つれづれに

つれづれに:台風10号続報

 台風10号の続報である。10時前に携帯が鳴った。緊急速報メールで「氾濫の恐れ 警戒レベル4相当 本庄川で氾濫(はんらん)のおそれ 嵐田(国富町)付近で河川の水位が上昇、氾濫が発生する危険があります(国土交通省)」と書いてあった。国富町は前に住んでいた宮崎神宮駅北側の借家から西方向の山側の地域で、旧宮崎大学の学生の一人が連れて来た友人がその地域に住んでいた。法華岳や本庄川の名前も聞いた。一時期、何回か家に来たことがある。ある日持って来てくれた天然の鮎とか竜胆(りんどう)が珍しかった。林業関係で東京農大に行き、その後カナダの大学院に行って、ドイツの女性と結婚したという所まで連絡があった。今頃、どうしているんだろう?緊急速報メールで起こされたのは初めてのことである。昨日は寝るのが2時頃になった。その頃、かなり風雨が強くなっていた。そのあと、明方までが暴風雨のピークだったようだ。何回かシャッターの音で起こされた。

メールに起こされてすぐに、パソコンを開けて確認した情報である。

午前8時ごろ、台風10号が鹿児島県薩摩川内市付近に上陸した
9:50現在 台風10号は出水市付近を北北東に移動中
速さ15km/h
中心気圧960hPa
最大風速中心付近で40m/s

雨戸を開けて南向きの居間からみたら、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)が右側に少し傾いていて、実が4つ転がっていた。去年は北風で南側にどーっと倒れていたが、今回は東の風を受けて、西側に傾いている。倒れるまでは行かなくて済んだ。

オクラもだいぶ傾いてはいるが、何とか復活しそうである。風も雨もまだ継続中だが、ピークは済んだんだろうか?風もだいぶ強かったし、雨も相当降っているので、停電と断水が心配である。台風が去ったあと、停電と断水で困ったことがあるのでまだ心配だが‥‥。

 今日は白浜(↓)にマッサージに出かける日だったが、日曜日に変更してもらった。昨日の時点で、外に出るのが危険な気がしたからである。昨日「つれづれに」を書いた時には既に雨と風が強くなっていたが、今は暴風雨の真っ只中である。昨日の午後1時に気象庁が鹿児島に暴風・波浪の「台風による特別警報」を出した。宮崎県には午後2時半に警戒レベル4が出されていた。レベル4は、対象地域住民のうち危険な場所にいる人は全員避難、らしい。ちなみに、警戒レベル5は、”命の危険。直ちに安全確保”だそうで、その速報メールが届いたわけある。

大淀河畔の宮崎観光ホテル

 大淀川(↑)や加江田渓谷周辺などでは大雨が降るとすぐに水位が上がり、よく被害が出ている。日南線が通っている南部の方でも、よく警報が出る。線路が敷かれた地盤が緩いようで、よく電車がとまる。木花駅(↓)がいつ無人駅になったかは知らないが、時間が来ても電車が来ないなあと待っていると、マイクから運休の報せが聞えてきたことがある。おそらく、南宮崎駅か宮崎駅から放送できるように配線が出来ているのだろう。誰もいないのにというちょっとした違和感を感じた。それから、さてどうするべえ、と考えた。

今は駅舎がジャイアンツ向けに塗りこめられてしまっているが

 旧宮崎大学に非常勤で行っているときに、出来立ての宮崎公立大学(↓)から来ている人と知り合いになった。しばらくしてから、ある日電話がかかってきた。たくさんの人に非常勤を頼んでいたようで「時事英語なんですが、お願い出来ませんか?」と言われた。その頃住んでいた借家からそう遠くなかったので、気軽に引き受けた。その後、作文を、購読を、‥‥最後はLLをと毎年言われる科目が違っていた。LL教室は作ったものの担当者がいないという事情らしかった。

 大阪工大(↓)では先輩が予算措置をしたLL教室を使わせてもらったが、映像と音声を使わせてもらっただけだ。1980年代だったので映像は学生に好評だった。もの珍しかったからでもあるが、工学部の人は英語で苦労した人も多く、英語が嫌いな人が多かった。だから映像主体の授業と、最初の授業で言った単位まかしときやの一言が効いた確率は高い。授業では先輩の予算措置もあって工学部の誰かが必ず横についてくれてた。非常勤は授業をして帰るだけが多かったが、補助員との時間はとても有難かった。付き合ってくれた補助員とは、いまだに遣り取りしているくらいである。

