つれづれに

つれづれに:性のあり方

 エイズに関するアフリカの5回目である。HIV感染者が急増し、抗HIV製剤が史上かってないほどの高い利潤を生むようになって、また奪われる側が大変な目に遭った。アフリカも標的にされた。→「エイズの起源」がアフリカだと言い出して、責任を転嫁し始め、挙句は性のあり方にまで踏み込んで煽(あお)り立てたのである。アフリカ起源説も「性にふしだら」も、責任転嫁には好都合だったと言うことだろう。

「アフリカ人の過度の性行為についての神話」は目新しいものではない。過去に何度も繰り返して使ってきた手口である。「異常に大きな陰核のゆえに性的に飽くことを知らない黒人女性と性の饗宴(きょうえん)にふける黒人男性の話」は、「アフリカ人は幼稚で野蛮である」などとともに、植民地時代の初期にヨーロッパの探検家が持ち帰って広めたものである。アフリカ争奪戦を繰り広げる侵略者にも、利益をもたらし生活を潤(うるお)してくれる植民地政策の支持者にも、理不尽な植民地支配を正当化するためには神話が必要だったのだろう。

神話は「猿の血を媚薬(びやく)として切り傷に擦り込んだザイール人の話」、「潰瘍(かいよう)のある性器の苦情が広まっている話」、「売春婦からHIVをもらい、自分の妻にうつしているアフリカのトラックの運転手の都市伝説」など、範囲が広がり、新たに「割礼(かつれい)や一夫多妻制などのアフリカの伝統的な習慣が流行に拍車をかけている」という神話まで付け加えられた。市場拡大を目論(もくろ)む製薬会社にも、開発や援助の名目で利益を貪(むさぼ)る多国籍企業や政府にも、貿易や投資で生活が潤う先進国の人にも、「神話」は不可欠なのである。

 欧米では主に男性同性愛者と麻薬常用者の間で、アフリカでは異性間で感染が拡大していたし、アフリカでは欧米よりもかなりの速さで広がっていたので、両者の流行の違いを説明するのにアフリカ人は「性にふしだら」、つまり、「性にふしだらなアフリカ人」がコンドームもつけないで「過度なセックスをして」急激に感染を拡大した、アフリカでの爆発的なエイズ感染の拡大の責任はアフリカ人にある、というわけである。

アフリカの歴史を研究する米国人チャールズ・ゲシェクター(Charles Geshekter、↓)は「ニューアフリカン」(1994年10月)の「エイズと、性的にアフリカ人がふしだらだという神話」(”Aids and the myth of African sexual promiscuity”)の中で、塩川優一を「性にふしだら」と思い込んでいる典型として最初に取り上げている。塩川優一は1994年8月に横浜で行われた第10回国際エイズ会議の組織委員長で、会議で「アフリカ人が性的欲望を抑制しさえすれば、アフリカのエイズの流行は抑えられます」と発言したのである。国際会議で、である。東京帝大医学部卒、順天堂大教授、厚生省お抱え学者、厚生省エイズサーベイランス委員会委員長、薬害エイズ事件では第1号患者の認定をめぐって批判された人物、なるほどである。ゲシェクターは主流派の言う「HIV/エイズ否認主義者」の一人で、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめた人物である。ムベキの大統領諮問(しもん)会議にも招聘(しょうへい)され、「ニューアフリカン」でも執筆している。しかし、政府も製薬会社も体制派も資金源が体制派のマスコミも、こぞってその会議を黙殺した。

日本政府の推進する原子力エネルギーの危険性を指摘した人たちが冷遇され、安全神話で政策を擁護する原子力村が優遇された構図と似ている。チェルノブイリは他の国の出来事と決め込んでいたひとたち、フクシマでの惨事を経験しても、性懲りもなく、原子力依存政策を推進している。原子力発電所を廃炉にせずに、年限が来れば廃炉にすると決めて始めた発電所の継続利用を推進、ベトナムに原子力発電所を輸出予定、既得権益に蠢(うごめ)く人たちの欲望は、空恐ろしい。原子力に群がる人たち、コロナ禍でもオリンピックを強行した人たち、そういった既得権益にしがみつく人たちの構図と、アフリカ起源、性のあり方で責任転嫁をはかろうとする人たちと、根っこは同じである。哀しい人の性(さが)だろう。

