つれづれに:大学入学(2022年3月27日)

2022年3月28日つれづれに

つれづれに:大学入学

すっかり諦めもついて、よう持って30くらいまでやろなと思いこんで入学した割には、大学は面白かった。入学した年が1971年、1970年の安保闘争で国と闘っていた学生が安田講堂から機動隊に排除されて墜ち、同じ学年の東大生全員が留年したことも全く知らなかったから、入学の日に校門から登る階段の上にヘルメットを被り、ゲバ棒を持っている学生たちが並んでいるのを見ても、反応の仕様がなかった。階段教室で、学長の話と合唱部の校歌と「我々全共闘は…」のマイク越しのがなり声を同時に聞きながら、おもしろそうとは思ったが、まったく事態は飲み込めなかった。なかなか刺激的な出だしだったが、大学の空間さえあればよかったので、心は全く動かなかった。気遣ってくれる両親に恵まれて高校ですんなりと受験勉強に励んで京大の文学部にでも行っていたら、無精ひげに下駄履きの風体だけは充分に資格を満たしていたのだから、ゲバ棒を握り確実に国家に歯向かっていたような気もする。しかし、そうはならなかった。たぶん、ひとり別世界にいたんだと思う。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

必要以上に大学には行かなかったが、新鮮だった。入学後すぐに学舎が封鎖され、クラス討議とかが長いこと続いたが、30くらいまでの束の間の空間さえあればよかったので、特段問題はなかった。

高校までの子供扱いの鬱陶しさがないのが、よかった。出席半分で試験が受けられたし、欠席しても咎められる雰囲気はなかった。すべて、学生任せの大人の扱いである。都会にあって、風通しがよかったのかも知れない。戦後創られた外事専門学校が新制大学になり、神戸市が経営母体で、京大などから来た人たちが自由な気風を作り、卒業生で教員がまかなえるようになった後も、創設時の学問的な自由が引き継がれていたのかも知れない。入学時、大人扱いされ、学問的自由の雰囲気は漂っていたと思う。その空間が何よりだった。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

毎週マッサージに通っている白浜に行く途で、すでに田植えが始まっているのを知った。この時期になると、三十年以上も前に初めて見た田植えの光景をいつも思い出す。きのう、片付けも済んだ木花の研究室に授業で出会った人たちが訪ねて来て、お祝いをしてくれた。みんな無事に卒業をして国家試験に通った「大先生」の面々である。宮崎に来てから、ずいぶんと経つ。すっかり、春になった。→「超早場米」(2021年8月12日)、→「春めいてきました」(2013年3月11日)

次回は、夜間課程か。