つれづれに

つれづれに:アフリカ人に聞け

 アフリカ人に聞けと言ったのはアメリカ人のレイモンド・ダウニング医師である。1980年代の初め頃にアメリカで最初のエイズ患者が出たのち、半ば頃にアフリカでも最初の患者が出てすぐに爆発的に大陸じゅうにHIVの感染が拡大した。それから、HIVがアフリカ起源で、あたかもアフリカに責任があるかのような情報がメディアに流れ出した。CDC(アメリカ疾病予防センター)が重用したギャロが言い出したのだが、麻薬常用者(↓)の献血を使った血液製剤で感染者が出て、その責任を取らされてギャロはマスコミから姿を消した。それから、アフリカ起源の情報もほとんど見られなくなった。数年後、ギャロを信奉する帝京大の安部英を担いだ厚生省も薬害エイズで非難され、安部英の名前もやがては消えて行った。

 アメリカでエイズはアフリカの病気だと言い出しても、アフリカ人はそうは思っていなかった。1992年に出遭ったジンバブエ(↓)の人たちがエイズはアメリカの病気ですよね、と言うのを聞いたし、海外協力青年隊員として東アフリカに滞在した友人も、アフリカ人はみなエイズはアメリカの病気だと言ってましたよ、と話してくれた。

 侵略者側にいるアメリカ人からの「アフリカ人に聞け」という主張は、イギリス人のデヴィドスン(↓)が、欧米諸国はもうこの辺りでいい加減に少しは経済的に譲歩して、今まで奪ってきた富を返すべきだと言ったのに似ている。一人は医者として医療活動に長年従事し、もう一人は雑誌記者として長くアフリカ大陸を取材して回った。その中から自然に生まれた発言である。

 公民権運動で特にインテリ層に支持者が多かったマルコム・リトゥル(↓)は「青い眼をした人がすべて悪魔だと思っているのか?」と常々親しい友人に話していたと言う。虐げられてきた側の人々と身近に接し、多くの患者を親身になって治療したり、節目節目の歴史的な出来事にも中立の立場で立ち会ったりするなかで、多くのアフリカ人の本音を引き出せたからこそ、その主張に辿(たど)り着けたのだろう。

小島けい挿画

 ダウニング医師は『あの人たちの見たままに』(As They Say It、↓)を2006年にロンドンで出版している。アフリカで長く医療活動を続け、エイズ患者とも正面から向き合っている中で感じ、考えた内容を本にまとめたようである。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含むもっと大きな枠組みの中で考えるべきで、欧米の支配する報道を鵜呑(うの)みにせずに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと力説している。欧米諸国が槍玉にあげた南アフリカ大統領ムベキが提起する問題や、雑誌New Africanなどの記事を高く評価し、エイズ患者を取り扱う小説まで詳しく紹介している。

 ダウニング医師の本に出会えたのは幸運である。1980年代に何度かアメリカに行ったとき、立ち寄った本屋で本を買い込み船便で自宅に送った。そのとき、書店が中古本を扱うのを知って、修論で扱った作家の初版本などを取り寄せた。その後も、アメリカ関係の本は、シカゴ(↓)の本屋で購入するようになった。高校7年間の退職金で、奴隷体験記41巻を購入した。その後、南アフリカ、コンゴ、ジンバブエ、ケニアなどの歴史を辿ったり、文学作品を読んで雑誌に記事を書いたり、翻訳したり英文書を書いたりするのに時間がかかって、奴隷体験記は読めないままである。

 アフリカ関係の本はロンドンのアフリカブックセンターから購入した。特にエイズ関係は分厚い本が多かった。どちらも、リストが送られて来たので、メールで注文すれば一月も経たないうちに本が届いた。VISAカードが使えたので、気軽に注文できた。アフリカブックセンターは今はもうないようである。本当は研究費を使いたかったが、国立大の図書館は研究費や外部資金で購入した本も図書館の所有になって、外部から貸し出しの問い合わせがあれば応じなければならなかった。もちろんどちらの資金も税金だから文句は言えないのだが、図書館専用の経費は図書館が使っているのだから、研究費や外部資金で購入した本まで図書館所有だと一方的に言われるのに抵抗感があった。必要だから購入しているのだから、退職後はそれでいいが、在職している間に図書館から貸し出していると言われても、違和感しか感じなかった。図書館の人もその点は当然と言わんばかりで、横柄さが感じられて嫌だった。

