つれづれに

つれづれに:どくだみ

 一昨年(おととし)、どくだみ液を作った。娘から、知り合いにいろんな野草を工夫して生活に生かしている人がいるよと聞いて、どくだみ?いっちょ、僕も真似(まね)て作ってみるかという気になった。今はインターネットで検索すれば、大抵のことはわかる。検索してみると、肌にいい液が作れると書いてあった。それまで雑草としてしか見ていなかった。北側の庭一面に生えて、夏には中に踏み込めないほどだった。電気メーターの検針に来てくれる人に、申し訳ないなあと何度も思ったことがある。それくらい、生い茂る印象があった。

 したがって、材料は家の庭で難なく調達できるわけである。採ったどくたみをきれいに洗い、2~3日陰干ししてから大き目の瓶の中で日本酒に浸けるらしい。中くらいの瓶にほどよいどくだみ液が完成した。去年は噴霧用の小さな瓶にいれて、あせもらしきものが出来るとよく塗ったが、今年はあまり使っていない。粘り気があって、少し特有の臭いがするせいかも知れない。

 どくだみは多年草で、本州、四国、九州、沖縄,台湾、中国、ヒマラヤ、ジャワに分布しているらしい。山野や庭などで普通に見られ、淡黄色の花が咲く。花は白い花弁状のもので保護されている。
日本三大民間薬の一つで、解毒薬として有名らしい。生の葉を腫れ物に外用するとよく効き、蓄膿(ちくのう)症には葉の汁を鼻に挿入するといいと言われる。傷には煎液で洗浄し、洗眼薬にも使われる。乾燥すると解毒作用は失なわれるが、通便、降圧、利尿用にドクダミ茶を飲んでいる人も多く、ティーバックも市販されている。皮膚病や痔にもいいらしいので、私は肌に使う液を作ったわけである。
てんぷらにして食べるところもあるらしい、東南アジアの一部では、生の葉をサラダにいれて食べるという。煎液で茄子(なす)の種子を処理すると、発芽が促進できるとあったので、試してみるか?
江戸時代の「大和本草」には、「10種類の効果を有しているから十薬」と書かれ、中医学では解毒・消腫(浮腫をとる)・清熱(身体の余分な熱をとる)・利水(水分代謝をよくする)の効果があるとされる。民間では面皰(にきび)・鼻炎・湿疹・便秘などに煎じた茶を飲用したり、生の葉が外用で使用されてきている。独特の香りはデカノイルアセトアルデヒドという物質によるものらしい。乾燥すると香りは消える。生葉に含まれる精油成分のアルデヒド類による抗菌作用や、乾燥葉にも含まれるフラボノイドによる抗菌・抗炎症・利尿・毛細血管強化作用などの研究が進んでいるらしい。

 土の中に茎や根が残っていると再び生えてきてしまうほど生命力が強い植物で、雑草と思われる傾向が強い。除草剤や防草シートなどを使わずできるどくだみ対策を紹介している人がいた。その人は、ほぐした土やどくだみの茎や根に腐葉土をかけて混ぜ込む作業を複数回行っている。蚯蚓(みみず)や微生物が食べたり、分解したりしてくれるらしい。かつては地面を覆わんばかりに繁殖していたどくだみに代わって他の植物が元気に生えてくるらしい。その動画が紹介されている。蚯蚓の力は偉大である。庭の畑でも、できるだけ蚯蚓が住めるように苦心している。

最近は、風呂にどくだみを浮かべている。3月の半ばから11月くらいまでは何とか調達できる。20本前後を摘んで来て、きれいに洗い湯船に放り込むだけである。慣れると、ないと寂しい感じがする。きっと、肌にいいんだろう。どくだみを摘んでも、誰にも文句を言われないのがいい。毎日のどくだみ風呂は、快適である。

つれづれに

つれづれに:7月も半ばを過ぎ

<犬(つむぎちゃん)とひまわり> (3号)

 腰を痛めて大変な思いをしている間に、7月も半ばを過ぎている。だいぶ普段通りの生活が出来るようになった。痛みも左の太腿(ふともも)と下半身に感じるだけとなっている。自転車に乗ったり、しばらく歩いたりすると痺(しび)れの感じがやや強くなるが、生活にさほど支障は出ない。俯(うつぶ)せにも仰向けにも、左向きにも右向きにもなれず、寝られなかった状態からすれば、奇跡の復活である。今日は初めて、生産者市を覗(のぞ)いた帰りに、木花神社に自転車をとめて、階段の登り降りをした。99段あるが、下の20段ほどを何回か上り下りした。東側にあって3時過ぎだったので日影の部分も多く、陽射しを気にせずに登り降りが出来た。

