1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)の伝記、作家論第3作で、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。

本文(写真作業中)

1966年9月に、永久追放ビザを取得したラ・グーマは、家族とともにロンドンに亡命した。祖国を離れるのは決して本意ではなかったが、厳しい自宅拘禁の続くなか、ANCの強い奨めもあってついに亡命を決意した。1978年3月にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューの中で、当時の心境をラ・グーマは次のように語る。

 

そう、あれはその種の政治闘争の決意とか要求とかを混ぜ合わせた以上の複雑なものでした。自宅拘禁も4年を過ぎ、既に5年目に入っていましたが、その事態がおそらくあと5年は続くだろうと予測される中では、無期限に自宅に閉じこめられたままで居るのが何とも無益なものに思えてならなかったのです。国外でなら、もっと建設的に、もっとのびのびと活躍できるだろうと考えました。ですから、私は自分たちが今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って家族といっしょにヨーロッパに来たのです。

 

作家が、想像力をかき立ててくれる自らの創作の場を離れることは決して小さな問題ではない。例えば、先述のリチャード・ライトもラ・グーマと同様に家族を連れて、パリに亡命したが、1958年にアメリカ南部を舞台にした長編小説『長い夢』をアメリカ国内で出版したとき、時代のずれを指摘する数々の痛烈な批判を浴びている。好意的な黒人批評家のソーンダーズ・レディングでさえ、「戻って来い、デイック・ライト、再び蘇るために!」という熱いメッセージでその評を締めくくっている。

ラ・グーマは、その辺りを充分承知しており、亡命のもたらす、自分にとってのよさ、悪さを次のように分析する。

 

私の創作にとって、亡命はよい面も悪い面も持ち合わせています。出来得るものなら、南アフリカにいて、そこで本が書ければ、とは思います。しかし、もちろん、南アフリカで本を書くことを政府が許してはくれません。ですから、作家としては、今までヨーロッパで作品を書き上げられたのは嬉しい限りです。その面から見れば、亡命していることがよい面に作用しています。しかし、自分の意思でというより、むしろ異常とも言える状況下で国を離れたあと、作家として一体何が書けるのかを考え続けているという面から見れば、そこにいる方が好ましいということになるでしょう。

 

当然のことながら、その点をきかれることも多かったようで、本誌7号で紹介した1976年のリチャード・サミン氏とのインタビューでは「あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか」との問いに対して「亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます」と答えている。

また1978年にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューでは、更に詳しく述べている。

 

今までのところ生きたテーマを保ち続けるのに苦労したということはありません。将来についてはわかりませんが。作家というのは、現にその場にいなければその状況を描き出せないものだ、という人たちに、私は賛成しかねます。もし、ある作家がある状況について書けないとすれば、別の違う状況について書き続ければよいと信じています。その人は、まず作家であるからです。その人は、まわりの状況のせいで、南アフリカの作家なのです。しかし、もしその人が想像力を持ち合わせている作家なら、他の情景についても描けるし、違う局面で展開しようとする同じ考えを書くことが出来るはずです。ですから、もし南アフリカのことで書けるものがなくなってしまっているのに、それでも尚、書き続けたいと思うなら、その時は、イギリスについて、または、ほかのどこかのことについて私は書くつもりでいます。私はベトナムでの戦争について、短篇をひとつ書きました。その短篇はベトナムで出版され、他の作品集の中にも収録されました。つまり、作家は、もし才能があれば、他の状況の中でもやっていける、ということなのです。

 

「今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って」ロンドンに亡命したラ・グーマは、当然のことながら、以前にもまして、精力的に活動を展開した。亡命した年と翌67年は、主にイギリス国内での反アパルトへイト集会で基調講演などを行ない、国際的反アパルトへイト運動の推進役を果たすのに多くの時間を費やした。もっとも、経済的には、相変わらず大層苦しく、妻ブランシがロンドンの病院などで長く辛い仕事をやりながら家計を支えるのを余儀なくされた。

その間、ラ・グーマは、デニス・デュアダン所有の私設ラジオ局に職を得て、68年まで、ラジオ番組の制作を助けたり、書評や放送用の短かいラジオドラマを書いたりしたが、68年には局が閉鎖されて職を失っている。

67年に口ンドンで第3作『石の国』が出版された。作家としての名声も次第に高まり、講演などの依頼も増え、いきおい活躍の場も広がっていった。『石の国』の出版直後、ラ・グーマは、ストックホルムで開かれたスカンジナビア-アフリカ作家会議に招待された。その会議で、はじめてラ・グーマは、すでに一線で活躍していたナイジェリアのショインカ、ケニアのグギ、南アフリカのムファーレレ、デニス・ブルータス、ルイス・ンコシなどのアフリカ人作家たちと接することになり、南アフリカのような抑圧下におかれた国での作家の果たすべき役割についての意見をたたかわせることが出来た。会議では、南アフリカでアパルトへイト体制が如何に文化荒廃をもたらしているかを語ったあと、作家としての決意を次のように述べている。

 

・・・・・・これが南アフリカの現実です。そして、工場で働く労働者であれ、田舎で働く人々であれ、これが一般の人々だけではなく作家や詩人たちも南アフリカで直面している現実なのです。だから、南アフリカの作家の立場について言えば、一般の人たちの立場と全く同じです。南アフリカの芸術家は、必然的に自分や一般の人々が巻きこまれている闘いに自らの身を捧げる以外に選択の余地がないのを悟るのです。ですから、私たちの社会では、もし必要であればいつでも、銃を持って立ち上がり、放送局を占拠する覚悟ができているのです。

 

ストックホルムの会議から戻ってすぐに、今度はモスクワで開かれた第4回ソビエト作家同盟会議にゲストとしてラ・グーマは招待された。父親と同様に、南アフリカ共産党の有力な党員であったことからソ連と深い繋がりがあったわけだが、こののちラ・グーマは何回もソ連を訪問し、更に深く係わっていく。(長男ユージーンはソ連の女性と結婚し、現在二児の父親としてモスクワに住んでいる)ソ連政府の出版努力のお蔭でラ・グーマの作品がソ連国内の多くの言葉に翻訳されるなど、人気作家としとの地位が築かれていった。

その年、ラ・グーマは更にベイルートでの第3回アジア・アフリカ作家会議にゲスト及び基調講演者として招かれた。この会議には、アジア、アフリカ43ヶ国の代表とヨーロッパ、ラテン・アメリカ各地から招待国13ヶ国、あわせて56ヶ国、150人が参加した。主なテーマは「アジア、アフリカ文学に反映した民族解放闘争の諸問題」であった。日本からも堀田善衛氏ら7名が参加、そのひとり針生一郎氏は対談の中でラ・グーマのことに触れて次のように語っている。

 

針生 たとえば南アフリカの代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説を読んでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号に大会の模様、報告などが特集されている。原文のまま引用したが、「黒人」ではなく「白人」、ル・グマはラ・グーマが正しいと思う)

 

こののち、ラ・グーマは、アジア・アフリカ作家たちとも深い係わりを持つようになる。

こうしてラ・グーマは徐々に国際的名声を博するようになってはいったが、なお経済的には苦しい日々が続いた。68年には、不本意ながらアビィ保険会社で働くことになる。(ロンドンに亡命した南アフリカ人の多くがここで働いたという)ラジオ局の仕事は性分にも合っていたのでまだ楽しかったが、70年まで続いた保険の仕事はラ・グーマにとって相当辛く、退屈なものであったらしい。

それだけに、アジア・アフリカ作家会議の69年度ロータス賞受賞決定の知らせは、ラ・グーマにとってことのほかうれしいものであった。

ベイルート大会で創設が決められたロータス賞は、アジア・アフリカ作家会議運動の基本目標の一つである「われわれの時代の客観的真実を反映し、あらゆる種類の民族的、人種差別や社会的不平等に対して闘う態度を表明し、同時にさまざまな形の抑圧に抗してよりよい生活を求める人民の熱望を表現する」作品に与えられるもので、70年6月22日、23日の両日モスクワで開かれた第6回常設事務局会議(日本からも堀田善衛、中薗英助両氏が参加している)の審査委員会でラ・グーマは69年度の受賞者の一人に選ばれた。その年度が初回で、受賞者は他にベトナムのトウ・ホァイ、パレスチナのマームード・ダルウイッシュがいる。(「新日本文学」1973年3月号に紹介記事が載せられている)

70年、ニューデリーでのアジア・アフリカ作家会議に招かれたラ・グーマは、インディラ・ガンジー首相からその賞を授与された。受賞式でラ・グーマは次のようなあいさつをしている。

 

・・・・・・もしこの賞を誰かに与えるべきだとすれば、本当は南アフリカの人々に授与されるべきものです。なぜなら、本当に南アフリカの人々がいなければ、私は作家ではあり得ないからです。表紙に私の名が付されて出版されている本の何千語もの文字を書くように私にふきこんでくれたのは一体誰でしょうか。人々の生活、人々の愛情、人々の憎しみ、人々の悲しみと喜び、希望と努力など、それらすべてのものごとが、芸術や文化の価値のある作品の背後には必ず存在するのです。その人々の背景と努力がなければ、文学は単なる意味のない落書きと堕してしまうでしょう。[「ロータス賞受賞者のあいさつ-アレックス・ラ・グーマ 南アフリカ」「ロータス」10号(1971)]

 

会議のあとインドでしばらく妻と二人の休暇を楽しんでからロンドンに戻ったラ・グーマは第4作『季節終わりの霧の中で』の創作に精力を注いだ。同時に、70年から78年までANCロンドン地区議長としても、解放闘争の積極的な活動を展開している。政治的イベントの企画・実行、講演旅行などがその主な活動内容であった。

71年には『アパルトへイト』を編集し、東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。「南アフリカ人による南アフリカ人種主義に関する作品集」の副題が付され、すべて亡命を強いられ当時国外で闘っていた南アフリカ人によって書かれた詩とか随想文、評論文などの選集である。最近も来日したオリバー・タンボ、『まして束ねし縄なれば』に序文を寄せたブライアン・バンティング、現在アメリカピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータス、小林信次郎氏の邦訳『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975)の編者のひとりコズモ・ピーターサなどの名前も見える。ラ・グーマは「この本がアパルトへイト下で生活するということが何を意味するかについて人々がより理解を深めるのに貢献し、解放のために再び武力闘争を始めた勇敢な南アフリカの人々に対する支援者を更に増やしてくれれば、と願っています」とその序の中で編者としての希望を綴っている。

72年に『季節終わりの霧の中で』が出版された。これまでの作品は南アフリカにいる時に書かれたものが多かったのだが、この作品はすべてロンドンに来てから書かれている。

75年には、タシュケントの第5回アジア・アフリカ作家会議に出席し、同作家会議議長代理に選出されている。すぐあとには、ソビエト作家同盟の招待により6週間にわたる国内旅行を果たしている。その旅行とそれまでの何度かのソ連訪問体験をもとに『ソビエト旅行』を執筆、78年に出版された。また、75年には、世界平和会議の代表としてチリとべトナムを訪れている。べトナムでは、ベトナムの戦争に関する短篇を書き、当地で出版されている。

76年1月には、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれ、カナダに亡命中で、客員教授として同大学を訪れていた南アフリカ人セスゥル・A・エイブラハムズ氏と初めて出会った。2年後に、二人はロンドンで再会し、エイブラハムズ氏は、原稿の整理・管理と、伝記家としての仕事を引き受けることになり、85年にその成果『アレックス・ラ・グーマ』が世に送り出されることになる。心臓発作によりロンドンに帰ったため、ラ・グーマの滞在期間はわずか2ヶ月であったが、その間、文学部主催のアフリカ文学国際会議で「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」の講演を行なったり、コート・ジボワールのリチャード・サミン氏のインタビューに応じたりしている。(サミン氏は、のちにロンドンでも何度かインタビューを行なったとのことである)

77年には議長を務めていたエジプトのY・エル・セバイが暗殺されたことにより、アジア・アフリカ作家会議議長代行に指名された。(79年にルアンダで行なわれた第6回大会で議長に指名されている)

78年に、ラ・グーマはANCのカリブ主代表としてキューバのハバナに赴いた。キューバ政府から、住宅、食料などを支給され、トリニダード、ジャマイカなどをまわったり、解放にむけての活動に従事した。

79年には第5作目『百舌鳥のきたる時』がロンドンで出版された。

81年には、日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」-川崎市)に出席するためにラ・グーマは日本を訪れた。(本誌8号にその時の写真とラ・グーマのことが少し紹介されている)ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議議長として、キューバから来日したが、朝日新聞11月16日タ刊には次のようなラ・グーマに関する記事が載せられている。

 

また南アの作家アレックス・ラ・グーマ氏(アジア・アフリカ作家会議議長)も「第三世界と先進国間の、文化交流と連帯の一歩を作った」と評していう。「“人はパンのために生きるにあらず”というが、果たしてそうか。バンなしには生きられない-これがわれわれの主張だ。だから人々は、飢えることのないように助け合わねばならない。そのうえで、表現行為が存在する。今回、この問題をめぐり広範囲に討議し、新しい考えをつかむことができた」

 

しかし、一方では、針生一郎氏はその報告の中で、日本批判がことのほか厳しかった実状を次のように記している。

 

川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。ラ・グーマは、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語った。リウスは「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけつづけた。(「世界」1982年1月号、「新日本文学」1981年11月号にアジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議の特集が組まれている)

 

82年にラ・グーマは『闘いの王冠』の執筆にとりかかっているが、結局第3章までの未完の作品となった。

85年6月には、ソビエト作家同盟から60歳の誕生祝賀会に招待された。千人以上の人が会場に集まり、ラ・グーマの人気の程をうかがわせた。

10月には、当時エイブラハムズ氏のいたカナダのビショップ大学での会議に招待され出席する予定であったが、10月11日金曜日タ刻、心臓発作のため二度と還らぬ人となったために出席は果たせなかった。妻ブランシは「何もかも突然で、信号を無視して車を走らせ病院に運びましたが、病院に着いたとたんに死を宜告されました」と臨終の模様を語ったという。

当時、アメリカにあるアフリカ文学研究会の副会長を務めていたエイブラハムズ氏はその会報で、ラ・グーマの業績を簡単に紹介したあと次のように結んでいる。

 

解放闘争の代表者としての、そして誰もが信頼を寄せる印象深い創造的芸術家としての積極的なすべての経歴を通じて、絶えずラ・グーマは、すべての南アフリカの人々が協調して生きる人種差別のない新しい南アフリカのために働いてきました。それはまさにラ・グーマが生涯、心から願い続けたことでしたが、勝利の日が見えてきたと思える今、皮肉なことにあの人がこの世で自分の働いた成果を享受することは決してないのです。

 

南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。

貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。

祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう。

 

これで伝記的な紹介は終わり、次回からは作品論に入ります。政治・経済・歴史的な部分については故野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(理論社、1969)に、伝記的な部分については、本誌で紹介したセスゥル・A・エイブラハムズ氏の『アレックス・ラ・グーマ』[Alex La Guma (Boston: Twayne Publishers, 1985)]に負うところが多く、記して謝意を述べたいと思います。尚、アレックス・ラ・グーマ年譜と著・訳書一覧を付けました。ラ・グーマのものを読む際の一助になれば幸いです。ひとりでも多くの方がこの偉大な作家アレックス・ラ・グーマの作品を読まれることを祈りながら・・・・・・。

 

 

アレックス・ラ・グーマ年譜

 

 

