つれづれに

つれづれに:捏(でっ)ち上げ

 南アフリカに最初に来た→「オランダ人」も、次に来た→「イギリス人」もなんでもありの人たちである。アフリカ人から土地を奪って国を創ってしまったのだから、強引、狡猾、傲慢、騙しに捏造、なんでもありで、恥などというものは元からない。大東亜戦争で日本にやられた韓国や中国や台湾を含めた東南アジアの人たちも、きっとに同じ思いを味わったに違いない。

「金とダイヤモンド」で大成功を収めた→「セシル・ローズ」にはケープタウンからカイロを結ぶ自分の帝国を創るという野心があり、そのためなら何でもやってのけた。土地を奪ったアフリカ人を蔑み「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」と豪語していたとデヴィドスン(↓)が「アフリカ・シリーズ」で紹介している。

 友人に依頼してチャールズ・ヘルム宣教師を利用してマタベレ王国のロベングラ王を騙(だま)し、気候がよく、牧畜に適し、地下には鉱物資源、特に金が眠っているリンポポ川の北の広大な高原を手に入れた。銃で制圧したマタベレ戦争のあとは略奪(↓)で、ローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者が農地と25万頭の家畜のほとんどすべてを没収した。

 ローズ自身も第2の→「ラント金鉱」を夢見て資本を募り、南アフリカ会社の私設軍隊を引き連れて、今のハラレに到着している。1890年のことである。豊かな金鉱脈をみこめないという調査結果が届くと、更に投資を募って投資会社を倒産させ、私設軍隊を駐留させて、ショナ人から土地と家畜を奪ったのである。友人がすでに奪っていたマタベレランドと併せて国を作り、その国にローデシアと自分の名前をつけた。現在のザンビアとジンバブエである。その100年余りあとに、私はジンバブエの首都ハラレで家族と暮らしたわけである。ショナ人と仲良くなり、その人たちの暮らしぶりを見、両親の住む小さな村に行って、ローズに土地や家畜を奪われたショナ人の末裔(まつえい)と話をする機会に恵まれた。

 裁判にかけられたビコは「黒人は日々の厳しさに気づいていないわけではないんです。誰もが政府がやることに耐えているんです。黒人意識運動は人々にこういった厳しい現状を受け入れるのやめ、対決しろと言っています。厳しい現実をただ受け入てはいけないと人々に言っているんです。今の厳しい環境の中でも希望を抱き、自分に希望を持ち、自分の国に希望を見出す方法をみつけるべきだと言っているんです。白人とは関係なく、自分自身が人間であるという感覚、世の中での合法的な場所を築くように努力しようというのが黒人意識運動のすべてです」と→「自己意識」の大切さを説いて、陳述した。

 ヨーロッパ人入植者はアフリカを植民地にした人たちと同じように、自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏っち上げた。ビコは裁判を起こした白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人と遣り取りしている。

ウッズ:どこでも尾行するの?

ビコ:尾行してると思わせておくさ。

ウッズ:で、ここがそうなの?

ビコ:そう、ここがそう。黒人の職員と一人の医者が経営している黒人のためのクリニック。

ウッズ:ここのクリニックはその女医さんのアイデア?それともあんたのアイデアだったの?

ビコ:こっちだよ。案内しよう。皆で出したアイデアだったけど、あの人がいてよかった。

ウッズ:リベラルな白人の医者が同じことをしてもきっとあんたらの目的には添わないんだろ?

ビコ:あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる。

ウッズ:教会?

ビコ:そう、ずっと昔からここにあったね。しかし、この劣等の意識はアフリカーナーが俺たちにしてきたことより、もっとはるかに大きな問題だと思い始めてね。黒人は白人と同じように、医者や指導者になる充分な能力があると信じる必要があった、だからこの場所にクリニックを建てたんだ。間違いはその考えを紙に書いたことだったよ。

ウッズ:政府はあんたを活動禁止処分にした。

ビコ:そして、闘うリベラルな編集長は俺を攻撃している。

ウッズ:人種主義者だから攻撃してるんだよ。

ビコ:ウッズ氏、あなたは何歳です?

ウッズ:41、でもそれがなんか関係あるの?

ビコ:そう、白人の南アフリカ人、41歳、新聞記者。黒人居住地区で過ごしたことある?