 ゲシェクターはいくつかの根拠をあげて神話に反論している。

「過度の性行為」については「エイズ地帯のルワンダ、ウガンダ、ザイール、ケニア人々がカメルーン、コンゴ、チャドの人たちより性的に活動的だと証明した人もいないし、精力を計る基準の男性ホルモン(テストステロン)の値は世界中どこでもそう大差はないので、ある大陸や地域の男性が他の所の男性より過度に性行為にふけるということはないという概念を忘れてしまっている」と科学者の一方的な主張を戒め、「アフリカ人が性にふしだらである」については、1991年のウガンダ北部モヨ地区の性行動の調査を引用して、性行動が西洋人と大して違わないと指摘している。調査の結果は、女性の初体験は女性が平均17歳、男性が19歳、結婚前の性体験は女性で18%、男性で50%だった。割礼については、女性の間でもっとも広く割礼が行われているソマリア、エチオピア、ジプチ、スーダンでエイズ患者が一番少ない事実を科学者が無視していると指摘し、そもそも公の場で性的な感情を表わすのが女性の「資質」を貶(おとし)めると考える地域と、ボーイフレンド、ガールフレンドが当たり前の西洋を同じ基準で論じること自体がおかしいと述べた。トラックの運転手についても、性的な行動面から見てアフリカ人の運転手はアメリカやヨーロッパの運転手と大差はなく、東アフリカのトラックの運転手だけを非難するのは片手落ちであると指摘している。

次回はエイズ検査である。

エイズの検査キット

つれづれに

つれづれに:エイズの起源

 エイズに関するアフリカの4回目である。奴隷貿易の蓄積資本で機械による産業化社会になり、資本主義が加速度的に進むなかで、持てるものはさらに富を増やす策を次々と繰り出す。その過程で、→「アフリカ」も原材料と市場の標的にされて、搾り取られてきた。アメリカに最初の患者が出たエイズでも、史上最高の利益を生む抗HIV製剤に群がる輩が、感染者が急増したアフリカも標的の一つとなった。アメリカ人医師ダウニングはアフリカのエイズ事情は→「アフリカ人に聞け」と著書(↓)に書いた。メディアも欧米諸国に圧倒的に支配されているからである。アフリカ人の声を聞ける数少ない情報源→「ニューアフリカン」の中からいくつかを取り上げて、紹介しているところである。今回はエイズの起源である。

 エイズのアフリカ起源説を言い出したのは、CDCが重用した人物ギャロである。ギャロは国立癌(がん)研究所でエイズウィルスを発見したと主張していた。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設である。ギャロはパリのモンタニエ研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中だったが、評価が下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われている。

ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学の獣医師エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になった。しかし、そのウィルスがマサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが後にわかり、ミドリザル起源説自体も否定された。ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表したが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかった。

元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えないが、1988年には、モンタニエ研究所の所長モンタニエも、世界保健機構(WHO)のエイズ特別プログラムの委員長ジョナサン・マン(↓)も、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源には謎が深まるばかりだと認めざるを得なかった。

 アメリカや西洋諸国ではエイズはアフリカが起源だとメディアで騒ぎ立てていたが、アフリカ人はそうは捉(とら)えていない。前回ジンバブエ大学の学生の話や、医学部で出会った医学生のタンザニアとケニアでの体験を紹介したが、ダウニングも1990年代の半ば頃に東アフリカ(↓)の病院で働いている時に同僚のアフリカ人からエイズの起源の話をよく聞いたと述懐している。

「エイズの起源は議論の余地がある問題でしたが、エイズが現に存在し、私たち医者の仕事はエイズを防ぐために努力し、そのために最善を尽すだけだと思っていました。しかし、いっしょに働いているアフリカ人たちには、それだけでは不十分で、誰もが『ニューアフリカン』を読んだこともない田舎の人たちでしたが、私が本当にアフリカがエイズの起源だと考えているかどうかを知りたがりました。私には実際わかりませんでしたし、本当に気にもしませんでしたが、エイズについてのアフリカ人の本当の声を聞くある重要な手掛かりを教えてもらっているとはその時は気づいていませんでした。」

 前回エイズ患者やHIV感染者の数を国連やWHOなどまでが水増ししていたことを書いたが、エイズのアフリカ起源説も、西側諸国の持てるものの利益最優先の延長上にあると言える。エイズのアフリカ起源説はHIVのアメリカ人工説と係わりが深いので、項を改めて取り上げようと思う。次回は性のあり方である。

つれづれに

つれづれに:ニューアフリカン

 エイズに関するアフリカの3回目、ニューアフリカン(↓)である。

1966年創刊の「ニューアフリカン」は英語の月刊誌で、ロンドンが拠点である。毎月、22万人がアフリカ大陸での最新情報を求めて購読している、と言う。読者層は主に官僚やビジネスマン、医師や弁護士などらしい。日本に来たグギさんの世話をして以来、反体制分子とレッテルを貼られてしまったケニアの友人も、New Africanは読んでるよ、と言っていた。ケニアの文部省から京大に政治の研究に来て、博士号を取ったあと3年は助手をしていた。その後の職がなかったので、私が世話になっていた先輩が大阪工大(↓)の非常勤を世話したときに、同じ非常勤として紹介してもらった。それ以来、よく遣り取りをした。

 出版されないままだが、グギさんの評論の翻訳をしたときは、いろいろ聞いた。ギクユ語やスワヒリ語やケニア(↓)の文化背景などで聞きたいことがたくさんあったからである。友人はナイロビ大学の秀才のようで、母国語のギクユ語の他に東海岸で使われているスワヒリ語に、もちろん英語、日本に来てからは日本語も使えるようになっている。ほかにルヒア語などもわかるらしい。日本語だけで済む人が多い日本と言語事情は違うが、多言語用の脳を持っている人物なのだろう。ただし、日本語は京都訛(なま)りというより、いかにも外国人という日本語で、一向に変化する気配はない。教えてもらうまで外国人だと気づかないほど流暢(りゅうちょう)な日本語をしゃべる人が身近にいるので、比較してしまう。

 欧米のメディアが圧倒的な力を持っている現状では、アフリカに関心のある人たちには貴重な雑誌である。ただし、日本では「タイム」や「ニューズウィーク」のようには行かない。もちろん、研究室で定期購読という手もあったが、エイズの記事以外にそれほど必要性を感じなかったので、私は科研費の旅費を使って、過去の在庫がある大阪の国立民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行き、アフリカのエイズ関連の記事を大量にコピーさせてもらった。民族学博物館は事前に連絡を通り、有料の万博公園を無料で通って図書館に辿(たど)り着いた。誰もが気軽にという雰囲気ではないなと、毎回思いながら公園内を歩いていた。もちろん、中に入れば図書館員は親切だったが。いかにも国家公務員という対応だった、と言えばいいか‥‥。東京外大のAA研(↓)の図書館は本館で事情を説明したら、案外すっと係員が連れて行ってくれたが、人はいなかった。わざわざ足を運ぶ人がほとんどいない分野ということだろう。お蔭で、一人静かに雑誌を見ることができた。

 たぶんイギリス資本で、1999年までは英国人アラン・レイクなどのイギリス人が編集長をしていたようである。それが、イギリスに住むガーナ出身のパンアフリカニストバッフォー・アンコマー(↓)が編集長になってから、編集の色彩が大きく変わった。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向も変化した。

 アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増えているし、異端派と無視されたアメリカ人の医師に原稿依頼をして、内部告発の人たちに書く場を提供してしている。扱うテーマも、エイズ検査や統計に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、ぐっと幅を広げている。その後の約10年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心である。次回以降は、そこに提起された問題を詳しく紹介したい。次回はエイズの起源である。参照→「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号、2011年)

エイズの検査キット

つれづれに

つれづれに:アフリカ人に聞け

 アフリカ人に聞けと言ったのはアメリカ人のレイモンド・ダウニング医師である。1980年代の初め頃にアメリカで最初のエイズ患者が出たのち、半ば頃にアフリカでも最初の患者が出てすぐに爆発的に大陸じゅうにHIVの感染が拡大した。それから、HIVがアフリカ起源で、あたかもアフリカに責任があるかのような情報がメディアに流れ出した。CDC(アメリカ疾病予防センター)が重用したギャロが言い出したのだが、麻薬常用者(↓)の献血を使った血液製剤で感染者が出て、その責任を取らされてギャロはマスコミから姿を消した。それから、アフリカ起源の情報もほとんど見られなくなった。数年後、ギャロを信奉する帝京大の安部英を担いだ厚生省も薬害エイズで非難され、安部英の名前もやがては消えて行った。

 アメリカでエイズはアフリカの病気だと言い出しても、アフリカ人はそうは思っていなかった。1992年に出遭ったジンバブエ(↓)の人たちがエイズはアメリカの病気ですよね、と言うのを聞いたし、海外協力青年隊員として東アフリカに滞在した友人も、アフリカ人はみなエイズはアメリカの病気だと言ってましたよ、と話してくれた。

 侵略者側にいるアメリカ人からの「アフリカ人に聞け」という主張は、イギリス人のデヴィドスン(↓)が、欧米諸国はもうこの辺りでいい加減に少しは経済的に譲歩して、今まで奪ってきた富を返すべきだと言ったのに似ている。一人は医者として医療活動に長年従事し、もう一人は雑誌記者として長くアフリカ大陸を取材して回った。その中から自然に生まれた発言である。

 公民権運動で特にインテリ層に支持者が多かったマルコム・リトゥル(↓)は「青い眼をした人がすべて悪魔だと思っているのか?」と常々親しい友人に話していたと言う。虐げられてきた側の人々と身近に接し、多くの患者を親身になって治療したり、節目節目の歴史的な出来事にも中立の立場で立ち会ったりするなかで、多くのアフリカ人の本音を引き出せたからこそ、その主張に辿(たど)り着けたのだろう。

小島けい挿画

 ダウニング医師は『あの人たちの見たままに』(As They Say It、↓)を2006年にロンドンで出版している。アフリカで長く医療活動を続け、エイズ患者とも正面から向き合っている中で感じ、考えた内容を本にまとめたようである。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含むもっと大きな枠組みの中で考えるべきで、欧米の支配する報道を鵜呑(うの)みにせずに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと力説している。欧米諸国が槍玉にあげた南アフリカ大統領ムベキが提起する問題や、雑誌New Africanなどの記事を高く評価し、エイズ患者を取り扱う小説まで詳しく紹介している。

 ダウニング医師の本に出会えたのは幸運である。1980年代に何度かアメリカに行ったとき、立ち寄った本屋で本を買い込み船便で自宅に送った。そのとき、書店が中古本を扱うのを知って、修論で扱った作家の初版本などを取り寄せた。その後も、アメリカ関係の本は、シカゴ(↓)の本屋で購入するようになった。高校7年間の退職金で、奴隷体験記41巻を購入した。その後、南アフリカ、コンゴ、ジンバブエ、ケニアなどの歴史を辿ったり、文学作品を読んで雑誌に記事を書いたり、翻訳したり英文書を書いたりするのに時間がかかって、奴隷体験記は読めないままである。

 アフリカ関係の本はロンドンのアフリカブックセンターから購入した。特にエイズ関係は分厚い本が多かった。どちらも、リストが送られて来たので、メールで注文すれば一月も経たないうちに本が届いた。VISAカードが使えたので、気軽に注文できた。アフリカブックセンターは今はもうないようである。本当は研究費を使いたかったが、国立大の図書館は研究費や外部資金で購入した本も図書館の所有になって、外部から貸し出しの問い合わせがあれば応じなければならなかった。もちろんどちらの資金も税金だから文句は言えないのだが、図書館専用の経費は図書館が使っているのだから、研究費や外部資金で購入した本まで図書館所有だと一方的に言われるのに抵抗感があった。必要だから購入しているのだから、退職後はそれでいいが、在職している間に図書館から貸し出していると言われても、違和感しか感じなかった。図書館の人もその点は当然と言わんばかりで、横柄さが感じられて嫌だった。

ケント州立大の日本人の研究室や、カナダに亡命中の南アフリカ人がいるブロック大の研究室に行ったとき、本棚にあまりにも本がないのに驚いて理由を聞いたことがある。図書館で取り寄せてもらえるので、という返事を聞いて、日本とはだいぶ違うなあと感じた。もちろん、ジンバブエ大学(↓)の図書館にほとんど本がないのも知っていたので、国を比較しようとは思わないが、大学の図書館に横柄に扱われるのが嫌で、途中から退職まで図書に研究費は使わなかった。

 病気に対する包括的なアプローチの提言は納得のいく主張だったので、本の中で高く評価されていた雑誌New African(↓)とエイズの小説は丹念に読んだ。エイズの小説はアフリカブックセンターで購入するか、国内の図書館に依頼するかして手に入れた。南アフリカで出版された1冊だけ、どうしても手に入らなかった。New Africanは宮崎では手に入らないので、大阪の民族学博物館と東京外大のアジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の図書館に行って結構な数のコピーをさせてもらった。資料収集のための旅費を研究費や科研費でまかなえたのは、有難かった。

次回はNew African、である。