19世紀  母方祖母イリーナ・フルゼラ、インドネシアよりケープタウンに到着し、スコットランド移民祖父アレクサンダーと結婚、母ウィルへルミナ・アレクサンダー誕生。父方祖父ラ・グーマ、マダガスカルよりケープタウンに到着。

1894  父ジェイムズ・ラ・グーマ誕生。

1924  ジェイムズ・ラ・グーマとウィルヘルミナ・アレクサンダー結婚。

1925  アレックス・ラ・グーマ、ケープタウン第6区で誕生。(2月20日)

1932  アパー・アシュリ小学校に入学。

1933  妹ジョーン誕生。

1938  ケープタウン、トラファルガル・ハイスクールに入学。

1942  ハイスクール中退。ケープタウン、倉庫会社に就職。(~43)

1944  メタル・ボックス・カンパニーに就職。

1945  ケープ・テクニカル・カレッジ夜間コース入学試験に合格。

1946  メタル・ボックス・カンパニーの執行委員としてストライキを先導、同社を解雇される。

1947  ケープタウンの会社で会計係や店員。(~54)青年コミュニスト同盟に参加。

1948  国民党政権樹立。南アフリカ共産党第20区に加盟。

1950  共産党禁止される。

1954  ブランシ・ハーマンと結婚。南アフリカカラード人民機構[SACPO、のちのカラード人民機構(CPC)]の執行委員となる。

1955  SACPOの議長に選出される。クリップタウンでの人民会議のケープ代表団を組織するが、ケープ州ボウフォートウェストで足止めを食う。「ニュー・エイジ」にリポーターとして採用される。

1956  ケープタウン、バスボイコットを指揮。長男ユージーン誕生。他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕される。反逆裁判開始(~61)

1957  「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当。(~62)CPCの執行委員代表に選出される。最初の短編「練習曲」(のちに「夜想曲」と改題)を「ニュー・エイジ」に発表。

1958  暗殺されかかる。

1959  次男バーソロミュー誕生。

1960  シャープヴィルの虐殺。フルウールト首相暗殺、非常事態宣言発令により逮 捕され、7ヶ月間拘置される。

1961  ゼネラルストライキを組織した嫌疑により10日間拘留される。父ジェイムズ・ラ・グーマ、心臓病にて死去。

1962  『夜の彷徨』出版。共産主義弾圧法により、著述・著作物の引用を禁止される。「ニュー・エイジ」の仕事放棄を余儀なくされる。

1963  ANCの地下運動幇助の嫌疑により、5ヶ月間拘留される。妻ブランシも逮捕されるが、すぐに釈放される。5年間の自宅拘禁を命じられる。母ウィルヘルミナ死去。

1964  『まして束ねし縄なれば』出版。

1966  南アフリカ共産党に協力した嫌疑により4ヶ月間拘留される。家族とともにロンドンに亡命。イギリス国内での反アパルトへイト運動の推進に尽力。(~67)デニス・ジュアダンのラジオ局に就職。(~68)

1967  『石の国』出版。スカンジナビア-アフリカ作家会議(ストックホルム)、ソビエト作家同盟第4回会議(モスクワ)、及びアジア・アフリカ作家会議第3回大会(ベイルート)に招待される。

1968  ロンドンのアビィ保険会社に就職。(~70)

1970  アジア・アフリカ作家会議69年度ロータス賞の受賞決定。(モスクワの第6回常設事務局会議にて)アジア・アフリカ作家会議第4回大会(ニュー・デリー)に招待され、ロータス賞を授与される。ANCロンドン地区議長となる。(~78)

1971  『アパルトへイト』を編集、出版。

1972  『季節終わりの霧の中で』出版。

1975  アジア・アフリカ作家会議第5回大会(タシュケント)に参加。同作家会議議長代理に選出される。ソ連を6週間旅行。「世界平和会議」代表としてチリ、ベトナムを訪問。

1976  ダル・エス・サラーム大学(タンザニア)の客員作家。(1月から2月まで)

1977  アジア・アフリカ作家会議議長代行となる。

1978  『ソビエト旅行』出版。ANCカリブ代表に指名され、赴任。(キユーバのハバナに在住)

1979  『百舌鳥のきたる時』出版。アジア・アフリカ作家会議議長に選出される。

1981  アジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議などに出席のため日本を訪問。

1982  遺稿『闘いの王冠』(未完)の執筆開始。

1985  ソビエト作家同盟より還暦祝賀会(モスクワ)に招待される。心臓発作によりハバナにて死去。(10月11日タ刻)

1987  キューバで3回忌法要、長男ユージーン参加予定。(10月)

 

 

 

≪編・著書≫

 

◎ 『夜の彷徨』(物語)(A Walk in the Night, 1962)

◎ 『まして束ねし縄なれば』(物語)(And a Threefold Cord, 1964)

◎ 『石の国』(物語)(The Stone Country, 1967)

◎ 『アパルトへイト』(編・著)(Apartheid, 1971)

◎ 『季節終わりの霧の中で』(物語)(In the Fog of the Season’s End, 1972)

◎ 『ソビエト旅行』(紀行文)(A Soviet Journey, 1978)

◎ 『百舌鳥のきたる時』(物語)(Time of the Butcherbird, 1979)

 

≪日本語訳≫

 

◎ 物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)、酒井格訳『全集現代世界 文学の発見9第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)に所収。

◎ 短編物語『コーヒーと旅』(“Coffee for the Road,” 1964)、土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集Ⅱ』(鷹書房、1977年)に所収。

◎ 短編物語「タシュケントへもう一度」(“Come Back to Tachkent,” 1970)、荒木のり訳「新日本文学」1971年3月号に所収。

◎ 評論「アパルトへイト下の南アフリカ文学」、石井碩行訳(“South African Writing under Apartheid,” 1975)「新日本文学」1977年4月号に所収。

◎ インタビュー「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」(“Interviews de Alex La Guma,” 1975)、玉田吉行訳「ゴンドワナ」1987年4月号に所収。

◎ 物語『まして束ねし縄なれば』、玉田吉行訳(門土社、1992年)

 

≪教科書≫

 

A Walk in the Night、玉田吉行註(門土社、1989年)

And a Threefold Cord、玉田吉行註(門土社、1991年)

 

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号24-29ペイジ

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)を知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際に行ったインタビューです。見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を録音し、帰国後聞き取り作業をしてまとめたものです。

                                           ラ・グーマ

本文(写真作業中)

YOSHIYUKI TAMADA INTERVIEWS CECIL ABRAHAMS

 

 (August 22-25, 1987 in St. Catharines, Canada)

 

 

 

 

 

 

1-A

Cecil – I’d say that in June, 1985, the Soviet Writers’ Union had a special evening for Alex La Guma in Moscow to celebrate his sixtieth birthday and they had…in the auditorium there over a thousand people came to celebrate with him. And I was one of the speakers. And I was so amazed at how many people had read La Guma. So all came to the auditorium with books under their arms for autographs and there was one man in his, probably late seventies and he was blind but his arm was full of La Guma’s books. And he came up to him to ask him to autograph it. It was a very touching experience. In fact what they did! The publishers in the Soviet Union for his sixtieth birthday brought out half a million copies of his collected works and they sold it all within one month. He is, he was a very popular writer in the Soviet Union and of course he visited there many times. Also because he was a member of the South African Communist Party. His father had been in the South African Communist Party. So there’s this connection to the Soviet Union and his books have been translated into many Soviet languages. So he is widely read and more respected in the Soviet Union. So maybe some day in Japan there will be just as many people read Alex La Guma….

 

Yoshi – I hope so….

 

Cecil – Yeah, because for South Africa, and for South Africans, we think, among the black writers Alex La Guma’s always the best writer that has been produced by South Africa. And also because he’s written more books, more novels than any other black South Africans expect Peter Abrahams. But Peter Abrahams wrote many years ago. And he stopped writing about South Africa. He started writing about Africa in general and about Caribbean. But Alex La Guma’s five novels have made him perhaps our best writer among black South Africans. And what is important now is even though Alex La Guma was banned in South Africa, so his books could not be read by South Africans. It was not allowed to be sold. Now some South African publishers ask permission from the government to…to….

 

Yoshi – To publish books?

 

Cecil – To publish books and they think it may be possible because I had a letter just recently from Phillips Company in Cape Town and they asked me whether I could make it possible for them to publish his material again. They wanted to do A Walk in the Night. They wanted to publish it again. Maybe soon South Africans will have the opportunity to read Alex La Guma.

 

Cecil — He was then living in Cuba. So we did many, many discussions on the books, his life in South Africa. So while you are here, I’ll let you listen to some of them to give you an idea of what he said and so on, also to hear his voice talking about his own books and his experiences. Yes. He was very helpful, he was not…: you could ask him for anything, he’d do it for you. He was a very kind, very friendly person.

 

Yoshi – It is unhappy that the situation in Japan is not so good because scholars on Africa are not good. They were and are studying African materials for the sake of study. Do you know Mr. A?

 

Cecil – Yes.

 

Yoshi – He is not good. And do you know Mr. B? He is not good, either. I feel very sorry. Mr. Kobayashi was quarreling with them. They are not so good. The worst thing is that they introduce Africa in bad ways to Japanese readers….

 

Cecil – Well, we are now fortunate with people like Kobayashi, You. You are now taking a serious interest in South African literature and obviously, if you do your home-work and you’ve come all this way from Japan to come and ask me questions about La Guma, it means that you are serious. You want to know as much as possible. So when you begin to write about it, and introduce him to Japanese people, you’ll be speaking something from authenticity, not something that is not true. And that’ll be very helpful, because I think it for us South Africans is very important that Japan or people in Japan know about what’s exactly happening now, because Japan is a very powerful nation economically and she has quite a lot of investment in South Africa. And our aim is to try to get all the countries that invest there to stop investing, because the South African regime will continue to be as they are at the moment-if they know countries like Japan, West Germany, France, Britain, U.S.A., Canada, that they’re all supporting economically. So they’ll simply say, “there’s nothing wrong with our system, why should we change?" So we feel that, you know, these rich countries or these economically strong countries should stop investing there. Furthermore, our view is that Japanese are an Asian nation and therefore should be closer to other Third World nations especially to Africa and that we should be able to get help from Japan…. They should have no difficulty in listening to our position. It may be more difficult to convince U.S.A. or Britain because they can argue that people over there are our kith and kin, you see, but Japanese, they are not kith and kin, so why should they help? The economy is there, you see.

 

Yoshi – The ruling party is very conservative and now most of Japanese are Americanized and they know nothing about the situation and the ruling party is going forward to the Third World War. For example they gained the power of the advancement of security treaty between the United States and Japan. They succeeded by the majority of the Congressmen. So but most of Japanese do not recognize the dangerous situation. Only the Communist Party is stressing the dangerous situation. We may make the same error when we made the error at the Second World War. Do you support ANC?

 

Cecil – I am a member of ANC.

Yoshi – I’m carrying some money for ANC, but I’m having Traveler’s check, so I’d like to change the traveler’s check into cash.

 

Cecil – Alex La Guma located himself in a central position. He didn’t just write for writing’s sake. He wrote to tell stories about the real problems of the people in South Africa. So I think in that way his books will always be important. They’re important as stories but also important as histories. Because La Guma always talked about recording the history of South Africa.

 

Yoshi – You stress it in your book.

 

 

 

Cecil — I stress the point that he saw himself as a recorder of history. That he had to give the picture of the lives of the people in South Africa, which is very important. So I think in that way his writings will always be important. Even one day when South Africa has no more apartheid our young people will have a history of what had happened before so that we don’t repeat those mistakes in the future. Because it’s very important that we don’t replace white racism with black racism. It’s important that all our people are given democratic rights and that people are seen as human beings not human beings who are black or brown or white, but human beings who are just living and trying to make a life. And so it’s very important that we have these books so that if we have the majority of the blacks, for example, say, well, why don’t we oppress the minority? Then we can always point out, look, we’ve gone through this before and there’s no point repeating this. Alex La Guma believed very deeply in the integrity of the human beings not integrity of the black person or the white person  human beings  and the violation is not the violation of white or black person but of the human beings. And so in this way all his work, it was his purpose in life to try to bring about South Africa and a world, where all people are respected for their humanity not for their colour.

 

They are the policies of ANC.

 

Cecil — It’s ANC policy. ANC policy is exactly the same. That you don’t look at the person’s colour, person’s wealth, whether a person’s beautiful or ugly but you look at a person as a human being, what you offer as a human being to make it a better society, and a better world. La Guma believed in very firmly and he loved it. And I think that was one of the nice things about him -If you went to visit him, he would be very easy with you. He didn’t look at you because you came from Japan and even if Japan is not one of the countries that is a big support of ANC. La Guma doesn’t look upon you as being the country Japan. He looks upon you as another human being who is interested in the problems of South Africa, who would like to see changes that will bring about our equal society. That’s what he’s looking at. lie would disagree with you if you came to his house and said, “I don’t believe in those principles," he’ll kick you out of his house. The people who come in my house are people who believe in the principles I believe in. fn that way he was a very nice person to know and his wife is also the same. She also worked with him in the political movements. She also went to jail. So they worked together very closely and I think you see the same humanity, the same concerns coming into the books. When you tell stories in the books, they’re always stories of people, while oppressed, he is always trying to get them to fight back, to challenge the system….

 

When did you make friends with Alex La Guma?

 

Cecil — Well, I actually only met Alex La Guma outside South Africa.

 

Outside South Africa?

 

Cecil — I didn’t know him there, but I knew about him. I had read his columns in the newspaper and I’d read about him. But I didn’t know him, and I was still too young.

 

When were you born?

 

Cecil — I was born in 1940.

 

1940?

 

Cecil — Yeah, Alex La Guma was born in 1925.

 

I was born in 1949.

 

Cecil — 1949. Oh. So I did’t know him, but I was born in Johannesburg in the inner city, in a suburb called Brededorp. This suburb had been made famous by one of the first black writers called Peter Abrahams. You’ve read some of his works?

 

Ah, he is also a coloured man?

 

Cecil — Yes, he is also a coloured man.

 

Can I, Can we call a coloured man?

 

Cecil — Yes….

 

Is it polite?

 

Cecil — No, it’s not any more. Today all the people who are not white, we call black, not coloured any more.

 

Cecil — So I was born in a home where my father came from India and my mother had a Jewish father and an African mother, a Zulu mother. So we were classed as coloured in our area by the government. And we were a poor family. There were six children. And…but my mother had a strong interest in us getting schooling, that we should get some education. She argued that if you have an education, you can take care of yourself. I lived in an area that was very poor, really poor, and so early in my life I became conscious of the inequality between white and black. So I, at the age of twelve, I went to jail for the first time.

 

To Jail?

 

Cecil — Jail. To prison. For opposing we had some sports fields, soccer fields. One side was for black children. The other side was for white children. Black children had just gravel. White children had grass. So I took all the black children into the white side.

 

Is it, was it difficult to play on gravel?

 

Cecil — Very, very, because we got scratched, and injured and so I took the children over to the white side of the grass, and we got arrested. Then I was very active in my community, helping people oppose all sorts of wrong legislation. So I went to jail three times. And I became….

 

How long?

 

Cecil — Well, each time was only a short period, for a few weeks, and I became a member of the African National Congress. When I was only sixteen, I joined ANC. And then, when I finished my high school, I went to university. The university is in your, in this magazine. The University of Witwatersrand. I went there one year but I left because….

 

What’s the name of….

 

Cecil — University of Witwatersrand. I’ll show you a picture you call it Witwatersrand.

