つれづれに

つれづれに:オランダ人

オランダ出島跡地:長崎公式観光サイトから

 前回の→「つれづれに:大西洋」で「1980年代に長崎に来た南アフリカの詩人マジシ・クネーネが日本人が出島にオランダ人を閉じ込めていたのは賢明だったと言ったのは侵略された側の本音だろう」と紹介したクネーネ(Mazisi Kunene、1930-)はナタール大学とロンドン大学でズールー詩を研究している。ANCのメンバーとして反アパルトヘイト運動に加わって、アメリカに亡命した。スタンフォード大学などを経て、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授になっている。1970年と83年に来日し、『ズールー詩集』(1970)、『偉大なる帝王シャカ』(1979)や『アフリカ創世の神話』(1981)などが日本語訳されている。私が1988年のラ・グーマの記念大会に行った時には招待されていなかった。招待者は北米に亡命中の南アフリカ人だったので、カナダに亡命中だった主催者の友人(↓)とはそりが合わないようだ。日本語の訳者も、私にはできれば避けたい人たちである。1993年に帰国し、ナタール大学の教員になっている。友人は西ケープ大学の学長に、マンデラの公募面接を受けて就任したようである。就任を報じる記事を同封して送ってくれた。2期学長を務めたあちと、アメリカの大学に移った時に手紙をもらったきりである。今はどうしているだろう?私より3歳年上で、マルコムXと同じ年の生まれである。

 オランダ人が南アフリカに来たのは1652年である。当時日本は鎖国をしていたが、オランダとは出島を通して貿易をしていた。ポルトガルと違ってキリスト教の布教活動は行わず、厳格な規則に従ったので江戸幕府はオランダと貿易に応じたというのが学校で教えられる内容だが、日本が当時は有数の武器保有国だったことや、オランダがまだ産業革命前で産業社会ではなく農業中心の社会で武力による侵略の危険性が低かったことなどの視点から語られることはない。

金持ちの意向をで東インド会社がアジアに進出していた。インドや中国までは遠く、途中で水や食料を補給する基地がたくさん必要だった。ケープタウンもその一つである。今のアンゴラの首都ルアンダにポルトガルが基地を作っていたので、そこを避けて少し南アフリカのケープタウン付近に基地を作ったわけである。ケープタウン付近に基地を作ったのは、インド洋に入る前には、喜望峰沖の難所があるという地理上の理由もあったらしい。オランダはアジアではインドネシアとマレーシアを植民地にしている。教養の南アフリカ概論の大きなクラスで、インドネシアとマレーシアの学生がかつてオランダの植民地だったという発表をしてくれたことがある。インドネシアの学生はオランダと日本を植民地時代として並べていた。今、月に一度、ズームでアフリカ系アメリカを題材に英語でのミーティングをやっているが、参加者の一人はジャカルタからの参加である。最近までオランダ人優位の意識がヨーロッパ人にもインドネシア人にもあったような話をしてくれた。作家のアレックス・ラ・グーマについてたくさん書いたが、ラ・グーマの祖母がマレーシア出身だったらしい。身近なところで、過去の痕跡を感じている。

 入植したオランダ人たちの社会は、農業が基幹だった。遠い、未知の世界に進んで渡る人は、何か訳ありな人がほとんどである。借金に追われていたか、犯罪を犯して前科があって社会に馴染めなかったか。メイフラワー号でアメリカに渡った人たちも同じである。生まれたところが居心地よければ、そこを捨ててまでどうなるか未来の予測が難しい遠くの場所には行かない。新天地を題材に書いたナサニェル・ホーソンの『緋文字』(↓)を読んだことがあるが、暗くて滅入りそうだった。アメリカの居留地で最初に作ったのが刑務所だったという記述が印象に残っている。ニュージーランドやオーストラリアでも同じだったような話を聞いた。

