つれづれに

つれづれに:ラント金鉱

 ダイヤモンドも金もオランダの領有地で発見された。ダイヤモンドはオレンジ自由州のキンバリーで、金はトランスバール州北東部の盆地で発見された。どちらも今も南アフリカの経済を支えている。盆地周辺のラント金鉱はのちに中心地ヨハネスブルグを作り出し、南アフリカ経済の屋台骨となっている。ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、エスワティニ(旧スワジランド)、レソトの隣接する国々や、アンゴラ、マラウィ、ザンビアからの出稼ぎ労働者も集まって来る。アフリカーナーとイギリス人が創り出した一大搾取機構は、広く南部一帯を巻き込んだ一大経済圏をつくりだしたわけである。周辺国から労働者が集まるのは、どこの国でも厳しく課税されて南アフリカよりも生活が苦しいからだ。国内よりも外国の方が稼げるから、家族と離れて少し稼ぎのいい南アフリカまで出稼ぎに出て、侘しい暮らしを選ぶのだろう。

 1992年にすぐ北のジンバブエに3ケ月足らず家族で一軒家を借りて滞在した。そのとき知り合ったショナ人は田舎から出稼ぎに来て、家族と離れて暮らしていた。その人の父親は若い頃に首都に出稼ぎに来ていた。ジンバブエ大学で知り合いになった学生は、卒業する仲間のほとんどが卒業後外国で仕事を探す予定だと言っていた。新聞でも、ジンバブエ大学の卒業生が卒業しても国内では教員にならず外国に行く現状を嘆いていた。その話になったとき「だって仕方ないですよ。4割も税金を取られているんですから。マラウィなどは外国人には無税で条件もいいですから。私も卒業したら外国で働くつもりです。今は南アフリカは混乱して黒人には厳しいですが、落ちついたら南アフリカに行こうと思っています。一番稼げますから。早くブランドニューの車に乗りたいですからね。そう考えるのは間違ってますか?」と哀しそうに学生は言っていた。日本にいては実感できないことである。

 ラント金鉱は世界でも有数の鉱脈らしい。ただ、鉱石中の金の含有率はそう高くないので、地下に掘り進む必要があり、深い所では4000メートルに達するようだ。1987年に朝日放送の「ニュースステイション」がアパルトヘイト政権に取材を許可されて、金鉱山の地下3000メートルまでカメラを入れて、実際に岩盤を機械で掘削するアフリカ人労働者の様子(↓)を伝えていたが、極めて厳しい状況下で労働者は働いているのが伝わってきた。

 坑道をみたくて、1990年辺りだったと思うが、鹿児島県北部の串木野ゴールドパーク(↓)に出かけたことがある。当時採掘していた抗洞の一つが見学出来たとき、ずいぶんと湿気が多いもんなんやなあと実感した。今は坑洞内の蔵や串木野金山に関する展示物を見学できる「焼酎蔵 薩摩金山蔵」として生まれ変って、観光スポットになっているらしい。

つれづれに

つれづれに:一大搾取機構

 →「金とダイヤモンド」をめぐって→「オランダ人」と→「イギリス人」は殺し合いをしたが、結局はアフリカ人から絞り取るという妥協点を見つけて国を創った。1910年の南アフリカ連邦である。87パーセントのアフリカ人抜きの選挙でどちらも過半数を取れなかったので、南アフリカ連邦は連合政権だった。第2次世界大戦後の1948年の総選挙で誕生したアパルトヘイト政権は、アフリカーナの国民党の単独政権である。

金とダイヤモンドの発見で南アフリカが国内外で大きな変貌を遂げていた同じ頃に、日本でも、アメリカに大砲で脅されて開国し、欧米に追いつけ追い越せの産業化の道をまっしぐらに走り始めていた。当然のように、近隣の大国中国とロシアと衝突し、1894に日清戦争で、1904年に日露戦争で勝利した日本は、次はアメリカと衝突するまで軍事路線を突っ走る。南アフリカとは違う形で、日本の社会も、急激に大きく変貌していたのである。