 

How do you pronounce?

 

Cecil — It’s an Afrikaans word. It means Wit-waters-rand which means…..

 

Wit, Wit…

 

Cecil — Wit-waters-rand

 

Waters-rand

 

Cecil — It was a spelling mistake (in your magazine) Wit-waters-rand, there should be an 'r’ there, not an '1’, should be an…, it means this is the area of southern Johannesburg. It’s about thirty-six miles long and all along it they discovered gold. So it was called Witwatersrand. This is the university.

 

Cecil — I went there for one….

 

He is now….?

 

Cecil — Yes, that’s right. Mphahlele, yes. That’s right. I left after one year because they used to discriminate. They discriminated against us. There were students, there were five thousand students. There were about four thousand nine hundreds and fifty were white and fifty black students. We were not allowed to take part in dancing, gymnastics, sports. We were only allowed to go to class and the library. Otherwise, we weren’t allowed because we were not white. So I didn’t like it. So I left it. I went to Basotho land. Today it is Lesotho.

 

Lesotho, one of the homelands?

 

Cecil — No, not a homeland. It’s an independent country. It’s inside South Africa. L-E-S-O-T-H-O.

 

LESOTHO, LESOTHO….

 

Cecil — At that time it was not independent. It was still under British rule. It was called Basotho land. So I went to college, there. I finished my B. A. and I came back to South Africa and I taught high-school without a teacher’s certificate. So I was unqualified, but I had a degree, which was something rare, because very few black people got degrees. We were a small number. I taught high-school for seven months.

 

Seven months. High-school?

 

Cecil — Yes. I taught English and history and all sorts of things. Then I was arrested again for taking part in a “stay home." We asked the people to stay off from work, when South Africa became a republic, and I was in….

 

Oh, 1961?

 

Cecil — Yes. Then I was a…. I helped to organize the stay home, giving out leaflets, advising people not to go to work. And we were arrested. We were kept in jail for four months.

 

Four months.

 

But we were not put on trial. We were just kept. And finally they put us on trial.

 

For the Communist Party?

 

Cecil — No, by the government, they put us on trial. They said we were trying to get the people to oppose the government, to destroy the country. So when we were put on trial, the ANC, then we were let out on bail. And then the ANC decided that some of us had to leave the country because we were wasting a lot of our lives there by going to jail, so they told us we should leave the country. I first went to Swaziland, then to Tanzania and from Tanzania I was sent to Canada and in Canada I completed my studies and did my master’s degree and my Ph.D. And I….

 

In Canada?

 

Cecil — And the ANC decided it would be better for me to stay on rather than go back. By now they are calling me a communist

 

Like La Guma?

 

Cecil — Like La Guma. That’s a very common thing. When they don’t like you, they suddenly decide you are a communist. So for South Africans communism means opposing injustice. Communism means the neglect. They don’t understand communism. They only know if you oppose apartheid, then you’re a communist and that’s good. So I left and came to Canada to work with the ANC, but also to finish my studies. Then I started teaching at the university. And I’ve been teaching and working quite actively for the ANC.

 

Cecil — I’ve been in Canada since 1963, teaching and working with the ANC. At the beginning we had no ANC people, now we have a few working for us in Canada.

 

In Canada is it common foreigners can get a full time job?

 

Cecil — You have to be a Canadian citizen or an official immigrant. They don’t want foreigners any more. But it was quite easy up to about five years ago. In fact, many of the professors of Canada at Canadian universities are from England or from America or some Europeans. But I came to Canada as a refugee, so I had no papers, because I had no South African passport, because I’d escaped the country and so they gave me Canadian papers-so it was not a problem.

 

Is it easy to get a permanent visa for a South African?

 

Cecil — No.

 

No. Is it difficult….

 

Cecil — Is it easy for South Africans to come to Canada? It depends South Africans can come here now, and they can claim refugee status because South Africa’s having so much trouble. If you are persecuted by the government of South Africa, then Canada will give you a refugee status. If you want to come here as an immigrant, the procedure takes a long time. And generally Canada has not been favorable for immigrants that are not white. It’s much harder to get any kind of papers in Canada. So South Africans don’t come to Canada very much. So South Africans usually go to England, or to the US or in Africa to places like Zimbabwe, Tanzania, and other countries.

 

Zambia has the headquarter of ANC?

 

Cecil — ANC headquarters are in Lusaka. So many of the South Africans who live in Canada came here as people wanting better lives. Not many are interested in politics. They don’t care too much about what’s happening in South Africa. So it’s a bit of a problem for us. The ANC in Canada has about 30 members.

 

Thirty?

 

Cecil — All over the country.

 

When did you meet La Guma?

 

Cecil — The first time I met La Guma was in Tanzania.

 

At Dar-es-Salaam University?

 

Cecil — That’s it.

 

In 1976?

 

Cecil — 1976. That’s right.

 

Do you know Richard Samin in Cote de Ivoire?

 

Cecil — Who’s that?

 

Richard Samin.

 

Cecil — Oh, Yes.

 

I sent the copy of the interview.

 

Cecil — That’s where I met La Guma. La Guma had just had a heart attack.

 

He had to return to London in two months?

 

Cecil — Yes, then I saw him many times in London and then in Cuba.

 

You took part in a conference at Dar-es-Salaam University?

 

Cecil — I was a Friendship Commonwealth visiting professor. I was sent to give lectures all over and I gave some of them in Dar-es-Salaam. And so….

 

He was a….

 

Cecil — He was a visiting writer.

 

A visiting writer in residence?

 

Cecil — In residence. So I met him then. And two years later in London I decided to write a book on La Guma, so we started talking about it. And then I started working on it, writing it. In 1982 he made me his official biographer. I’m now responsible for all his papers, for all the literary stuff. It’s my responsibility. There are some unfinshed works, which I mean to put together into a book.

 

Is it possible to publish `Zone of Fire’?

 

Cecil — It was `Zone of Fire,’ but he changed it in the end to `Crowns of Battle’.

 

Is it possible to publish it?

 

Cecil — It’s not finished, we have about three chapters. So I’m putting it together with some commentary. But it’s not ready.

 

I’m looking forward to the publication.

 

Cecil — It’s quite good, the work he didn’t on it. He was also finished a biography of his father, which I’d like to get published. And then he has a few short stories which have not been published, which we’d like to publish. He wrote some radio plays when he was living in London, as part-time work, for the BBC. Mostly detective stories. I’m going to put them all together, some can have a complete production of them. So over a period, we’ll have quite a lot of La Guma’s matherial coming out. But I’m also doing it for the South African people, so that they have a record of what La Guma was like. And Mrs. La Guma wants a good record, so she’s very anxious that I get it all done.

 

Why did La Guma choose to go to Cuba?

 

Cecil — Oh, he was quite active still with the African National Congress and they need a representative there and so they asked him. He was stationed in Cuba but he was chief executive for Cuba and the Caribbean. They often travelled to Jamaica, Trinidad, and so on. The ANC asked him to go. He liked Cuba very much. They liked him a lot. When he died, there was a service, Fidel Castro’s brother was the main speaker.

 

Castro?

 

Cecil — Castro’s brother. He spoke at the funeral. And the secretary-general of the ANC was there. He got a very big send-off, The Cubans are going to have a special second memorial service in October for La Guma. They’ve invited his wife to come, but she doesn’t think she’ll go. She has too many memories and feels too much. So maybe one of the children go, One of the children.

 

He had two sons, Bartholomew….

 

Cecil — Eugene.

 

Where is….

 

Cecil — Eugene lives in Moscow. He is married to a Russian girl. He has two children.

 

Two children?

 

Cecil — And Bartho is living in Africa, in Zambia.

 

Zambia, now?

 

Cecil — He is working for the ANC’s film unit now. He studied film and now he’s working for The ANC’s film unit. One of the other speakers who’s coming to the next conference next August, Dennis Brutus will come, too. Dennis knew Alex La Guma in South Africa. They worked together.

 

Dennis Brutus?

 

Cecil — Dennis is now in Pittsburgh. He used to be in Chicago, but he moved. And he’s now chairman of the black community vocation department at the University of Pittsburgh.

 

Pittsburgh. He once lived in Austin, Texas?

 

Cecil — He was there for one year. He was a visiting professor for one year.

 

Texas University published many African books?

 

Cecil — Well, they have a journal there, Research in African Literature and there’s a good library where they buy the original papers of many African writers. So the library is very good. there’s a good African studies (department).

 

And North Western University?

 

Cecil — North Western is very good. North Western has a good library, also. Dennis used to be at North Western. And Mphahlele was there also. So was Ngugi wa Thiong’o at North Western. There have been many Africans at North Western.

 

How old is Dennis?

 

Cecil — Dennis is one year older than La Guma. He was born in 1924.

 

3-A

 

The problem of passing?

 

Cecil — Yes, much like the Deep South. Yon see, passing. So we’ve had this problem, too. It means you get better jobs, better living conditions and so on and so on. Some people do that. Alex, of course, would argue against it, saying that you should think of your dignity and you should be proud that you are who you are. You don’t go trying to be someone else. What he tried to do, he was probably the first to write among the mixed race community, to try to give a picture of his community, because until then there was no picture. There was a book written on the mixed race community by a white woman. It was called God’s Step Children.

 

Cecil — No mixed race person has come out to talk about his community, and Alex’s columns in the newspaper New Age, and also his stories and novels then tried to give a picture of the history of these people.

 

Was New Age banned?.

 

Cecil — Yes, in 1962.

 

Cecil — So Alex tried, in fact, to set himself up to tell the story of the coloured people, because he felt they’d been ignored. They had been neglected. He also hoped that he could inspire in them a confidence, a pride that they were worth something, they were not nothing, they had something to offer and so his stories, if you look at them, are quite affectionate, I mean, they’re problems but he is very kind, because it is his own people. He feels for them like a father who looks at his children even though he is cross with them, he still says, “Well, that’s my children." But he still tries to be kind. So you notice that in his books he sees himself doing the job of a historian, collecting the history, a teacher showing his people what to do. And then, of course, Alex was very much a kind of an optimist, a very optimistic attitude, even though life was rough for him sometimes, all the arrests, detentions, house arrests. He always saw the bright side. lie always saw on the side of the mountain, it will be better. And so with this optimistic spirit then, when people did something wrong, he could still forgive them. For example in In the Fog of the Season’s End, you have Buekes who loved dancing. So he was unlike Richard Wright in that way. Richard Wright was very angry, and there’s a lot of bitter denunciation.

 

Cecil — But Richard Wright in a way went to Paris then and wrote books about his life in America. And he got out all his anger, and his bitterness. He never wanted to go back to the States. You know because he was so cross with the state of the black man in the States, you see. In a way he becomes like James Baldwin who also was very angry at what had happened. But Alex La Guma was not like that. Alex La Guma, what saved him was that he was also involved with the political movement, a liberation movement. When you work for liberation movement, and you’re also an artist you know that in your liberation philosophy there’s the strong belief that we gonna win this fight, we just got to keep going at it. We are writing what we are doing, our cause is just. And if we do it together collectively, we are going to win someday. But if you don’t do it collectively, if you don’t have a political movement, if you do it as an individual, then you’re more likely to get angry all the time, because you’ve nowhere to turn, there’s no communities to fall back on. So Alex could keep on believing, because there wasn’t just the writing going on but there was the practical political work, you see.

 

Yes, yes.

 

Cecil — He could go from one to the other. Many writers can’t because they are entirely writers and they remove themselves from the world, and so the problem is inside heads and finally in their emotions and then they destroy themselves.

If you’re also involved in your community and your world, then you don’t have the time to get only angry with yourself and destroy yourself, because you must give the energy to others. Now I think this helped. Alex was first politically involved before he became a writer, which helped a lot, because if he was at first a writer and then a politician, he would have had problems. He was first involved in politics. He then very easily went over to writing artistical. And that was because he had a gift, a talent to write, he could tell a story in a way where even though he was politically involved, he never tried to indoctrinate you. He just told a story. You ought to read, to look at the stories…. And also if you notice in Alex La Guma’s writings, he does not tell you how to think. He leaves the story there, he lets you decide what to do with it. He doesn’t say to you, “This is love. This is life." He says “Here’s a story, you deal with it." Even the story, “Coffee for the Road" you watch — when the lady explodes in the cafe. Alex La Guma didn’t tell you she is exploding because they are treating her in such an unjust way. He just says that she exploded because the situation was not human, not dignified. But you, as a reader, you have not been given any propaganda. You’ve been given a story and you can easily see, look, if I were in the same situation, I would have acted in exactly the same way. You’re looking for a cup of coffee and they tell you you can’t come inside the cafeteria, you have to go behind and, order your coffee from there, then obviously, you know, you’re going to react to it. So I think in that sense Alex tells the story but leaves it to us who are reading the story. If you read a lot of South Africa writing whether it’s novels or poetry or so on, you’ll see that there’s a lot of straight sloganeering, a lot of straight propaganda. You know you can read it and you can say, “Well, I suppose if this had been a political leaflet, it would be better but as a story. It’s not coming out, you know." He didn’t do that. That’s his story. You can see the loss of people’s rights. It is his artistic ability to take a very dry political situation, and make it live for you who are not living in South Africa, after you’ve read a story like, let’s say, `Lemon Orchard’ or “Coffee for the Road" or, let’s say, A Walk in the Night, or A Threefold Cord, you finish reading it, though you’ve never been to South Africa, it’s so graphic and it clearly describes.

 

4-A

 

Cecil — Richard Wright was also, in a way, American racism is much worse than South African racism because American racism, even though the American Constitution is against it, in practice it carries on. And in the South, the law courts always favour racists, so you could kill a black person and you have a jury that’s all on your side, and they acquit you. In South Africa, you know that there is no chance that you could ever win a law case, I mean, you don’t worry about it. Because you know there’s no chance. I believe in America, the blacks believe in the Constitution which doesn’t do anything for them. I always find it difficult. Wherever I go to the US, to the conferences and I see a lot of black Americans, scholars, lecturers, or students. I always ask them, you know, you are getting such a hard time in this country. You feel sorry for us in South Africa, but in a way we should feel sorry for you, because you are even worse off here than we are. In our country, at least we know what they are doing to us. You are having these things done, and you don’t know how to react to them….

 

Cecil — Alex didn’t do too well financially, you know. His family was always close, just making enough to survive. }[is wife always sold hi s. stories. She said that there were sometimes days when they had no food in the house and the children were still small and she just didn’t know where to get a piece of bread in London…. Unfortunately at this time the ANC had no way of compensating Alex with money…. That was one of the reasons why he went to Cuba because they thought it’d give him something, you know, he’d get enough to live on. The Cuban Government paid for the housing, the food,….

 

The Cuban Government?

 

Cecil — Yes, Cuban Government sees the ANC as the legitimate representative of the South African people, so they treat the South African representative as a diplomat.

 

In Cuba?

 

Cecil — Yes, in Cuba. They gave him a house in the deplomatic area. So they provided them wtih the house free and gave them a voucher to get food from special stores, gave them a car and so on. So that was the first time, from ’79 to ’85.

 

You visited Cuba?

 

Cecil —Yes, I’ve been there twice.

 

4-B

 

Cecil — I’m very concerned that there is a history of South African writers written, and prepared so that when the day of change comes, we have all this material available for our people, for our younger people to read. And all these writers who lived outside the country and who have done a lot will maybe provide them whenever they come because these children have never seen them, never heard of them. So in a way I’m trying to do a job, also for the country, to leave behind for the country and for the world, so there is a history they can go to. I think it’s very important, because just writing books for books’ sake, I think it’s a waste of time.

