2010年~の執筆物

「アフリカとその末裔たち2一覧」(「モンド通信」掲載分の番号、題などを修正)

『アフリカとその末裔たち2』

2014年

<1>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→「続モンド通信10」(2019年9月20日)に収載。連載開始。

<2>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)

<3>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載)→「続モンド通信11」(2019年10月20日)に収載。

2015年

<4>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加→(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)
ここから

<5>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正→(「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)

<6>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)

<7>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)

<8>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 82」 、2015年5月30日)

<9>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)

<10>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)

<11>→「アフリカとその末裔たち 2 (2) ①And a Threefold Cord」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)

<12>→「アフリカとその末裔たち 2 (2) ②The Honourable MP」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)

<13>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)

<14>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)

<15>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)

2016年

<16>→「アフリカとその末裔たち 2 (4) アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)連載終了。

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在

ハラレに行く前の何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて書きながら、反アパルトヘイト運動の集会に出たり、講演に呼ばれて話をしたりしていました。国立大学に職を得て在外研究に行けることになった時、本当は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行きたいと思っていました。しかし、申請時の1991年はまだ南アフリカとの文化・教育交流が禁じられていましたので(白人政府の良きパートナーですから経済的な繋がりは批評に強く、経済制裁や文化・教育交流の禁止は表向きだけの政策でしたが)、ジンバブエに行き先を変えました。南アフリカの入植者が住んでいたショナ人から土地や家畜を奪って作り上げた国なので制度が南アフリカとよく似ているうえ、アメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地であったこともあって、映画の中のあの赤茶けた大地を見たいなあと思ったからです。
ジンバブエは1980年に独立していますが、経済力は完全に白人に握られ、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけっているという点では、他のアフリカ諸国と社会の構図は同じで、大統領のムガベが支配する社会主義路線の一党独裁が続いていました。

そんな国で、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできました。ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市で、欧米並みのシェラトンもあります。1200メートルの高地にあって極めて過ごしやすい土地でした。気候も温暖で、庭にはマンゴウやパパイヤがなっていました。

白人街の500坪ほどの借家

大学と子供の学校に近く、自転車で通える範囲内で、という条件で家を探してもらいました。「ジンバブエには少数の貴族と大多数の貧乏人しかいませんので不動産事情が恐ろしく悪く、ホテル住まいも覚悟して下さい」と言われていましたが、出発の2週間前に、「新聞広告が効いて、家が見つかりました」と連絡をもらい、一軒家に住むことが出来ました。アレクサンドラ・パークという白人街の500坪ほどの家で、大きな番犬と「庭番」付きで家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)でした。

画像

ゲイリー(ガリカーイ・モヨ)

  住み込みで24時間拘束される「庭番」のゲイリー(通称で、本名はガリカーイ・モヨ)とはすぐ仲良しになりました。正直な優しいクリスチャンで、住み始めてから10日ほど後に、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段白人の家主がいる場合家族はいっしょに住めないようですが、僕らが住むようになって家族を呼び寄せたのでしょう。私たちの2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)とゲイリーの3人の子供たちはすぐ仲良しになり、毎日ボールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだりして楽しそうでした。
庭で遊ぶ子どもたち

ゲイリーの月給が170ジンバブエドル(42000円ほど)、子供たちが蹴っていた段ボールが140ドル、番犬の餌代が150ドル、何とも複雑な気持ちでした。

ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約一万人、当時は70パーセントがアフリカ人、農学部に小象がいたりして広々としていましたが、体育館もなく、図書館の蔵書も極めて貧弱でした。大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどなく、あっても経済的には使えない人がほとんどなので、授業の間、質の悪い紙のノートに、インクの出の悪いボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。
ジンバブエ大学教育学部棟

新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、白人街にあるキャンパスの広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。

ジンンバブエ大学ではアレックス・ムチャデイ・ニュタとい教育学部の3年生(最終学年)と仲良くなりました。その年の終わりにジンバブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生でした。自分のいる寮に案内してくれた時、いっしょに食べたアイスクリームのお礼にと、金もないのにコーラをおごってくれたのが出会いでした。食べること自体が難しい大半のショナ人にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」だと、アレックスは言っていました。

