着いてほっとした気持ちを覚えたのは、それだけ欧米諸国と日本の現状が似通っているからでしょう。

帰ってからしばらくは、何も書けませんでした。

ブランシさんはラ・グーマの7度目の命日に「3月から南アフリカに戻って子供や孫とずっと一緒に暮らす決心をしました。」とお便りを下さいました。

家族でロンドンに亡命中のブランシさんと、1992年7月

ゲイリーは私たちの帰った翌日、おばあさんにフローレンスとメイビィを追い出されて涙を流したそうです。

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メイビィ

アレックスは卒業と同時にブラワヨの教員養成大学の講師となり、イグネイシャスは自分の書いた詩と民話の原稿を送ってきてくれました。

今、2度とアフリカには行きたくないという気持ちと、それでもみんなに会いに行くことになるだろうなという気持ちが交錯しています。

いつかこの続編が書けたらと思っています。

1994年1月            宮崎にて

*****

これで「ジンバブエ滞在記」の連載を終わります。

次回は「『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年6月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」(No.58  2013年6月10日)

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「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した23回目の「ジンバブエ滞在記23 チサライ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「アー・ユー・ハングリ? 」

10月3日土曜日、いよいよジンバブエとお別れする日となりました。朝から、最後の準備に何かと気忙しく時間が過ぎて行きました。

午前中に大学の郵便局で最終便を出し終えて戻って来たとき、「家主のおばあさんが空港から電話を掛けてきたので、ゲイリーは血相を変えて買物に出て行ったよ。」と妻が言いました。お昼過ぎに一度この家に立ち寄りたいとのことです。おばあさんにしてみれば、大事な家財道具を変な日本人に持って帰られはしないかと思うと居ても立ってもいられなかったのでしょうか。すべて吉國さんにお任せしてありましたので、帰国については何も聞かされていませんでした。「私たちは夜の6時半には家を出て空港に向かいますので、7時迄は来ないようにして下さい。」と手紙を書いて、ゲイリーに渡してもらうことにしましょう。そうすれば、会わなくても済むでしょう。出来れば顔を合わせたくないと思いました。会えば必ず、不愉快な思いをしそうな気がしたからです。そして、予感は的中しました。

暮らした500坪の借家の庭

ゲイリーの狼狽(うろた)え方は尋常ではありませんでした。私たちとの付き合いを知られて職を失なう事態をゲイリーは恐れていたのでしょう。朝から1日じゅう、そわそわとして落ち着きがありませんでした。

私たちは今夜の便に備えて、昼すぎから1、2時間でも寝ることにしました。飛行機の中では眠りにくいですし、長男は特に飛行機に弱いので、少しでも寝ておいた方がいいと考えたのです。取り敢えず、着替えて横になりました。そのうち、門の所で声がしました。おばあさんが立ち寄ったのでしょうか。長男が起き出し、カーテンの隙間から庭を覗いて「おばあさんがゲイリーと一緒に庭の中を歩いているよ」とささやきました。

庭でゲイリーと

おばあさんが帰ったあとしばらくして、帰りの支度に取りかかりました。結局、なぜか興奮して誰も寝られませんでした。

ゲイリーたちが生まれて初めてのお風呂に挑戦したり、使っていた品物をゲイリーたちに引き取ってもらったりでそれからが大変でした。夕食の準備もありました。

最後に本当のさよならパーティをするつもりで、アレックスにチキンのセットを5つ買って持って来てくれるように予め頼んでありました5時には、ジョージと一緒に姿を現わすはずです。ゲイリーたちは家を空けられませんので、アレックスとジョージが空港まで見送ってくれる予定になっていました。

仲良しの長男と好物のチキンを頬張るアレックス

この日に限って2人はアフリカ時間でやって来て、焦る私をやきもきさせましたが、それでも6時前からゲイリー、フローレンス、メイビィ、アレックス、ジョージの5人と私たちで最後の乾杯をしました。少しは最後の別れを楽しめるはずでした。しかし、予想に反して、6時半に頼んでいた2台のタクシーが今日に限って6時に到着したのです。仕方なく、待ってもらいました。

しばらくすると、また門の方で車の止まる音がします。出てみますと、おばあさんでした。おばあさんは荷物をもって、タクシーで乗り着けていました。私は鉄の門をひょいと飛び越えて、おばあさんの前に立ちました。もうすぐ出られるのは分かっていますが、それまで庭の隅でもいいですから待たせて下さいと言っています。言葉はゆっくりと丁寧でした。