 東インド会社の人たちは金持ち層の使いだから一般の人より富裕層が多かった、大多数は社会からあぶれた貧しい農民だった、ケープのオランダ人社会はそんな二つの集団からなっていたわけである。キリスト教のオランダ改革派は、アフリカの土地は神からの授かりもの、アフリカ人は神から授けられた僕(しもべ)、そんな風に考えるようだから、アフリカ人は、謂われなく、その人たちの犠牲になった。18世紀の終わりに、ケープにイギリスが大軍を送ってくるまで、オランダ人は好き勝手をしていたのである。当初自分たちのことをアフリカに根ざした人という意味のAfricanderと呼んだようだが、のちにAfrikanerと呼ばれるようになった。その人たちの使う言葉はAfrikaans(アフリカーンス語)。アパルトヘイト政権を作った人たちはこの人たちの末裔で、アフリカーナーである。

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つれづれに:南アフリカ関連(2024年7月22日~)

2024年8月

18:→「つれづれに:コンゴと南アフリカ」(2024年8月27日)

17:→「つれづれに:マンデラの釈放」(2024年8月24日)

16:→「つれづれに:捏ち上げ」(2024年8月23日)

15:→「つれづれに:ウラン」(2024年8月22日)

14:→「つれづれに:自己意識」(2024年8月21日)

13:→「つれづれに:作家」(2024年8月16日)

12:→「つれづれに:武力闘争」(2024年8月14日)

11:→「つれづれに:アフリカ人女性」(2024年8月13日)

10:→「つれづれに:若い力」(2024年8月12日)

9:→「つれづれに:セシル・ローズ」(2024年8月4日)

2024年7月

8:→「つれづれに:ヒュー・マセケラ」(2024年7月29日)

7:→「つれづれに:ラント金鉱」(2024年7月28日)

6:→「つれづれに:一大搾取機構」(2024年7月27日)

5:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

4:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

3:→「つれづれに:イギリス人」(2024年7月24日)

2:→「つれづれに:オランダ人」(2024年7月23日)

1:→「つれづれに:大西洋」(2024年7月22日)

つれづれに

つれづれに:大西洋

大きくなっている西条柿、今年は300個くらいか?

 →「7月も半ばを過ぎ」の中で

空間が欲しくて大学を探したのに出版社の人と出遭って息つく暇もなく、気がつけば退職していた。医学生の授業の工夫と部屋に来てくれた人たちと話をしている間に、定年になってしまったというところだ。ならば、それを題材にするしかない、そんな思いが強くなった頃に腰をやられた。最後辺りはアングロ・サクソンの侵略の系譜を追っていたが、考えてみれば1949年以降は、私もこの世の中にいたわけである。コンゴや南アフカと思わず生き存(ながら)えてしまった日本と対比して書いてみるか、たくさん書きながらそんなことを思いついた。次回は手始めに、1995である。少し更新まで時間がかかるかも知れない。

と書いたが、日本と比較する南アフリカについてはまだ改めて書いていないことに気がついた。しばらくは、南アフリカについて書くことになると思う。南アフリカはコンゴより年季が入っているので、時間はかかるだろう。南アフリカについて書く前に、大西洋に触れておきたい。

小さい頃から日本が真ん中に位置する地図に慣れてきたせいか、英仏が真ん中に来て大西洋を挟(はさ)んでアメリカ大陸とが一括(くく)りの地図は、新鮮である。欧州が中心で、日本はあくまで極東の小さな国に過ぎない。

 →エボラ・コンゴ関連について書いているときに、親にかまってもらえなくて寂しい日々を送っていたレオポルド2世が毎日地球儀を眺めて暮らしていたと『レオポルド王の亡霊』」に書かれていたのが、なぜか印象に残っている。当時の地球儀では、中央アメリカのメキシコとアフリカのコンゴが白地だったとも書かかれていた。どこの植民地でもなかったという意味である。