 しかし、その時のLLは単に映像と音声を使っただけだったので、とてもとてもと固辞し続けた。しかし結局、今やっている映像をふんだんに使うということで、渋々引き受けることになった。1クラス60人だったように思う。事務職の助手もいて、その人たちともすぐに仲良くなった。他の事務員ともども、毎回ずいぶんと世話になった。

今の高台に越して来てから週に1回だけだが、家から自転車で5分ほどの日南線木花駅を利用した。直接自転車で行くのも可能だったが、1時間か1時間半かに一本の列車に乗ることにした。宮崎駅から大学までは少し距離があるので、駅の無料駐車場に置いた自転車を使った。最後辺りはわりと駐車場の規定が厳しくなって、長期の休みの間に強制移動の処分にあったこともある。都会と違って電車の本数もないし、雨で運休もあったが、そのリズムになってしまえば慣れる。大阪工大に行っていたときに味わったような地下鉄や旧国鉄の通勤ラッシュとは無縁である。鉄道で言えば、本線以外の地方の鉄道はどこも似たりよったりである。小さい頃にいた小さな町の本線から出ていたローカル線(↓)はもちろん単線で、日南線とよく似ていた。

 佐土原で竜巻が起こったらしいよ、何が起こるかわからんよねと昨日の夕方に妻が言っていた。宮崎に来て10年ほどは神宮の北側辺りに住んでいたので、佐土原は身軽に自転車で行ける距離にあった。今はその辺りより20キロも南の地域で、海岸線が身近である。木崎浜(↓)や青島に出かけることも多くなった。

 朝ごはんを食べてからいろいろごそごそやっていたら、昼過ぎになってしまった。写真を撮って来た。何とか台風も通り過ぎたようだ。もう少し西寄りのコースだったらこんな状態では済まなかっただろう。まだ停電と断水の心配はある。しかし、被害に遭った人たちには申し訳ないが、これくらいで済んでよかった、有難い、が正直な感想である。

折れた枝(上)も柿(下)も無事だった

つれづれに

つれづれに:台風10号

 台風が来ている。当初の予定では、今回は高気圧の谷間を通ってもっともっと東寄りのコースを取るはずだったのに、そんなあ‥‥。

昨日辺りから、突然雨が降り出したりするようになった。夜、家出した親猫にえさをおきに行った妻が、家の近くで突然降り出したんよと、びしょぬれになって帰って来た。私もきれいに晴れている合間にと思って生産者販売所2軒と量販店に寄って帰りかけたときに、突然ざあーっと降り出した雨にやられた。雨宿りする場所を探している間にびしょぬれになった。傘をさしてみたが、風が強い上に、その時は自転車の前のかごに重い荷物を乗せていたので、ハンドルもぐらつくし。難儀した末に、何とかか空き店舗の店先の空間を見つけて、持っていってた雨合羽(あまがっぱ)を着たのだが、その時には雨が小やみになっていた。

家の近くの百日紅(さるすべり)も散ってしまうかなあ?

 夜からは雨脚が強くなった。今は小降りだが、雨の量も多くなっている。最初、二つの高気圧の谷間を通ってもっと東寄りに向きを変える予定だと言われていたので、あまり気にしていなかった。少し雨と風が吹く程度で終わりそう、そんなつもりでいたが、ぐっと西にコースを曲げて、今は鹿児島の南西方向の海をまっすぐに北上している、みたいだ。夜半過ぎから明日の夜半過ぎまで、暴風雨になるらしい。停電になると、この気温だと大変だ。猫のぴのこも私たち二人もエアコンで辛うじて生き延びている、そんな感じなのに、とぼやいても仕方ない。通り過ぎるのを、ひたすら待つしかない。無力なものである。無力だと思うことの方が、人の思い上がりなのかも知れない。

 何とかオクラ(↓)とピーマンは1本1本、強風にも折れないように細い麻紐でとめた。縛ったら元も子もなくなるので、風対策用に丁寧に作業した。しかし、風次第である。やられない保証はない。瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、(↑)もやられるかも知れない。去年は柵(さく)ごと倒れてしまったので、今年は道具を使って穴をより深く掘った。丁寧に太い竹と木の杭を打ち込んだ。しかし、初めてなので、風に持ち堪(こた)えるかどうかはわからない。延びた蔓(つる)も竹に括(くく)り付けられたものもあるが、全部はできなかった。やられる確率は高い。大きな実を4つほど、横に通した竹に括り付けたが、風で落ちるかも知れない。何とか食べられそうなので、ちぎってもよかったのだが‥‥。濃い黄色い花は、朝方に咲く。実が大きい分だけ、大きな花が咲く。花がだいぶ咲いて小さな実をつけている数が増えているが、それもやられるかも知れない。