 

Cecil — Now the young people today they don’t drink, because they say it is drink that only people don’t know how to fight. So they don’t like drinking. When they start demonstrating, they call them shebeens, they beat up the people, they throw out the liquor, they chase them off. So you know they don’t only attack the government, they also go for their own people because they say all those things are not healthy and also, you know, when they get their salary, they go straight to the shebeen, they don’t go home. By the time they got home, there’s no money for the wife and children, for food, for milk, for bread, for clothes, for books…. But now many South Africans in exile, especially in England because many of those, who were political in South Africa, go to England -they get together and they drink. And when I visit them in England, I’m surprised how much they can drink….Ohh!

 

The younger people are hopeful!

 

Cecil — Yes, and they don’t drink.

 

The generation of 1976.

 

Cecil — “Soweto."

 

Cecil — Since 1976 they are all very militant. And they don’t drink, don’t smoke. They are very serious. The older generation, Alex La Guma’s generation, they were very good but they liked to have a nice time, you know, they liked to laugh, smoke, drink. Alex used to drink and smoke too much. We told him many times. One evening he and Elsie Nitess who was the editor of Sechaba, another South African, he lives in England, La Guma, who had been drinking most of the night…. Next morning he had to go on a plane with his student to some meeting. Well, on the plane he had a heart attack and died. He was dead when they landed. He was in his twenties. It was because of all the liquor. So we told Alex at that time, you know. At that time ANC sent him to Cuba because they knew it would be dangerous. He drank too much in London. But once he got to go to Cuba, he changed. His health was better, when I saw him in June 1985, it was very good.

 

He visited Moscow.

 

Cecil — He looked very healthy. In fact, I said to him, “Oh, you’re getting younger!" He was supposed to come to Canada in October. We were at a conference and then he wanted to make a tour of Canada. And I just was in touch with them a week before he died, to finish the arrangement. I was so shocked because I’d already sent tickets and everything. I was quite surprised because we didn’t expect it. So drink, for South Africans, it’s nothing good.

 

6-A

 

How about the younger people?

 

Cecil — I think the younger people will change. They’re very different because they respect each other more as human beings not as woman and man but as humans. And I think they will bring a complete change. I think what is happening in South Africa is very positive because the young people are not doing the things their fathers used to do. They have very different attitudes. And I think that’s very good for South Africa.because I’m always arguing with the ANC that we don’t just need a change of government, we need a change of humanity. In other words I feel still today that in the top leadership of the ANC there’re not enough women, and there are many, many women who work for the ANC. And but they are not getting to a high position. So I always argue that women should be treated fairly, because, you see, the majority of the members of the ANC, of course, are black, and they come from various communities, Zulu, Xhoxa, and so on. In our traditions, in African traditions, the men are brought up to be selfish. There is no sharing. The man is the boss. And the women must do all the dirty works, you know. So, in that way, many of the men who are in the ANC, especially the older men, like the generation of Oliver Tambo, the generation of Nelson Mandela -the oldest generation. They grew up being chauvinists. It takes a while for them to understand that revolution is more than just politics. It’s also your way of life. It’s what you do at home, it’s the way you treat your children, it’s the way you treat your wife. It’s a way of life. You can’t just say I’m gonna non-sexist. Because to be truly democratic. All the societes of the West talk about democracy, but it is not a democracy, it is the monopoly of the rich. They own the country, they are the power. The other people are mostly workers, who accept what is given to them. Actually the rich are taking the largest share and leaving a little bit for the bottom. And some of us are foolish enough to think we’re getting our share. It’s not true. So La Guma said the same thing in his work.

 

Cecil — And so the younger generation said, “No! We’re tired of talking! If we’re gonna get a change in this country, we’ll have to fight for it. But unfortunately they were not many. They were not enough people who shared that view, because most people were worried about their lives, didn’t want to die, or go to jail, and so on. The younger generation from 1976 is very different. They don’t spend as much time talking. In their minds they know what they want. They want FREEDOM NOW! EQUALITY NOW! They don’t want to wait for the next generation. They want it NOW! This is why they’re doing things we never dreamed to do. We believed in peaceful demonstration like Buekes. We went on the street all the time, with leaflets. So we got beaten up and put in jail. We didn’t do anything. We’d just given out leaflets. And then on top of that you got beaten up so badly by the police, you got tortured…. But today’s generation don’t. They don’t believe merely a change of government, they believe in the change of life. That South Africa must not concentrate so much on material things. We must concentrate on the spiritual life, improving our way of thinking about life. So, for example, the ANC says we believe in the nationalization of major industries, particularly government’s place like railways, banks, agriculture and so forth. These young people are not talking about nationalizing. They say that they believe in a socialist state where everything produced in a country is to be shared fairly among everyone. The ANC, for example, has had meetings, our leadership has had meetings with South African businessmen. I think it was in Senegal. They had several meetings at Lusaka, so the white businessmen who had come from South Africa wanted big corporations, and so they talked, and the ANC said: well you know, they asked the ANC if you formed the government, would you make the country a socialist state? Will there be no capitalism any more ? Another thing must be tried as well. We will always allow some individual enterprise, but you see, our young people in South Africa are saying No! There will be no capitalism. We are after a country that will be centrally governed and see all the wealth distributed fairly among all people. So that’s very different from what the ANC is saying. So I am always arguing that because we’ve been away from South Africa so long, we sometimes don’t understand the changes that are going on. We don’t understand the thinking of our young people. That they don’t exactly share our beliefs, basically. Our view is that, well, we could all live together, white, black, brown can all live together peacefully. It is true, we can all live together peacefully. But the point is, when the changeover takes place the whites will be in the strongest position-they will run the mining, they will run the businesses, they will have the beautiful houses, they will .live on the best areas, they will have the best schools. How are we going to change that? The ANC says that, ーWell, it will take time. But you know in Zimbabwe they are trying this and there’s a lot of people getting upset because they want to see some movement. So the ANC again are discovering that the younger people at home are saying, ー We want a decent living now. We’re not waiting for time." So again there’s going to be some trouble, because there’s going to be a need to understand the position of the younger people is not exactly the position of the ANC today. The ANC must also change, because we need to think more actively about how we can also meet the aspirations of the younger people. My own feeling is with the younger people, because they have a better vision of where we’re going and what South Africa must be….

 

8-A

 

Cecil — I went to a conference once, in Malta, and I went to hear a paper by a German scholar, a young German. He came from the University of Kiel. He talked about Ngugi on Petals of Blood. The book had just come out. So he started off his lecture by saying, “I was going on a trip. I was at the airport in Germany. I was looking for something to be read on the plane. So I went into a bookstore and saw a book with this Blood, this flower of blood and I felt, “I think I’ll read this. It must be a horrible story, full of shooting and whatnot," and I think he said he was a Marxist. So I wanted to show he doesn’t know anything about Marxist. So he gave a very superficial paper and when he finished, I was very cross, and I went up to him and asked him where he got the stupidity from to come and read this paper. And the audience all agreed with me….he then admitted he didn’t know anything about this writer,…but then you see you get that kind of thing, people don’t do their homework…but they’re so interested in getting their names in magazines and books. Most people don’t know what they’re talking about, so they read the books and say, 'Oh, no problem!’ So I felt this kind of work must be done by people who know, who care, who have a feeling for this writing. So I felt with Alex La Guma there was mostly a feeling of services, someone’s got to do it, otherwise we’re going tho have his writing messed up by a lot of people. There are many writers who need this kind of attention

執筆年

1987年

収録・公開

August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada

ダウンロード

TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)を知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文です。見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめたものです。

                                           ラ・グーマ

本文(写真作業中)

カナダにひとり、祖国を離れてアパルトへイトと闘う南アフリカ人がいた。

セスル

8月下旬、私はカナダに亡命中のセスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた。一昨年、まだアレックス・ラ・グーマが存命中に出版された単行本『アレックス・ラ・グーマ』で初めて名前を見かけたのだが、今回お会いするまでは、その本の著者だということ以外ほとんど何も知らなかった。著書に含まれた伝記、作品論を読んで魅かれ、もっと知りたい、やる限りはラ・グーマを正当に評価したい、そんな思いでガナダに行った。しかし、暖かく迎えていただき、丸々3日間本当にお世話になった。忙しい身にも拘わらず、長時間にわたるインタビューにも快く応じて下さった。お蔭で、頂戴したラ・グーマの草稿のコピーなどの資料とともに、かなりの録音テープと写真を持ち帰ることが出来た。すべてを紹介することは到底できないが、写真やインタビューの翻訳を交えながら、南アフリカの解放の日に備えて異国の地でアパルトへイトと闘うアレックス・ラ・グーマの伝記作家セスゥル・A・エイブラハムズ氏の姿をお伝えしたい。

セスルの本

目的地はオンタリオ州セイント・キャサリンズ。案内書には、ナイアガラ半島上にあるオンタリオ湖畔の町、人口は12万4千、とある。有名なナイアガラの滝が近い。ニューヨーク市からカナダ航空で約一時間、トロント空港に着く。空港からはリムジンが直接、玄関先まで運んでくれた。閑静な住宅街である。玄関に最初に現われたのは夫人のローズマリー(Rosemary)さん。後ろからエイブラハムズ氏が、遠くからようこそ、と微笑みながら現われた。挨拶もそこそこに、私は鞄から「ゴンドワナ」8号や出発の2日前に小林先生が届けて下さった川崎でのラ・グーマの写真など、日本からのみやげを取り出した。写真を見つめながら、エイブラハムズ氏は早速、85年にラ・グーマと一緒にソ連に招かれた時の模様を語り始めた。

目の見えぬ老人、本を小脇に抱えて

 エイブラハムズ氏 まず、1985年6月に、ソビエト作家同盟がモスクワでアレックス・ラ・グーマの60歳の誕生日を祝って記念の一夜を設けてくれたときのことをお話したい。会場には千人以上の人が来てラ・グーマを祝福してくれました。私も講演者のひとりでしたが、本当にたくさんの人がラ・グーマを読んでいるのに驚きました。誰もが、著書にサインをしてもらおうと本を小脇に抱えながら会場に来ていました。その中に老人がひとり、たぶん70代の後半だと思いましたが、その人、目が見えないのに、手にはラ・グーマの本が一杯!ラ・グーマのところに近づいて行ってサインを頼んでいました。とても感動的な体験でしたよ。実際、ソ連の出版社はよくやりました。ラ・グーマの作品集を50万部刷って、一ヶ月ですべて売り尽くしました。お蔭で、ラ・グーマはソ連では人気作家です。もちろん、本人は何度もソ連に足を運んでいますが。また、ラ・グーマは南アフリカ共産党の一員でしたし。父親もそうでしたから、その関係でもソ連とは深い繋がりがあったのです。ラ・グーマの本はソ連の多くの言葉に翻訳されています。ですから、ソ連では広く読まれ、尊敬されてもいるのです。そして、多分いつの日か、日本でも同じくらいたくさんの人がラ・グーマを読む(!?)・・・・・・(笑いながら)

写真4ラ・グーマ2ソ連で

-そうなったら本当にいいですね・・・・・・

(うなずきながら)

南アフリカで、ラ・グーマが読める

 エイブラハムズ氏 そうですね、南アフリカにとって、南アフリカ人にとって、ラ・グーマは、黒人作家の中では南アフリカが生んだ最高の作家だと誰もが考えていますからね。また、ピーター・エイブラハムズを除いて、南アフリカのどの黒人作家よりもたくさんの本、たくさんの小説を書いていますから。ピーター・エイブラハムズが南アフリカについて書いたのは何年も前のことで、今は書いていません。そして、最近、アフリカ全般についてやカリブについて書き始めました。アレックス・ラ・グーマには五つも小説があって、たぶん南アフリカ黒人の間では最高の作家ですよ。でも、今重要なのは、 アレックス・ラ・グーマのものが南アフリカでは禁止されていて、南アフリカの人に読めないということです。発売も禁じられています。しかし、現在、政府に許可を申請している南アフリカの出版社がいくつかあります・・・・・・。

写真5 A Walk

-本を出すための、ですか。

エイブラハムズ氏 そう、本を出すための、ですよ。そして、出版社側は多分可能だと考えています。というのも、ケープタウンのフィリップス・ カンパニーから、ごく最近ですが手紙が来て、ラ・グーマのものを出版できるようにしてもらえるかどうか、と私に打診してきたからです。『夜の彷徨』の出版を考えていて、出版社はその再版を出したいとの意向です。 たぶん、近いうちに、南アフリカの人はアレックス・ラ・グーマが読めるようになりますよ。

(エイブラハムズ氏は、ラ・グーマとピーター・エイブラハムズを黒人作家と呼び、カラード作家とは言わなかった。カラードとは言わないのですか、との問いには、南アフリカ政府が、白人以外の人々を、黒人、カラード、インド人の各人種グループに意図的に分断しようとしたために、人々はカラードと呼ばれるのを嫌い、今では「カラード」を使わず、白人、黒人だけを用いています、との答えが返ってきた。人々は政府のたくらみによって人種別に分断され、結束できなくなる危険性を充分に感じていたのである。黒人、カラード、インド人からなる三人種体制の政府の悪だくみを見事に描いたポスター劇『かつての兄弟』が門土社総合出版刊行のterra創刊号(1986年9月号、5~7ペイジ)で紹介されたが、興味深いことに、エイブラハムズ氏は、その作者ドン・マッテラとは高校時代の同級生であった。ただし、当時、ドン・マッテラは政治には関心がなく、街にたむろするチンピラで(『夜の彷徨』のマイケル・アドゥニスたちのように)、大変おっかなかった、そうである。「あいつは大へん変わったんですよ。政治的になって・・・・・・」と言いながら、エイブラハムズ氏は含み笑いを見せた・・・・・・)

現在何が起こっているかを知ってほしい

エイブラハムズ氏は次に、キューバで行なったラ・グーマとのインタビューの模様を語り始めた。ラ・グーマの作品や南アフリカでの体験について二人で議論に議論を重ねたことを振り返りながら「あなたがここに居る間にその時のテープを聞かせてあげますよ。テープを聞いたら、そしてラ・グーマ本人の声を聞いたら、きっと何かいいアイデアが浮かびますよ・・・・・・そう。あの人はとっても親切でしたよ。しかし、もうこの世には・・・・・・もし生きていれば、あなたがどんな質問をしても何でも答えてくれるんですがね。あの人は本当に優しくて、暖かい人でしたよ・・・・・・」と非常に感慨深げな様子であった。おそらく、ラ・グーマとのありし日々が思い出されたのであろう。

もしラ・グーマが生きていれば、ここに来る前に、私はきっとラ・グーマに会いに行っただろう、そんなことを思いながら、しかし、ある後ろめたさが、どうしても念頭から離れなかった。

最近、ラ・グーマのものを集中して読むようになり、必然的に南アフリカの歴史や政治などに関するものを併せて読むようになった。特にアフリカの場合、文学と政治を切り離しては考えられないからである。本誌前号でも触れたように、私はアメリカの黒人作家リチャード・ライトを通してアメリカ黒人の歴史を知り、ライトの『ブラック・パワー』を通じてアフリカを考えるようになった。アメリカ黒人の歴史から奴隷貿易の理不尽を、『ブラック・パワー』から植民地支配の爪あとを教えられた。また、ラ・グーマや南アフリカの歴史を通して、西洋中心の<横暴>や、その<横暴>によってもたらされた惨状を垣間見た。そして、様々な係わりの中で、自分自身が現に所属する日本政府の過去と現在の理不尽な数々の所業について考えるようになった。

