つれづれに

つれづれに:銃創

 日本は銃社会ではないので、銃による傷、銃創をみかけることは少ない。しかし、アフリカでも紛争地帯と言われるところでは武器として銃などが使われるので、当然銃創の手術も必要となる。キサンガニの診療所でも、反政府軍の兵士(↓)が担ぎ込まれて、大手術となった。銃社会アメリカに住むカーターは近くに下町のあるシカゴの救急の専門医なので、もちろん銃創手術の経験もある。しかし、医療器具もまともに揃っていない病院での手術は初めてだった。キサンガニの診療所は紛争地域に近いので、反政府軍がしょっちゅう送電線を切断する。緊急手術のために発電機をまわすが、燃料が長くは持ちそうにない。いつ電気が切れるかも知れない中での手術だった。

 インド人のNGO現地医師が手術の指示を出していた。ここでの経験が豊富だったんだろう。カーターが手術した患者は、左胸に銃弾を受け弾は肺と腹部を貫通して大腿骨(だいたいこつ)を砕いて止まっていた。女性医師は「資源の無駄使いだわ」と言いながら開腹して銃弾を取り出した(↓)あと、銃の型と特徴を解説している。

 「完全装甲のライフル弾よ。狙撃用ね。ドラグノフ銃は800メートルから殺害可能、内臓も破壊」

「死んでも当然か?」と食い下がるカーターに「時間をかけてもいずれは死ぬ。自家発電は4時間で、重症患者が3人もいるの。そっちが終わったら戻ってくる」と言い残してその場を離れていった。

 ワクチン接種に出かけたマテンダの診療所では生き残った政府軍の兵士を治療した。手術は成功して安静が必要だったが、反政府軍に見つかれば殺されるのを知っていた兵士は、軍に戻ると必死に訴える。しかし、結局はその兵士は反政府軍に発見されて、至近距離から銃で撃ち殺されてしまった。カーターも額に銃を突き付けられた(↓)が、最後まで諦めずに兄の手術をしてくれた医師だと弟がリーダーに耳打ちしたので、辛うじて命だけは取り留めた。コバチュは医師は中立だと訴えたが、紛争地域では中立さえも成立しないのである。コバチュと補助員の2人は、手術した患者を放ってはおけないからと、しばらく反政府軍に壊されたクリニックに残って患者の治療に当たることにした。カーターと看護師はキサンガニの診療所に戻ることになったが、カーターにとってもまさに→「『悪夢』」の連続だった。

つれづれに

つれづれに:診療所

 アメリカNBCのテレビドラマシリーズ『ER緊急救命室』(↓)の→「『悪夢』」は、もちろん架空のものだが、いろいろと想像を膨らませてくれる。『ER』は海外での臨床実習に行く医学生にだけでなく、一般の学生にもアフリカの現状を知る生きた素材である。想像力を広げてくれる。すでに読んだ「1995年のエボラウイルスの発生によって、再び世界中がザイールに目を向けるようになった」という→「ロイター発」の新聞記事にも、モブツの独裁でザイール社会全体が想像できないほど悲惨な事態に陥っていることを報じていた。医療施設についても、一部言及されている。

 「『医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。』とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディのスポークスマン、ランバエルト・メンデは言いました。ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍の対応に追われています」

私がいつも世話になっている小さなクリニックや、最近出かけた大学病院などの日本の医療が当たり前になっている人間からみたら、別世界である。この流行がある前に家族でしばらくコンゴの南東部からそう遠くないジンバブエの首都ハラレで暮らしたとき、医療についての噂は聞いていたので、病院にかからなくても済むように毎日細心の注意を払った。おかげで行かなくて済んだが、体験する機会を失ったので残念な気持ちもある。行く前に、バングラデシュの留学生とよく英語でしゃべったが、その人がジンバブエにいる従弟の医師に問い合わせてくれた。本国では内科医で、国費留学生として高血圧の研究に来ていた。残念ながら、すでに南アフリカに異動したらしかった。マンデラが釈放された直後の激動期だった。その時期の病院を見るいい機会を逃したのも心残りである。懇意になったジンバブエ大学の英語科の人が「田舎でエイズのドキュメンタリーを作ったけど、ヨシ、見てみるか?」と誘ってくれたのに、機会を逃したのも心残りである。