浦賀に来たペリー

 アフリカもアフリカ人も神から授かったものと考える押しの強いアフリカーナーと狡猾で計算高いイギリス人はダイヤモンドや金を利用して最大限の利益を上げるために協力した。最初はそれほど緻密なものではなかったようだが、アパルトへイト政権が出来た頃には、87パーセントのアフリカ人の安価な労働力を基礎に、14ケ月の短期雇用を繰り返す効率のいい雇用形態を確立していた。短期契約の非常勤の雇用形態は日本でもよく見かけるようになっているので、人ごとではない。国内では課税された税金を払うために、働き盛りの男性は仕事のある都市部に出稼ぎに出た。住居費や食費を可能な限り抑えるために粗末なたこ部屋に集団で寝泊まり、安い粗末な食事だった。家族と離れた侘しい生活を強いられた。

南アフリカ最大の都市となったヨハネスブルグ近くの金鉱山

 鉱山での一大採取機構は、大農場や様々な製造業の工場や、白人家庭にも援用された。アフリカ人は食えるか食えないかの短期契約の賃金労働者として経済の歯車にされたのである。南アフリカに最初に来たオランダ系のアフリカーナーとあとから来たイギリス人が産業化の過程で、無尽蔵の安価なアフリカ人労働者を、鉱山で、大農場で、工場で、そして白人家庭で扱(こ)き使うシステムを築いたというわけである。白人家庭ではメイドやボーイが、いわゆる召使(domesitic servants)として、白人の女性がすべき炊事、洗濯、掃除、育児などをさせられた。すべて出稼ぎの男女で、女性は自分の子供を田舎に置いて他人の子供の世話をし、男性は侘しい一人暮らしが当たり前だった。アパルトヘイト政権下では、あらゆる法律で縛られていたので、白人の法律下で屈辱的な不自由な生活を強いられたわけである。ある日やって来たヨーロッパ人に土地を奪われ、課税され、安価な賃金労働者として絞り取られ続けたのだから、何ともやるせない話である。

オレンジ自由州キンバリーのダイヤモンド鉱山

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つれづれに:金とダイヤモンド

 19世紀後半のダイヤモンドと金の発見は、南アフリカ国内と国外の両方に大きな影響を与えた。初めにオランダ人が来て、次にイギリス人が来てアフリカ人から土地を奪って好き勝手をしたが、入植者の勢力争いは19世紀の半ばに何とか折り合いをつけていた。肥沃な海岸線のケープ州とナタール州はイギリスが領有し、恵まれない内陸部のトランスヴァール州とオレンジ自由州はオランダ人による領有をイギリスが認めた形で落ち着ちつくことになった。そこに、ダイヤモンドと金の発見だった。しかも、金とダイヤモンドが発見されたのはオランダの領有地内だった。当然、イギリスが放っておくはずがない。両者は殺し合いを始めた。アングロ・ボーア戦争である。殺し合いはいつの世も過酷だ。イギリスの武力が優勢だったのは間違いないが、アフリカーナーも武器で応戦している。どの戦争も相手を殲滅(せんめつ)するまで戦うことはない。それに、入植者は全人口の僅か13%ほどで、殺し合いをしながら周りを見たらアフリカ人だらけだった、というわけである。両者は殺し合いをしていた手で、握手をすることにした。1910年の南アフリカ連邦はその産物だ。共倒れになるよりは、アフリカ人を搾取するという一点に妥協点を見つけたわけである。イギリス軍は戦争で女性や子供にも手を出したので、後々までアフリカーナーの遺恨はとりわけ深かったという人もいるが、遺恨を遺さない戦争は存在しない。

オレンジ自由州キンバリーのダイヤモンド鉱山

 国外での影響も大きかった。それまでインド・中国への航路の中継地の役割が強く、南アフリカ自体はさほど重要な扱いではなかったが、金とダイヤモンドが発見されて、一躍注目され始めたのである。安価な労働力を使って掘り出される金やダイヤモンドを欧米や日本が黙って見ているわけないわけがない。格好の貿易相手となった。そのうえ、欧米や日本の製品が捌(さ)ける一大市場にもなる。金やダイヤモンドで暴利を貪れるかどうかは、如何にアフリカ人労働者の賃金を抑えられるかにかかっていた。必然的に、豊かな鉱物資源に恵まれた南部一帯に、安価なアフリカ人労働者から最大限に貪れる一大搾取機構が確立してゆく。次は、その搾取機構についてである。