奥がガレージ、手前が門

しかし、出発間際のこの混乱している時に、なんという思い遣りのなさでしょう。それよりも、庭になど入られたら、応接間でしているさよならパーティをおばあさんが見てしまいます。おばあさんの大嫌いなアフリカ人が靴も脱がずに上がり込んでいるのを見れば、きっと卒倒するでしょう。ゲイリーも即刻馘です。ゲイリーのあの慌てぶりは、馘になったあとの職探しの厳しさを物語っています。ここは、おばあさんを中に入れるわけにはいきません。

この辺りまで、穏やかに行こうと思っていました。そして、落ち着いた口調で言いました。「アイムアングリ。」(私は腹が立っています。)おばあさんがすかさず、問い返してきました。「アー・ユー・ハングリ?」(えっ、お腹が空いているの?)

ここですべてが切れてしまいました。私たちは7時には出発していますので、それ以後に来て下さいと丁寧に手紙を書いてお願いをしました、今日までの家賃はきちんとお支払いしています、その辺りまでは覚えています。それから高い家賃を払った、今は友人との別れの一時を過ごしているので邪魔されたくない、そんなことを大声で捲くしたてたと思います。あまりの剣幕に圧倒されたのでしょうか、おばあさんは一目散にタクシーの中に逃げこみました。その光景がよほど珍しかったのか、タクシーの運転手が目を白黒させたあと、にやにやと笑っていました。英語で怒鳴り散らす事態になるとは、夢にも思っていませんでした。

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おばあさんと言い争った門の辺り

「チサライ」

折角の別れの時間を邪魔されて気持ちの治まらないまま、出発の時間となってしまいました。タクシーの前で、ゲイリーたちと最後の別れを惜しみました。二人で抱き合いましたが、私の顔がゲイリーの胸あたりでした。暗くてよく分かりませんでしたが、みんな泣いているようでした。

長女はアレックスとジョージと一緒に前の車に、あとの3人は後ろのタクシーに乗りこみました。いよいよ最後です。

しかし、まだ最後にはなりませんでした。私たちの乗った車が、途中で前の車を見失って、あらぬ方向に走り出してしまったからです。空港を知らない運転手がいるなんて。しかし、場所を知らない運転手に実際に巡り合わせて1時間ほど付き合った経験がありましたので、真っ青になりました。運転手に、降りて誰かに道を確かめるように頼みました。

白人街で

何十分かの遅れで、ようやく空港に到着しました。長女とアレックスとジョージが荷物の脇で首を長くして待っていました。

それほどの時間の余裕はありません。子供たちを2二に任せて、さっそくチェックインを済ませました。手続きはそれほど待たなくて済んだのですが、子供たちの所へ戻ろうとすると、一度入場したら待合室には戻れませんとガードマンが言います。何ということでしょうか。

激しく言い合いました。言い合っていても埒があきませんので、制止するガードマンと私が問答している間に、妻が擦り抜けて待合室にいる子供たちを呼びに行きました。どんどん人が増えて身動きができないほどの待合室でしたが、子供たちと荷物はアレックスとジョージにしっかりと守られていました。しんみりとお別れも言えませんでしたが、アレックスとジョージがいてくれてよかった、有り難かった、と思いました。

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ジョージの肖像画(小島けい画)

ショナ語でさようならはチサライと言います。慌ただしい出発となりましたが、これで辛うじて飛行機に乗り込めます。2ヵ月半のハラレでの生活の感慨より、正直ほっとした気持ちの方が強かったように思います。昇降口を昇って、機内に入る前に「チサライ。」とそっと呟きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年5月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記23 チサライ」(No.57)

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「ジンバブエ滞在記23 チサライ」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した22回目の「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジャカランダの季節に

電話代

9月に入りますと、ジャカランダがちらほら咲き始めました。ジャカランダ南米原産の大木で、街路樹として街の至る所に植えられていました。薄紫色の花がすっかり色付いた頃に、私たちはこの国とお別れです。

9月も半ばを過ぎると、あちらこちらでジャカランダの花が目に入るようになってきました。そろそろ帰国の準備です。短かい期間ではありましたが、家を一軒借りて住んでみると、後始末の煩わしさも予想以上です。

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ハラレの街のジャカランダ

9月の上旬には、先月分の電気・水道代と電話代の請求書が届けられました。電気・水道代は、街に出かけるゲイリーに頼んで払ってもらいましたが、電話代が問題です。請求書の額面が1000ドルを超えています。確かに国際電話も使いましたが、吉國さんに教えてもらった料金と掛けた回数を考え合わせみても、やはり法外な額です。どうもばあさんが未払い分をためていたようです。電話を切られますとタクシーも呼べませんので、局まで行って説明するしかないでしょう。

