つれづれに

つれづれに:50代オーバーワーク

 50代半ばにも、体のSOSがあった。30代の後半に初めて専任になったときと比べて仕事量がずいぶんと増えていたのと、身体の衰えのカーブが急になったことが原因だった。小説を書く空間は大学がいいと思って準備を始めて7年かかって、何人かの人にお世話になって何とか空間を確保した。国立大の医学部で、研究室も研究費もあり、授業は25人クラスが週に4コマだった。おまけに、医学部では教授会や委員会はほぼ教授だけでまわす。助教授以下は研究に専念するようにということだったので、授業以外では前期後期の入試問題の作成と採点だけだった。テキストの編註や翻訳で手一杯の時は、授業のある日以外は家でワープロに向かっていた。1年目から学生がよく研究室に来てくれていたが、余り学校に行かないので出講日を狙って部屋に来たので、朝一番の授業も含めて夜の9時くらいまで4組ほどの学生が来た日もあった。赴した最初の給料日に国家公務員の給料の明細を見て、これでやっていけるんやろかと心配になった。辞めて絵を描くようになった妻の給料よりも安かったからである。ただ、1年目の後期から隣の旧宮崎大農学部(↑)に、何年目かからは新設の公立大(↓)の非常勤に行っていたので、いつの間にかそのペースで暮らすようになっていた。

 出版社から次々と要請されて小説を書き出せないでいたが、時間がたっぷりあるだけで充分に満足だった。50代に入って暫くした頃、その生活が一変した。思わず教授になってしまったからである。旧来のべとべとの人事で入れてもらったが、主流派でなかったようでその体制のなかでは教授になる心配はなかった。会議にもでなくていいし、時間さえあればよかったので教授になりたいと思ったことはなかった。医大(↓)は開学当初は派閥争いがないように、九州大、鹿児島大、熊本大系を三分の一ずつに配置したらしいが、十年後に私が行ったときは、九州大系が圧倒的に票を固めていて、我が物顔で私にもとばっちりがあったくらいである。このまま永遠に変わることはないやろと思っていたら、京大出の人が主流派を取り込んで、人事制度を変えてしまった。透明な公募で残った最終候補者3人による講演会を聞いたあと投票して人事を決めるようになったのである。その結果、今まで教授が推薦して助教授を昇進させるという慣例が消えて、外部から新しい教授が来るようになった。英語科には教養の票を減らすために元々教授がいなかったが、九大のごり押しの人事で突然日本語のできない教授が私の上に来た。その人が外国人教師と揉めて任期前に帰国して、私が教授選に出る流れになったらしい。そして、あっさりと教授になってしまった。晴天の霹靂(へきれき)で、50代の半ば手前のことである。

 思わず教授になってしまったが、急にすることが増えた。月一回の教授会に各種委員会に加えて、他の講座との折衝や事務局からの依頼など目に見えない役目がまわってきた。各種員会は基本的には互選だが、執行部から直に頼まれることもある。その結果、断らないで仕事をこなすところに回ってくる。事務局も頼みやすい所に行く。その結果、作成と採点だけだった入試の委員会、国際交流員会、最初はしれだったが、そのうち、広報や評価などのわけのわからない委員会にも行かされるようになった。当然、大学に行く日も増える。最初の借家が居心地悪くなっていたこともあって、大学に近い今の高台(↓)の団地に中古の家を買って引っ越して来た。当時いっしょに暮らし始めていたラブラドールを優先して、気兼ねなく暮らせる家を探した。

