つれづれに:ゼミ選択(2022年6月14日)

2022年6月14日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ゼミ選択

 九州南部は何日か前に梅雨入り宣言、雨の日が続く。紫陽花(↑)の季節である、と言いたいところだが、宮崎では紫陽花もそろそろ終わりである。

「英文学1」を避(よ)ける方法が最初の問題だったが(→「大学院大学」、6月13日)、給与も出て修士号も取れるのだから、不満があったわけではない。しかし、2年間は短かい。修士論文の目安をつけて資料を集め、一日も早く書き始めたい、その気持ちは強かった。先ずはゼミ選択である。教員の構成から見れば、選択肢はないのだから「英文学1」のゼミを取るのが普通だが、出来れば避(よ)けたかった。最初の教員紹介で「英文学1」は、広島大出身、和歌山在住、2年前まで大阪の教育系の大学で教授、自宅からは大阪からの高速バスで山の中の新校舎に来学、大学近くの教員宿舎に単身赴任、英文学でキーツが専門、ということだった。物腰も柔らかそうで、言葉遣いも極めて丁寧、英文学専攻だけあって、いかにも英国紳士風だった。だが生憎、私は「英国紳士風」が大の苦手ときている。英文学に詩、何とか避(よ)ける方法はないものか。言葉とは裏腹に、日本の「英国紳士風」な人が、髭や反体制風をすんなり受け容れるとは到底思えない。信用されないまま丁寧な物言いに合わせるしかない自分の姿が、目に浮かぶ。英語学の助教授が素朴な感じでいい。研究室を訪ねてみるか。

 次の日、さっそく研究室を訪ねた。結婚を期に家を出て、最初は明石市の東端の朝霧駅近くのマンションで暮らし始めたが、子供が出来て新築の職員宿舎に引っ越しをした。明石市の西の端にあって、学校へは自転車で通えた。しかし、両方に仕事があると、小さな子供との生活はなかなか大変だった。すぐに熱を出す。幸い保育所には預かってもらえたが、母親といっしょにいたがって体が反応するのか、ほんとうによく熱を出した。なかなかすぐには下がらない場も多く、タクシーが来なくて妻が一人で病院まで歩いて連れて行ったこともある。この時期、母親の借金のことや課外活動もあって、妻に負担がかかり過ぎた。ある日、家に帰ると、朝霧に帰ると妻が言った。父親が一人で住む朝霧の家に三人で転がり込むことを決めたようだった。

海側からの朝霧駅

 明石の名産丁稚羊羹(でっちようかん)を持って出かけた。赤松藩なのになんで丁稚羊羹なのか、さっぱりわからない、と出版の打ち合わせで横浜の出版社を訪ねた時に、持って行った丁稚羊羹を眺めながら社長さんが言っていた。なんでも知っている人のその時の質問の真意はさぱりわからないままである。英語学の助教授は四十代の初めくらいで、院生からは少し軽く見られているような感じがあった。院生の年齢が高いせいもあったかも知れない。あまり学生も来ないようで、嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。英語学の枠で採用、前任は九州の医科大、アメリカ滞在の経験あり、文学もやっていた、職員宿舎住まいで女のお子さんが二人、そんな話だった。アメリカに滞在、文学もやっていた、それで充分である。出来ればゼミを持ってもらえませんか、英文学、英国紳士風はどうも苦手で、私からはそんな話をした。いちおう上とも相談して後日にまた、ということでその日は終わった。後日、私としては持ってあげたいんだけど、中の事情もあって、また遊びに来なさいよ、ということだった。専攻も違う助教授が文学の教授がいるのにアメリカ文学を指導、というわけにはいかなったようである。英国紳士の面子(めんつ)もある。とその時はそう思っていたが、後に大学院を担当する立場になって、学部より大学院の予算ははるかに多く、修士論文指導の院生を持てば、手当てがつくと知って、なるほどそういう事情もあったのかと合点がいった。しかし、ものは考えようである。アメリカ文学を知らない人ならいちいち口出しされなくて済む、指導教官がいないのと同じなら、好き勝手にやれるということである、その切り替えは早かった。修士号が取れれば文句なしである。
次は、キャンパスライフ2、か。

明石