1960年、シャープヴィルでの白人政府の蛮行に対して各国が経済制裁を開始したとき、白人政権の要請に応えて日本政府は国交を回復した。そしてその見返りに、「居住地区に関する限り」、名誉白人として白人なみの扱いを受けている。

写真シャープヴィル

アフリカ行動委員会を創設した故野間寛二郎氏が「たんなる貿易のために、日本人が白人に分類されているのは、日本の民衆の恥辱ではないでしようか」というANC代表の手紙を紹介したのは1969年のことだ。(『差別と叛逆の原点』理論社、1ペイジ)また、来日した詩人マジシ・クネーネがある対談の中で、“Japan is killing us!”と言ったのもその頃である。(『日本読書新聞』1970年4月13日~5月4日、及び『新日本文学』1971年3月号110ペイジに紹介されている)

以来、そんな悲痛な叫びを無視して、日本企業は両政府の完全な庇護のもと、着々と「実績」を伸ばし、「南アフリカ共和国」との貿易高は、アメリカ合衆国に次いで世界第2位となった。ごく最近、円高の影響で、とうとう第1位になった、と報じられた。

個人が好むと好まざるとに拘わらず、私達が搾取する側、つまり加害者側に立っているのは明らかであり、私はそんなニッポンから来たニッポンジンの一人には違いないのだ、ある負い目というのは実はその辺りに原因が潜んでいたのである。聞くところによると、来日したラ・グーマはそんな日本や日本政府に対して容赦なかったらしい。ラ・グーマ同様、筋金入りの南アフリカ人エイブラハムズ氏とむかいあって、そんな負い目が私にはなおのこと重く感じられた。

「残念ですが、日本の現状は決していいとは言えません・・・・・・」と、私の方から済まなさそうに切り出した。私は、ヨーロッパやアメリカ経由で紹介された日本人のアフリカ観や、現実のアフリカ認識が貧しすぎることをまず伝えたかった。そこで、特に紹介の役割を担うべき知識人や学者でさえ、正しい視点や考えを持てない人がいる現状から話し始めた。

写真セスル

しかし、私の懸念を察してか、エイブラハムズ氏は私の話を遮って「何より、こうしてはるばる遠い日本からラ・グーマのことを聞くためにわざわざ私に会いに来てくれたじゃないですか・・・・・・」と前置きして次のように喋り始めた。

エイブラハムズ氏 あなたは出来る限リ多くのことを知りたいと思っている。だからそのことについてあなたが書き始め、ラ・グーマを日本の人たちに紹介するときには、真実でないものにではなく信憑性に拠りどころを求めて何かを語ろうとするでしょう。それがたいへん役に立つのです。というのも、私たち南アフリカ人にとって日本や日本の人たちが、一体現在何が起こっているのかを正確に知ることこそが大切であるからです。また、日本は大変な経済大国で南アフリカに莫大な投資をしているからです。そして私たちの目標は南アフリカに投資するすべての国に投資を止めさせることです。もし、日本や西ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダなどの国が経済援助を続けるのを白人政権が知れば、現状は今のまま変わることはありません。そうなれば、政府は自分たちの体制に何ら間違いはないと言うだけです。そんな状態で一体どうして変革することが出来るというのでしょうか。だから、これらの金持ちの国々が、つまりこれら経済大国が南アフリカへの投資を中止すべきだと実感しているのです。更に私たちは、日本がアジアの国で第三世界の国々、殊にアフリカとはもっと親密であるべきであり、従って日本から援助が得られると見ているのです。もし日本が私たちの立場に耳を傾けるのが難しいというのなら、アメリカやイギリスを説得するのはもっと難しいでしょう。なぜならあの人たちは、南アフリカの白人は自分たちの同胞であり、日本人は南ア白人とは同胞ではない、だからどうして日本人が南ア白人政府を援助すべきなのか、と主張するからです。そこには明らかに経済が存在しているのです。

エイブラハムズ氏が語る日本への願いは、先般来日したANC(アフリカ民族会議)議長オリバー・タンボ氏やUDF(統一民主戦線)のアラン・ブーサック師などが口を揃えて訴えた内容と同じである。(その人たちの来日講演記録が二冊出版されている。アフリカ行動委員会発行の『日本を訪れた自由の戦士たち』と部落解放研究所発行の『魂の叫び-アパルトへイトの撤廃を!人間の尊巌を-』である)ANCの一員であるエイブラハムズ氏は、カナダに亡命以来ずっと、南アフリカの実状を訴えるのに東奔西走して来たという。当初はほとんど反応を示さなかったカナダ政府や市民も、最近は比較的協力的になり、カナダのANC会員も、現在では30名になった、と感慨深げな様子であった。5月末にはアラン・ブーサック師が講演したらしい。「南アフリカの現状はなお厳しく、人々の日常生活は非常に大変ですが、事態は日々変化しており、よい方向にむかって前進しているのは確かで、解放の日が来るのもあとわずかですよ」と言ったあと、「しかし、南アフリカの解放の日のために生涯すべてを捧げたラ・グーマが、その日を迎えることなく、1985年に死んで行ってしまったのが何ともやりきれないですよ」とエイブラハムズ氏はしんみりと付け加えた。

オリバー・タンボ

(折りしも、11月5日、ゴバン・ムベキ氏(77)が他4名とともに釈放された。63年7月に逮捕され、翌年、元ANC議長ネルソン・マンデラ氏らとともに、国家反逆罪で終身刑を言い渡されて以来24年間獄中にいたムベキ氏は、元ANC全国委員長である。釈放に当たっては当局から何の条件もつけられなかったらしく、ポートエリザベスでの記者会見では、マンデラ氏が釈放されることも確信している、と語ったという。「ムベキ氏の釈放は内外の反アパルトへイト政策反対運動の勝利だ。マンデラ氏らの釈放も勝ち取っていく」とのANCスポークスマンの声明は、うれしい知らせである)

写真マンデラ

本誌8号のヨハネスブルグの街の写真を見ながらエイブラハムズ氏は「私の故郷ですよ」と懐しそう。ケープタウンの写真の載っているペイジでは「ラ・グーマの故郷はこのケープタウンですよ・・・・・・・」とやはり感慨深そうであった。表紙を飾っているムファーレレ氏がいるヴイットヴァータースラント大学はエイブラハムズ氏が一年間通った所であった。それらの写真が様々な思い出を蘇らせたのであろう。

黒人搾取の上に成り立つ白人社会の特権を享受している白人作家と、惨めな生活を強いられる黒人作家との間の、おのずからのテーマの違いに触れ、ラ・グーマの本が南アフリカの問題や状況を取り扱っている点を強調したあと、エイブラハムズ氏は次のように語った。

歴史を記録する

エイブラハムズ氏 ラ・グーマは、だだ書くためにだけ書いたのではないのです。南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いたのです。だから、ラ・グーマの本は、将来もその意味でいつも重要であると思います。物語としてだけではなく、歴史としても大切なのです。というのも、ラ・グーマは南アフリカの歴史を記録するのだと常々言っていましたから。

-あなたの本の中で、特に強調されていたところですね。

エイブラハムズ氏 ええ、私はラ・グーマが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのためにラ・グーマは南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。だから、これからもラ・グーマの本がいつも大切になってくると思うのですよ。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。私たちには、白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということが大事なのです。すべての人間が民主的な諸権利を与えられて、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかという人間としてではなく、ただ生きて、人間らしい生き方をしようとしている人間としてみなされることこそ大切なのです・・・・・・・アレックス・ラ・グーマは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・・・・・すべての人間がその膚の色の故ではなく、その人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがラ・グーマの一生の目標だったのです。

-ANCの政策ですね。

エイブラハムズ氏 そう、ANCの政策です。ANCの政策と全く同じですよ。よりよい世界を、そしてよりよい社会を築くために、人間の肌の色や富や醜美とかではなく、人間としてあなたを判断するということです。ラ・グーマはそれが好きでしたし、固く信じてもいました。それはラ・グーマの最もすばらしかった点のひとつだと私は考えています。もしあなたがラ・グーマを訪ねて行ったとしても、あの人はとても気軽に応じてくれていますよ。あの人はあなたを日本からやってきたという目で見たりはしなかったと思います、たとえ日本がANCの最大の支援国のひとつだとしても。あなたを日本という国で判断したりはしません。あなたを南アフリカの問題に関心のある人間として、また平等な社会をもたらしてくれる変革を望んでいる人間としてきっと見てくれていますよ。それがあの人の見方なんです・・・・・・・。

到着してから未だわずかな時間しか経ってはいなかったが、エイブラハムズ氏のそんな話を聞いているうちに私の心は幾分か軽くなっていた。

お互いの紹介もほとんどしないまま、ラ・グーマを軸にいっきにここまで話がすすんだが、話を一時中断して、奥さん、一歳になったばかりの長男と4人で散歩に出ることになった。二人はいつもタ方のこの時間にベビーカーに子供を乗せて散歩しながら寝かせつけるのが日課とのことだった。エイブラハムズ氏がベビーカーを押しながら、4人は家の近くをゆっくりと散歩してまわった。エイブラハムズ氏は、この子の名前アレクセイ(Alexei)はアレックス・ラ・グーマとプーシキンから取ったのですよ、と相好を崩しながら嬉しそうに言った。ラ・グーマへの思い入れはもちろんだが「真の国民文学の創始に努力し、リアリズム文学を確立し、ロシア文学を世界的意義と価値のあるものにした」とされるアレクサンドル・プーシキン(Alexsandr Pushkin, 1799-1837)への思い入れが強かったのだろう。すでに秋の気配の漂うカナダのタ暮れの中で、アレクセイ君、ベビーカーに揺られながらいつのまにか寝息をたてていた。

夕餉の食卓には、中国風の長い箸が並べられてあった。遙かアジアの地からの訪問者に、という配慮が感じられた。

写真食事

楽しいカナダ式中華風夕食が済んでから、いよいよ本格的インタビューが始まった。

写真食事

エイブラハムズ氏は、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープ(Brededorp)生まれで、日本でも早くから紹介されているピーター・エイブラハムズと同郷であった。新聞のコラム欄を通してその存在を知ってはいたものの、ケープタウン生まれのラ・グーマとは南アフリカ国内での面識はなく、二人が最初に出会ったのは国外に於いて、それもお互いに亡命者としてである。

先述のドン・マッテラの話などをしたあと、エイブラハムズ氏は自らの生いたちを語り始めた。

12歳で拘置所に

エイブラハムズ氏 私は父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれました。ですから住んでいた地域内では政府に「カラード」と分類分けされました。わたしの家は貧しく、子供は6人でした。しかし、母親は子供が学校に行き、教育を受けることに殊のほか熱心で、教育を受けていさえすれば、自分ひとりでやっていける、と常々言っていました。私のいた地域は貧しく、とても貧しく、本当に貧しくて、私はかなり小さい時から白人、黒人間の不平等を意識するようになりました。ですから、私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。

-拘置所にですか。

エイブラハムズ氏 拘置所、刑務所にですよ。スポーツの競技場、サッカーの競技場のことで反対したんですよ。黒人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。 だから、私は白人の競技場にみんなを連れて行ったんです。

-砂利のところでプレイするのは大変だったでしょう。

エイブラハムズ氏 そりゃもうとても大変でしたよ。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです、それから・・・・・・・。

-どれくらいの期間ですか。

エイブラハムズ氏 そうですね、それぞれ短かくて、1、2週間ほどでした。そのあとわずか16歳でANCの会員になりました。

カナダに亡命して

コロネイションビル高校を出たあと、エイブラハムズ氏はヴィットヴァータースラント大学に進んだが、99パーセントが白人のその大学では黒人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されなかった。従って、一年で退学、その後エイブラハムズ氏は現在のレソトの大学で学士号を取得して再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立った。

1961年5月には、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導したため、今度は裁判なしに4ヶ月間拘禁されている。

その後、1963年には、ANCの指示に従って、エイブラハムズ氏は単身、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命した。(のちに、エイブラハムズ氏が亡命したことにより、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことを口づてに聞かされたという)

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズ氏は、わずか12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前にすでに亡命していたことになる。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ち、今日に至っている。カナダにはアフリカ文学のわかるものがいなかったため、詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうである。

ラ・グーマと出会って

そんなエイブラハムズ氏がラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた時で、1976年のことである。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していた。

2年後、二人はロンドンで再会したが、その時エイブラハムズ氏はラ・グーマに関する本を書くことを決意し、1980年あたりから本格的にその作業に取りかかっている。

1982年には、家族からの要請もあって、ラ・グーマの出版や原稿の管理を頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けた。現在、ラ・グーマの未出版の短篇、父親についての伝記、口ンドン時代に書かれたラジオ劇、第3章で絶筆となった遺稿『闘いの王冠』(Crowns of Battle)などを一冊にまとめて出版することを考えているという。

ロンドン、キユーバでのラ・グーマ

ラ・グーマが家族とともにエイブラハムズ氏に原稿管理などの依頼をしたのも、78年からキューバに行ったのも、経済的な事情と深く係わりがあった。ラ・グーマは既に何冊も本を出し、国際的な名声も高かったが、出版社からの支払いなども悪かったようで、保険会社に勤めるなど一時は不本意な仕事に就かざるを得なかった。口ンドンでの生活についてエイブラハムズ氏は言う。

ラ・グーマ写真

エイブラハムズ氏 アレックスは経済的にはあまりうまく行ってはいませんでしたね。あの人の家庭は経済的にはいつもぎりぎりで、やっと何とかやっていけるというところでした。家に食べ物が何もない日が何日もありました。子供たちも小さかったし、 ロンドンではどこで食べものを手に入れたらいいのか本当に途方に暮れてしまいました、と奥さんから聞いたことがあります・・・・・・・。

ブランシ写真

ANCの指示に従って、単身、国を離れたエイブラハムズ氏も「カナダに来て2、3年は南アフリカが恋しくて恋しくて、とても寂しい思いをしましたよ」と言っていたが、家族を伴っての亡命であったにしろ、自分の国を、その人々を誰よりも愛したラ・グーマには、国を離れざるを得なかったこと自体がやはりやりきれなかったのであろう。一方では、精力的に創作活動や解放闘争を展開しながらも、もう一方では、側目が気遣うほど酒と煙草が過ぎたらしく、当然体調もよくなかったという。あるとき、いつものように深酒をした翌日、飛行機である会合に出かけた際、昨晩一緒に酔いつぶれたエルシィ・ナイティスという、当時「セチャバ」の編集長をしていた南アフリカ人が、機上で心臓麻痺を起こし死んでしまったことがあった。未だ20代の若さの青年の死はラ・グーマには相当こたえたようで、そんなこともキューバ行きを決意した原因のひとつらしい。そのあたりの事情に触れながらエイブラハムズ氏は語る。

セスル写真家族

エイブラハムズ氏 不運にもこのときANCはラ・グーマに経済援助をしてやれませんでした・・・・・・・それもラ・グーマがキューバに行った理由のひとつですよ、というのはANCはその方がラ・グーマにはいいだろうし、キューバでなら十分な暮らしも出来るだろうと考えたからです。キューバ政府は実際、住宅や食べものの資金援助をしてくれました。

-キューバ政府が、ですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ政府はANCを南アフリカ人の合法的な代表だとみています。ですから、南アフリカ代表を外交官として処遇してくれるのです。