街の郵便局

電話局は郵便局の2階にありました。事情を説明して、使った分だけ払いたいので8月分の明細を教えて欲しいのですがと頼みましたら、何年かのうちには明細が分かるシステムになる予定ですが、今は分かりませんので、払っていただくしかありませんと言います。千何百ドルも払うのは大変ですので、何回か同じ説明をしているうちに、双方の前提の食い違いに気付き始めました。相手はとうとう根負けして、ではいくら払えますかと言います。私の頭には請求された限りは全額を払うべきだという固定観念があったのですが、どうやら1度に全部を支払わなくても済むようです。付けがきくというわけです。それならそうと、最初から言ってもらえれば苦労して説明に四苦八苦しなかったのにと思いますと、疲れが倍にも感じられました。水道や電気の場合もそうでしたが、督促状は来るものの、滞納しても別に利子がつくわけでもないし、一部でも支払えば、水道も電気も切られないで済むようです。大量に消費する白人側の圧力があるのかも知れません。これでは市の行政もやり難いに違いありません。

大学構内郵便局

空港では日本から運んで来た5つのトランクが吉國さんの奥さんを悩ませてしまいましたが、そのお蔭で衣類などの不自由を感じないで済みましたし、何よりも食欲を落とさずに過ごすことが出来ました。しかしトランクが多いと、移動時にはタクシーも1台では済みませんし、何かと不便です。イギリスのヒースロー空港では、トランクが多いのにつけこまれて不愉快な思いをしました。充分に用を果たしたところで、思い切ってトランクを2つに整理し、2つを船便で送ろうと考えました。1つはゲイリーに引き取ってもらおうと思います。

大学構内を歩くアレックス

ルカリロ小学校でもらった壷もあります。一抱えもある陶器の壷が、日本までの長い船旅の間に壊れないで宮崎まで届く保証もありません。近くのショッピングセンターに出かけて大きな篭を買ってきました。草の蔓で編んだ篭です。その中にザンビアや衣類を何重にも巻きつけた壷を入れました。トランクの分も含めて、大きな荷物が5つにもなりました。こちらのダンボールは紙の質が悪いので、日本から送られてきたダンボール箱を使いました。
5つの大きな荷物を、1つずつ自転車の荷台に乗せて、そろりそろりと大学の郵便局に運びます。最近出来たこの郵便局では、今までこんなに大きな荷物を送る人はいなかったようで、思わず係員の手を煩わせてしまいました。

大学構内

ジンバブエでは高額の切手は発行されておらず、2ドルの切手が最高です。従って、普段でも航空便などは、何十枚もの切手を舌で舐めて貼りつけます。表に貼りきれない場合は裏も使います。5つとも船便で200ドル前後の料金でしたので、その分で行けば、トランクは切手だらけになりそうでした。しかし、係員はしばらく考え込んだ末、本局に電話で連絡を取る決心を固めたようです。しかし、電話は例によってなかなか繋がりません。長時間の交渉の末、ようやく話が着いたようです。「本局に連絡を取って一括払いに出来るようにしましたから、明日の朝にでも受領証を取りに来て下さい。」と係員が言います。あまりにも気の毒でしたし、まだ4つも大きな荷物が残っていますので、2人の係員にどうぞとそれぞれ5ドル紙幣を手渡しました。ささやかなお礼のつもりでした。

毎回、大きな荷物を自転車で運んで係員の手を同じように煩わせるのは大変でしたが、それでもなんとか無事手続きを済ませることが出来ました。あとは、荷物が無事に宮崎まで届くのを祈るばかりです。

手を煩わせた係員には、その都度5ドル紙幣を手渡しました。毎回毎回大変そうだったからです。その甲斐があったのでしょうか、最初に5ドルを渡した翌日に窓口に行った時には、普段は無愛想に渡される切手を係員自らが貼ってくれました。そして、その次からは郵便局に足を踏み入れたとたんに、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれるようになりました。

ハラレを発つ前日の金曜日に、長女と一緒に郵便物を出しに大学の郵便局に出かけました。ちょうど郵便局の向かいに売店が出来ていましたので、そこでコーラを買って差し入れをしましたら2人の係員に大いに喜ばれました。