加江田の山をのぞむ高台の団地の中の道路

 そのあと、看護学科が出来た。教授の推薦者になってくれた人が準備委員会の長だったので、入試などいろいろ手伝うことになった。それから、統合である。統合の報せは突然だった。それまで双方とも意地でもとうごうするものかという勢いだったが、当時の文科省に両学長が呼ばれ、事務次官に「大学潰すわよ」と言われたと教授会で報告があった。教養科目の全学共同体制が統合の目玉だったので、一般教育の教員には死活問題で、存続をかけて嫌でも渦中に投げ込まれた。一般教育の3人が全学の会議に選ばれた。私は教養と入試と国際交流の会議に出た。1年半、週に一度の会議はきつかった。配られた資料も、事務の人が気の毒と思うほどの量だった。授業の方も看護学科が増え、全学の教養科目が増えたうえに、非常勤講師料が統合でなくなった。踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。更に、統合後、教育文化(↓)の人から、日本語教育支援専修設立のための参加要請があった。教育の人の業績では足りないので、医学科3人に参加して欲しいとのことだった。医学部の同僚が執行部にいたので、そちらにも協力を仰いで、修士課程が出来た。そこでも、授業と論文指導を担当することに。ま、これだけフルに動いていたのだから、身体がもつわけがない。

 最初お腹にきた。毎日1時間ほどトイレに座って、これが痛みなんやと思いながら苦しい思いをした。ひと月ほどしたとき、下血があった。鮮やかだったので、腸からの出血のようだった。今なら避けたような気もするが、這う這うの体で大学の附属病院(↓)の内科に行った。ほとんどが顔見知りで、担当してくれた元学生が内視鏡をみながら、ポリープがありますね、取っときましょかと言った。ぼーとして、詳細は覚えていない。あとで、玉田さん、腸に気をつけて下さいよと同僚の解剖医から言われた。生体組織検査をしてくれてたんだろう。

 とにかく、仕事量を減らす、しっかりと食べて、歩く、その方針でSOSに対処した。教授会は欠席、委員会も出来るだけ行かない、研究室にいる時間を減らす、そんな風に変えた。元々教授会はでるものとは考えていなかったし、今日は欠席ですと言うだけで、理由を言わなくてよかった。あれから、20年になるわけだ。そのあと、学部の要請で海外実習のたもの実践講座(↓)を始め、看護学科と病院看護部、それに事務部も併行して実施したり、全学の新学部設立のために動いたり、学部長や学長人事に巻き込まれて、違う意味で大変な20年だった。今回のSOSも当然と言えば当然の結果である。出来ることはしたい。

タイのソンクラ大からの最初の交換学生と6年生

つれづれに

つれづれに:オーバーワーク

 今回腸腰筋を痛めてひと月ほど動けなくなったが、過信する私に対して警告してくれた体のSOSである。体の衰えとオーバーワークが主な原因である。今年75歳になるので、70代半ばのオーバーワークと言うところか?20代半ばと50代半ばにも同じような経験をしているので、それぞれ大きな節目だった気がする。この先どこまで続くのかはわからないが、3回の体のSOSを精査してみるのも悪くない、いい加減に観念せえよなと、書いているとそんな気になってきた。

65歳で定年退職したあと、まだ宮崎にいた。退職前に同僚から千葉に新設予定の看護大の専任の話があったからである。ただ、文科省の認可が下りるのが一年先ということだった。医学英語と教養科目を生かせるところがどこかにあれば一番よかったが、行く行くは吉祥寺の娘の近くに住むつもりだったし、看護の英語も継続できるというところで折り合いをつけていた。