-キューバ在住のですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ在住の、です。政府はラ・グーマを外交官居留地内の住宅に住まわせてくれました。住まいは無料で、特定の商店などから食料が買えるクーポン券や車などを与えてくれました。それがはじめてのケースだったのですが、78年から85年までのことです。

キューバではANCカリブ主代表として、ジャマイカやトリニダードなどを訪れたり相変わらず多忙な日々を送った。この間、エイブラハムズ氏は『アレックス・ラ・グーマ』の執筆にむけて、当地を2度訪問している。

当時アジア・アフリカ作家会議の議長を務めていたラ・グーマが日本アジア・アフリカ作家会議主催のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)文化会議に出席するため川崎市を訪れたのもこの頃である。

ラ・グーマ川崎

85年10月には、エイブラハムズ氏の大学で開催される会議にラ・グーマが出席し、併せてカナダ旅行もする予定で、エイブラハムズ氏は切符の手配や発表論文などすべての準備をすでに終えていた。それだけに、ラ・グーマの突然の訃報にはことのほか強いショックを受けたようで「まさかそんなことになるとは誰も夢にも思っていませんでしたから、本当に驚きました。南アフリカの人々にとって、酒は何もためにならんですよ」とエイブラハムズ氏はわびしそうにつぶやいた。

キューバでは盛大な葬式が取り行なわれ、カスト口の弟が代表弔詞を述べたり、ANC事務総長なども当日出席したという。

この10月には、ラ・グーマの3回忌法要が行なわれ、長男ユージーンが出席しているはずである。ユージーンはソ連の女性と結婚して二児があり、現在モスクワに住んでいる。

次男バーソロミューは、東ドイツですでに写真の勉強を終え、現在ザンビアの首都ルサカにあるANC本部の映画班(“The ANC film unit”)で働いている。

尚、ラ・グーマの死後、ブランシ夫人は再びロンドンに戻って生活している。

ブランシ写真

わが子を見つめる父親のように

エイブラハムズ氏は、このようにおおざっぱにラ・グーマの生活を概観したあと、著書『アレックス・ラ・グーマ』でも強調したように、ラ・グーマがどれほど南アフリカの人々を思い、その人たちのために書き続けたかを、やはり語り始めた。

エイブラハムズ氏 そう。アレックス は、事実「カラード」社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

6区写真

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。

6区写真2

「カラード」人口の特に多いケープ社会では、見た目には白人と区別のつかない人間もいて、アメリカ社会でもそうであったように、「白人」になろうとする「パーシィング(パッシング)」(“passing”)の問題も当然見られたが、「自らの人間的尊厳を忘れるな、あるがままの自分に誇りを持て」と言い続けた。

人々とともに

人々のために書き、人々とともに生涯闘い続けたという点では、アメリカの黒人作家ライトやボールドウィンとは趣きが少し違う。エイブラハムズ氏はその二人を引き合いに出して言う。

エイブラハムズ氏 リチャード・ライトはパリに行き、それからアメリカでの自分の人生について本を書きました。すべてが怒りや苦渋から生まれています。ライトは決してアメリカに戻りたがりませんでした。合衆国の黒人の置かれた状態に非常に腹を立てていたからです、そうでしょう。ある意味では、ジェイムズ・ボールドウィンもライトと同じで、過去に起こったことに大層な憤りを感じていました。しかし、アレックス・ラ・グーマの場合は違います。アレックス・ラ・グーマが救われたのは、あの人が人々とともに政治運動や解放闘争の真只中にいたからです。解放運動のために働きながらも、同時に作家である場合には、闘争理念の中にこの闘いを勝ちとるのだという強い信念が存在し、その信念を絶えず保ち続ける必要のあることを充分承知しています。その場合には、自分たちが今やっていることを書き、その運動が正しいということを書けばいいわけです。そして、一緒に協力してやって行けば、必ずいつか勝利を得るのです。しかし、もし協力してやらなかったり、政治運動をしなかったり、やったとしても孤立して個人的にやるなら、終始腹を立てる可能性がより強くなってしまう。というのは、どこにも逃げ場所がなくなるし、よりかかれる社会がなくなってしまうからですよ。アレックス・ラ・グーマには、ただ創作活動だけではなく、現実的で、政治的な仕事があったから、信念を保ち続けることができたのですよ。

ライト写真

ラ・グーマはすばらしい芸術家でもあつた

エイブラハムズ氏は更に続ける。

エイブラハムズ氏 ラ・グーマはいつでもすぐに心を切リ換えることが出来ました。多くの作家は、自分が作家でしかなく、自分を世間から切リ離して考えるようになるから、なかなかそれが出来ません。そして、結果的には問題が頭の内側に残り、やがては感情の中に沈澱して自らを破滅へと追い込んでいく。もし、地域社会や世間の中に深く係わっていれば、他の人間にも精力を注ぐ必要があるから、時間的にも、自分に腹を立ててばかりいるわけにはいかなくなる。今思えば、これがラ・グーマにとってはよかったのだと思います。ラ・グーマは作家になる前に、まず政治に巻きこまれました、それがよかったのです。もし、まず作家になり、次いで政治に関係していたとすれば、きっと問題があったでしょう。それから、あの人はいともたやすく、文学技法を駆使してものを書くことが出来たのです。それは、ラ・グーマに才能が、ものを書く才能があったからですし、たとえ政治的に係わっていても、人に教義や信条を説いたりしないやり方で、物語を語ることが出来たからです。ラ・グーマはただ物語を語っただけなのです・・・・・・・そして、物語を読めばわかりますが、決してどう考えるべきかを語ってはいません。あの人は物語を読者に委ね、どうすべきかを読者に決めさせるのです。断じて、これが愛だとか、これが人生だなどとは言いません。ラ・グーマは「ここにひとつの物語があるから、あとはあなたの方でうまくやって下さい」というのです,例えば、短篇「コーヒーと旅」をみても、カフェで婦人の怒りが爆発したとき、そんなにもひどい扱いを受けたからその婦人の怒りが爆発しているのだとラ・グーマはいいませんでした。その状況が、非人間的で、扱いが人間の尊巌を傷つけるやり方だったからその婦人の怒りは爆発したのだというだけです。しかし、うたい文句など一切与えられず、ただひとつの物語が与えられているだけなのに、もし私があなたと同じ立場にいたなら、きっと全く同じやり方で行動したでしょう、と読者は考えるようになるのです・・・・・・・詩であれ、小説であれ、たくさんの南アフリカのものを読めば、まともな形のスローガンや直接的なうたい文句がたくさんあるのがわかります。それらを読んだら、きっと、物語としてというより、政治のビラとしてならいいんだが、と言うに決まっています。ラ・グーマは、決してそうはしませんでした。あれはあの人の物語なのです・・・・・・非常に乾いた政治的な立場に立ち、その立場を生きたものにしているのはラ・グーマの芸術的な才能です。現に南アフリ力に住んでいなくても、例えば「レモン果樹園」とか「コーヒーと旅」とか『夜の彷徨』とか『まして束ねし縄なれば』のような作品を読めば、読み終えたときには、読者ははっきりと南アフリカの姿を目に浮かべることができるのです・・・・・・。

写真『まして束ねし縄なれば』

解放の日にそなえて

夜遅くなった。エイブラハムズ氏は、明日は休暇明けの月曜日をむかえるのに、遥か日本からの訪問者に、自身の長旅の疲れもほとんど見せずラ・グーマを熱っぽく語った。やがて、私は少し興奮気味の床に就いた。隣の部屋でアレックス君が泣いている・・・・・・夢の中でその泣き声を聞きながら、朝の光の中で目を醒ました。起きてみるとカナダの朝はもう秋だった。日本に居ればまだ泳いでいる頃なのに、と考えながらセーターを着けた。

エイブラハムズ氏は、6月までケベックのビショップ大学に居たが、この7月からセイント・キャサリンズにあるブロック大学に移っている。学部長として、学校管理の仕事をやり始めたという。「私の国が解放されたとき、私の今までやってきたことを役立てたいんですよ」と大学へ行く車の中で話してくれた。一万人の学生、三百人の教授陣を抱える人間学科の学部長としての毎日は、相当きついらしい。休暇明けの机の上には手紙の束がどっさり置かれてあった。「前のところは週2日でよかったから、研究の時間も充分にあったんですがね、でも、これは新しい挑戦なんです。国の外で闘っているANCの会員は、南アフリカが自由になったときのために、それぞれ頑張っているんですよ」とも言った。

かつて国民の熱狂的な支持を受けて独立を果たしたガーナの首相クワメ・エンクルマは、独立後10年もたたないうちに結局挫折してしまった。国を支えていく<ひと>が育っていなかったからである。独立を果たした他のアフリカ諸国も同じ課題を抱えて苦しんでいる。そんな同じ轍を踏まないように、この人たちは自分たちの手で国を動かす日にそなえてそれぞれの立場で<いま>を闘っているのだ。

エンクルマ写真

「私は南アフリカ作家の歴史を書いておかないと、と思っているんです。また、解放の日が来たときに、その人たちすべての資料を人々が利用し、若い人たちにその作家たちの作品が読めるように準備しておかなければ、とも考えているんです。国の外で闘い、たくさんのことを成し遂げてきた作家たちのものが、行きさえすれば必ず手に入るように。というのも、若い人たちはその作家たちを見たことも聞いたこともないからです。ある意味では、私たちは南アフリカのための、ひいては世界のための仕事をしようとしているのです」と言ったあと「現在、資料センターを作るためにカナダ政府に交渉中で、解放の日には南アフリカにそっくり移すつもりです」と付け加えた。

若い世代

昨夜はラ・グーマを偲んでのしんみりとした話になってしまったが、今日は「南アフリカのカレーをつくってあげますよ」と料理をつくりながらの、台所での話となった。私自身、料理をすることもあるから何ら違和感は感じなかったのだが、それでも「南アフリカでは男の人も料埋をやるんですか」ときいてみたくなった。答えは「いや、男は料理しませんよ。だいたい穢ない仕事はみんな女性がやってきました」だった。「では、若い世代はどうですか」ときいてみたら、次のような答えが返ってきた。

エイブラハムズ氏 若い世代は変わると思います。あの子たちはたいへん違っていますよ。男とか女とかではなく、人間としてお互いを尊敬し合っています。だから、あの子たちが完全な変革をもたらすんだと私は考えているんです。南アフリカで現在起こっている事態はきわめて実践的で、若い人たちは自分たちの両親のやってきたことをしようとはしません。あの子たちは姿勢が全く違いますよ。南アフリカにはとてもいいことだと思うんです。ですから、ANCには、政府を変える前に人間性をまず変えろ、といつも言ってるんですよ。言い換えれば、ANCのトップに女性の数が充分でないと感じているということなんです。ANCのために働いている女性がこんなにたくさんいるのに、女性は高い地位に就いていない。だから、女性をもっと正当に扱え、といつも言っているのです。ANCの大半は、もちろん黒人で、ズールーやコサなどいろんな共同体から来ています。私たちの伝統の中では、男は自己中心的に育てられてきました。今まで男が女性と権力を分かち合うことなど決してなかった。男が常に主人で、すべての穢ない仕事は女性がしなければならなかった。そんな風に、ANCの多くの男たち、特にオリバー・タンボやネルソン・マンデラのような古い世代の人たちは、専ら愛国主義中心の考え方の中で育てられた。あの人たちが、革命は単に政治ばかりではないということを理解するにはしばらく時間がかかると思います。それは人の生き方でもあり、あなたが日々行なうことでもあり、子供や妻を扱うやり方でもあるのです。つまり、人の生き方なのですよ・・・・・・私はANCの会員ですが、来るべき政府にだけ関心があるのではありません。それが一番重要だというのではないのです。大切なのは、私たちが新しい社会を、新しい生活のやり方をつくり上げることなのです。お互いが尊敬し合い、お互いがいたわり合い、感性を大切にする、そしておまえは男だ、あいつは女だ、などと言わずに,相手を理解する、そんな社会なのです。私にはそれが重要だと思えてならないのです。

ラ・グーマは若い人たちのために歴史を記録するのだと言って作品を書き、エイブラハムズ氏は若い人たちにそんな作家の資料を残す準備をしているという。

エイブラハムズ氏は、若い世代について更に続けて語る。

エイブラハムズ氏 今の若い人たちは酒を飲みません、人々が闘い方を知らないのは酒のせいだと言うんです。だから、あの子たちは酒を飲むのを嫌います。デモをやるときは、まずシビーン(もぐり居酒屋)に行って、酒を投げ棄て、そこに居る人たちを叩き出してしまいます。襲うのは政府ばかりではなく、自分たちの同胞もやるんです。あんなものは健康によくないんだ、とあの子たちは言います。人々は給料をもらったらまっすぐシビーンに行き、家には帰らない。帰る頃には妻や子供のための、ミルクやパンや着物や本の金がすっかりなくなってしまっている。亡命しているたくさんの南アフリカ人は、多くは政治的な理由でイギリスに行ってますが、あの人たちは集まっては酒を飲む。かつてイギリスに行ったとき、この人たちは何て飲むんだ、と驚いたのを覚えています・・・・・・。

1976年ソウェト

ソエト写真

-若い人たちには希望がありますね。

エイブラハムズ氏 そうですよ、そしてあの子たちは酒を飲みたがりません。

-1976年の世代ですか。

エイブラハムズ氏 ソウェト、ですよ。1976年以来、若い人たちは非常に戦闘的になっています。そして酒も煙草もやろうとしない。あの子たちは本当に真剣ですよ・・・・・・。

ソウェト、の世代である。映画「アモク!」にも登場したあの競技場の高校生たちである。かつて古い世代は話し合いを提唱し続けたが、若い人たちはそれを拒む。エイブラハムズ氏はそんな若い人たちを分析する。

アモク写真

エイブラハムズ氏 若い世代は「嫌だ、話し合いなんてもううんざりだ。もし国を変革できないなら、それと闘うまでだ」という。しかし不幸なことに、数が多くない。同じ考えを共有できる人々が充分にいないのです。古い世代はほとんど自分自身の生活に窮々していたから、すすんで死んだり、刑務所に行ったりはしなかった。1976年以降の若い世代は全く違う。あの子たちは銃弾を恐れない。話し合いに多くの時間を費やさない。心の中で何を望んでいるのかを知っている。即自由を! 即平等を!が望みなんです。もう次の世代を待てないのです。今、それを望んでいます。若い人たちは、私たちが望めもしなかったことをやろうとしている、と私が信じるのはこういうわけからなのです。ビュークス(『季節終わりの霧の中で』の主人公)のように、私たちは平和的なデモを信じ、いつもビラを手にして街頭に立った。撲られ、刑務所に入れられても何もしなかった。私たちはただビラを配ったんです。それだけじゃあない、警官に殴られ、拷問され続けた・・・・・・・・今日の世代は政府の変革など信じてはいない。あの子たちは生活の改革を信じているのです。南アフリカは、物質的なものごとばかりにこだわらないで、生き方についての思考形態を改めながら精神的な生活に重点を置くべきだと、若い人たちは信じているのです。

「ィアッフリカッ!」 「ァマンドゥラッ!」

セスル写真

南アフリカのカレーは、おいしかった。もうすぐ12歳になる長女レイチェル(Rachel)が焼いてくれたローティ(“roti”)に包んで手づかみで、食べた。おいしかった。

セスルカレー

タ食後、最近来日した南アフリカ人歌手アブドゥラ・イブラヒィムの「古井戸の水」(WATER FROM AN ANCIENT WELL)というポップス調のレコードをかけてくれた。