南アフリカ最大の都市となったヨハネスブルグ近くの金鉱山

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つれづれに:イギリス

 オランダ人のあとにやって来たのはイギリス人である。1795年、イギリスはケープに大軍を送った。インド・中国の航路の要衝地をフランスに取られる前に手を打ったのである。1652年にオランダ人が来た時と違って、ヨーロッパ社会は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命が可能になり、産業化が進んで大量消費の資本主義社会に向けて突き進み始めていたのである。映像の世界の話だが、アメリカのテレビドラマ『ルーツ』のクンタ・キンテを乗せた帆船ロード・リゴニア号がアナポリス港に入港したのもこの頃である。奴隷貿易の最盛期でもあり、更なる生産のための原材料と製造した商品を売り捌(さば)くための市場を求めてアフリカでも植民地争奪戦が激しくなっていた時期でもある。一番後から参戦したイギリスは、アフリカで高度な文明が発達していたエジプト、ガーナ、ナイジェリア、ケニアなど主だったところは押さえていた。大きなコンゴも英仏に渡らないならとの互いの思惑で小国ベルギーのレオポルド2世の個人の植民地に落ち着いていた。

ロード・リゴニア号

 産業社会に向かって進み出した世界は、基本構造が大きく変わっていった。何より経済規模が急激に拡大したのである。手で作っていたのを機械で造り出したわけだから当然だ。資本主義は拡大しないと廃(すた)る運命にある制度だから、これ以降規模の拡大は継続し、今も大きくなり続けている。当然社会の総体量も増えるので、それを守るための武器も同じスピードで進んで行く。信長が指揮した当時世界で最大の銃撃戦だった長篠の戦いでは、火縄銃だった。1795年のイギリス軍はマシーンガンを使っていた。しかし、その後に行き着いた核に比べればかわいいものである。核の後処理の問題を解決しないまま、アメリカは経済的に急成長した日本を叩くために広島と長崎に原爆を投下した。

ナタール駐屯地でイギリス軍がズールー軍に急襲を受けて1個中隊が全滅したイサンドルワナの戦い(↓)を扱った『ズールー』という映画は、銃と槍の戦いでイギリス軍の1個中隊が全滅した点で印象に残っている。1879年のことである。明石に住んでいるときに、地元のサンテレビで録画した映像で、吹き替えなので日本語でしか聞けないが、南アフリカの話をする時は、英語や一般教育の時間に学生に観てもらった。闘うまえにズールーの兵士とイギリスの兵士がそれぞれの国の歌を歌ってエールの交換をしてから戦い始めたのが印象的である。まだ、そんな時代だったということだろう。しかし、映画は文明の高いイギリス兵が野蛮なアフリカ人を成敗するという構図のエンターテインメントだったので、観ていて気分が悪くなった。後に改訂版が出ていたのは、市民団体か何かの突き上げがきつかったからか?

 アメリカが日本に開国を迫って尊王攘夷派を押し切ったのは、ドーンと大砲(↓)を打ち込まれたからである。産業化によって、ヨーロッパ諸国は長篠の戦いの時とはまるで違う局面に突入していた。開国を認め、欧米に追いつけ追い越せの産業化社会に突入するしか術はなかったのである。

 アメリカでも産業化の流れは加速し、奴隷制でぼろ儲けした南部の寡頭勢力の独壇場だった構図が大きく変わろうとしていた。奴隷制度を持たない北部に育った産業資本家が徐々に力をつけていき、1860年の総選挙には新しく作った共和党から産業資本家の代弁者として大統領候補を出した。リンカーン(↓)である。南部の金持ち層の代弁者民主党の一党独裁を脅かすまでになったということである。必然的に、国の利害が二分されて市民戦争が起きた。南北戦争である。

 イギリスが大軍を送ったケープでも大きな変化があった。オランダが独占していたところに、イギリスが大軍を送ったのだから当たり前だろう。オランダ人も黙っていたわけではないが、アフリカのおいしい植民地をすべて武器でものにしていたイギリス軍に勝てるわけがない。しかし、オランダも武器は持っていたわけだから、どちらかが殲滅(せんめつ)するまで戦うことは双方にとっても得策ではない。東インド会社関連でオランダ人社会でいい思いをしていた富裕層はケープには居られなくなり、家財道具一式を牛車に乗せて(↓)内陸部に逃げた。内陸部のアフリカ人には大災難だった。グレート・トレックと言う。オランダ人の大移動という意味である。

 1866年のキンバリーでのダイヤモンド発見と1886年のラント金鉱の発見で、南アフリカとオランダ、イギリスの構図が大きく変わって行く。どちらもイギリスが領有を認めていたオランダの領有地で発見されたので、事態はややこしくなった。次回は、金とダイヤモンドである。

ダイヤモンドの採掘現場、当初は地表を探していた(アフリカシリーズ)