つれづれに:大学院大学(2022年6月13日)

2022年6月13日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院大学

 大学を新設する場合、文部省は認可に際して色々文句をつけてくる。大学院大学(↑)の場合、文部省が日教組の強い反対を押し切って強引に創った(→「大学院入試2」、6月10日、→「分かれ目」、6月11日)ようだから、有無を言わせず国の方針を押しつけるのも可能だっただろうに、見せかけは一応大学の意向も聞いてということらしい、それが民主主義とでも言うのだろう。大学紛争で国にこてんぱんにやられた人たちが、次は同和問題に絡んで高校紛争でも闘い続けたようだ。大学院大学はその頃に考えて創られたようだから、目的は教育での民主主義的な管理の強化だったのだろう。それに革新勢力の強い日教組が強く反対したという構図らしい。教頭になるには校長の推薦が要る、指導主事は辞める人の指名など、そんな旧態然としたなあなあの人事に支えられて、何とか管理体制を維持して来たものの、安保闘争(→「大学入学」、3月27日)、同和問題(→「面接」、5月9日)などで大きく揺れて、体制強化のための次の策が必要だったらしい。

バリケード封鎖された学舎(同窓会HPより)

 そこで思いついたのが複数の中間管理職、教員をより細かく分断し、教員間の軋轢をうまく使えば体制強化が図れる、とでも思い付いたのか。最初の時点では、まずは兵庫に一つ、だったようである。その後、新潟、徳島と続いた。
しかし、新設を作ると言っても、関わる人が基本的に変わるわけではない。既存の大学からの寄せ集めだ。新設を利用して異動する人も多い。呼ばれた人には有能な人が多いが、便乗異動組の評判は芳しくない。大学のお荷物になる人も少なくない。私が入ったところも、教育系なので広島大出身者が中心の人事だった。実際には、ミニ広島大のような顔ぶれだった。当然、それまで培った考えや体験が新設校にも反映される。英語科の教員の内訳は、教授4、助教授2の計6人、そのうちの教授2と助教授2が広島大の卒業生だった。教授6人の専門は、英語学3、英文学1、英語教育2だった。当時としては英語教育2は多く、旧弊に従えば、英文学3、英語学2、英語教育1といった辺りか。文部省の認可には何かあたらしく見える目玉が必ず必要で、この人たちは、言語系コースの英語と国語の二つの壁を取り払って「あたらしい」言語表現を目玉にすることを思いついたようだ。創立当初から、教員と院生で作る言語表現学会をスタートさせている。「言語表現研究」には国語と英語の両方が含まれていたが、実際には壁を取り払うための学問的な交流はなかった、と思う。

「言語表現研究」

 私は疲れた体を休め、修士号が取れればよかったので、方針がどうであれ、大学の構成が如何にあれ、文句を言う筋合いもなかった。修士論文を書くときに「指導」を受けるゼミを決める必要があるが、アメリカ文学で書くつもりだった(↓)のでほぼ選択の余地はない。案の定、英文学の枠にアメリカ文学は入ってなさそうだった。大学院入試で必須の英文学史を敢えてしなかったくらいだから、英文学は苦手である。(→「大学院入試」、5月10日)何とか「英文学1」を避(よ)ける方法はないものか。最初の現実的な問題だった。
次回は、ゼミ選択、か。

小島けい画リチャード・ライト(『アフリカとその末裔たち』挿画)