 北側の庭にある西条柿(↓)も心配である。一昨年500個ほどなった時は一つの枝に数十個がなって、地面に擦(す)れるほどにまで曲がっていたが、その枝が今年は折れてしまった。まだ一部が繋(つな)がっているので、枯れないでこのまま実が熟すかも知れないが、その枝も繋がったまま残っている一部が、今回の強風でちぎれてしまえば、実は干し柿にはならない腐ってしまうだろう。

 暴風雨になると、そんな思いもいっぺんに吹き飛ぶ。そとに出たら、文字通り飛ばされてしまう。一度、玄関に置いてある荷物受けの箱と木製の台が吹き飛んでしまったことがある。嘘だろうというようなものまで、飛んで行く。台風が進む速度が遅いので、車庫も片付ける時間の余裕はあった。飛びそうなものはすべてしまい込んだが、それでも自信はない。しかし、そんな心配をしてもしょーがない。さて、台風が通り過ぎたあと、一体どうなっているでしょうか?

つれづれに

つれづれに:コンゴと南アフリカ

 コンゴと南アフリカにだいぶ時間がかかった。今回はその総括と次の予定である。

 アフリカ系アメリカと南アフリカの作家の小説や物語を理解するために、2つの国とアフリカ全般の歴史を辿(たど)っていたら、退職前辺りに行き着いたのがアングロ・サクソンの侵略の系譜だった。アングロ・サクソンは厳密には違いますという指摘をいっしょにシンポジウムをしたアメリカ人から受けたので、アングロ・サクソン系かサングロ・サクソンの末裔(まつえい)という方が相応(ふさわ)しいかも知れない。ただ、大英帝国から南アフリカのケープタウンに入植し、後にケープ州の首相になったセシル・ローズをデヴィドソン(↓)が「アフリカシリーズ」の中で紹介した中に「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」という場面があった。アングロ・サクソンの使い方や意味合いは立場や時代によって違うと思うが、そのローズの言葉の意味に近いと思う。

 大学では教育と研究業績と社会貢献を求められるので、一応研究者のふりをした。小説を書く空間を求めて職を探したので、少々後ろめたさがあったのと、ふりをする方が過ごしやすかったからでもある。最後辺りは、業績による5年毎の評価も実施されるようになっていたし、執行部から指名されて評価委員会のメンバーにもなっていたという面もある。出版社の人にいろいろやらせてもらって活字になったものが多かったのは有難かった。苦手な学術学会と深く関わらなくて済んだのは何よりだった。それに、大学ではなぜか出版社のものの評価は高い。殊に、本はいい。7冊も出してもらっていた。

医大の講義棟(最初は4階で、あとは3階で授業をやった)

 国立大でまさか退職後に再任用があるとは思わなかったが、本学のキャンパスで研究室も使え、僅(わず)かながら研究費も出た。1年毎の更新で最長10年ですからのびりやって下さいと事務局長に言われた。たまたま医学部の研究課で世話になった人も本学キャンパス(↓)に異動していたので、薦められてそれじゃあと科研費を申請したら、今までの最高額が交付された。その道のプロに出遭(あ)えたのは幸運としか言いようがない。無口な人だが、仕事が出来る。出遭いに感謝している。まさか、退職後に科研費というのも想像もしていなかったが、選んだテーマがアングロ・サクソンの侵略の系譜である。ま、よくも通してくれたものだ。研究助成用の国の機関が国立大の教員に、イギリスやアメリカといっしょに日本も無茶苦茶やって来たやん、という申請テーマに経費を交付したからである。

右側の建物の3階に研究室があった

 コンゴと南アフリカについてはその過程でかなり時間を費やした。医学科で英語の授業を始めたのが1988年である。担当が一般教育の英語学科目だったから、当初は医者には出来ないことをと意識してみたが、どうもしっくりいかなかった。医者や研究者になろうと入って来た人たちだから、やっぱり医学的な側面も取り入れる方が自然な気がして、エイズとエボラ出血熱、しばらくしてから医学用語もやり始めた。本腰を入れ出したのは1990年の半ば、医学科で授業を始めてから7、8年が経った頃である。