ジンバブエ大学学生寮ニューホール

画像アレックス

直接お世話になった英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書き、22冊も出版をしていました。
ツォゾォさん

大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から大変でしたし、滞在中も、搾取する側の人間として、搾取される側の歪みばかりが感じられて終始息苦しいばかりでした。

行きにロンドンに10間滞在して、亡命中だったアレックス・ラ・グーマ夫人のブランシさんと、帰りにパリに1週間滞在して、リチャード・ライトの国際シンポジウムでお会い出来たソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。

ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で

ソルボンヌ大学を背景にミシェル・ファーブルさんと家族で

アレックスが部屋に連れて来た学生の最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。日本ではジンバブエに行く前にライオンに気をつけてねと何度も言われました。お互いを知らないで、グローバル化もないやろ、そんな気がしました。

以降、英語の授業の中で、アフリカやアフロアメリカの話題を取り上げ、滞在中に感じた加害者側の息苦しさを、学生に語るようになりました。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (2) ② 『誉れ高き国会議員』(The Honourable MP)

 画像

『誉れ高き国会議員』

前回のラ・グーマが描いたアパルトヘイト時代のスラムを描いた『まして束ねし縄なれば』に続いて、今回は独裁政権の続くジンバブエで辛うじて政権批判が作品にこめられている戯曲を選びました。ゴンゾウ・H・ムセンゲジィ(Gonzo H. Mesengezi )の『誉れ高き国会議員』(The Honourable MP)です。『誉れ高き国会議員』は、1992年にジンバブエ大学で在外研究をした時に見せてもらった英文科の授業で取り上げられていた英語の戯曲です。英語科では受講する学生が話し合ってテキストを選び、仕上げに毎年街で劇を上演するそうです。

ジンバブエ大学学生寮

 講義と実技を担当していたのは20冊以上の著書のあるツォゾォさん(英語科の科長代行)。オハイオ州立大学で映像と演劇の研究をしたそうで、授業は英語でやっていました。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん

 田舎の選挙区から選ばれた国会議員が、選挙民を忘れて贅沢三昧の日々を送る話です。二幕六場の短かい劇で、その概要です。

一幕一場。
国会議員シェイクスピアの愛人イザベラのマンションに教員時代の生徒だった青年チトが田舎から訪ねて来て、旱魃で飢えに苦しむ村人たちの惨状を訴えますが、突然妻が訪ねて来て国会議員は、青年と自分の愛人をカップルに仕立ててその場を凌ぎます。

一幕二場。
国会議員夫婦の寝室で妻が注射器とペニシリンを見つけて一悶着あり、国会議員は床の上で寝るはめに。

一幕三場。
食堂で、取るはずの休暇をマダムに取り上げられたガーデンボーイのスペンサーが、独立前の白人マダムよりも質(たち)が悪いと不満を並べ立てます。国会議員が何とかなだめたあと、妻がナイロビで買った日本製品の自慢を始めます。聞いていた青年チトは「日本の技術は疫病のように世界を荒らし回っています。ある日起きてみたら日本の科学者が首相になっていても不思議ではない程です。」と言いながら続けます。

日本は天才の土地
すべての島とは違う島
車が列をなしている光景が今目に入ります
明るい東京のネオンサインの下に
私たちのこの暗黒大陸を目指して
日本製のダットサンに乗ってわれらの司令官が危なっかしく車を乗り回します
日本製のパトカーに乗った警官が通りをパトロールします。

「カップル」に仕立てられた二人は帰り、国会議員は車でムバレ市場に向かいます。

一幕四場。
シェイクスピアの選挙区で、ある中年夫婦が旱魃で三日ほど何も食べていない人たちのために食事を提供し、人々は列をなして出される食事にがつつきます。農民の女性がクワショーカ(蛋白不足で起こる病気)にやられた赤ん坊を背中から下ろすと、赤ん坊は激しく泣き始めます。

二幕一場。イザベラの部屋で、議員から大手銀行に出す借金の申し込み書を渡されて、私設秘書と愛人を続ける自分の過去を振り返ります。小学校をでたあと街に出て仕事を見つけて、昼も夜も働いて秘書になり、ある日、大学卒業間際の初恋の相手に再開し、何度か部屋に行ったあと妊娠が発覚。報告すると、「卒業前の大学生がどうしてお前のような学のない女を孕ませるんだよ?」と言われて、捨てられます。そのあと職を変えて、最後に秘書になって、議員の愛人になりました。

二幕二場。
国会議員の選挙区で、選挙民を前にいかに自分が援助資金のかき集めるために世界を駆け回って成果を上げているかを語りますが、突如一人の農民が立ち上がり、怒りをぶつけます。

騙されるな、騙されるなよ。何年も同じことを聞いて来たよ。で、実際に何を見たかって?電車、そう、でも腹を空かせた人間にどんな電車が要るって?中学校、そう、しかし自分たちの手で拵えた中学校がある・・・・使ってない土地をきれいにして種を蒔き、私たちの家を建てた、それで何が起こった?警察犬を連れて警官が来た。ブルドーザーが俺たちの家を潰した・・・・ブルドーザーが作ったものを駄目にした、そして今旱魃だ。家もない。

作ったものもない。蔵は空っぽ、議員も村長もいない・・・。・・・この子供たちを見てくれ。完全にクワショーカ(栄養失調)にやられている。下痢で死にかけているのもいるし、飢えと渇きで死にかけているものもいる。俺たちはあんたを議会に送った、それであんたは何を持ってきてくれた?あんたは骨を追いかける犬みたいに小さな女の子の尻を追っかけてばかり。(イザベラを左手で抱きかかえながら)この子のお腹には子供がいて、父親はあんただ・・・。

議員は銃を抜いて構えますが、チトが飛びかかって銃を蹴り飛ばし、議員の怠慢を責め、みんなに「農民と労働がこの旱魃を乗り切ろう。自分たちの力と未来を信じよう」と語ります。

ビラ音楽が流れ、幕が上がります。

ジンバブエでは与党が圧倒的に強いために、政権を批判するのはかなり難しいのですが、この劇は社会問題にからめて暗に政権を批判している数少ない作品の一つです。公演の日にはすでにパリにいましたので、観劇はかないませんでした。招待されながら授業の成果をこの目で確かめられなかったのは、心残りです。

日本が批判的に描かれていますが、キャンパスで知り合った学生のアレックスは「日本は経済力があるんだから、外国人に日本語をしゃべらせればいいのに」と言っていました。南アフリカからイギリス系の入植者が来てからわずか百年程しか経っていないのに、大学構内ではアフリカ人同士が英語を使っていました。当時ハラレにいた日本人は百人足らずだと聞きましたが、街で見かける車の半数はMAZDAでした。かつて日本が台湾や韓国の人たちに無理やり日本語をしゃべらせた史実をアレックスは知っていたのかなあ?(宮崎大学医学部教員)

アレックス・ムチャデイ・ニョタくん

2010年~の執筆物

門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」にNo. 63 (2013年11月)からNo. 71 (2014年7月)まで連載したAfrica and Its Descendants (Mondo Books, 1995)の解説(英文・日本語訳も)です。↓

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史後半」

<3>→「南アフリカ小史前半」

<4>→「南アフリカ後半」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<6>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<7>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<8>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<9>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

アフリカ人とアフリカ系米国人の歴史を虐げられた側から捉え直した英文書で、英語の授業でも使いました。アフリカとアフロ・アメリカの歴史を繋いで日本人が英語で書いたのは初めてだと思います。

一章では、西洋人が豊かなアフリカ人社会を破壊してきた過程を、奴隷貿易による資本の蓄積→欧州の産業革命→植民地争奪戦→世界大戦→新植民地化と辿りました。

二章では南アフリカの植民地化の過程と現状を詳説しました。全体の半分を占めています。

三章では奴隷貿易→南北戦争→公民権運動を軸に、アフリカ系アメリカ人の歴史を概観しました。

『アフリカとその末裔たち』