つれづれに:セシル・ローズ
セシル・ローズである。目先が効いて、入植者として成り上がったから、実業家としては成功した人なのかも知れないが、アフリカ人にとっては悪魔のような人である。
デヴィッドスンは「アフリカシリーズ」の中で、セシル・ローズが描いた夢と足跡(そくせき)を、舞台となったマショナランドとマタベレランドの地を歩きながら、詳しく紹介している。映像が助けになって、非常にわかり易く、説得力がある。かなり長くなるが、今回はきちんと聞き取って、紹介してみたい。
1870年頃のことです。南アフリカのキンバリーでダイヤモンドの大鉱脈(↓)が発見されました。一攫(いっかく)千金を夢見るヨーロッパ人が、たちまちこの地方に押し寄せます。その中に、後にケープ植民地の首相となる17歳のイギリス人青年がいました。セシル・ローズ(↑)です。10代の若さでローズは富が権力に繋(つな)がることを知っていました。彼はダイヤモンド産業の独占に乗り出し、見事やってのけます。秘訣は駆け引きがうまかったこと、資金不足の相手からどんどん採掘権を買い取ったこと、そして情け容赦(ようしゃ)がなかったことです。ダイヤモンド王となったローズには大きな野心がありました。イギリスの旗の下に彼の王国を築くことです。彼はこう書いています。「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」
この頃には億万長者になっていたセシル・ローズはいよいよカイロからケープタウンまでをイギリスの支配下に置こうと企てます。彼が先ず目をつけたのがリンポポ川の北の広大な高原です。そこは気候がよく、牧畜に適した土地がいくらでもあったうえ、地下には鉱物資源、特に金が眠っていました。ただ一つ大きな障害がありました。ズールー人から分かれたマタベレ人が北に移り、この辺りに軍事王国を築いていたのです。マタベレ人は先住民のショナ人からここを奪いました。今は寂(さび)れたこの場所は100年前にはマタベレ王国の心臓部でした。ここに王が住んでいたのです。ロベングラ王はマタベレ王国の二代目の王でした。そして、最後の王でした。
最初に入って来た白人は宣教師でした。ロベングラ王は宣教師に伝道所を建てることを許します。都と川を隔てたこの建物は英国国教会の伝道所(↓)でした。宣教師たちはすぐに避けることの出来ないジレンマに陥りました。自分たちを受け入れてくれたアフリカ人と自分の同胞、そのどちらに忠誠を尽くすべきかと。この伝道所のチャールズ・ヘルム宣教師もその辛い選択を迫られました。彼はロベングラ王の信頼を得ながら、その裏で密かにローズのため働き始めます。そうなんです。宣教師たちの記録にも残っていますが、彼らはこんな風に考えていたんです。マタベレ人をキリスト教徒に改宗させるには、国王の力を奪い、マタベレ文化と独立の基盤を崩すしかない。これが出来るのはローズだと言うわけです。
ローズは着実にロベングラ王の力を切り崩して行きました。ヴィクトリア女王に抗議した王は、協定を結ぶよう勧められます。宣教師の仲立ちでいくつも協定が結ばれましたが、それがまた曲者でした。ヘルム宣教師はここに埋葬されています。墓には同僚の宣教師たちによりマタベレ人の友と刻まれました。
1890年、ローズはいよいよ実力行使に出ます。金の採掘を口実に、軍隊さながらの遠征隊を編成し、北のマショナランドに向かったのです。ロベングラ王の兵は16,000、敗北を恐れ、はやる兵を抑えて攻撃を加えませんでした。遠征隊はマタベレ人との衝突を避け、もっとおとなしいショナ人の土地を通って進みました。隊員にはそれぞれ目的地に着いた暁には1,000ヘクタールを超える土地と15の金鉱採掘権を与えることが約束されていました。当時の人がこう書いています。「こんな集団は見たことがない。貴族から宿無しまであらゆる類の人間のごった煮だ」隊員の中にはケープ植民地の有力者の子弟もいました。もし途中で戦闘となり敗れたら、家族がイギリス政府に圧力をかけ援軍を寄越すに違いない、そういうローズの配慮からです。
6ケ月後、フォート・ソールズベリにユニオン・ジャックが翻(ひるが)える瞬間です。アフリカをイギリスのものにというローズの夢が実現に近づいた瞬間、ローズ神話のクライマックスです。
ここに街を開いたのは地理的にどうこうという理由はありません。ここは後のローデシアの首都ソールズベリーとなり、今はジンバブエのハラレ(↓)と名を変えています。アフリカの都市はどこでもアフリカらしい趣や生活が多少とも見られるものですが、ここは例外です。60年ほどの間に、ここは完璧な白人の街になってしまったんです。あそこに記念碑が建ってますが、実はあそこからこの街が始まりました。