1995年エボラ出血熱CNNニュース

 1981年にサンフランシスコ(↓)で初めてエイズ患者が出てから10年余り経ってHIV(Human Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全症候群)の構造や増幅のメカニズムがほぼ解明され、一般向けのタイム誌やニューズウィーク誌などに次々と記事が出始めた。ちょうどその頃、コンゴでは2回目のエボラ出血熱騒動があった。どちらも感染症である。それをきっかけに、新聞や雑誌や、書籍に映像を探して、授業でも使うようになっていった。

 コンゴと南アフリカに共通していたのは、鉱物資源に恵まれていたことと、アメリカが好き勝手したということである。資源に恵まれていたので狙われて大変な目に遭ったのだから、考えてみれば何とも理不尽な話である。もちろん、アフリカやアジアの国々も欧米や日本にやられて来たが、コンゴと南アフリカは資源が豊かだった分、余計にひどい目にあってきた、二つの国の歴史を辿(たど)った正直な感想である。

ペンタゴン(米国防総省)

 第2次大戦のヨーロッパ諸国や日本の殺し合いで、西側諸国の力関係が大きく変わってしまった。敗戦後、殺し合ったヨーロッパや日本が復興に追われるのを尻目に、戦場にならずに軍需や生活物資の供給で景気に湧いたアメリカがそれまでの植民地体制の構造自体を変えた。多国籍企業による資本投資と貿易の時代に突入したのである。その結果、コンゴにも南アフリカにもアメリカは大手を振って参入で来た。殊に、ウランの出る南アフリカは重要だった。広島や長崎に原子力爆弾を使ったので、以降の核使用は難しくなったが、原子力発電所に転換を試みたので、ウランの重要性は増していた。東側諸国との核開発競争も激化して、その度合いはますます強くなってゆく。

 その辺りを、コンゴと南アフリカにわけて詳しく書いた。あとは、エイズについて書けば、私の生きた時代(1949~)、アフリカ系アメリカ、コンゴ、それに南アフリカを年代ごとに対比させながら、何本かの小説になりそうである。次回からはエイズ関連について書きてゆきたい。その後は、プロットも考えながら、それらの要素を交えて書いてみようと、今のところは思っている。

 

エボラ・コンゴ関連(2024年4月22日~)

2024年5月

27:→「つれづれに:混沌」(2024年5月19日)

26:→「つれづれに:デヴィドスン」(2024年5月18日)

25:→「つれづれに:ニエレレ」(2024年5月17日)

24:→「つれづれに:モブツの悪業」(2024年5月16日)

23:→「つれづれに:カビラ」(2024年5月15日)

22:→「つれづれに:紛争」(2024年5月14日)

21:→「つれづれに:いのち」(2024年5月13日)

20:→「つれづれに:銃創」(2024年5月12日)

19:→「つれづれに:診療所」(2024年5月11日)

18:→「つれづれに:エイズハイウエィ」(2024年5月10日)

17:→「つれづれに:『悪夢』」(2024年5月9日)

16:→「つれづれに:深い傷跡」(2024年5月8日)

15:→「つれづれに:残忍」(2024年5月7日)

14:→「つれづれに:レオポルド2世」(2024年5月6日)

13:→「つれづれに:国連軍」(2024年5月5日)

12:→「つれづれに:コンゴ動乱」(2024年5月4日)

11:→「つれづれに:ペンタゴン」(2024年5月2日)

10:→「つれづれに:コンゴあれこれ」(2024年5月1日)

2024年4月

9:→「つれづれに:コンゴの独立」(2024年4月30日)

8:→「つれづれに:映像1976年」(2024年4月29日)

7:→「つれづれに:1976年」(2024年4月28日)

6→「つれづれに:音声『アウトブレイク』」(2024年4月27日)

5:→「つれづれに:『アウトブレイク』」(2024年4月26日)

4:→「つれづれに:ロイター発」(2024年4月25日)

3:→「つれづれに:ロイター」(2024年4月24日)

2:→「つれづれに:CNNニュース」(2024年4月23日)

1:→「つれづれに:エボラ出血熱」(2024年4月22日)

つれづれに:南アフリカ関連(2024年7月22日~)

2024年8月

17:→「つれづれに:マンデラの釈放」(2024年8月24日)

16:→「つれづれに:捏ち上げ」(2024年8月23日)

15:→「つれづれに:ウラン」(2024年8月22日)