ケント州立大の日本人の研究室や、カナダに亡命中の南アフリカ人がいるブロック大の研究室に行ったとき、本棚にあまりにも本がないのに驚いて理由を聞いたことがある。図書館で取り寄せてもらえるので、という返事を聞いて、日本とはだいぶ違うなあと感じた。もちろん、ジンバブエ大学(↓)の図書館にほとんど本がないのも知っていたので、国を比較しようとは思わないが、大学の図書館に横柄に扱われるのが嫌で、途中から退職まで図書に研究費は使わなかった。

 病気に対する包括的なアプローチの提言は納得のいく主張だったので、本の中で高く評価されていた雑誌New African(↓)とエイズの小説は丹念に読んだ。エイズの小説はアフリカブックセンターで購入するか、国内の図書館に依頼するかして手に入れた。南アフリカで出版された1冊だけ、どうしても手に入らなかった。New Africanは宮崎では手に入らないので、大阪の民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行って結構な数のコピーをさせてもらった。資料収集のための旅費を研究費や科研費でまかなえたのは、有難かった。

次回はNew African、である。

つれづれに

つれづれに:アフリカ

 最後の山☆社会問題として:アフリカ、の第1回である。最初は、虐げられ続けている側の代表としてのアフリカについて書いておきたい。

生きるつもりもなかったので、まさか歴史を辿(たど)ってこの5世紀余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜について書くことになるとは、夢にも思わなかった。生きていると、何が起きるかわからないものである。その大規模な侵略行為が正当化されるわけでもないが、自分たちの身を守るためにと地域社会の諍(いさか)いで優位な立場にいるためにも侵略者側と手を結んだ一握りのアフリカ人たちもいる。実際は、持てるもの(the haves)が多くの人たちから搾り取るための、持てるもの同士の熾烈(しれつ)な闘争だったのである。その人たちは奴隷貿易でも、人種差別でも、多国籍企業による資本投資・貿易でも、利益率さえよければ何にでも見境なく手を出した。手懸けたものの効率が悪くなると、次なる手段を探しだす。人種差別もじっくり考えれば、支配者の都合で自分たちの利益を上げるために利用しただけにすぎないと気づく。本当は、人種の問題ではなく、奪う側(the robber)と奪われる側(the robbed)の間の階級問題なのである。

 しかし、被支配者階級、持たざる者(the haves-not)の大半は、自分の置かれた位置と全体の構図に気づかないでいる。持てるものたちは、狡(ずる)くて、相手を騙(だま)すことに長けている。自分たちの行為を正当化するために、ありとあらゆる知恵を絞る。そのなかで、持たざるものは自分たちが持てるものに都合よく利用されて搾り取られ続けているという構図に気づかない。法律を作るのも、作った法律に従って行う行政も、そして国民の教育も、すべて持つものの都合がいいように操作される。自分たちの都合のいい歴史を書き、それを教育制度の下で浸透させて行く。行政を守る国家官僚を創り出すのに金を惜しまず、見事に優秀なイエスマンを集める。

1987年にアメリカで、翌年に日本で上映された(試写会パンフレット)

 南アフリカでもヨーロッパ人入植者は自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏(で)っち上げて浸透させた。自己意識の大切さを説いたステイ-ヴン・ビコは、アメリカ映画『遠い夜明け』(↑)の中で、白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人に呟(つぶや)く。

「あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる」

 アメリカではビコよりも前に、公民権運動の只中にいたマルコム・リトゥルは言葉を押しつけた人たちのまやかしを指摘し、自己意識の大切さを説いた。ニグロが、人類をコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイドと分類した文化人類学用語に由来しており、侵略を正当化し、白人優位を浸透させる西洋列強の手先だった文化人類学者の捏っち上げであると断言した。