 カレンダーも7月になっている。絵は東京の人が注文して下さったつむぎちゃんである。今年は是非とも本人が個展に行けるように、娘も準備をしてくれている。コロナの患者がまた増えているので心配だが、3年も本人が行けてないので、何とか行けるのを祈るばかりである。個展にも行けてないのに、注文してもらえるのは有難いことである。何よりの励みにもなる。今年も、何年か個展に来て下さっている人が、初めて注文をして下さった。すべてメールの遣り取りだった。完成した日に画像は送れたが、絵は個展に出して下さるとのこと、居間の飾る位置まで決めて待って下さっている。有難い限りである。

個展会場のルーマー

 辺りはすっかり真夏である。連日36℃-26℃の猛暑が続く。日中に外に出るのも勇気が要る。超早場米(はやばまい)もうすぐ刈り入れ時である。今年は何だ梅雨の前から雨の日が多く、日照時間が短かったから、可能な限り刈り入れ時期を延ばしたいはずである。台風が来たら、倒れて水浸しになるので、その前に刈り入れを済ます必要がある。最近は本業農家が少なくなっているので、土日の作業が多い。去年も台風の前に刈り入れが出来なくて、実った稲が倒れて水浸しになり、そのままになっていた田んぼがあった。折角田起こし、田植え、草刈りをして収穫するはずだったのに、台風の前に人出が手配できなかったのか?刈り入れが無事に終わるまでは、台風との勝負である。

木花神社展望所からの稲田

 腰をやられて今年は駄目かと思っていたが、何とか少しずつ竹を運んで、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく、↓)は出来た。すでに地に這(は)っていた蔓(つる)を、柵に絡(から)ませた。だいぶ勢いづいている。濃い黄色い花も咲き出した。あとは実に生(な)るのを待つばかりである。2年続きで台風の時に傾いてしまったが、今年は木の杭で補強している所もあるので、強風に耐えてくれたら嬉しい。

柵が出来る前の春先

台風で傾いた柵

 オクラも、遅ればせながら大きな葉をつけて、実も生り始めている。油断すると、虫にやられて粘液で丸くなって枯れてしまう。虫にやられた箇所はちぎらないと、葉全体がやられてしまうので、こまめに取り除く必要がある。炎天下の作業は無理なので、夕方西陽(にしび)が建物に遮られて陰になる2時間ほどの間に手入れが必要である。続けるのは、なかなか難しい。胃の壁を守ってくれるねばねばした食べ物の一つで、臭いもなく食べやすい。納豆と山芋に加えて、この時期自前で賄(まかな)える貴重な野菜である。

 渋柿も大きくなっている。一昨年は500個前後、去年はゼロ、極端な2年間だった。今年は300個足らずくらいか、たくさん実をつけている。台風でやられなければ、また干し柿の作業で忙しくなりそうである。

春先の柿

 腰が少し楽になり、椅子に座れるようになって「つれづれに」を再開したが、元のようにはいかず、また書けないままだったが、何とか書いてまた続けるつもりでいる。70代半ばの→「オーバーワーク」の一つの原因は、座ったまま書き詰めだったから、今度はこまめに休憩を取り、妻がしきりに勧めてくれるラジオ体操をしながら書くとしよう。空間が欲しくて大学を探したのに出版社の人と出遭って息つく暇もなく、気がつけば退職していた。医学生の授業の工夫と部屋に来てくれた人たちと話をしている間に、定年になってしまったというところだ。ならば、それを題材にするしかない、そんな思いが強くなった頃に腰をやられた。最後辺りはアングロ・サクソンの侵略の系譜を追っていたが、考えてみれば1949年以降は、私もこの世の中にいたわけである。コンゴや南アフカと思わず生き存(ながら)えてしまった日本と対比して書いてみるか、たくさん書きながらそんなことを思いついた。次回は手始めに、1995である。少し更新まで時間がかかるかも知れない。

<犬(つむぎちゃん)とひまわり>の原画 (3号)

つれづれに

つれづれに:20代オーバーワーク

 今回は20代半ばのオーバーワークである。正確に言うと、20代半ばから30代半ばにかけてのオーバーワークである。青春の無軌道の副産物と言ったところか?20代半ばにかなり無茶をして原因をつくり、30代半ばに耐え切れず強烈な体のSOSが出たというところである。血圧の上が110、下が15で、2ケ月でくも膜下でしたなと言われた。死に損なったということだろう。