ウッズ: 何度も‥‥

ビコ:いや、心配しなさんな。警官以外、白人の南アフリカ人は1万に1人も知ってはいないと思うよ。黒人は白人がどう暮らしているかよく知っている。黒人は庭の芝を刈り、食事を作り、汚れ物を片づける。黒人がどう暮らしているか、黒人の同胞の90パーセントが夜の6時に白人の通りから閉め出されている生活をしているのを、実際に自分の目で見てみたいとは思いませんか?

そして、ビコはある日の夕方、ウッズを黒人居住地区に連れて行く。映画の場面は私が一度見た光景(↓)である。ハラレで暮らしたとき、知り合ったジンバブエ大学の学生に頼んで連れて行ってもらった黒人居住区ムバレである。映画が製作されたのはまだアパルトヘイト政権下で、映画のロケを禁止していたので、南アフリカの第5州と言われていたハラレでロケが行われたのである。ムバレはジンバブエ最大のスラムで、白人地区からは工業地帯を挟(はさ)んだ南西の方角にあった。学生といっしょに乗ったET(エマージェンシー・タクシー)と呼ばれていた乗り合いタクシーを降りた辺りが、映画の中に映っていたのである。

 ムバレでは学生の従妹の家に案内してもらった。従妹の娘さん、学生の姪にあたる少女は腰の入ったダンスを踊ってくれた。「初めての外国の人を見て、興奮してるのよ」と従妹が言ってますよ、と学生が耳打ちしてくれた。日本の県住や市住のような集合住宅だったが「電気は通ってますが、実際には使っていません。ローソクを使ってますよ」と学生が言っていた。住人の大半は、田舎から出稼ぎに出て来た働き手とその家族のようだった。借家に雇われていたガーデンボーイのショナ人と仲良くなったが、ひと月の給料が4000円余りで「これでも仕事があるだけましな方ですよ」と哀しそうに言っていた。普段は一人暮らしで、メイドやボーイの狭い部屋(↓)のコンクリートの上に毛布を敷いて寝ていた。私たちが来てからすぐに、田舎から家族を呼び寄せていたが、普段はいっしょには住めないと言っていた。

 親もその人を連れて、田舎から出て来てムバレで暮らしていたと聞いた。押しかけて来たローズに、土地と家畜を奪われたショナ人の末裔だった。今は父親も、ハラレから車で1時間ほどの小さな村に戻って、たくさんの家族(↓)と暮らしていた。歴史を辿(たど)っていただけに、何とも複雑だった。

一番左端が父親、4番目が母親

 ビコは今の苦しい環境をただ受け入れずに立ち向かえと説いたが、現実にはなかなか厳しい問題である。生まれた時から、食うや食わずの生活をして来て、ある日広い白人の邸宅でメイドやボーイをする仕事しかないなかで、劣等の意識を持たずに立ち向かうのは、並大抵のことではない。ラ・グーマ(↓)が書いたケープタウンのスラムの住人の暮らしぶりの中で、劣等の意識を持たずに成長するのは、現実には難しい。スラムの物語を翻訳しながら、私自身が育った環境も狭い、臭い、穢いスラムのようなところだったなあと思ったが、戦後の貧しいスラム同様のところで、劣等の意識を持たないで暮らすのは難しかった。5人も子供がいるのに両親が離婚状態で家には余りいなかったので、精神的にもきつかった。だから、そんななかで育ちながら、同胞に自分に自信を持てと説けるビコはすごい人だと素直に思う。ただ、哀しいかな、影響を与える人が多過ぎたので、体制に合法的に殺されてしまった。獄中での死因が首吊りだと捏っち上げて公表する人たちは、実際にはどんな集団だったのか?