これがまだあるなんて驚きです。こう書いてあります。マショナランド最初の市民遠征隊員に捧げる。しかし、どうなんでしょう?彼らが来るずっと前からマショナランドに住んでいたショナ人と、あとから来て土地を取り上げた白人、どっちがここの市民と言えたか?こんなきついことは今だから言えるのかも知れません。それでもやはりこれは野蛮な行為でした。ショナ人はここで何世紀も前から、牛を飼い、畑を作っていた。それがすべてを奪われ、追い立てられてしまったのです。遠征隊の中にはローズの親友で、腹心でもあった、後のケープ植民地の首相ジェームソン博士(↓)がいました。ローズは彼に新しい領土の支配を任せます。
マショナランド(↓)の南西マタベレランドにはまだマタベレ王国が健在でした。1892年、ジェームソンは決着を着ける時が来たと判断します。「何があろうと恐るるに足らず、こちらは機関銃がついている」当時、イギリスの反帝国主義の詩人は、こう風刺している。
マタベレの老人(↓)「ヨーロッパ人は機関銃と大砲を持っていた。マタベレも銃を持っていたが、本の少しだ。ヨーロッパ人の銃の前で何ができる?マタベレの連中は槍(やり)しかなかったんだ」
勝ち戦(いくさ)のあとは略奪(↓)です。農地と25万頭の家畜がほとんどすべてローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者に没収されました。1893年、マタベレ王国は一時的に壊滅しました。ロンドン伝道協会はローズに祝辞を送りました。「我々は宣教としてマタベレ王国に同情は寄せられません。またその滅亡を憐れむことも出来ません」
白人に触れられるくらいなら、広大な草原の中に埋もれた一本の針のように消えてなくなった方がいい、ロベングラ王はその言葉の通りに北方に向かって脱出し、やがて病死したと言います。こうしてリンポポ川とザンベジ川にはさまれた土地マショナランドとマタベレランドは併合され、ローズの帝国ローデシアとなります。
リビングストンがザンベジ川流域を彷徨(さまよ)い歩いてから僅(わず)か20年ほど後のことでした。3年後、マタベレ人14,000人が凄(すさま)まじい反乱(↓)を起こしました。重い税と強制労働に腹を立てたショナ人もこれに加わりました。ネハンダとカグリという司祭に導かれたこの抵抗運動は何ヶ月にも渡ってゲリラ戦を繰り広げます。鎮圧されたのは1897年になってからです。この地方の初期民族運動の歴史に残る大反乱でした。
「白人は何もかも奪った。牛までだ。お前たちは降伏したのだ。税をおさめろと。子どもの数しか牛を飼わせなかった」
ローズの軍隊も戦いでかなりの被害を受けました。入植者も100人以上虐殺され、制裁は厳しいものとなります。反逆者狩りが行われ、捕まった者は極悪人として扱われました。鎖でひと繋ぎにされて、簡易裁判所に引き出され、大勢がそのまま、手近の樹に吊(つ)るされました。ネハンダとカグリも最後には捕らえられ、絞首刑(↓)となりました。
ローズは1902年、ケープタウンで世を去りました。遺体はローデシアに運ばれ、別荘のあったマポト・ヒルズに埋葬されました。夏の夕暮れ、ローズがよく岩によく腰を掛け、彼の帝国に沈む夕日を眺めた(↓)と言う場所です。死後、ローズに対する評価は二つに分かれました。富める世界では同胞を愛する英雄です。しかし、貧しい世界では今も略奪者、泥棒男爵と見ています。ローズと彼に続く人々はアフリカに物質的進歩を持ち込みました。確かに19世紀のアフリカにはそれは必要なものだったかも知れません。しかし、その恩恵はアフリカ人の上を素通りして行ったのです。結局、聖書と銃の伝導はアフリカ人を救うどころか、まったく逆の結果、つまりアフリカをヨーロッパ列強の奴隷としました。リビングストンのような人々が描いたような夢は無に帰し、アフリカは植民地支配の舞台となったのです。
「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送されたデヴィドスンの労作だが、1992年にジンバブエで暮らしたとき、この歴史映像の延長上で生きる人たちとしばらくでも過ごして、何とも言えない気持ちになった。戻ってから半年ほどは、誰にも会いたくない、何も書きたくないという気持ちが強かった。「今しか書けませんから」と出版社の人に薦められて一年ほどでその時の滞在記をまとめたが、結局は本にはならなかった。いずれ出版するとして、先ずメールマガジンに連載しませんかと言われて、2年ほどかけて連載を続けた。
ハラレの白人街