小島けい挿画

 「なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです」(『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』、Malcolm X on Afro-American History, 1967)→「自己意識と侵略の歴史」(「ゴンドワナ」19号、1991年)

 二人は殺されてしまった。どちらにもいい顔の出来る日和見(ひよりみ)主義者は見逃せても、人々の自己意識を揺さぶる理想主義者を持てるものたちが放っておくわけはない。最初はどちらにもいい顔を見せていたキング牧師も、理想主義者になりかけたとたんに暗殺された。マルコムも黒人回教団の伝道師でいる限りは狙(ねら)われなかったが、回教団を抜けて、自己意識を解き始めたとたんに、回教団も持てるものたちも放っておけなくなった。最後は4回シリーズのアフリカの歴史の最終回を話す途中で、銃弾に斃(たお)れた。

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エイズ関連の連載を始めたのは、自分の辿った軌跡からヒントを得て、小説の形で再構築するためである。再構築したものをフィクションにどう組み替えるか、それがこの先の作業となる。連載は先に→「エイズ」、→「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書き、☆→「HIV増幅のメカニズム」、☆→「エイズ発見の歴史」のあと、☆社会問題として:アメリカ(→「CDC」、→「国際エイズ会議」、→「医師の苦悩」、→「多剤療法」、→「製薬会社」、→「大統領選」、→「HIV人工説」)を書き終えた。今回からは、最後の山☆社会問題として:アフリカ、で、1回目はアフリカについて書いた。次回はアフリカ人に聞け、である。

つれづれに

つれづれに:HIV人工説

 今回は、HIVの人工説である。HIVはアメリカが生物兵器を造る過程で、故意または偶発的に漏れたウィルスである可能性が高いという話である。エイズ関連の最後の3つ目の山の前半、☆社会問題として:アメリカ、の締め括(くく)りとなる。大きな問題だが、不確定な要素が多く、現実的に見て今となっては立証する術はない。しかし、抗HIV製剤(↑)が人類史上最も利益を生む薬となり、その周辺に蠢(うごめ)く人たちのやってきたことを考えると、心に留めておきたい問題の一つである。そうでないと、歴気から何も学ばないで終わってしまう。爛熟(らんじゅく)して滅亡期に入っている資本主義制度のど真ん中にいて、大量生産と大量消費を止められないのだから、せめて少しでも滅亡の時期を遅らせるように、歴史から学んで少しは流れに抗(あらが)ってみるのは悪くない。何もしないよりは、ましだろう。

 HIVの人工説を言い出したのは、エイズ患者が出る前に、癌の治験に協力していたアメリカの医師(↑)たちである。つまり、政府やCDC(米国疾病予防センター、↓)などの遣り方を批判する内部告発だったわけである。既得権益にしがみつく集団は、その人たちを異端派として排除し続け、その内部告発をもみ消してしまった。

 私がHIV人工説が荒唐無稽(こうとうむけい)ではないと思えたのは、アメリカのレイモンド・ダウニング医師の「アフリカ人のことはアフリカ人に聞け」という提言に従ってアフリカ人に耳を傾けた時である。ナイジェリア人が編集長(↓)になってからNew Africanでは、アメリカ人医師の内部告発を継続的に取り上げていた。治験に協力してエイズ患者と向き合った医師のデータに基づいた主張に、私は信憑(ぴょう)性を感じた。

 アフリカ滞在が長いダウニング医師は、著書(↓)で臨床面や社会学的な面からだけではなく、実際にエイズ患者を取り上げた小説19冊を紹介している。ちょうど文学と医学の狭間からエイズを覗(のぞ)くというテーマで科学研究費を交付されていたので、何より貴重な資料となった。一番心を動かされたのは、病気を病因や症状だけからみるのではなく、社会や環境や歴史などから、より包括的に病気をみるべきだと力説しているところだった。

 南アフリカの大統領タボ・ムベキ(↓)がエイズはHIVだけが原因とは言えないと主張したのと同じ路線である。欧米のメディアはムベキを非科学的な野蛮人と痛烈に批判し続けた。激増する感染者を前に世界保健機関(WTO)の例外条項を使ってコピー薬を製造し始めたとき、製薬会社はアメリカの副大統領を使って圧力をかけて、→「大統領選」まで左右した。2000年のダーバンの→「国際エイズ会議」でも、ムベキを槍玉にあげて相変わらず非科学的で頑固な野蛮人と批判し続けた。