小島けい挿画

つれづれに

つれづれに:ウラン

「金とダイヤモンド」が発見されて、南アフリカは一気に産業社会に突入したが、ウランの発見で更にその流れは加速した。まだ後処理の目途が立たないまま原子爆弾を使ったアメリカは、ウランの価値をどこよりも知っていた。イギリス主導で築かれた植民地体制下では南アフリカへの出番は望めないので、アメリカは第2次大戦を利用して、それまでの西側諸国の体制の基本的構造を変えた。

原爆:広島市公式ホームページより

 戦場にならなかったために一人勝ちしてヨーロッパ諸国にも金貸していたので、ごり押ししてでも体制を変えることが出来た。アメリカ主導の多国籍企業による資本投資と貿易による体制である。体制を変えたことによって、ヨーロッパ諸国が自国の復興に追われているのを尻目に、大手を振って南アフリカにもアメリカ企業が参入出来たのである。原子力爆弾を落とされて無条件降伏を呑(の)んだ日本も、アメリカの核の傘の下、腰巾着のように南アフリカに参入できた。不名誉白人としてである。旧八幡製鉄(↓)が長期の通商条約を復活できたのもそのお陰である。

 第2次大戦後、復興と併行して急速に産業化を進めた日本は南アフリカとの貿易高をその後も急激に伸ばした。1980代の後半には、とうとうアメリカを追い越してしまった。名目だけでも国連(↓)主導に従って経済制裁をしていた各国からは非難を浴びた。日本の財界とアパルトヘイト政権のつなぎ役を任されていた与党自民党は、名目上、一応世界の非難の矛(ほこ)先をかわすために、南アフリカとの貿易高世界第2位を目指して奮闘した。その甲斐(かい)あって、無事目標を達成して、自民党は鼻高々、名誉白人として意気軒高だった。エコノミックアニマルと揶揄(やゆ)される所以(ゆえん)である。

 西側諸国では戦争をする毎に軍需産業を肥大させた。南アフリカでウランを確保したアメリカは核開発に多大な予算をつぎ込み、原子力爆弾を製造した。広島と長崎で使ったあとは、容易には武器としては使えなくなったので、核開発は武器から電子力発電所に転換させた。

九州電力玄海原子力発電所、写真特集:時事ドットコムより

 資本主義のアンチテーゼとして共産主義政策を推し進めた東側諸国でも、西側諸国に対抗するために核開発を進めた。ソ連にもウランが出たから、東西の競争は激化した。チェルノブイリ(↓)と福島の原発で事故を起こし、大変な被害が出たが、それでも利益優先の産業社会は方向転換を図ろうとしない。原発に依存し続けるばかりか、他国に売りつけようとしている。過去から学ぼうとする人が、少なすぎる。

京都大学複合原子力科学研究所より

つれづれに

つれづれに:自己意識

1987年にアメリカ、翌年に日本で上映された(試写会パンフレット)

 映画(↑)の脚色でかっこよすぎると思うが、裁判で検事と判事に向かって反論するスティーヴ・ビコの言い草は、小気味いい。

検事:引用:「南アフリカは黒人と白人がいっしょに住むべき国であると信じる」このあなたの言葉、どういう意味ですか?

ビコ:南アフリカは共同体のすべての部分が貢献する多元的な社会だと、私とそこの被告席にいる人たちが信じるという意味です。

検事:はあぁ。被告が黒人のグループとずっと議論してきたその書類の言葉をよく知ってますか?

ビコ:もちろん、書類のいくつかは私が起草したものですから。

検事:不快な感じで政府のあからさまなテロ行為に言及した書類です。

ビコ:その通りです。

検事:あからさまなテロ行為と言ってますが、それが妥当な陳述だと素直に思いますか?

ビコ:ええ、ここでかけられている罪状より、はるかに妥当な陳述だと思いますよ。

検事:本当に?

ビコ:ええ、本当に。私は言葉の問題だけを言ってるわけではないんです。私は警棒で警官に殴られる暴力について言っているんです。武器を持たない市民に発砲する警官についてしゃべっているんです。 黒人居住区で飢えを通して受ける間接的な暴力について言っているんです。難民キャンプの侘しさと希望の無さについて話しているんです。 今改めて思いますよ。それらみんなが一緒になって、この裁判で喋(しゃべ)ってきた言葉よりもさらに酷い暴力を生み出しているんです。しかし、その被害者が被告席に立たされ、テロを生む白人社会が起訴されていない。

検事:あなたと黒人意識運動の他の人たちは「私たちのリーダーが活動を禁じられ、ロベン島に投獄されて来た」と言っていますが、あなたは特に誰のことについて言っているんですか?

