つれづれに: 大学4:無意識の「常識」4(2022年2月5日)

2022年2月6日つれづれに

つれづれに: 大学4:無意識の「常識」4

パン屋さんに行く途中で、見事な梅を見つけた。満開に近い。よく通るのに、今まで満開の時を見逃していたようだ。立春とは言え、陽が照らないと寒く感じるし、今日のように風が強いと寒さもなかなかである。こうして春になって行くらしい。今年は種から苗を育てようと思っているが、うまく行くかどうか。何とか種を確保した鞘オクラとピーマンと、買って来た胡瓜と茄子ととまとの種をポットに蒔いて、ガラスケースの中に入れてみようと思っている。今年は零下になる日が今のところないが、夜中は気温も下がる。夏野菜が芽を出してくれるといいが。とまとは雨に弱いので、雨よけの柵も少しずつ作業を進めている。風をまともに受けないように、南側の両隅に金木犀の樹を風よけに使って畝を拵えようと思っている。冬は木陰になって陽が当たらないが、夏は陽が真上から射すのでその心配も要らない。この時期ずーっと学年末の課題評価や学期初めの準備などで時間的な余裕がなく、とまとといちごはうまく行ったためしがない。市販のものは今はほぼハウス栽培だから、地から取れるといちごととまとは、やはり味が違う、そう言ってみたい気がする。

「梅とぴのこ」(2010年2月21日)、→「梅とぴのこ2019」(2019年2月20日)

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、その頃の教育環境やクラスメートなどについて書こうと思う。

高校に関心がなかったとは言え、家や地域社会や学校に腹を立ててばかりの高校生活は、考えてみると哀しいものである。高校に関心が持てなかったのは、どうも思いこみの激しい自分自身の性格のせいのようで、一つのことに目が行くとのめり過ぎてほかに目が行かなくなるらしい。元々人が嫌いではないし、生涯続く親友が出来ていてもおかしくなかったと思う。小学3年まで過ごしたスラムのような密集地帯に住んでいた時も、川を挟んで西側にある旧市営住宅に移ってからも、同年代といっしょに毎日何かをして遊んでいたようだ。3年生で引っ越しをする時によく遊んでいた同じ学年の一人と別れるのが辛くて泣いた記憶がある。近くに素麺工場の広い敷地があり、よくそこでもいっしょに遊んだ。親は素麺工場や大きな米屋もやっていて、それなりの地元の名士だったようである。何回か家に行ったことがある。高校に入った時、同じ学年にいるのがわかったが一度も話をしなかった。不良ぽい連中といっしょにいたので、声を掛けそびれてしまったのかも知れない。別れが辛くなるほどの親友だと思っていたのは自分だけだったのかと気落ちしたのを覚えている。小さな広場に集まって暗くなるまで遊んだり、川に魚釣りにも出かけたようだ。戦争で鉄が不足していたので、壊れかけの大きな磁石の塊に紐をつけて歩き回り、屑鉄をあつめて屑鉄屋に売りに行ったりもしていた。どちらも貧乏な人たちが多く、密集地帯の近くには山口組系の事務所があった。貧乏で、親の愛情に飢えた、気持ちのささくれ立った子供たちがやくざの予備軍である。特に引っ越した先の近くの長屋には親がやくざの人たちもいた。いつもお腹を空かせてがつがつしていたが、よくいっしょに遊んだ。中学に入ったとき、やくざ予備軍の子弟の不良連中がいて気に入らない成績のいい生徒を廊下に呼び出して、みんなが見ている前でよく殴っていた。殴られた生徒が痛いと言うと、何が痛いねん、と殴っていたから筋金入りである。私が殴られなかったのは、そのとき遊んでいた一人が、あいつはやめとけや、と止めて入ってくれたお陰だそうである。パチンコ屋が並んでいる街中を通っている時に、小さな頃に遊んでいた一人と会って、喫茶店で話をしたことがあるが、その時にその話を聞いた。中学を出たあと就職もせず、昼間からパチンコ屋の周りをうろついていた。喧嘩はそう強くなかったが、気性のさっぱりした遊び仲間だった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

周りは貧しい人が多かった。引っ越しをした家の近所に、朝鮮部落が二つあった。戦争で両方の政府から見捨てられたらしく、大変そうだった。日本人の嫌がる仕事をしている人が多く、両方の部落では残飯を集めて豚を飼っていた。その残飯が腐って、特に夏には強烈な悪臭が辺り一帯に漂っていた。弟はその部落の一人とつるんで、悪さばっかりしてたわ、と言っていた。腹が減ってたんで二人でなんでも食べたけど、いたちはあかんで、臭うて食べられへん、あいつ、北朝鮮のスパイやったみたいで、北に帰ると言ってたから、今頃北ちゃうか、と話してくれたことがある。私は同級生の家に寄せてもらったことはあるが、親しくなった人はいなかった。在日一世に日本人はことのほか厳しかったようで、一世は子供に日本語を強要したと聞いたことがある。クラスメイトにも朝鮮部落から来ていた人が何人もいたが、朝鮮語を聞いたことがない。親しくなって言葉を教えてもらっておけばよかったという思いは、今もある。朝鮮人も貧しかったが、朝鮮部落の周りには劣らず無知で貧しい日本人が、粗末な小屋で暮らしていた。そんな人たちがなぜか目に入った。大学に入った時に牛乳を配っていたが、朝鮮部落の一つも配達区域に入っていて毎朝そのそばを通った。貧乏が身近だったせいか、貧しい人たちのために何か出来ないか、いつもその意識はあったように思う。高校時代はそんな社会活動を優先した。→「戦後?①」(2021年11月24日)

高校ホームページから

時代的、地理的なこともあって、塾や家庭教師も少なかったと思う。ただ、高校では始業前に補習をやっており、教師が金を集めていた。嫌なのに金を払うんか、と腹が立ったことがある。今なら副業規定に抵触して、問題になるところだ。ずいぶん前に廃止されたようだが、宮崎に来て、朝課外、夕課外と言う名の補習が強制的なのに驚いた。前時代的な感じがした。高校には友だちとクラブだけで行ってもええかと言った息子は、普通でも授業多いのに課外て、ようさんしても出来るわけやないやろ、と怒って行かなかった。

中学、高校から私学に行く人もほとんどいなかった。周りでは小学校が同じで東大に行ったのが唯一灘を受験したようだが、県立高校でいっしょだった。灘や甲陽なども遠かったし、白陵も出来て間もなかったので評判はよくなかった。のちに教員をした高校の校長が、ワシの同級生が始めた私学や、と言っているのを聞いたことがある。本人に確かめたわけではないが、一、二年の担任が数学で、成績のいい生徒は家で教えてもらっていると聞いたことがある。当時は進学校の英数の教師は家で生徒に受験指導をしても容認される雰囲気があったと思う。姫路にカトリック系の私学があって、小学校で同じだったのが中学校からその学校に通っていた。家に何度か行ったことがあるが、離婚して薬局をしている母親と兄と祖父母と暮らしていた。母親は薬剤師でインテリのかおりがした。全員がクリスチャンで、兄とともに系列の私学に通わせたようである。周りと雰囲気も違っていたので毛色の変わった天才肌と感じたこともある。どうも本人も家族も人嫌いだった気がするが、なぜか、一時期いっしょにいたし、家にも呼んでくれた。高校を卒業したあと神大に行って、神戸市の高校の教師をしていた時に、顧問をしていたバスケットボールの試合で再会したが、天才肌の感じはしなかった。

次回は、まだ続きで無意識の「常識」5、か。

梅の樹は8本あった、満開と7分咲きくらいである