そのうち、エイブラハムズ氏はレイチェルを誘って踊り出した。堂に入っている。私は見る人、撮る人を決め込んでシャッターをきり続けた。解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れ出すと、拳を突き上げながら「ィアッフリカッ!ィアッフリカッ!」を連発した。踊りながらレイチェルが声をあげて喜んでいる。座っているローズマリーも笑っている。「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」・・・・・・。

レイチェル写真

冷静で、普段あまり笑顔を見せないエイブラハムズ氏が高揚している・・・・・・。

3日間一緒に生活をして、いろいろなことを聞き、いろいろなものを見たが、何にもましてうれしかったのは、全く違った国の、全く違った文化背景の中で育った人間同士が、基本的なところで共有し合える、理解し合える、と感じられたことだ。しかも、南アフリカの人々を現に苦しめている国の一つ日本から来た人間にむかって、人間として尊重しあいましょう、とあの人は言った。

別れ際に「今度は、いつの日か、あなたの家族と私の家族が南アフリカで会いましょう」と語ったが、私の方は、喉をつまらせながら言葉にならぬ言葉を発するばかりであった。

ANCの国際連帯会議が12月3日タンザニアのアルーシャで開幕、と報じられた。ANCを支援する海外の政治団体や労組、宗教組織などとの連帯会議で、この種の会議では最大規模の国際会議であるという。

エイブラハムズ氏の語る若い世代の話や、ゴバン・ムベキ氏の釈放やこの国際会議の知らせなどは、南アフリカの事態が解放にむけて着実に動いていることを私たちに教えてくれる。

現実はなお厳しいものの、ANCやUDF、それに「ソウェト」を体験した若ものたちによって、ラ・グーマが終生願い続けた統合民主国家南アフリカが誕生する日もそう遠くない。そのときは、エイブラハムズ氏の家族と私たちの家族が南アフリカで、このカナダでのありし日を笑いながら語り合えるだろう。

いただいた数々の資料の中にエイブラハムズ氏自身の詩が2篇ある。2篇とも「ソウェト」の詩である。「本当は、自分でも詩や小説を書きたいのですが、当分はラ・グーマの資料の整理を、一段落したら今度はデニス・ブルータスの・・・・・・」と語っていたエイブラハムズ氏が、「ソウェト」の悲しい知らせを聞いて、祖国のいたいけな子供たちを悼んでよんだものである。その一篇を紹介して、私からのメッセージの終わりとしたい。

Poems for the Soweto Martyr

I saw that picture

in a newspaper 12,000 miles away

my people’s blood

flowing again at

the hands of hate

A courageous boy

he was

barely eight years old

defying the inevitable terrifying

bullets of death

He was first to go

though last to begin

His only crime was

to protest the crime of hate

Where does one

so far removed from

the heinous scene of crime

hide or defy or identify

How does one tell

one’s worldy neighbour

who has never felt

the heavy brutal hand

of the terror

the pain

the frustration

that lurks deep

down in the revolutionary heart?

Cecil Abrahams

ソウェト殉教者たちに寄せる詩

わたくしは一枚の写真を見た

一万二千マイル離れた国の、 ひとつの

新聞に

わたくしの同胞の血が

その憎しみの手に

ふたたび流れ落ちるのを

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか八歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

少年はまっ先に死んでいった

一番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

どこで確かめればよいのか

おぞましい地獄絵から

そんなにも遠く離れて

どのように語ればよいのか

恐怖の

重い残忍な手を

決して感じたことのない

隣人たちに

革命の心に深く沈む

この苦しみ

この憤りを

セスゥル・エイブラハムズ

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号 10-23ペイジ

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ
(英語版:未出版)

1976~89年の執筆物

概要

(作業中)

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、辺りまでを書きました。

本文(作業中)

◎反逆裁判

1956年12月13日、ラ・グーマは逮捕された。8日前に既に捕えられていたANCルツーリ議長を含む155名と共に「国家」への反逆罪に問われたのだが、それは国内外の情勢によって強められた白人政府の不安の表われに他ならなかった。

国内では、ANCを中心に解放闘争が高まりを見せていた。1950年6月26日〈南アフリカの自由の日〉のストライキで多数の大衆動員を果たしたANCは、若きネルソン・マンデラらが先頭に立って人種差別法に対して非暴力非協力の〈不服従運動〉を展開していたが、共産主義弾圧法や53年の〈修正刑法〉などによって徹底的に弾圧を受け、53年はじめには闘争打切りの声明発表を余儀なくされていた。しかし、すぐANCは、白人の民主主義者会議、インド人会議、カラード人民会議(もと南アフリカ・カデード人民機構-SACPO)と連帯して、4人種からなる統合民主国家をめざす連合戦線、いわゆる〈会議運動〉を推し進め始めた。55年の「人民会議」による自由憲章の採択は、そんな「解放戦線」による挑戦であり、政府にばかり知れない脅威を与えたのである。自由憲章採択後も、婦人で唯一のANC中央委員リリアン・ンゴイを中心に婦人たちによるパス反対闘争が展開されたりするなど解放への闘争は盛り上がりを見せていた。

国外では、56年にアフリカ大陸で二つの衝撃的な出来事が起きていた。一つは、6月のエジプトの共和国憲法の公布と共和国の正式な樹立である。イギリスとの長年の抗争を経て、スエズ地帯からイギリス軍を駆逐した末のその出来事は、独立の波がアジアからアフリカに広がりつつある証拠でもあった。もう一つは、3ヶ月のちの9月に、イギリス政府が植民地ゴールド・コーストに対して翌1957年3月に独立を与えるという声明を発表したことである。黒人主権国ガーナの誕生は、ヨーロッパ帝国主義と白人支配からの解放への第一歩を意味しており、アフリカとアフリカ人にとっては想像以上の重みを持っていた。こうした内外の情勢のもとで、大量156人の一斉逮捕が強行されたのである。

逮捕されたのは、アフリカ人、白人、インド人、カラードと人種や職業もさまざまであったが、カラード人民会議の議長を務めていたラ・グーマをはじめ、すべてが〈会議運動〉の指導者か活動家であり、その事件が〈会議運動〉阻止を狙う政府の弾圧強化の産物であるのは明らかであった。

反逆罪は、南アフリカでも最大の犯罪であったにもかかわらず、ルツーリ議長らが捕えられてから僅か16日後には全員が保釈されるなど政府側の計画性のなさとは対照的に、被告たちの取った行動は、秩序正しく堂々としたものであった。ルツーリは、むしろ収容されたヨハネスブルグの要塞刑務所を会議運動指導者たちの絶好の会合の場と考えたほどである。というのも、現実に指導者たちの大半は広大な南アフリカをたやすく旅行できる階層には属していなかったし、警察の干渉をうけるなかで会合を持つことの難しさをいやという程味わっていたからである。なかなか実現することのなかった「指導者たちが一堂に会する」という夢を、皮肉にも、政府が強要して適えてくれた、と考えたのである。刑務所内では全員が二つの大きな監房にわかれて収容されたが、昼間は会うことができ、事実、講義や討論会、礼拝などのほかに、コーラスの練習まで行なわれている。(Albert Luthuli, Let My People Go, An Autobiography, Collins, 1962に詳しい)

こうして歴史に残る〈反逆裁判〉が始まった。裁判は5年の長きに及んだが、争点は〈会議運動〉が反逆罪にあたるかどうかであった。検察側は、自由憲章が共産主義を指向し、暴力による社会変革と国家の転覆をめざすものであると非難したが、弁護側は、自由憲章に示された理想と信念は大多数の国民が公然と抱いているものであり、その思想を裁こうとしていると反論した。結局、検察側は156名の反逆罪を立証できず、61年3月までに全員に対して無罪の判決を言い渡さざるを得なかった。裁判は検察側の完全な敗北に終ったのである。

反逆裁判の間じゅう、ラ・グーマは政治活動を禁じられた。公然と係わりを持てたのは「ニュー・エイジ」のコラムニストとしてだけである。裁判が始まると、いきおい投稿回数も減り、家計は妻ブランシの肩に重くのしかかった。しかし、ラ・グーマは定期的にヨハネスブルグから被告たちの息吹をケープタウンに持ち帰った。57年1月24日付の「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」と題された記事は、裁判での人々の様子を鮮明に伝えている。

 

私は被告たちの不平や後悔や泣きごとをみつけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。また、レンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

 

57年5月2日に「ニュー・エイジ」の専属コラムニストに採用され「わが街の奥で」と題するコラム欄を担当することになったラ・グーマは、一方では短篇を書きながら、ジャーナリストとしても、精力的に創作活動に携わることになる。(反逆裁判についてはLionel Forman & E .S . Sache, The South African Treason Trial (John Calder,1957)があり、雪由慶正訳『アフリカは自由を求めている』(角川書店、1959年)の邦訳も出ている)

 

◎シャープヴィルの虐殺

反逆裁判の最終判決が未だ出ていない1960年3月21日に、解放闘争の、ひいては南アフリカの歴史の転換点となる出来事が勃発した。20世紀最大の蛮行といわれるシャープヴィルの虐殺である。多人種統合国家をめざすANCの平和主義を批判して59年3月に訣を分っていたパン・アフリカニスト会議(PAC)の呼びかけに応じて集まったシャープヴィルの大衆に向かって、白人警官が一斉射撃を行ない、69名の死者、数百名の負傷者を出したのである。政府筋は「暴動鎮圧」の声明を発したが、パス法廃止などを求めて集った無防備の民衆に向かっての一方的な突然の発砲は、まさに虐殺行為であり、国内外の情勢の不安にかられた白人政権の力による制圧強化に他ならなかった。

政府のこの非道に抗議して、各地で民衆が立ち上がった。武力鎮圧を強行する警官に対して、激怒した大衆は放火、投石などで対抗するなど、国内は騒然となった。3月26日に、政府はパス法の一時停止声明で騒ぎを鎮めようとしたが、抗議の波はおさまらず、28日に行なわれた一日在宅スドでは大半の民衆が職場を放棄し、国の機能は完全にマヒ状態となった。これに対し、政府は翌29日に非常事態宣言を発令して武力弾圧を強化、解放運動指導者の一斉検挙に乗り出した、また、4月6日にはパス法の復活とANC、PACの非合法化の声明を発表、更に翌9日のフルウールト首相狙撃事件を機にますます弾圧を強化して多数の運動家を逮捕した。ラ・グーマが逮捕されたのもこの時期である、ラ・グーマは最初、ケープタウンにあるローランド.ストリート刑務所に収容されたが、すぐにケープ州ウォルセスター特別刑務所に移され、その年の終わりまでの七ヶ月間、収監された。非常事態宣言によって「いかなる人物も自由に逮捕できる」などの権利を我が物にした政府の暴挙により、裁判もなしに長期問拘留されたのである。こののちラ・グーマは、繰り返し投獄、拘禁を余儀なくされる運命となる。

(シャープヴィル虐殺に対する国際世論は厳しく、各国の経済制裁が始まった。61年5月に白人政府は英連邦からの離脱、共和国宣言を実施せざるを得なくなっている。孤立化を深める白入政府は、苦しまぎれに各国に友交関係の継続を訴えたが、それに応じたのがドイツと日本である。日本政府は第二次世界大戦とともに断絶していた外交関係の再開と大使館の新設を約束している。このことによって日本は「名誉白人」の称号をいただき、「白人」なみの扱いを受けているが、それは恥辱以外の何ものでもない。ここで思い起こされるのは、今回来日したアラン・ブーサック氏の来日前の日本へのメッセージである。(本誌7号でも紹介した)

 

われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。85年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしなくてすむからだ・・・・・・」

 

日本企業、ニッボンに対する「恐れ」は、町に氾濫するトヨタ、ソニーばかりか、この時の日本政府の道義に反する抜け駆け行為に裏打ちされている。

日本の”繁栄”が、現に被害者の犠牲の上になり立っており、直接的にであれ、間接的にであれ、私たちが加害者側に立っている事実は否定出来ない。そんな自己矛盾とむき合う思いはなんとも複雑である。

アメリカの黒人作家リチャード・ライトも独立前のガーナを訪れたのちに出版した紀行文の中で同じようなことを書き残している。

 

人はその人となりや、その暮しぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。・・・・・・アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

 

「その鏡の中で見るものを憎み、壊したい」心境に傾いていく自分と、「存在についての基本的な異議」を意識しないわけにはゆかない。

 

◎文化荒廃のなかで

もとより、自分たちの利害に従って自分たちの法を作り、自分たちの都合のいいように築き上げた差別社会にあっては、虐げられる側に及ぶ悪影響は、目に見える政治や経済面といった分野だけでは決してない、その悪影響は目には見え難い、人の精神文化に係わる側面にまで及んでいく。

たとえば、先述のリチャード・ライトは、閉鎖的で、人種差別の厳しいアメリカ南部で少年期を過ごしているが、読みたい本を図書館から借りるだけで屈辱と危険を体験せねばならなかった。H.L.メンケンの本を図書館から借り出すのに、知り合いのアイルランド系の白人に恐る恐る頼み込んで図書館カードを借り、「この『黒んぼ』にメンケンの本を何冊か持たせて下さい」というメモ書きを自分で作り、白人図書館員の前で「低能な黒人」の役を演じている。もと奴隷であった「低能な黒人」に図書館など要らぬ、というのが当時の南部社会の実態であったからである。

南アフリカの場合、状況はさらに厳しい。のちに発表した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」(「新日本文学」1977年4月号に邦訳があるが、残念ながら、例によって「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族(下線は筆者)・・・・」(96ペイジ)などといった類のもの。原文はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」23号(1975)に揚載されている)の中で、ラ・グーマは白人支配下で文化状況が如何に荒廃しているかについて述べたあと次の具体例を引き合いに出して論を展開している。

 

・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということである。ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかない。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれている。国内にあるすぐれた図書館は黒人には閉ざされている。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もない。

 

ラ・グーマが少年時代に黒人少年と同地区に住むことが出来たり、ある時期まで一部のものが投票権を持ち得たりするなど、カラード人口の多いケープタウンの状況が黒人社会に比べて幾分か厳しくなかったのは事実である。しかし、アパルトヘイト体制によってもたらされる文化荒廃の実情は、基本的に変わるものではない。その意味では、貧しいながらも、闘争家ラ.グーマ、作家ラ・グーマが白然に育つ環境を与えてくれた父ジェイムズ・ラ・クーマの存在は、大きい。

もっとも、少年の頃からラ・グーマ自身にその素養が備わっていたようで、次のインタビュー記事などを見ると、子供ながらにもう一端の作家である。

 

・・・・・・生徒として、いつも私はペンを走らせました。何度かは、授業中に文章を編み出し教室で読んでみせたりしたものです。作家としての資質があると特に自分でも意識したことはありませんが、教師たちは口を揃え、君には作家としての才能があると言いました。私はいつも話をでっちあげてみせたのですが、それは学校の生徒が書く種のもので、たいていは生徒の冒険ものでした。自由帳はその話で一杯になり、いつしか原稿が部屋にたくさんたまってしまいました。たぶん、ある春先のことだったと思いますが、母が家の大掃除をやったとき、私の大切な原稿はすっかリごみ箱行きになってしまったのです。

 

「各々の切なる思いをかき回し、みんなの注意を意のままに集めることの出来る」能力が自分にあったからこそ級友たちの間で人気があったのだと思う、と自負することのできたラ・グーマは、既に少年の頃から書くことの威力を、そしてペンの力をひそかに信じていたのかも知れない。

