つれづれに:余震(2022年7月6日)

2022年7月6日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:余震

 億に近い数千万の「揺れ」(7月5日)が大きかった分、余震もなかなかだった。①第1抵当の返済、②在庫の処分、③母親の生活、の余震が長く続いた。親の借金を子供が支払う法的な義務はないなど、現実の前では空しいものである。逃げるのが一番だが、逃げる先が見えてしまう性(さが)はどうしようもない。弁護士の提案が一番いいとは理解したが、①第1抵当の返済、が前提である。つまり抵当権を行使されて競売で安く買い叩かれるのを防ぎ、何とか配当率を上げる、そういう提案だが、それも借りてもいない子供自身が返済するというのが大前提である。法的義務の話を切り出せる立場でも、雰囲気でもなかった。現実には母親が拵えた借金を子供が払う、にかわりはない。在庫処分の額を第1抵当の返済に充てても、月々の返済は相当な額である。到底一人では払い切れず、弟二人と分けることにした。もちろん分割返済である。五人兄弟だが、それぞれの形で家を出ている。生まれ落ちた先が元々おかしいのだから、正常な反応だったのかも知れない。借金騒ぎの前まで下の弟と妹は家出していたが、弟だけは戻って来ていて、母親と新築の家に住んでいた。知ってか知らずか、連帯保証人にもなっていた。結婚を期に私と上の弟夫婦は家を出た。とっくに姉は逃げるように結婚をして出て行っていたし、下二人は家出中だった。一人になる父親は、出ていくんか、とぽつりと呟いていた。
兄弟はそれぞれの形で苦しんで来ていたわけだ。女性3人はいつも自分の不幸をひとのせいにしていたが、人のせいにする気にもなれず、誰かを憾む気にもなれなかった。だから、可能な範囲で、母親の借金を分担すればいいと考えて、男三人で第1抵当の返済を分担したのだが、下の弟はまた逃げてしまった。上の弟と私の負担が、増えた。

 ②在庫を処分して第1抵当の返済に充てるという弁護士の提案も頭では理解できたが、並大抵ではなかった。私と弟夫婦で六百~八百万ほどの在庫を売ることにしたが、三人とも商売とは無縁だ。弟夫婦は車両造りの技師と看護師、私は口だけ動かす教師、弟のハイエース(↑)に毛糸など(↓)を積んで土日に行商である。土日の行商は、もちろんきつかった。弟の妻は今でも影響がある程の大病をして、私の娘は失語症になった。何とか百万くらいは現金化したような気もするが、代償の方が大きかった。

 ③結婚を期に私が上の弟と家を出たあと、家を売ったことも、父親が粗末なアパートに入ったことも知らなかった。出て行くときは衣類と段ボールひと箱しか持って出なかったので、部屋に置いていたものはすべて消えてしまった。住む家がなくなった母親の生活の面倒も、私が引き受けざるを得なかった。当初はサラ金の恐怖でしおらしかった気もするが、数年ほどおとなしくしたあと、いなくなった。その間、返済の他に母親用に家賃と決まった額を出した。私たち夫婦二人の給料がざるに水を入れるように消えていくのが、虚しかった。宮崎に来てから、どこかの役所や病院から何度か電話がかかって来たが、旧姓で届いた最後の手紙は開けなかった。離婚は考えたことがないと妻は言ってくれるし、私がした借金ではないが、この頃のことを思うと心が痛む。
人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?子供は親に孝行?親が子供に勉強しろ?
すべて絵空事で虚しい。自分がそんなところに生まれたことを憾むのも、先が見えて虚しい。生きて30くらいかと思いながら、思わず結婚して子供も出来た。心の中では過去をいまだに払拭出来ない部分もあるが、私と妻や子供との生活に、無意識に過去を引き摺らないという気持ちは働いているようだ。こどもが「人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?」と思わなくても済んでいたら、嬉しい限りである。
次は、ゼミ、か。修士論文を書いていた大学院(↓)のころの続きである。