 小さなこどもが植民地を持ちたいという夢を持つという発想自体が湧いてこないが、王子は植民地を持ちたいと考えていたそうである。身近な叔父がメキシコを植民地にしようと軍隊を連れて乗り込んだが、殺害されたらしい。大西洋を隔てたアメリカ大陸もすぐ下のアフリカ大陸も、意識の中ではそう遠くなかったのか?まさか、のちに地球儀を眺めていた王子の夢が1885年のベルリン会議で現実のものとなり、のちのちコンゴの住民が→「『悪夢』」を見ることになろうとは誰も予想できなかっただろう。

 最初に大西洋に乗り出したのは、ポルトガルとスペインで、渡った先のアメリカ大陸で好き放題をして、インカやアステカなどの文明の発達していた地域から金銀財宝を持ち帰ったようだ。文明の程度の低かったポルトガルやスペインに鉱山術はなかったために、鉱山技師として連れていかれた西アフリカの人たちは不運だったとしか言いようがない。西フリカでは純度の高い金が精製されていて、鉱山技術は高かった。ポルトガルとスペインが大西洋に乗り出せたのは、帆船技術と火縄銃の技術が発達していたおかげだろう。東アフリカにはダウと呼ばれる今も使われている帆船があるので、その技術を借用したか、奪い取ったのも知れない。大学で非常勤を始めたときに最初に英語の授業で使ったヒューズの『黒人史の栄光』の冒頭に、黒人の水夫が大地が見える!と叫ぶ場面があるが、ヒューズはアメリカ大陸にきた最初の黒人は奴隷ではなかったと紹介している。当時、ポルトガルにはアフリカから連れて来られたり自分で来た黒人がたくさん住んでいたようである。水先案内人としてコロンブスの船に乗っていたペドロ・アロンゾ・ニーニョも、そんな黒人の一人だったらしい。

『ルーツ』の帆船ロード・リゴニア号

ヒューズが朗読した『黒人史の栄光』も入っているLPのカバー

『黒人史の栄光』

 ポルトガル人はアフリカ大陸の南端の喜望峰を回ってインドや中国にも出向いた。植民地経営をするほど国力はなかったので、ポルトガルは中継基地建設を主眼に置いたようである。中国船に乗ったポルトガル人が種子島に来たのは1543年である。船が難破したらしい。お礼に火縄銃を置いていった。砂鉄での製鉄技術のあった当地でも、製鉄技術のあった島根や三重でも銃を作るようになった。1年後には、1万丁も銃が作られているたと言う。1575年には信長が堺商人に銃を集めさせて、長篠の戦いで勝利している。当時では世界一の銃撃戦だったらしい。世界有数の武器保有国だったということだろう。

 ポルトガルとスペインに遅れて植民地争奪戦に参戦したのはオランダである。現在のアンゴラの首都ルアンダに拠点を確保していたポルトガルを避けて南下し、今のケープタウンにオランダ人は入植した。アジアに進出していた東インド会社に水や野菜を補給する中継地だった。それが、オランダ人が南アフリカに入植したきっかけである。その後フランスに先駆けてイギリスが大軍を送り、ケープ植民地を作った。そして、アフリカ人から土地を奪い、オランダ人とイギリス人は南部一帯にアフリカ人を労働力とした搾取機構を打ち立て、連合政権を作っている。南アフリカ連邦である。1800年代後半に金とダイヤモンドが発見されてから一挙に南アフリカの重要性が増した。当然のように鉱山権を巡って殺し合いをしたが、どちらも銃を持っているので殲滅(せんめつ)には至らず、共倒れするよりは連合政権を選んだだけである。南アフリカの人は、まさか入植して来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、安価な労働力として扱(こ)き使われるようになるとは、誰も思わなかっただろう。1980年代に長崎に来た南アフリカの詩人マジシ・クネーネが日本人が出島にオランダ人を閉じ込めていたのは賢明だったと言ったのは侵略された側の本音だろう。