ビコ:特にマンデラやソブクエ、ゴバン・ムベキのような方たちについて言っています。

検事:この人たちに共通している事実は南アフリカ政府に対して暴力を扇動してきたということで、あなたが述べていることは本当ではありません。

ビコ:この人たちに共通している事実は、黒人のための闘いを我が身を犠牲にしてでも推し進めてきたということです。

検事:そう、あなたの言うあからさまなテロ行為の答えは、黒人社会に暴力を呼び起こすということですよ。

ビコ:違います、黒人意識運動は暴力を避けるよう求めています。

検事:しかし、あなた自身の言葉が直接的な対決を求めていますよ。

ビコ:そうですよ、私たちは対決を求めています。

検事:それが暴力を求めていることになりませんか?

ビコ:あなたと私は今対決していますが、私には暴力があるようには見えませんが。

判事:しかし、この書類にはどこを探しても白人政府が何かいいことをしているというあなたの記述は見当たりませんね?

ビコ:そう、あまりにも何も無さすぎて、コメントに値しませんから。

バン!バン!バン!

判事:あなたのそういった態度が人種的な憎悪や反白人感情を煽るんです。

ビコ:それはひどいですよ。黒人は日々の厳しさに気づいていないわけではないんです。誰もが政府がやることに耐えているんです。黒人意識運動は人々にこういった厳しい現状を受け入れるのやめ、対決しろと言っています。厳しい現実をただ受け入てはいけないと人々に言っているんです。今の厳しい環境の中でも希望を抱き、自分に希望を持ち、自分の国に希望を見出す方法をみつけるべきだと言っているんです。白人とは関係なく、自分自身が人間であるという感覚、世の中での合法的な場所を築くように努力しようというのが黒人意識運動のすべてです。

 抑圧する白人とは関係なく、自分に自信を持ち、世の中の合法的な場所を得るために努力しよう、そう人に説くビコの言うことは正しい。しかし、理想は実現することなく、ビコは若くに獄中で殺された。首吊りと発表された死因に抗議して裁判を起こした友人のドナルド・ウッズ(↓)は逃亡を強いられ、ロンドンに亡命した。映画『遠い夜明け』は南アフリカから持ち出した原稿を基に製作され、西側諸国で放映された。

 当たり前の理想を説く理想主義者に社会は残酷である。その人の影響力が大きければ大きいだけ結末は悲惨だ。ヨーロッパ人が入って来て好き勝手してきたから、自分たちだけでやろうとアフリカ諸国に呼びかけたのは一早くイギリスから独立を果たした初代ガーナの首相クワメ・エンクルマ(↓)だ。パン・アフリカニズムである。ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談に出かけている隙にクーデターを仕掛けられ、生涯祖国には戻れず、ルーマニアで死んでいる。

小島けい挿画

 南アフリカでパン・アフリカニズムを唱えてアパルトヘイト政権に立ち向かったのは映画でビコも引用しているソブクエ(↓)である。オポチュニストのマンデラほど日本では知られていないが、マンデラよりも先にロベン島に送られ、その人一人の法律が作られて、監禁され続けた人物である。最後は肺癌におかされて、治療を受けられないままこの世を去っている。

小島けい挿画

 1950年代、60年代の反アパルトヘイト運動の勢いは凄かった。ドキュメンタリーなどを見ると、今にも白人政権が終わりそうな感覚にとらわれる。しかし、第2次大戦から復興を果たした英仏独日本に加えてアメリカが加担して、その勢力を抑え込んでしまった。マンデラが終身刑を言い渡された1964年には地上に指導者の姿はなかった。その暗黒の時代に立ち上がったのがビコたち学生だった。まだ、警察の魔の手が及んでいなかっただけである。ビコ(↓)も殺された。そのあと、高校生たちが銃弾に立ち向かった。1976年のソウェト蜂起である。もちろん、ビコたちの世代に応えて立ち上がった若者たちである。

小島けい挿画

 1990年2月11日、マンデラ(↓)は釈放された。閉じ込められた時と同じ法律で、無条件での釈放である。ロベン島で看守と仲良しになれる神経の図太さがないと生き延びれなかったはずである。マンデラはすべて呑み込んだ上で、甘んじて釈放を受け入れた違いない。ANCが与党になったが、基本は損なわないでの政権移譲だから、見える部分だけアフリカ人にすげかえられただけである。社会のほとんどの基本構造は旧体制のままなので、案の定、他のアフリカ諸国と同じように、少数の鼻持ちならない金持ちのアフリカ人が生まれた。大統領になったズマは贈賄の罪で大統領をやめさせられた。理想主義者が、泣いている。