 キンシャサから→「エイズハイウエィ」で北東部のキサンガニ(↑)に到着したとき、カーターは圧倒された。暗い中に病院の外にも患者が溢れかえっていたのからある。翌朝病院に案内してくれたインド人の女医が簡単に医療事情を解説してくれた。二人(↓)の遣り取りである

「仏語が苦手なら通訳をつけます‥‥ここはとてもシンプル、発熱と咳(せき)は肺炎でコトリモウサゾールを。発熱と下痢(げり)はコレラで点滴とドキシサイクリン。患者が無痛で熱があればマラリアでファンシダール。感染症を繰り返して日々衰えていればエイズで、家族に告知する」

「使える薬は?」

「アモキシシリン、ドキシサイクリン、ファンシダール、メトロナイダゾール、クロラムフェニコール‥‥」

「安いから?再生不良性貧血は?」

「新生児はほとんど1年で死ぬ。貧血などは問題外。抗生物質はアンピとゲンダ、ペニシリン」

「ユナシンやシプロは?」

「ない」

「抵抗性の菌には?」

「お祈り」

患者は200人、オペ室は2つ、医師がカーターも入れて4人、看護師が5人。扉を開けて、カーターはまた圧倒された。人でごった返していたからである。「ここは何病棟?」の質問の返事が「受け付けよ」(↓)だった。

 最初に診た患者は少女(↓)だった。看護師に「熱は40度で頭痛、下痢と咳はない」と言われて触診した。

「黄疸(おうだん)も出ている。ファンジダール?」

「そうね。2錠」

「これで治るよ。あの娘は入院が必要?」

「ただのマラリアじゃねえ」

 父親が抱きかかえてきた少年(↓)はポリオだった。排尿障害と熱と咳があって来院した。腰椎穿刺(ようついせんし)などの検査をせずに、看護師が膀胱(ぼうこう)不全麻痺、前傾姿勢で呼吸補助筋を使う呼吸、筋肉で頭部をささえられない状態を確認して小児麻痺(ポリオ)という診断を出した。カーターを睨(にらむ)父親の目が鋭い。

 ある日、道路封鎖が解かれたので、更に小さなマテンダの診療所にワクチンの接種にいくように誘われた。国際電話でボランティアを誘った同僚がすでに出向いていたので、看護師1人を同伴して行くことに決めた。政府軍と反政府軍が戦闘を繰り広げている危険地帯だった。

マテンダの診療所に着いたとき、すでに患者が列をなしていた

つれづれに

つれづれに:エイズハイウエィ

 広大なアフリカ大陸の赤道に近いところを走る高速道路の話である。西端の首都キンシャサとケニア東海岸の港町モンバサを繋(つな)ぐ道路である。

英語の授業で一般教養と医学を繋ぎたいと考え→「エボラ出血熱」から始めたら、思わぬ視界が開けた。映像や歴史を探していると、国全体が想像以上に大変な状況にあると知った。モブツの長年に渡る独裁で、ザイール社会には賄賂(わいろ)が横行し、経済は破綻(はたん)して、エイズにエボラが追い打ちをかけて医療施設は散々だった。手袋やマスクなどの必需品さえも絶対的に不足していた。

1995年のCNNニュース

 1995年の1回目のエボラの流行に、同年のアメリカ映画→「『アウトブレイク』」(↓、→「音声『アウトブレイク』」)とリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』(Hot Zone)が大きく影響していると知って、どちらも手に入れた。ページを開いてみると、『ホット・ゾーン』にコンゴの地図が挿入(そうにゅう)されていた。その地図で、初めてエイズハイウエィの言葉を知った。アフリカにエイズ患者が出始めたのが1985年くらいだから、10年ほどで地図に書かれるほど言葉が定着していたと言うことだろう。長距離トラックの運転手が先々で買春をしてHIV感染の拡大の要因になっているというわけだが、ベラルーシでの話を読んだ時、ベラルーシ?と思ったことがある。政情の不安定なところの方が感染率が高かったのは無理からぬ話だろう。

 医学部の図書館に文献依頼を出したら、すぐに本が届いた。見ると、宮崎県立図書館の蔵書印が押してあった。英文なので、へえー、誰が購入依頼したんやろ?とふと思ったのを覚えている。その時は、最初の20ページほどと2ページにわたる地図のページをコピーさせてもらった。地図はB4サイズで印刷して、毎年授業で配った。20ページの方は、希望者がいればコピーを渡した。そこには1976年にCDC(米国疾病予防センター、↓)の医師2人がヤンブクの教会に派遣されたときの詳細が記されていたので、医学生にも役に立ちそうな気がしたからである。レベル4のウィルスの初動操作を間違えればどれだけ感染が広がるかが書かれていたし、→「ロイター発」の英文で読んだ賄賂の実態を知るいい機会になると思ったからでもある。医師2人は飛行機や自動車の手配をする時に、賄賂を要求されて大変だったと書いていた。プリントにした原稿は綴(と)じて大事に保管していたが、再任終了時に整理して捨ててしまって、今は手元にない。県立図書館に行けば、コピーはできるが、今日の間には合わない。それでウェブで地図を調べて見たが、描いていたイメージと食い違いがあった。

 実際の道路はこれも想像以上によくない。ERの映像では、空港から北東部のキサンガニに行く途中の道(↓)が映っていた。ハイウェイの言葉とは程遠い。政府軍の車のようだ。東部で出る希少金属をめぐって、政府軍と反政府軍の衝突が絶えない。隣国のタンザニアなどの軍隊も駐留して、一触即発の危険地帯になっている。

 ERの主人公カーターは後部席の義足を見て驚いていたが、窓から見える光景も強烈だった。政府軍と反政府軍の衝突から逃れ、文字通り家財道具を担いで避難中の人がたくさん歩いていた。後に、キサンガニの診療所から派遣された小さな診療所でその衝突を目の当たりにすることになるとは、この時のカーターは夢にも思わなかっただろう。

 出所がどこかはわからないが、ウェブで探してみたが『ホット・ゾーン』の地図は見つからなかった。一番よく出て来た道路地図(↓)である。わかりやすいように、画像はいつもより大きめにして載せている。

 侵略者は収奪したものを運ぶのに大きな道路を作る、北海道の道路は広くてまっすぐでしょう、とよく出版社の人が言っていた。ツングースに追われて北に逃れたアイヌの人たちと南に逃れた沖縄の人たちの彫りの深い顔、あれは縄文人の顔です、とも言っていたのをなぜか思い出した。地図にある緑の線⑧がケニアのモンバサとナイジェリアのラゴスを結ぶ道路である。この線が基幹道路で、ウガンダの首都カンパラ、今回カーターが行った診療所のあるキサンガニ、中央アフリカの首都バンギを経てラゴスに至る。『ホット・ゾーン』のエイズハイウェイの起点キンシャサは、この地図では南アフリカのケープタウンーリビアの首都トリポリ線③の途中にある。カーターが通ったキンシャサーキサンガニ線の道路は、アフリカ全体から見れば基幹道路ではないようだ。今回は地図からコンゴを見てみたが、次回はキサンガニの診療所とそこから出かけた小さな診療所(↓)である。

列をなして患者が待つ小さな診療所に到着

つれづれに

 

2023年11月

 

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