郵便局を出たところで、アレックスとジョージに出会いました。コーラを買って来て、4人で一緒に飲みながらしばらく話しこみましだ。ジョージは栓抜きを使わずに上手に2本の瓶を操って栓を抜き長女を驚嘆させました。日本語でジョージはどう書くのかと質問されて、譲治かな情事かなと冗談まじりに、長女は両方ともノートに書いて見せていました。ジョージは、その他にも次から次へと長女に質問を浴びせかけて、日本のことなどを熱心に聞いていました。特に漢字を見て感心し、譲治の書き方を一生懸命に覚えようとしていました。アレックスもジョージも優しかったからでしょうか、長女はこの日からすっかりジョージのファンになってしまいました。

ジョージ(小島けい画)

10月3日の最終日の午前中に最終便を出しました。本の船便でしたが、なんと、2週間後に宮崎に戻った時にはすでに自宅に届いていました。船便で出した小包みを係員が航空便扱いにしてくれたようです。真偽の程は確かめようもありませんが、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれた郵便局員からの温かいメッセージだったと受け取っておきましょう。

盗まれた自転車

9月26日の土曜日の朝早くのことです。まだ薄暗いのに、窓の外から騒がしい話声が聞こえて来ます。眠気眼を擦りながらカーテンの隙間から覗いて見ますと、ゲイリーとフローレンスがこちらを向いて何やら真剣な顔で叫んでいます。妻や子供を起こさないようにと気を遣いながら外に出て2人の話を聞いてみますと、自転車が盗まれたと言います。ガレージに置いてあった2台が、明け方のうちに姿を消したようです。

突き当たりがガレージ

自転車は鍵を掛けないまま、シャッターを下ろしていないガレージに入れてありました。しかし、ガレージの北の端の方に置いてありましたから、門の方角から見えることはありません。外部からは見えないわけです。

門から入れば、ガレージまで行くのに、私たちの寝ている部屋の真横を通るはずです。誰も物音には気付いていません。ゲイリーは、明け方にガレージでかすかに音が聞こえたと言います。

玄関に寝ているデインは、死角の位置にあって門からは見えませんが、物音がすれば起きないはずはありません。ゲイリーによれば、シャッターを下ろしていないガレージに自転車を鍵を掛けないままで置いていた、1週間先には私たちが帰国するので近いうちに自転車を処分するかもしれないという事情を知った上で、帰国する日の1週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方を狙った(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる確率が高いそうです)、しかもデインが吠えなかったなどを総合して考えると、やはり以前からここで働いていてデインを手懐けられる人間、つまりグレイスがやったとしか思えないと言います。もしそれが本当なら、グレイスの件はあれで終わってはいなかったわけです。

ゲイリーとデイン

ハラレの生活にも慣れ、誰もが気分的にも少々浮かれた状態になっていましたが、ショナ人から「あなたは短期滞在の外国人に過ぎないんですよ。」という強烈なメッセージをもらったような気がしました。こちらは知らないつもりでも、いつも周りから見られていたんだと改めて思い知らされました。場合によれば刃傷沙汰に及んだかも知れないと考えると背筋が寒くなりました。給料の1年分、2年分にも相当する自転車を盗むのですから、見つかった時のそれなりの覚悟を決めての犯行だったに違いありません。発見された場合、相手も必死ならこちらが怪我を負わされる可能性も充分にあり得たでしょう。盗みの現場をへたに発見しなくてよかった、自転車2台で済んでよかった、私たちはそう思いなおして胸を撫で下ろしました。

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自転車に乗ったゲーリー

ところがゲイリーの方はそうはいきませんでした。帰る時に処分しないで、ゲイリーたちに自転車2台を残していくつもりだったからです。自転車に乗れないフローレンスは毎日のように、庭で乗る練習を重ねていました。練習の成果があって、ようやく乗れるようになったばかりです。その落胆ぶりは、見ていて気の毒なほどでした。メイビィでさえ、泥棒が自転車を担いで歩く仕草を何度も披露して見せてくれました。ゲイリーから繰り返し話を聞いていたからでしょう。ゲイリーはどうしても諦められないらしく、この地域の白人が雇っている私設警察に届けに行くと言い出しました。この辺りの白人地区ならわかりませんが、ロケイションにいけば、盗んだ自転車を捜しだすのは100パーセント不可能だと思います。

しかし、ゲイリーの決意は固く、動きそうにありません。無駄を承知で、朝早くからゲイリーについて、家の向かいにある私設警察の小綺麗な木製の小屋を訪ねました。

おそらく、複数の手慣れた連中の仕業でしょうが、土曜日の明け方に音も立てずに2台の自転車を運び出した手際の良さはさすがです。妻は自転車だけで済むだろうかと心配で、熟睡し難くなったようです。

ゲイリーには済まないとは思いますが、誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いだったと今でも思っています。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年4月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」(No.56)

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