10代半ばですでに兆候はあったが、入試のごたごたが終わった頃にすっかりすべてを諦めてしまい、生きても30くらいまでかと思い込んでしまった。退官前のゼミの担当者(↑)に「余生はながすぎますよ」と言ってみたら「玉田くん、その年でそんなこと言っちゃいけませんよ」と言われた。そののち、横浜で出版社の人にあったときに「余生が長すぎますよ」と言ったら、「ながいですね」と当たり前のように言われた。

斜交(はすか)いに構えながら余生がながいなあと生き急いでいるときに、いきなり母親から借金を言われて、どろどろの世の中に引きずり戻された。周りの友人5人に20万ずつ借りたが、返す手立てもなかった。執拗(しつよう)に母親を急き立てて返してはみたが、人に金を借りてまで生きてはいけないと心底思った。大切な人を失った。取り敢えず、定収入を得る道を考えた。スーツを着て就職活動は思いつかず、教職の免許は取れそうだったので、高校の教員採用試験を受けることにした。きりぎりの折り合いである。

教員をした高校

 英米学科だったが、英語はしてなかったので、準備が必要だった。ちばてつやの俺は鉄兵というまんがを思い出す。東大を出て大蔵官僚をしていた父親が名家を捨てて家出したとき、リヤカーに紛れ込んでいた幼い主人公が野放図に育ったあと発見されて、父子で帰宅。ひょんなことから剣道をすることになってのめり込む。負けた相手のいる進学校に入ることを決意。受験勉強を始めて根をつめる主人公に「そんなに急に詰め込まなくても」と気遣(づか)う母親に「大丈夫、頭の方は詰め込んでも大丈夫だから」という場面である。1年間、英語漬けだった。留年して6年のときに試験だけは受けてみたので、英語が読めて書ければ大丈夫と感触は得ていたので、あとは読んで、書く、その作業だけだった。毎日18時間くらいは、座っていた。今から思うと、よくも体がもったと思うが、最後のころは頭がしびれているのに、寝転がって背を屈(かが)めて本を読んでいた。6年間、高校で運動をしなかった反動でバスケットにかかわって体を酷使した。それが、ぴたっとやめて座り続ける毎日になったのだから、身体もびっくりしただろう。寒い中で暖房も使わずに、木刀を振って体を温めた。宮本武蔵にでもなったつもりだったか。体にいいはずがない。作られていた毛細血管が少なくなり、血の巡りが悪くなったのは間違いない。いいか悪いかはわからないが、行った夜間が英米学科で、教員免許が英語だった、競争相手が偏差値の高くない教育系だった、それに同和に絡(から)んだ高校紛争で荒れていた、のが幸いした。高校の教員になった。そのあと、思わず結婚をして子供が出来、母親の借金をたくさんもらって、非常勤を掛け持ちしているときに、体のSOSがあった。頭のてっぺんまで痺(しびれ)、背中に鉛を入れているような毎日だった。髪の毛の半分は白髪になっていた。

非常勤と嘱託(しょくたく)講師で世話になった大阪工大

つれづれに

つれづれに:50代オーバーワーク

 50代半ばにも、体のSOSがあった。30代の後半に初めて専任になったときと比べて仕事量がずいぶんと増えていたのと、身体の衰えのカーブが急になったことが原因だった。小説を書く空間は大学がいいと思って準備を始めて7年かかって、何人かの人にお世話になって何とか空間を確保した。国立大の医学部で、研究室も研究費もあり、授業は25人クラスが週に4コマだった。おまけに、医学部では教授会や委員会はほぼ教授だけでまわす。助教授以下は研究に専念するようにということだったので、授業以外では前期後期の入試問題の作成と採点だけだった。テキストの編註や翻訳で手一杯の時は、授業のある日以外は家でワープロに向かっていた。1年目から学生がよく研究室に来てくれていたが、余り学校に行かないので出講日を狙って部屋に来たので、朝一番の授業も含めて夜の9時くらいまで4組ほどの学生が来た日もあった。赴した最初の給料日に国家公務員の給料の明細を見て、これでやっていけるんやろかと心配になった。辞めて絵を描くようになった妻の給料よりも安かったからである。ただ、1年目の後期から隣の旧宮崎大農学部(↑)に、何年目かからは新設の公立大(↓)の非常勤に行っていたので、いつの間にかそのペースで暮らすようになっていた。