南アフリカの初回である。しばらく南アフリカが続く。

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つれづれに:どくだみ

 一昨年(おととし)、どくだみ液を作った。娘から、知り合いにいろんな野草を工夫して生活に生かしている人がいるよと聞いて、どくだみ?いっちょ、僕も真似(まね)て作ってみるかという気になった。今はインターネットで検索すれば、大抵のことはわかる。検索してみると、肌にいい液が作れると書いてあった。それまで雑草としてしか見ていなかった。北側の庭一面に生えて、夏には中に踏み込めないほどだった。電気メーターの検針に来てくれる人に、申し訳ないなあと何度も思ったことがある。それくらい、生い茂る印象があった。

 したがって、材料は家の庭で難なく調達できるわけである。採ったどくたみをきれいに洗い、2~3日陰干ししてから大き目の瓶の中で日本酒に浸けるらしい。中くらいの瓶にほどよいどくだみ液が完成した。去年は噴霧用の小さな瓶にいれて、あせもらしきものが出来るとよく塗ったが、今年はあまり使っていない。粘り気があって、少し特有の臭いがするせいかも知れない。

 どくだみは多年草で、本州、四国、九州、沖縄,台湾、中国、ヒマラヤ、ジャワに分布しているらしい。山野や庭などで普通に見られ、淡黄色の花が咲く。花は白い花弁状のもので保護されている。
日本三大民間薬の一つで、解毒薬として有名らしい。生の葉を腫れ物に外用するとよく効き、蓄膿(ちくのう)症には葉の汁を鼻に挿入するといいと言われる。傷には煎液で洗浄し、洗眼薬にも使われる。乾燥すると解毒作用は失なわれるが、通便、降圧、利尿用にドクダミ茶を飲んでいる人も多く、ティーバックも市販されている。皮膚病や痔にもいいらしいので、私は肌に使う液を作ったわけである。
てんぷらにして食べるところもあるらしい、東南アジアの一部では、生の葉をサラダにいれて食べるという。煎液で茄子(なす)の種子を処理すると、発芽が促進できるとあったので、試してみるか?
江戸時代の「大和本草」には、「10種類の効果を有しているから十薬」と書かれ、中医学では解毒・消腫(浮腫をとる)・清熱(身体の余分な熱をとる)・利水(水分代謝をよくする)の効果があるとされる。民間では面皰(にきび)・鼻炎・湿疹・便秘などに煎じた茶を飲用したり、生の葉が外用で使用されてきている。独特の香りはデカノイルアセトアルデヒドという物質によるものらしい。乾燥すると香りは消える。生葉に含まれる精油成分のアルデヒド類による抗菌作用や、乾燥葉にも含まれるフラボノイドによる抗菌・抗炎症・利尿・毛細血管強化作用などの研究が進んでいるらしい。

 土の中に茎や根が残っていると再び生えてきてしまうほど生命力が強い植物で、雑草と思われる傾向が強い。除草剤や防草シートなどを使わずできるどくだみ対策を紹介している人がいた。その人は、ほぐした土やどくだみの茎や根に腐葉土をかけて混ぜ込む作業を複数回行っている。蚯蚓(みみず)や微生物が食べたり、分解したりしてくれるらしい。かつては地面を覆わんばかりに繁殖していたどくだみに代わって他の植物が元気に生えてくるらしい。その動画が紹介されている。蚯蚓の力は偉大である。庭の畑でも、できるだけ蚯蚓が住めるように苦心している。

最近は、風呂にどくだみを浮かべている。3月の半ばから11月くらいまでは何とか調達できる。20本前後を摘んで来て、きれいに洗い湯船に放り込むだけである。慣れると、ないと寂しい感じがする。きっと、肌にいいんだろう。どくだみを摘んでも、誰にも文句を言われないのがいい。毎日のどくだみ風呂は、快適である。