14:→「つれづれに:自己意識」(2024年8月21日)

13:→「つれづれに:作家」(2024年8月16日)

12:→「つれづれに:武力闘争」(2024年8月14日)

11:→「つれづれに:アフリカ人女性」(2024年8月13日)

10:→「つれづれに:若い力」(2024年8月12日)

9:→「つれづれに:セシル・ローズ」(2024年8月4日)

2024年7月

8:→「つれづれに:ヒュー・マセケラ」(2024年7月29日)

7:→「つれづれに:ラント金鉱」(2024年7月28日)

6:→「つれづれに:一大搾取機構」(2024年7月27日)

5:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

4:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

3:→「つれづれに:イギリス人」(2024年7月24日)

2:→「つれづれに:オランダ人」(2024年7月23日)

1:→「つれづれに:大西洋」(2024年7月22日)

つれづれに

つれづれに:マンデラの釈放

 1990年2月11日にマンデラは釈放(↑)された。1964年に終身刑を言い渡された時と同じ法律での無条件の釈放である。つまり、法律を変えるまで待てなかった妥協の産物だったわけである。いろいろ複雑に絡(から)まってこれだと断定するのは難しいが、誰もが今まで稼いで来て築き上げた富、つまり既得権益を手放したくなかったのが原因である。covid19で学生をキャンパスから締め出し、マスクを強要しながら、無観客でも東京オリンピックを開催した構図に似ている。既得権益を最後まで離さなかった。南アフリカでも、既得権益をそのままとは行かないが、出来る限り損なわないための妥協の産物を白人政権とアメリカに主導された西側諸国と東側に支援されていたANCが合意したということである。悔しいが、もちろん日本も含まれている。アメリカの腰巾着とは言え、ticadとかいう何とも怪しいばら撒き政策の片棒を担がされている。ひょっとして、外交の目玉にと自らかって出た?官僚に書類を書き直させるより、後腐れがない。開発(development)と援助(aid)が、アメリカ主導の多国籍企業による資本投資と貿易の現体制の必要経費なのだから、胸を張れる。国会で野党の突き上げを我慢しなくていい。

1940年代にANC青年同盟を率いていた頃のマンデラ

 1910年に南アフリカ連邦を創った時と基本構造は同じである。殺し合いをしながら周りを見渡したらアフリカ人ばかりで、お互いに銃を持っているから相手を殲滅(せんめつ)するのも難しいし、このまま共倒れになるよりは、手を結ぼう、アフリカ人を搾取し続けられるならば目もつぶれる、そんな妥協点を見い出した→「オランダ人」「イギリス人」である。今回は第2次大戦後に世界の構造を変えてまで南アフリカに進出してきたアメリカなどの多国籍企業による投資や貿易も絡んでいるから、ずいぶんと複雑になっていた。

ロンドンのBBCから武力闘争開始を宣言するマンデラ

 それに、東西問題も絡んでいた。一番大きかった原因かも知れない。核開発を競っていた米ソが使う→「ウラン」の大半が南部アフリカとソ連で出ていたので、もし当時ソ連とキューバから武器が流れていた隣国ザンビアのルサカに本部を置いていたANCが西側諸国の軍隊の支援を受ける南アフリカ国軍と真っ向から衝突すれば、第2次大戦どころではなかった。核まで使われることになれば、国土は焦土と化し、既得権益は消滅する可能性もある。近くの国、アンゴラやモザンビークやジンバブエまでもが現実に社会主義国家になっているので、南アフリカが東側にまわれば、西側諸国はウランを失いかねない、そんな切羽詰まった事情もあった。

 現状に近いまま政権の顔さえアフリカ人に挿(す)げ替えれば、国内も国外も丸く収まる可能性がある。そこでマンデラを担(かつ)ぎ出したというわけである。ビコやソブクエと違って理想主義者ではないので、黒人にも白人にもいい顔が出来る。アメリカ公民権運動のキング牧師の役割に似ている。しかも、出来れは憲法を変えるのが可能な3分の2以下の得票数がいい。そして、マンデラは妻と手をつなぎながら、ケープタウンでその役割を見事に演じきった。得票数まで60パーセント前半という数字まで完璧な演技だった。元々アフリカ人のものだったからアフリカ人だけでやろうというパンアフリカニストの夢も、完全に消えた。ANCが与党になり、アフリカ人が大統領になったが、他のアフリカ諸国と同じように、権益を得たアフリカ人の白人化は早かった。よかったのか、悪かったのか?