 出版社から次々と要請されて小説を書き出せないでいたが、時間がたっぷりあるだけで充分に満足だった。50代に入って暫くした頃、その生活が一変した。思わず教授になってしまったからである。旧来のべとべとの人事で入れてもらったが、主流派でなかったようでその体制のなかでは教授になる心配はなかった。会議にもでなくていいし、時間さえあればよかったので教授になりたいと思ったことはなかった。医大(↓)は開学当初は派閥争いがないように、九州大、鹿児島大、熊本大系を三分の一ずつに配置したらしいが、十年後に私が行ったときは、九州大系が圧倒的に票を固めていて、我が物顔で私にもとばっちりがあったくらいである。このまま永遠に変わることはないやろと思っていたら、京大出の人が主流派を取り込んで、人事制度を変えてしまった。透明な公募で残った最終候補者3人による講演会を聞いたあと投票して人事を決めるようになったのである。その結果、今まで教授が推薦して助教授を昇進させるという慣例が消えて、外部から新しい教授が来るようになった。英語科には教養の票を減らすために元々教授がいなかったが、九大のごり押しの人事で突然日本語のできない教授が私の上に来た。その人が外国人教師と揉めて任期前に帰国して、私が教授選に出る流れになったらしい。そして、あっさりと教授になってしまった。晴天の霹靂(へきれき)で、50代の半ば手前のことである。

 思わず教授になってしまったが、急にすることが増えた。月一回の教授会に各種委員会に加えて、他の講座との折衝や事務局からの依頼など目に見えない役目がまわってきた。各種員会は基本的には互選だが、執行部から直に頼まれることもある。その結果、断らないで仕事をこなすところに回ってくる。事務局も頼みやすい所に行く。その結果、作成と採点だけだった入試の委員会、国際交流員会、最初はしれだったが、そのうち、広報や評価などのわけのわからない委員会にも行かされるようになった。当然、大学に行く日も増える。最初の借家が居心地悪くなっていたこともあって、大学に近い今の高台(↓)の団地に中古の家を買って引っ越して来た。当時いっしょに暮らし始めていたラブラドールを優先して、気兼ねなく暮らせる家を探した。

加江田の山をのぞむ高台の団地の中の道路

 そのあと、看護学科が出来た。教授の推薦者になってくれた人が準備委員会の長だったので、入試などいろいろ手伝うことになった。それから、統合である。統合の報せは突然だった。それまで双方とも意地でもとうごうするものかという勢いだったが、当時の文科省に両学長が呼ばれ、事務次官に「大学潰すわよ」と言われたと教授会で報告があった。教養科目の全学共同体制が統合の目玉だったので、一般教育の教員には死活問題で、存続をかけて嫌でも渦中に投げ込まれた。一般教育の3人が全学の会議に選ばれた。私は教養と入試と国際交流の会議に出た。1年半、週に一度の会議はきつかった。配られた資料も、事務の人が気の毒と思うほどの量だった。授業の方も看護学科が増え、全学の教養科目が増えたうえに、非常勤講師料が統合でなくなった。踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。更に、統合後、教育文化(↓)の人から、日本語教育支援専修設立のための参加要請があった。教育の人の業績では足りないので、医学科3人に参加して欲しいとのことだった。医学部の同僚が執行部にいたので、そちらにも協力を仰いで、修士課程が出来た。そこでも、授業と論文指導を担当することに。ま、これだけフルに動いていたのだから、身体がもつわけがない。

 最初お腹にきた。毎日1時間ほどトイレに座って、これが痛みなんやと思いながら苦しい思いをした。ひと月ほどしたとき、下血があった。鮮やかだったので、腸からの出血のようだった。今なら避けたような気もするが、這う這うの体で大学の附属病院(↓)の内科に行った。ほとんどが顔見知りで、担当してくれた元学生が内視鏡をみながら、ポリープがありますね、取っときましょかと言った。ぼーとして、詳細は覚えていない。あとで、玉田さん、腸に気をつけて下さいよと同僚の解剖医から言われた。生体組織検査をしてくれてたんだろう。

 とにかく、仕事量を減らす、しっかりと食べて、歩く、その方針でSOSに対処した。教授会は欠席、委員会も出来るだけ行かない、研究室にいる時間を減らす、そんな風に変えた。元々教授会はでるものとは考えていなかったし、今日は欠席ですと言うだけで、理由を言わなくてよかった。あれから、20年になるわけだ。そのあと、学部の要請で海外実習のたもの実践講座(↓)を始め、看護学科と病院看護部、それに事務部も併行して実施したり、全学の新学部設立のために動いたり、学部長や学長人事に巻き込まれて、違う意味で大変な20年だった。今回のSOSも当然と言えば当然の結果である。出来ることはしたい。

タイのソンクラ大からの最初の交換学生と6年生