つれづれに:分かれ目(2022年6月11日)

2022年6月11日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:分かれ目

 甲南女子大学(↑)で行われた教員再養成のための大学院大学の入学試験が、文字通り人生の大きな分かれ目になった。教員経験5年以上の条件も満たせそうだし、退職した「鉄ちゃん」の後任で来た校長にも会って受験の承諾も取れたし、あとは大学時代の教員の誰かに推薦書を書いて貰えば準備は終わる、その予定だった。「英作文」(4月2日)の授業で『坪田譲治童話集』をテキストに選んでくれた人に頼みたいと思ったが、胃癌で胃をすべて取ったらしく、入学試験の監督中に容体が急変して52歳の若さで急死していて頼めなかった。他には思いつかなかったが、推薦書は要る。なぜかその時、教育原理の授業でマルクスの『経済学・哲学草稿』の人間疎外の話をえろう元気にしゃべっていた人のことを思い出した。(→「教員免許」、5月3日)電話で連絡を取り、奈良の自宅まで出かけた。

「あのう、出身大学の教員の書いた推薦書が要るようですので、お願いに来ました。よろしくお願いします。」
「お前は何を考えとるか!ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃあ!馬鹿者!推薦書なんか書けるか!帰れ!」

何もこんな近くで大声で怒鳴らなくても聞こえますけど、と思ったが、中間管理職を増やして教師の分断を目論み、締め付け強化を図ろうとする文部省に日教組が強く反対するのは、反体制を意識し始めていたので、充分に理解できた。5年間教員をしながら、校長と教頭以外の中間管理職の必要性を感じたことはない。中間管理職が増えれば、教員間の軋轢や小欲が絡んで碌なことにならないのは目に見えている。その人は大学紛争の時に国と対峙する学生側についた7人の教官の一人だった(→「大学入学」、3月27日)らしいし、充分に説得力もあった。推薦書を頼みに行った私の方が、悪い。結局、違う人に連絡を取って書いてもらった。その人は、授業の時と同じように淡々と推薦書を書いてくれた。どちらも後に、学長になっている。国と対峙した学生を助け、国の政策とかつては闘った人が、学長になって文部省で辞令を受け取り国に忠誠を誓った、ということのようである。
推薦書の一件も落着し、入学試験の当日、会場の甲南女子大学(↑)に出かけた。校門の辺りがやけに騒がしい。遠くからはわからなかったが、近付いてみると、なんと『経済学・哲学草稿』の人がマイクを片手に「われわれ日教組は……」と大声でがなり立てている。あちゃー、である。今年はやめとこ。「お前は何を考えとるか。ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃ!馬鹿者、帰れ!」とまた怒鳴られそうである。そう考えて、来た道を戻り始めた。しばらくとぼとぼ歩いていると、一台の車が横に止まり、窓が開いた。

「あのう、甲南女子大はどこでしょうか?」

渡りに船とはこのことである。乗るしかない。助手席に乗り込んだ。

「いっしょに案内しますよ」

ところが、である。車が止まったところは、群衆のど真ん中。そこに放り出されたのである。

「お前、その髭で教育が出来ると思ってるんか?」
「喧しい、放っとけや。髭は教育と関係ないやろ」

たくさんの人に囲まれて、怒鳴られて、もみくちゃにされて、何がなんだかわからなかった。気が付くと、校門の中にいた。「ほな、試験受けに行こ」
のちに「アフリカ系アメリカ人の歴史」という教養科目の授業で、毎年必ず、「アーカンソー物語」を見てもらった。1954年の公立学校での人種差別は違憲という最高裁の判決に従って、1957年に実際に黒人の生徒がアーカンソー州の州都リトル・ロックのセントラル・ハイ(高校)に入学した時に起こった実話を元に作られた映画である。そこでは、連絡漏れの黒人の女子学生が一人で登校してたくさんの白人の生徒から罵声を浴びせられていた。親たちも高校に押し掛け、事情を説明しようとする教員の話を無視して集団で、大声で騒ぎ立てていた。その映画のあとに「大勢に罵声を浴びせられて、もみくちゃにされた経験あるか?僕はあるで」と言いながら、この時の話をした。もみくちゃにされた本人にしかわからない感覚である。
大学院大学(↓)が出来て2年目、修士課程の2期生になった。兵庫県は地元なので、優先的に県枠で50人も取ってくれたそうである。マイクのがなり声を聞いた時は、また来年やなと観念したが、もみくちゃにされて校門内にはじき出された、文字通り人生の分かれ目になった。
次は、院生初日、か。