つれづれに

つれづれに:作家

 8月7日から始まる立秋の頃には、朝晩は過ごしやすくなるだろうと思っていたが、いぜん35-26℃辺りの暑さが続いている。暑い最中に外にでるにも勇気が要る。暑中のころから衰えを見せずに、百日紅(↑)がまだあちこちで咲いている。

私は小説を書く空間が欲しくて30を過ぎてから大学の職場を探したが、すでに妻も子供もいたからである。元々貧しかったので、自分一人なら収入の目途がつくまで食いつないでいけばよかったが、自分のわがままを妻や子供にも強いるのは嫌だった。働いていた妻も、それいいねと賛成してくれた。一人ではどうにもならなかったが、何人かの人に世話になって何とか医大に決まった。

明石にいる時によく通った市場魚の棚

 作家を意識し始めたのは、スポーツ好きの父親が取っていた読売新聞の夕刊の連載小説を読んでからである。自分の中の何かが反応した。もっと読みたくて、その作家(↓)の小説を探して神戸や元町の古本屋を回った。多作な人で、編集者の要請に応じでいろいろ書いていた。どうでもいいようなものも多かったが、やっぱり自分の中の何かに反応した。

 小さい頃から家には本がなかったが、中学の頃から最初は教科書でみた芥川や太宰、三島や川端(↓)など手に入れやすいものを読むようになっていた。しかし、言われるほどはおもろないなあと感じた。高校では源氏などの古典や萩原朔太郎の詩なども読んでみたが、しっくり来なかった。なぜ新聞小説が自分の中の何かに反応したのかはわからないが、自分の中に書きたい気持ちがあるのに気がついた、そんな感じだった。文章はいくらでも出て来たので、そんなもんだと思っていた。

 本を読み始めてから、文学のための文学があるような気がしたし、作家についてもよく考えたが、なぜ職業作家になると思ったのかははっきりしない。小説を書きたいと思ったが、自分の本の出版をみたいと思ったことはない。大学を探しているときに、先輩から横浜の出版社の人にあって、雑誌の記事を薦められて書いた。大学が決まってからはテキスト(↓)や翻訳など次々と言われてこなしていたら、気づいたら定年退職していた。小説を書き出せたのは、退職後その人が亡くなったあと3年ほどしてからである。

2冊目の英文編註書(小島けい表紙絵)

 南アフリカの作家については、ミシシッピのシンポジウム(↓)に参加したとき、アメリカの学会での発表を薦められたのがきっかけである。アフリカ系アメリカの作家のシンポジウムだったが、誘ってくれた人が座長をする「イギリスとアメリカ以外の英語による文学」というセッションで発表することになった。出来ればアフリカの作家でと言われたとき、黒人研究の会でアフリカの話も毎月聞いていたので、わりとすんなりと、じゃあ、南アフリカの作家でやりましょか、と言う流れになった。

 先輩の薦めもあってラ・グーマ(↓)の作品を読んだが、作家が小説を書く動機が明確だった。ジンバブエのハラレで暮らした時、文学のための文学はないと感じたが、まさにその世界だった。理不尽なアパルトヘイト体制と闘うために書いていた。欧米や日本を初め他の国は南アフリカのアフリカ人については知らないので、知ってもらうためにどこにでもいるようなアフリカ人の生活ぶりを書いた。さらに、やがてアパルトヘイト体制がなくなったあと風化しないように後の人のために物語として記録していた。それは、小さい頃からアパルトヘイトと闘う父親やその取り巻きの中で、自分が選んだ生き方だった。

雑誌の挿画:小島けい画

 作家になる動機は、生きている国によって大きく変わる。人生の残り時間が数え易くなった今、なぜ新聞小説で読んだときに自分のなかの何かが反応したかを考えながら、小説を書きたいと思っている。原稿用紙400字詰めで300~500枚くらいのものを4冊書いているが、次回も500枚くらいのものになりそうである。原稿が売れると出版社が判断するかどうかは、わからない。

西条柿、実の重さで枝が一本折れてるので、今年は250個くらいか?