 次回から最後の山☆社会問題として:アフリカ、の連載に入る。たまたま修士論文に選んだ作家(↓)がアフリカ系アメリカ人で、必然的に奴隷貿易で連れて来られたアフリカに目を向けて、歴史を辿(たど)ることになったが、その成り行きがエイズを理解するのに役に立つことになるとは思ってもみなかった。この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜の中で、侵略者側は自らを正当化するために白人優位・黒人蔑視を浸透させてきたが、意識の中でも現実の生活の中でも、その系譜を今一度問い直す機会の一つになれば嬉しい。

小島けい画

つれづれに

つれづれに:2024年10月1日

<ロバ(パオンちゃん)と犬(ウィペット)の親子>(3号)

 今年も10月1日が過ぎて行った。私の誕生日である。医大で出会った既卒組の一人からユッスー・ンドール(↓)を紹介してもらった。文字を持たない口承の世界のグリオ(griot)の末裔だそうである。グリオはかっこよく吟遊(ぎんゆー)詩人と翻訳されることもあるが、その村の歴史を記憶して語り継ぐ人たちである。『ルーツ』の作者アレックス・ヘイリーは7世代を遡り、ガンビア川を遡って祖先クンタ・キンテの生まれ育った小さなジュフレ村を訪ねた。その村のグリオの口から、ある日森に樹を切りに出かけた時に奴隷狩りに捕まり、奴隷船でアメリカに売られて行ったと、直接祖先の名前を聞いている。

 80年、90年代に欧米に紹介されて世界的な歌い手になった。来日もしている。学生がコピーしてくれたJokoというCDは、90年前後に宮崎の本屋にもおかれていた。その学生は一つ目の大学を卒業したあと働いている時に、有休を取ってコンサートに出かけていたそうである。1990年の昭和女子大でのコンサート(↓)の模様はNHKBSで放送された。コンサートでは「ネルソン・マンデラ」などを歌った。その後の英語の授業で紹介したら、東京の私大を卒業した学生が「このコンサートに行きましたよ。ほら、一番前で手を振ってますよ」と映像を観ながら、教えてくれた。

 そのユッスー・ンドールと誕生日が一緒だと紹介したら、次の年にお誕生日おめでとうございますとメールが届いた。その後も、何回かそんなことがあった。誕生日前に後期高齢者用の保険証が送られてきているが、ユッスー・ンドールは私より10歳若い。世界的に売れたアフリカ人の歌手はロンドンかパリかニューヨークなどを拠点にする人も多いらしいが、首都のダカールにスタジオを持って活動しているらしい。日本ではホンダのステップワゴンのCMで、結構有名になった。1994年にニューヨーク州ソーガティーズで開催されたウッドストックロックフェスティヴァルにも招待されて、Copy Meを歌っている。その頃、非常勤なのに旧宮崎大(↓)英語科の学生の卒業論文の手伝いをしていた。最初アフリカ系アメリカの作家で書きたいということで研究室に来たが、いつの間にかブラック・ミュージックにタイトルが変更されていた。なぜか最後まで付き合うはめになったが、その学生がバイトしていたビデオショップでそのフェスティヴァルを録画してくれた。頼んだわけではなかったが、ボランティアへのお礼だったかも知れない。父親が働かない人で学費をバイトで賄って卒業した後、東京で就職した。今ごろ、どうしているんだろう?最初で最後の卒論指導である。医学科はゼミがないので卒論指導をしたことはないが、統合後手伝った日本語教育の修士課程と新設された医学科の修士課程で、一人ずつ修士論文の相手をすることになった。

まさか75歳の日が来るとは思いもしなかったが、先がそう長くないのを、少し意識し始めている。一度諦めたとき、後で悔いることだけは避けたいと思って生きてきたので、あまり悔いはないが、そんなにきれいに割り切れるものでもないらしい。気持ちが切れないうちに、5冊目を書いておくとしよう。