「アレックス・ラ・グ~マヘのインタビュー」(本誌7号)でも少し触れていたが、ラ・グーマはロシアや英米作家のものを好んで手にしている。学校での勉強には精を出さなかったラ・グーマであるが、父の影響もあって本をむさぼるように読んでいる。父やそのとりまきの刺激を受けながら、書物の世界を通して自分の世界を広げていったのである。次のインタビューはそんな経緯を教えてくれる。

 

私は本を読むのがとりわけ好きでした。小さい頃からずっと、いつも本を探し求めていました。初めは、誰でも子どもなら読むようなスティーヴンスンにデュマやユーゴーなどの本を読みました。それから冒険もの、ウェスタンものや探偵もの、そして次第にシェイクスピアのような古典やトルストイにゴーリキーなどのロシアの作家、それにジェイムズ・ファレルやスタインベック、ヘミングウェイなどのアメリカ作家といったより堅いものを読み始めました。一冊の本が手に入るのなら、決してその機会を逃したりすることはありませんでした。実際、わずかな小遣銭はいつも古本屋で本を買うのに使いましたし、高い本屋で一冊の本を買い求めるというぜいたくな喜びを味わうためにわざわざお金を貯めたりしたこともありました。

 

作家針生一郎氏はアジア・アフリカ作家会議ベイルート大会報告座談会でラ・グーマの印象を次のように述べている。

 

たとえば南アフリカ代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説をよんでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている。彼と食卓で雑談していたら、一番若いクネーネという詩人・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号)

 

そんな印象も、ラ・グーマが欧米の文学に慣れ親しんでいたことと決して無縁ではないだろう。

 

◎闘争・文学・人生

闘いのさなかに、自然に書くことを始めたラ・グーマが、解放闘争を含む人生と文学は切り離せるものではない、と言ったのはむしろ当然である。人間の自由を奪い、文化を荒廃させるアパルトヘイト体制が現に存在している限り、アパルトヘイト打倒をめざして闘う政治活動もペンでの創作活動も、ラ・グーマにとっては人生そのものであり、拘禁され生活する権利を奪われても、亡命して祖国を離れてもその姿勢は貫かれ、終生変わることはなかった。

アフリカ・スカンジナビア作家会議やアジア・アフリカ作家会議などの国際会議でも必ずそのことを主張したし、「ロータス」誌やANC機関誌「セチャバ」でも同趣旨の論文を発表している。(「アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー」の会見者コート・ジボアール、アビジャン大学のリチャード・サミン氏の手紙によれば、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれていたラ・グーマが、文学部主催のアフリカ文学国際会議で行なった講演「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」も「ロータス」や「セチャバ」での論文に似たものであったとのこと、と本誌七号で紹介したばかりである)

たとえば「ロータス」誌1巻4号(1970)の「文学と人生」と題する小論の中では、その年が百年祭にあたるゴーリキーの文章を引用してその文学への業績をたたえたあと、ラ・グーマは次のように続けている。

 

人は文学と人生を切り離すことはできないし、文学と人間の経験や人間の願望とを切り離すことはできない・・・・・・

・・・・・・文学の最大の価値の一つは、自己意識を深め、人生に対する感覚を広げることによって、すべての考えや行動が社会現実の範囲内の現実性や経験からきているということを文学を通じて再認識することである。すべての人間もあらゆる言語も自分たち自身の、そして自分たち自身の運命の、同じ根本的な欲求に一番関心があるのである。

 

現実を見据え、現実に根ざしたその姿勢が決して生半可でなかったことは、のちのラ・グーマの解放闘争との係わりや創作活動を通じて次第に証明されていく。アフリカ・スカンジナビア作家会議では、作家であっても必要ならば銃を持って立ちむかうべきだと言明したし、先の「文学と人生」の中では、現に作家が銃を取って闘っているベトナムの例をあげて、闘争・文学・人生が不可分な関係にあることを強調している。

 

◎「ニュー・エイジ」

ラ・グーマの創作活動が現実を見据え、現実に根ざしたものであったことは「ニュー・エイジ」で取り扱った題材を見てもわかる。前号でも少し触れたように「ニュー・エイジ」は反アパルトヘイトを掲げた左翼系の週刊新聞である、前掲の『アフリカは自由を求めている』の中にも何ケ所か顔を出すので、少し紹介しておこう。

 

・・・・・・彼は、ケープタウンの建築家で反政府的な新聞「ニュー・エージ」を出版している会社の支配人をつとめていたために逮捕されたのだった。(34ペイジ)

 

チャップマン会社のボイコットは徹回された。そして一週間後に、「ニュー・エージ」紙上にチャップマン会社の煙草の大きな広告がのった。

「ニュー・エージ」は大きな発行部数をもっていてこれに広告をだすことは会社にとってきわめて有利であることが一般にひろくみとめられていたにもかかわらず、永いあいだ広告主から完全にボイコットされていたのだ。チャツプマン会社は「ニュー・エージ」と長期の広告契約を結んだ。従来広告主たちに「ニュー・エージ」の紙面を利用することを恐れさせていたナショナリストの側からの脅迫という堤防は破壊されたのだ。(91ペイジ)

 

又、「ニュー・エイジ」1961年3月31日付の一面記事の写真がNELSON MANDELA: THE STRUGGLE IS MY LIFE (New York: Pathfinder, 1986)に収載されており、演説中の若きネルソン・マンデラの雄姿や「反逆裁判今週中にも結審の可能性あり」の大見出しなどが見える。(ちなみに、同書には、56年12月に取った反逆裁判被告156名全員の写真も含まれており、7列目に腕組みして微笑みかける若きラ・グーマが、3列目中央にはやや斜交いに構えたマンデラがはっきりと写っており、156名全員の生き生きとした表情がこちら側に伝わって来る)

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当したのは、専属として採用された57年5月2日から、共産主義弾圧法によってジャーナリストとしての活動を禁じられた62年6月28日までだが(「ニュー・エイジ」そのものも同年秋には廃刊に追いやられている)、「ニュー・エイジ」で取り上げたのは、浮浪者、チンビラ、もぐり酒場などを含む街の様子やローランド・ストリート刑務所のこと、それに傍聴に出かけた法廷のレポート、ケープタウン市政に対する攻撃など、すべてアパルトヘイト体制下で坤吟するケープカラード社会の実態についてである。56年9月30日の「つるはしにシャベル」と題するコラムには次のような街の様子が描かれている。

 

いたるところ、すえた食べものの臭いや汗や淀んだ水のくさい臭いで一杯である。街角では街燈の下に人が群がってはサイコロが振られ、1ペニーや3ペンス硬貨がアスファルトにチャリンと音を立てている。どこかで静かに鳴り始めたギターの音は巧みな手前仕込みの指がフレットの上を軽快に走るにつれて、しだいに大きくなって来る。パブが閉まれば、もぐり酒屋(シービーン)の開店である・・・・・・一番安物のワインがひと壜3シリングに6ペンス、ブランデーなら15から25シリングのあいだだ。大きな酒場は警察の手入れを受けないように袖の下を使っている、と囁かれている。国勢調査によれば、この辺りの人口は約125万と言う。しかし、身元の確認を姓名とか膚の色とかでやらずに、厳しさに喜び、楽しさと苦しさ、それにあこがれと挫折、報われることのない厳しく辛い単調さ、絶望、飢え、文盲、肺炎、栄養失調、笑いに悪意、無知、天才、迷信、他愛もない知恵、ゆるぎない自信、愛に憎しみなど、で行なってみれば、きっと数えること自体を諦めざるを得なくなるだろう。

 

少々長くなるが、もう一つ別の記事を紹介しよう。スラム街第六区とそこであてもなくたむろする若者たちのことを書いた56年9月20日付けの「ハノーバー・ストリートの貧民街浮浪児たち」と題する次の一節である。

 

キャッスル・ブリッジからシェパードストリートまでのハノーバー・ストリートが第6区の中心部を通って走っており、その通り沿いに社会の息吹が感じられる。それは金持ちと貧乏人、働きものと怠け者、弱者と強者たちのローカル社会の主動脈である・・・・・・レコード店から流れて来る大きなジャズの音にも負けないで、街頭売りたちが大声を張り上げてものを売る。「さあさあ、じゃがいもだよ。たまねぎだよ」・・・・・・貧民街の浮浪児たち、家の軒下や店やカフェーの辺りでうろつく人の群れ・・・・・・うろつき廻る少年たちのたいていは教育を殆んど受けていないか、全く受けていないものばかり、子どもの頃から新聞を配達するか、街頭売りの手伝いをするかして家計を助けなければならなかったからだ。たとえ如何なる手段を使っても、人生そのものが生き延びるためのたたかいなのだ。しかしながら、誰一人として自分たちの窮状の原因がどこにあるのかに気付いているものはいない・・・・・・ただぶらぶら、何かを待っているばかり。スラム、病気、失業、教育の欠如、人生のすばらしいものを決して許さない人種の壁の空恐しいほどの重み、すべてが貧民街の浮浪児たちを虐げる手助けをしており、その結局、大半のものが餌ものを求めて敵意の満ちたジャングルをさまよう猛獣と化してしまっているのだ。

 

これら「ニュー・エイジ」の記事が発展してやがて『夜の彷徨』が生まれ、そして『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題)が生まれる。又、別のコラム欄で取り上げたローランド・ストリート刑務所には、すぐのちに自らが収容されることになり、その体験をもとに『石の国』が生まれている。それらはすべて、現実を見据え、現実に根ざした闘争家ラ・グーマの生き方から生まれたが、同時に作家ラ・グーマのそののちの文学の主題ともなっていく。そんな経緯を考えると、「ニュー・エイジ」が、ある意昧で作家ラ・グーマを育て上げた大きな源動力の一つであった、と言えるだろう。

 

◎アパルトヘイトの嵐の中で

ラ・グーマが専らカラードの社会の実態を問題として取り上げたのは、繰り返し述べるように、ラ・グーマの目が現実を見据え、その闘いの姿勢が現実に根ざしていたからであり、ラ・グーマが虐げられる同胞たちの代弁者としての自負をしっかりと抱いていたからである。たとえば、66年にロバート・セルマガによって行なわれた次のインタビューでの発言の中にもその気概がうかがわれよう。

 

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。

 

吹き荒れるアパルトヘイトの嵐が人びとに文化荒廃をもたらすことについては先に少し触れたが、特に作家には致命的とも言える状況を生み出す。人種の壁にさえぎられて作家は南アフリカの社会を総合して見ることが出来ず、作晶の中で人種の壁を越えた人物像を描き切れないのである。その実情をラ・グーマは充分承知しておリ、前に紹介した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の中でも次のよつに書いている。

 

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆も又、しかりである。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒入作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは徴妙な、明快な語り口で白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。

同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた人形のように唐突にぞんざいに喋ったり、振るまったりする。アラン・ペイトンの『叫べ、愛する国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を持ってはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな白人の善人である。そのような創作上の失敗はどうしても隔離社会では避けることが出来ないのである。

 

幸いラ・グーマの住むケープカラード社会は、もともと、政権を握るオランダ系白人アフリカーナーとアフリカ人との混成社会で、言葉も英語と、アフリカーナーの話すアフリカーンス語が使用されており、アフリカーナーの文化背景とも近い。ラ・グーマが作品の中で白人(アフリカーナー)像を難なく描いているのも、そんな背景があったからである。又、アパルトヘイト体制がまだ比較的穏やかな少年時代に黒人と同地区に住んだり、会議運動や反逆裁判などを通して違った人種グループも共闘するなかで得た経験も、虐げられるものの代弁者として、南アフリカの社会を総合的にながめる上で大いに役立ったことは言うまでもない。それらはすべて、アバルトヘイトと真向うから闘うラ・グーマの生き方の中から、生まれた。

 

◎拘禁されて

57年に初めてラ・グーマは短篇「練習曲」を「ニュー・エイジ」に発表した。(同短篇は63年にR・リーブ編『四重奏』の中に「夜想曲」と題して再録されている)すぐ後引き続いて「暗闇の中から」「グラスのワイン」など四編を書き、60年から65年の間には「運送屋で」「毛布」など七編の短篇を書いている。「雑誌に発表したものも多いが、大半は『四重奏』はじめ本の中に収録、再録されており、今でも比較的手に入りやすいものが多い)「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」の中にもあったように、ラ・グーマが短篇を書いたのは、出版事情なども含めて短篇が南アフリカの実情に即していたからである。(短篇については、稿を改めて詳しく取り上げる予定である)

61年には最初の小説『夜の彷徨』を書き始め、翌年の4月までには脱稿を終えている。(同作品は62年にドイツ人作家ウーリ・バイアーの尽力によリナイジェリアのイバダンにあるムバリ出版社から出版された)反逆裁判でヨハネスブルグに通うかたわら、精力的に「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当していた時期である。

前に述べたように60年の春から7ヶ月間拘禁され、その年の終わりに釈放されたラ・グーマは、ただちに「ニュー・エイジ」の仕事に復帰し、前にもまして活発に解放闘争に携わっている。61年5月末には、ANC指導者ネルソン・マンデラの呼びかけで、白人政府の一方的な南アフリカ共和国宣言に抗議して全国一斉にストが敢行された。この時、ラ・グーマはケープタウンのカラード人民を率いてストライキに参加したため10日間の拘禁処分を受けている。釈放されたあとすぐに父親を亡くしたり、63年には母親を亡くすなど個人的にもラ・グーマにとって不幸な出来事が相次いだ。

先に触れた共産主義弾圧法によってすべての活動を禁じられたラ・グーマは62年から翌63年にかけては小説の第2作『三根の縄』(『まして束ねし縄なれば』)を仕上げるのに集中した。皮肉にも政府によってすべての活動を禁じられた時問がすべて創作活動に費やされることになったのである。『三根の縄』は六四年に東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。同書の一部は、63年にANCの地下活動に加担した嫌疑で5ケ月拘置されたローランド・ストリート刑務所内で書き上げられている。

同年には妻のブランシも同罪で逮捕された。ブランシはすぐに釈放されたが、ラ・グーマは12月に釈放されたのち、5年間の24時間自宅拘禁を命じられている。その時の模様をラ・グーマは次のように説明する。

 

つまり、当局の許可なしに私は家、の門さえ越えられないし、収入を伴う如何なる仕事にもつけないということだったのです。訪問者さえ許されませんでした。家で妻と一緒に居ることさえ許可を求めなければならなかったのです。当局の手抜かりを一つだけあげるとすれば、私がペンを持つことを止められなかったことでしょう。当局はいままでに書くことを禁じればどれだけ危険を伴うかを経験ずみでしたから、どんな形にしろ書くことを止めさせることだけはしないでしょう。

 

64年から65年にかけて第3作『石の国』の草稿をラ・グーマは書きあげている。同書はロンドン亡命後の67年にやはりセブン・シィーズ社から出版されている。

66年にラ・グーマは再び逮捕された。今回は非合法化された南アフリカ共産党の地下活動を推進したという疑いであった。7月に釈放されるまでの4ケ月間、やはり裁判なしに投獄されている。

政府の弾圧により、政治活動を禁止されても、ラ・グーマは断じてひるまなかった。投獄されても、拘禁されても、ベンを持って闘うことを止めなかった。そんなラ・グーマも釈放された同年6月から3ヶ月後の九月に、永久出国ビザを取得して、家族とともにロンドンに亡命する道を選ぶことになる。

《つづく》

(大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」9号28-34ペイジ

 

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて