つれづれに

つれづれに:多剤療法

 今回は多剤療法(multi-drug therapy, cocktail therapy)である。多剤療法の出現で、それまでのエイズ=死が、HIVと共に生きられるという概念に変わった。画期的なことだった。

最初にエイズ患者が出てから10年ほどで、HIVの構造もほぼわかり製剤開発の可能性も見えてきた。1996年にエイズ治療元年と言われて始まった多剤療法は、そういった流れから生まれた。多剤療法を思いついたのは、HIVのリボ核酸(RNA、RiboNucleic Acid)がデオキシリボ核酸(DNA、DeoxyriboNucleic Acid)を逆転写(reverse transcribe)するときによく間違いを起こすのを見て、それじゃ、たくさんの薬でやってみたらどうだろう、という発想を思い浮かべた人たちがいたかららしい。

 それまでは既存の抗癌(がん)剤を援用したAZT(azidothymidine)という逆転写酵素阻害剤(RTI, Reverse Transcriptase Inhibitor)しか選択肢がなかったが、プロテアーゼ阻害剤(Protease Inhibitor)と併用してみたら、劇的な効果があったというわけである。1996年の米国エイズ会議でその症例報告をしたグループの一人がデビッド・ホー(David Ho、何大一)である。カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校(UCLA)の医学部(1978年 – 1982年)で内科の臨床研修を受けていたときに、サンフランシスコのシーダーズ・サイナイ病院でエイズ患者を診察している。のちに、イギリスとアメリカが作ったドクメンタリー「エイズの時代」(2006)に登場し、診察した当時の模様を伝えている。

 「エイズの時代」(↓)では、最初にエイズ患者を診察した医師やハイチやコンゴなど、当時話題になった地域を取材して関係者にインタビューしている。デビッド・ホーもその中の一人である。ホーは小学校6年生まで台湾の台中市で過ごし、1957年に渡米した父を追って一家でロサンゼルスに移住した。1974年にカリフォルニア工科大学で生物学の学士号を、1978年にハーバード=MIT健康科学技術部門で医学博士号を取得している。

 その後、UCLA医学部(1978年 – 1982年)で内科、マサチューセッツ総合病院(1982年 – 1985年)で感染症の臨床研修を受けた。エイズ患者を診断したのは1981年にロサンゼルスのシダーズ・サイナイ医療センターで内科の研修医をしていたときである。ホーは、流行し始めた当初からHIV/エイズの研究に従事していた。1990年代半ばにホーの研究チームが行ったHIV複製の動態を解明するための臨床実験は、HIVの治療を目指す先駆的な取り組みの基盤となっている。アレルギー・感染症研究所(the National Institute of Allergy and Infectious Diseases)とメルク社(Merck)の科学者たちが開発していた抗レトロウイルス併用療法(Combination Antiretroviral Therapy)を支持して、HIVの複製を永続的に制御できることを初めて実証した。「不治の病」だったエイズが管理可能な病気に変わる転換点となった。

 多剤療法は画期的だったが、現実には医療費が高額で経済的に恵まれた人たちにしか恩恵をもたらさなかった。当時の新聞記事でも保険制度の進んだ日本でさえ、年額100万はかかる点を指摘していた。米国でも貧困層は手が出ず、ましてや第3世界では医療費を払える人はほとんどいなかった。

それに当初は手のひら一杯の薬を毎日服用しなければならず、副作用もきつかったと聞く。日本赤十字本部の看護師がザンビアに派遣されているときにジンバブエの田舎に抗HIV製剤服用の指導に出かけたら「食べないで薬を飲むと副作用がきついので、朝から食べ物を探しているけど見つからなくて‥‥」と言われて返す言葉がなかったと報告記に書いていた。
だから、ブラジルも南アフリカも抗HIV製剤のコピー薬を手に入れようとしたが、欧米の製薬会社は卑劣な手段で妨害している。次は製薬会社である。

 いま、エイズ関連の連載を続けている。先に→「エイズ」、→「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書いたあと、1つ目の山☆→「HIV増幅のメカニズム」と2つ目の山☆簡単な→「エイズ発見の歴史」は書き終えた。今は最後の3つ目の山☆社会問題として:アメリカ(エイズ会議、抗HIV製剤、HIV人工説)に入っている。→「CDC」、→「国際エイズ会議」、→「医師の苦悩」に次いで、今回は「多剤療法」を書いた。次回は製薬会社である。

つれづれに

つれづれに:彼岸花(ひがんばな)

小島けい画

 相変わらず暑い毎日が続いている、台風の影響で時に風も強く吹くし、雨も多い。昨日は雨雲が出ていたので、直接の陽にやられずに済むかと清武の量販店に自転車で出かけた。急な坂の道を通れば、30分ほどで着く。これから蒔(ま)く種が主な目当てだった。近くで探したが、どれも400円前後もする。一気に値上がりした。大根、丸莢(さや)オクラ、絹莢豌豆(えんどう)、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)は種も大きいので採りやすいが、レタスは細かいので採りにくい。細葱(ねぎ)とピーマンとブロッコリーはやや微妙だ。葱は葱坊主が出来るまで待てないで取り入れてしまうことが多い。無事、すべて百円台で買えた。

大根の葉は野菜スープに必要なので一年分を春先に取って冷凍しておく。夏場は冬野菜の大根を蒔いてもうまく育たない。保存した葉が切れてしまったので、1回か2回かは買わないといけない。今日種を蒔いたが、すぐに大きくなるわけでもないので。

葱も去年はたくさん冷凍保存したが、1月程前に切れてしまって、2度ほど買って冷凍保存している。冷凍のきく大根葉と葱は去年より多めに保存するとしよう。言うのは簡単だが、手間はかかる。葱を細かく切るのは特に面倒くさい。切って冷蔵庫に入れて、だめにしてしまうことも多い。わかっていても、出来ないときもある。

 行く道で彼岸花が咲いていた。世話になった出版社の人は墓の花だからと嫌っていたが、私は彼岸花をみると必ず山頭火の句を思い出す。

移ってきてお彼岸花の花ざかり

 昭和7年(1932)に山口県小郡町矢足(やあし)の農家を借りて移り住んだ日である。其中庵(ごちゅうあん、↑)と名付けたらしい。移って来た初日の日記の最後にある。父親と財産を潰(つぶ)し、妻と熊本に逃げている。市電に飛び込んでも死にきれず、得度してしばらく堂守(どうもり)をしたが、その後は行乞(ぎょうこつ)の旅にでた。

黒い衣を身につけ、笠をかむり、手には鉄鉢(てっぱつ)を持ち、軒に立って経も読む。僧侶の姿はしているものの、自分は乞食坊主に過ぎないと自覚しての流浪である。愚かな旅人として、水が流れるように、雲が無心に動くように、ただただ大自然にこの身を任せて、ゆけるところまで行こう、その思いで旅を続けた。毎日のように日記をつけ、末尾に句を載せている。しかし自分が嫌になったのか、古い日記を頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて持って歩くのが相当やっかいになったのか、昭和五年(1930)に人吉町あたりで、あっさり日記を焼き捨ててしまった。その日の日記の句である。

焼捨てて日記の灰のこれだけか

 行乞の旅がきつかったのか、昭和七年(1932)に川棚温泉で結庵しようとして失敗、そのあとに其中庵に落ち着いたのである。しばらく、心静かな毎日が続く。入庵の日の日記である。彼岸花の句もある。乞食姿の山頭火を受け入れなかった川棚温泉、山頭火を売りにしている。山頭火が見たら苦笑しそうである。

昭和七年九月廿一日

庵居第一日(昨日から今日にかけて)。

朝夕、山村の閑静満喫。

虫、虫、月、月、柿、柿、曼殊沙華、々々々々。

・移ってきてお彼岸花の花ざかり

・蠅も移って来てゐる‥‥

近隣の井本老人来庵、四方山話一時間あまり、ついでに神保夫婦来庵、子供を連れて(此家此地の持主)。

――矢足の矢は八が真 大タブ樹 大垂松 松月庵跡――

樹明兄も来庵、藁灰をこしらへて下さった、胡瓜を持って来て下さった(この胡瓜は何ともいへないいうまさだった、私は単に胡瓜のうまさといふよりも、草の実のほんとうのうまさに触れたやうな気がした)。

酒なしではすまないので、ちょんびりショウチュウを買ふ、同時にハガキを買ふことも忘れなかった。

今夜もうよう寝た、三時半に起床したけれど。

・さみしい嘱託の辛子からいこと

・柿が落ちるまた落ちるしづかにも

 帰りにまた、百日紅(さるすべり)をもらってきた。名前に百日が入っているだけのことはある。暑中に勢いがあった花は、今も咲き続けている。今年は何回か摘ませてもらっている。

 今日は昼に雨が少し止んだとき、丸莢オクラを採りに畑に出たついでに、大根とブロッコリーと細葱とサニーレタスの種を蒔いた。うまく芽が出てくれればいいが。

今年はこれから台風が次々と来そうだから、芽が出ても強い雨にやられるかも知れない。しかし、先ずは芽をだすかどうかである。

つれづれに

つれづれに:医師の苦悩

 今回はエイズ=死であった頃の医師の苦悩である。

1981年にアメリカで初めてエイズ患者が出たあと、各地からの相次ぐ報告を受けて、CDC(疾病対策予防センター、Centers for Disease Control and Prevention、↑)は特別チームを組んで疫学的研究を開始した。感染は世界的にも広がりを見せていたので、同時に各国に呼び掛けて4年後には→「国際エイズ会議」を始めた。会議は西側諸国の世界各地で、1994年までは毎年、それ以降は隔年で開催されている。今年が25回目だった。

開催された会議の流れの中での最大の話題は、1996年の多剤療法だろう。それまではエイズ=死だったのが、HIVを持ったまま生き永らえることが可能になったからだ。それまでエイズ治療に当たる医師には、唯一あった逆転写酵素阻害剤(RTI, Reverse Transcriptase Inhibitor)が患者に合わなければ、苦しんでも投薬を続けるか、苦しまずに余生を家で過ごす緩和ケアを勧めるかの選択しかなかった。今回はその話である。

多剤療法の症例報告をしたチームの一人デビッド・ホー

 その時代を体験した医師たちには、多剤療法は画期的だった。抗HIV製剤でエイズの発症を遅らせることが可能になって、HIVを抱えたまま生きられる希望が見え出したのだから。医学科で海外での臨床実習に向けて医療に特化した英語を担当している時に、材料として「ER緊急救命室」(原題:ER)(↓)を使っていたが、その中にまさにその場面があった。

 「ER緊急救命室」は、アメリカNBCのテレビドラマシリーズで、1994年9月から2009年4月にかけて15シーズン331話が放送されている。今回の場面は、2シリーズの中にあり、放送されたのは1995年である。多剤療法が可能になる前の年で、舞台はシカゴの郡(カウンティ)総合病院の救急救命室(Emergency Room:ER)である。

救急室の出入り口近くで喧嘩別れするロス医師とグリーン医師

 ある日、幼児が入院して来る。中国系の母親からHIVを母子感染されていた。小児科医ダグラス・ロス(Douglas Ross)が担当し、逆転写酵素阻害剤による治療を始めるが、効果が出なかった。薬剤を腰椎穿刺(ようついせんし、Lumber Puncture)で脊髄に注射するので、痛みは半端ではない。

 ロス医師が幼児の血液サンプルを顕微鏡で覗(のぞ)くと、髄膜脳炎のクリプトコッカス菌が確認された。クリプトコッカス症は第3フェイズ、エイズ末期(full-blown AIDS)に見られる日和見(ひよりみ)感染症の1つである。血液1000ミリグラム中に外敵とたたかう抗体を作る司令塔であるCD4陽性T細胞の数が200個を切って、免疫機構が機能しなくなり、幼児はすでに自力ではたたかえなくなっしまっていたのである。

 母親は幼児が激痛に耐える姿をじっと見つめるしかなかった。母親にすべてを告知していないのを知ったスタッフドクターマーク・グリーン (Mark Greene)は、薬の効果も出ないし、痛みも激しいので、エイズ末期であることを考えると家に帰って残りの時間を家族で大切にする選択肢もあると助言する。母親は、息子を家に連れて帰ることを決断して、ロス医師に告げる。

 ロス医師はグリーン医師(↓)に、自分の子供でもその選択をするのかと激しく責め立てる。もう1年あとなら、多剤療法で延命措置を出来た可能性はある。切ない話である。

ERは海外での臨床実習に行く学生にはうってつけの素材である。英語も早いし、医学用語も満載だから。医学用語は1年生から本格的に授業でも提供していたし、映像ファイルを使えば、気持ちさえあれば、繰り返して慣れる。学生交換も最初はタイ南部の大学との間で始まったが、そのう医学部執行部や卒業生で教授になった人たちがカリフォルニア大学アーバイン校(UCI, University of California, Irvine)とも交渉して、小児科と救急で受け入れてもらえるようになった。アメリカの学生といっしょに実習を受けるわけである。UCIはアメリカ内でも優秀な大学だと聞く。学生を派遣していた時期に、筑波大学の医師と吉祥寺で話をしたことがある。同じ部署に学生交換制度でタイに行った女医の同僚がいて、彼女、優秀で英語も出来ますと言っていた。その大学もかつてUCIと学生交換をしていた時期があったらしく、制度を復活させるために、是非話を聞きたいということだった。レベルもそう高くない地方の医学科がよくUCIと学生交換出来ましたね、ということだったのだろう。学生は、しかし、実際にアメリカの学生といっしょに実習をこなして、高揚したまま戻って来ていた。センター試験でほぼ満点で入って来る学生も、実際には英語が使えない人が多かった。特に、間違いを気にしてしゃべるのに慣れていなかったが、目標を持った人たちは5年間で、アメリカでの実習をさらりとやってのけていた。感動的だった。実習を終えて帰ってきた6年生は必ず部屋に顔を出してくれた。普段はそんな素振りも見せない学生が、大学のアリクイのマスコット人形を持って来て、是非1年生の授業で医学用語のテストをしてやって下さいと言っていた。大学のマグカップを持って来てくれた学生もいた。マスコット人形は退職時にプロジェクトを続ける同僚にプレゼントしたが、マグカップは家に持ち帰ってきている。毎日、自分で拵(こしら)えた甘酒を入れてレンジで沸かし、木製の椀で飲んでいる。

次回は多剤療法である。

つれづれに

つれづれに:CDC

 今回は国際エイズ会議である。

1981年にアメリカで初めてエイズ患者が出てから4年後の1985年に第1回国際エイズ会議がCDC(疾病対策予防センター、Centers for Disease Control and Prevention、↑)のあるアトランタで開かれた。それから今年2024年までに25回の国際エイズ会議が開催されている。会議に沿って、エイズ問題の大きな流れを辿(たど)って行こうと思う。

1994年までは毎年、それ以降は隔年開催である。25回のうちアメリカとカナダで各4回、ヨーロッパで10回、アジアとアフリカで各2回、中南米(厳密には北米?)とオセアニアで各1回である。アジアは日本(1994)とタイ(2004)、アフリカは南アフリカで2回(2000/2016)となっている。同じ都市で2回開催されたのはアムステルダム(1992/2018)とダーバン(2000/2016)だけである。2020年第23回はCovid19の影響でオンラインでの開催だった。開催された年と開催地一覧である。

1985年第1回アトランタ/1986年第2回パリ/1987年第3回ワシントン/1988年第4回ストックホルム/1989年第5回モントリオール/1990年第6回サンフランシスコ(↓)/1991年第7回フィレンツェ/1992年第8回アムステルダム/1993年第9回ベルリン/1994年第10回横浜/1996年第11回バンクーバー/1998年第12回ジュネーブ/2000年第13回ダーバン/2002年第14回バルセロナ/2004年第15回バンコック/2006年第16回トロント/2008年第17回メキシコシティー/2010年第18回ウィーン/2012年第19回ワシントン D.C./2014年第20回メルボルン/2016年第21回ダーバン/2018年第22回アムステルダム/2020年第23回オンライン/2022年第24回モントリオール/2024年第25回ミュンヘン

 横浜でアジアで初めての国際エイズ会議があったのは1994年で、医学生の英語の授業で医学的な問題を取り上げようと思案していた時期である。次の年にコンゴで2回目のエボラ出血熱騒動があって、並行して準備を進めた。会議については、タイやインドなどで感染が拡大していたので、アジアでの開催が必要だったのかも知れない。ただ、エイズ自体についての目新しい動きはなかったように思う。英字新聞にあれこれ関連記事が出たのは有難かった。

1996年のバンクーバーでの会議では、すでにアメリカのエイズ会議で多剤療法の症例報告があったので、エイズ=死ではなくなったエイズ治療元年にふさわしく明るい話題が多かったようである。

1981年に最初のエイズ患者を診察した医師の一人デビッド・ホー

 当時の同僚の外国人教師が夏にバンクーバーに一時帰国した時期と会議とが重なっていて、土産(みやげ)に雑誌を何冊かくれた。もちろん、エイズ会議の特集記事もあった。国立大でまだ外国人教師を採用していた頃のことである。キャリアの割りには破格の待遇という印象が強かった。4人と同僚になったが、英会話の授業だけで公務もほとんどなく、2年毎に配偶者もいっしょに帰国する手当までついていた。何か鎖国明けの外国人招聘みたいやな、長いこと続きすぎやろと思った記憶がある。待遇の割りには、そのカナダ人以外は何らかの形で学生と揉(も)め事を起こしてこちらに飛び火していたから、余計にそう感じたのかも知れない。21世紀に入って、ようやくその外国人教師のポジションはなくなったが‥‥、鎖国明け対策がやっと終わったか、そんな感じだった。

医大の講義棟(英会話の授業は4階の機材のないLL教室であった)

 エイズ治療元年の会議の反動か、1996年のジュネーブの会議は終始重苦しい雰囲気が漂っていたと言う。一つは、多剤療法の副作用の症例報告が多かったからと、次回開催の南アフリカダーバンの医師が「多剤療法にわいてますが、私の勤めている国立の病院で抗HIV製剤を見たことはありません」と発言したかららしい。

そして迎えた2000年のダーバンの会議では、アパルトヘイト後の処理に追われる大統領のマンデラからエイズに関してはすべてをされて来たタボ・ムベキ(↓)が散々非科学的だと欧米のメディアに叩(たた)かれていたにも関わらず「エイズはウィルスだけが原因ではありません」と、従来の発言を繰り返した。それで、更に一層製薬会社がスポンサーの西洋のメディアはまたムベキに矛先を向けて叩き続けた。

 この時期、3年間と4年間の科学研究費をもらってエイズとアフリカ、医学と文学を交えながらあれこれたくさん書いたので、アフリカとエイズに関しては3つ目の山☆社会問題としてアフリカ:(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)で詳しく書きたい。

次回は医師の苦悩である。