医学用語テキスト

 1年は宮崎にいると聞いた学部長から、裁量経費を200万出すので手伝って欲しいと言われた。総務が経費から担当する授業のコマ数を計算したら、かなり多かった。名誉教授の非常勤の単価が通常の3分の2程度だったからである。同じ時期に異動した仲の良かった同僚は親しい同僚から非常勤の単価が安いと教えてもらって名誉教授の申請をしなかったらしい。10年いれば申請可能らしかった。私の場合は、親しかった総務の人が気を回して先に書類を持ってきてくれたので、断れずに申請書に記入した。非常勤の講師料のことは知らなかった。終身、メールアドレスと図書館を利用できますということだった。本学の図書館(↓)に聞いて見ると、私費でなら資料は取り寄せられますと言われた。見せると疑われそうなぞんざいな身分証明書をもらったが、使ったことはない。医学科の人事は前の人が退職してから決めるので、一年はブランクがある。医学用語にすぐに対処して担当できる人を探すのも難しいし、ちょうどよかったのだろう。結局、医学科と看護学科の授業はそのままで、3年生の海外での研究室配属の面接と、病院看護部と事務職員向けの実践講座を持った。医学科の海外実習に向けての英語講座を学部から頼まれたとき、看護学科と病院看護師と事務職員用の講座も同時に進める必要性を感じて、事務長に直接談判して予算をつけていた。その講座をまた持つことになるとは思ってもいなかったが。後期からは、その年から始まったカリキュラムの改悪の症状が出て、前期で学士力発展科目を履修出来ない1年生のために退職前にやっていた教養科目を非常勤で持つようにたのまれた。300人ほどの学生があぶれていた。教養科目は大切だといつも思っているので、2クラスを担当することにした。両方とも200人以上の応募があったが、農学部の大きな部屋が170人ほどだったので、その定員で勘弁してもらった。溢れた学生は、学士力難民と言われていたが、カリキュラムを改変した担当者が教養科目を大切に思っていないための副産物だった。2年次に科目を増やす学部の要請をそのまま受け入れたら、開講科目では捌(さば)き切れないのは目に見えていた。教員の自主性を重んじる全学無責任体制で元から担当希望者が少ないのに、専門以外の教養科目を新たに誰が志願して持つというのか?混乱する事態は予測できるのに、事前に誰も気づかないのは、見ようとしない無関心さが形になって現れただけのことである。

 学士力発展科目は本学のキャンパスで開講されるので、火曜日と木曜日に出かけるようになったとき、農学部(↓)の事務室で顔見知りの教授から「非常勤があって、呆(ぼ)けなくていいですね」と言われた。退職してすることがなくなって呆けるひとが周りに多いので心配してくれたのかも知れないが、定期的に職場に行かなくなっても、結構することは多い。することの内容が変わるだけである。食べることは生きることに直結するので、今までならトーストに珈琲で済ましていた食事が、野菜をたっぷり、胃癖にやさしい粘り気のあるもの、飲む点滴と言われる甘酒、具のたっぷりと入った味噌汁などに変わった。毎回時間をかけて用意している。野菜は専(もっぱ)ら私の担当で、今ならまだ残っているレタス、たくさん生り始めた胡瓜(きゅうり)は庭の畑で賄(まかな)えるし、時々トマトも穫れる。甘酒は米麹(こうじ)を買って、ほぐして炊(た)いた糯(もち)米と混ぜてあとは麹菌にまかせるだけ。しかし、どれも手間と暇がかかる。

 去年植えた苗の株から延びたランナーを植え替えた苺が、口に入る。露地物は味が違うが、虫と競争である。虫も甘くておいしいものは、よく知っている。希釈した酢と焼酎(しょうちゅう)を丹念にかけて虫を追い遣(や)らないと、口には入らない。今年は西瓜(すいか)の苗を8本かって、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↓)の柵(さく)の下に植えた。肥料を丹念に入れる作業は、なかなか手間がかかる。大根の下の方に入れた肥料を掘り起こして、新しく植える胡瓜や茄子(なす)の根元に運ぶのも重労働である。畑が整備された分だけ、身体に跳(は)ね返ってきた。中腰や屈(かが)んでする植え替えの作業などは、腰に来て当然である。

 それに、机に座る時間も長くなった。パソコンを使って書いているので、じっとしている時間も長く、やはり腰には禁物である。「つれづれに」も4月と5月の20日までは毎日更新している。机に座る時間も長く、少し書き溜(た)めたものがあったので、腰が痛くなったあともしばらく更新している。少しばかり筆が走っていたということだろう。1860年を他の国と日本を比較して考えてみたことはあるが、コンゴとエボラの連載を書きながら、自分が生きた1949年から今までと比較して書いて見るのもおもしろいかも、エボラとコンゴ以外に、南アフリカ、エイズの一塊(かたまり)を精査して、自分の生きた時代と比較してみるのもおもしろいかも、と枠組みが頭の中で広がっていった。自然と書く筆も滑らかだった。筆といっても実際はパソコンの画面上だが。気がついてみると、腰に違和感を感じていたというわけである。30分したら、立って歩いてよ、合間にラジオ体操してよと何度も妻が言ってくれていたのに、本当に懲(こ)りないというか、愚かしいというか?ええ加減に観念せえよ、ほんまに。

1995年のCNNニュース

つれづれに

つれづれに:腸腰筋

 腸腰筋を痛めた。なかなかきつかった。50代の半ばに腸の調子が悪くなって、毎日トイレに座りながら、これが痛みなんやと思った時以来である。その時は痛みがひと月ほど続いたが、今回の痛みも相当で、期間もほぼ同じ程度である。違う種類の痛みを一月ずつ味わったわけである。まだ左腰の辺りに少し痛みが残っているが、だいぶ楽にはなっている。

腸腰筋は腰椎から始まる大腰筋と骨盤上部から始まる腸骨筋からなっていて、腰から太ももの付け根辺りについている。小腰筋もあるが、半数以下の人にしかないらしい。太ももの骨の内側につながり、上半身と下半身をつなぐ大切な筋肉である。今回痛めたのは大腰筋の方である。大腰筋は腰椎のスタイルを保つ役割があり、その筋肉が硬いと動きに制限が生じるために、腰痛を引き起こす。

最初、左腰に違和感を覚えた。何度か同じ個所に痛みを感じたことがあったので、今回も同じような意識でいたら、おおごとになった。最近は可能な限り自転車で週に一度手入れをしてもらいに行っているから、今回も腰が少し痛いんですけどと言ってから治療を始めてもらった。気を遣って、鍼(はり)も打ってくれ、痛みのある個所を普段よりも丁寧に揉(も)んでくれた。いつもならそれで痛みが取れていくのだが、左の腰から尻の辺りの張りと痛みがだんだんと激しくなっていき、仰向けになって寝られなくなった。週に2度揉んでもらうようにしたが、とうとう仰向けどころか右にも左にもなれずに、一晩じゅう寝られない状態になった。堪(こら)えきれずに、定休日を承知で無理をお願いした。遠出してすぐには戻れないようだったが、夕方に車で迎えに来てくれて治療室まで行って揉んでもらえた。帰りは、座席に座っていられず、後ろの座席で横向きに寝たままだった。車から降りて家の中まで歩くのも、きつかった。座ることもできないのでパソコンも使えず、書けなかった。

峠を越したある時期から、その痛みが和らぎ、だいぶ楽になっている。距離が長くなければ、自転車で買い物にも行っている。あとは1時間ほどの散歩が出来、机に向かって座って書けるようになり、自転車で白浜(↓)まで行ければ、通常に戻る。書く方は、先に何とか始めることにした。

 1時間ほど歩き、自転車で買い物やマッサージに通う日常をいつも感謝しながら実感しているが、こんなことがあると、余計にその思いが強くなる。3ケ月に一度の検診と1か月に一度のズームの集まりも1か月延期してもらった。

原因は、オーバーワークと年齢に対する自覚のなさである。動けなくなるほどの痛みは体からの強烈なSOSだから、それまでやっていた内容を変える必要性に迫られているわけである。しかし、まだ大丈夫だろうという根拠のない無意識の慢心を拭(ぬぐ)えないのが愚かしいところである。年とともに体は衰えていくのだから、年相応に対処するのも当然だ。しかし実際には、前には出来ていたのにという弁解がましい過信が邪魔をする。特に元々体が強い場合は尚更で、困ったものである。痛みに苦しんでいる間に6月になり、カレンダーの更新も出来なかった。紫陽花(あじさい)もすでに枯れ、そろそろ梔子(くちなし)も終わろうとしている。

<猫(Mちゃん)とデルフィニウム> (4号)

つれづれに

つれづれに:関門橋

2023年11月9日宮崎日日新聞から

 「関門橋、本州結び半世紀」の昨年1月の新聞の切り抜きをみて、初めて関門橋があるのを知った。1973年11月14日に開通された立派な橋(↑)である。明石海峡大橋などの長大つり橋の先駆的な存在だったらしい。学生の頃に「関門海峡を渡ってみるか?」とふと思い着いて、友人を誘って出かけたが、渡ったのは海底を通る「関門国道トンネル」だったのである。海底トンネルは58年に開通したらしい。1970年の安保再改定の年に入学して、行ったのが2年目か3年目だから、関門橋が開通される前だったわけである。工事が行われていたはずだが、見た記憶はない。行ったのがもう少しずれていたら、関門橋のつり橋から関門海峡を自転車の上から眺めながら、九州に渡っていたのは間違いない。

いつも自転車に乗っていたが、特にサイクリストというわけでもないので、スポーツサイクリング車とは関わりがなかった。1時間に20キロ、1日に200キロ、関門海峡まで600キロか800キロか知らんけど、何日かで着くやろ、そんな程度の計算をして出かけた。今なら人を誘わず一人で行くが、一人で自転車というのは初めてだったし、長距離も初めてだったので、ま、誘ってみるかと、いっしょにバスケットをしていた同級生を誘った。

岡山城の後楽園に自転車を置き、岡山城に登った。10年ほど前に、高校で担任をした人が岡山から息子さんを連れて、ある日突然訪ねて来てくれたので、お返しに神戸に行ったついでに足を延ばしたのである。自転車を停めた場所を思い出しながら写真を撮った。

 倉敷にも寄った。一角だけ古風な街並みがあって、たしか美術館に入った気もする。そのとき読んでいた作家の書いた『心のふるさとを行く』の中に入っていたのも、立ち寄った理由である。尾道が坂の多い街だとは知らなかった。広島では川の側のホテル横でテントを張ったが、蚊はいなかった。川に海水が流れ込んでいたのかも知れない。防府はその年に入部して来た女子部員の家に立ち寄ったあと、佐波川でテントを張った。川はあかん、蚊だらけや、テントを張る間にようさん噛まれた、大変だった。

種田山頭火のふるさと、という番組だったか?

 国道を通っていたら、そのまま海底トンネルに入って行った。脇の細い自転車道を通って、一気に渡った。九州だった、ようである。この時点で、目的は達成された。

海底トンネルの中

 チームメイトは神戸市第1学区の2番手の高校から志して入学していたので、いくところがなくて通い出した似非(えせ)夜間学生の私とは代物(しろもの)が違う。真面目な優等生である。生きても30までかと斜交(はすか)いに構えながら、中学生のバスケットのコーチをやり始めたら授業に行けなくなって留年、などということもなく、4年でしっかりと卒業して大手の電気メーカーに就職している。就職後しばらくして英米学科法経商コースで学んだことや英語を実際の就職で生かしていたわけだ。

海底トンネルはあかん。自転車の荷物は重たいし、出るまで車の音はゴォーーーーーーーーーッと半端やないし、自転車には最悪である。それに、今ほど自動車の排ガスにうるさくなかったはずだから、空気の汚れ方も酷かったと思う。関門海峡に行ってみるかと思って行ったのに、トンネルの記憶が強かったせいか、→「関門海峡」を見た記憶がない。帰りの記憶もない。たぶん、小倉から神戸行きのフェリーに乗った確率が高い気がする。

海底トンネル入り口