つれづれに

つれづれに:オーバーワーク

 今回腸腰筋を痛めてひと月ほど動けなくなったが、過信する私に対して警告してくれた体のSOSである。体の衰えとオーバーワークが主な原因である。今年75歳になるので、70代半ばのオーバーワークと言うところか?20代半ばと50代半ばにも同じような経験をしているので、それぞれ大きな節目だった気がする。この先どこまで続くのかはわからないが、3回の体のSOSを精査してみるのも悪くない、いい加減に観念せえよなと、書いているとそんな気になってきた。

65歳で定年退職したあと、まだ宮崎にいた。退職前に同僚から千葉に新設予定の看護大の専任の話があったからである。ただ、文科省の認可が下りるのが一年先ということだった。医学英語と教養科目を生かせるところがどこかにあれば一番よかったが、行く行くは吉祥寺の娘の近くに住むつもりだったし、看護の英語も継続できるというところで折り合いをつけていた。

医学用語テキスト

 1年は宮崎にいると聞いた学部長から、裁量経費を200万出すので手伝って欲しいと言われた。総務が経費から担当する授業のコマ数を計算したら、かなり多かった。名誉教授の非常勤の単価が通常の3分の2程度だったからである。同じ時期に異動した仲の良かった同僚は親しい同僚から非常勤の単価が安いと教えてもらって名誉教授の申請をしなかったらしい。10年いれば申請可能らしかった。私の場合は、親しかった総務の人が気を回して先に書類を持ってきてくれたので、断れずに申請書に記入した。非常勤の講師料のことは知らなかった。終身、メールアドレスと図書館を利用できますということだった。本学の図書館(↓)に聞いて見ると、私費でなら資料は取り寄せられますと言われた。見せると疑われそうなぞんざいな身分証明書をもらったが、使ったことはない。医学科の人事は前の人が退職してから決めるので、一年はブランクがある。医学用語にすぐに対処して担当できる人を探すのも難しいし、ちょうどよかったのだろう。結局、医学科と看護学科の授業はそのままで、3年生の海外での研究室配属の面接と、病院看護部と事務職員向けの実践講座を持った。医学科の海外実習に向けての英語講座を学部から頼まれたとき、看護学科と病院看護師と事務職員用の講座も同時に進める必要性を感じて、事務長に直接談判して予算をつけていた。その講座をまた持つことになるとは思ってもいなかったが。後期からは、その年から始まったカリキュラムの改悪の症状が出て、前期で学士力発展科目を履修出来ない1年生のために退職前にやっていた教養科目を非常勤で持つようにたのまれた。300人ほどの学生があぶれていた。教養科目は大切だといつも思っているので、2クラスを担当することにした。両方とも200人以上の応募があったが、農学部の大きな部屋が170人ほどだったので、その定員で勘弁してもらった。溢れた学生は、学士力難民と言われていたが、カリキュラムを改変した担当者が教養科目を大切に思っていないための副産物だった。2年次に科目を増やす学部の要請をそのまま受け入れたら、開講科目では捌(さば)き切れないのは目に見えていた。教員の自主性を重んじる全学無責任体制で元から担当希望者が少ないのに、専門以外の教養科目を新たに誰が志願して持つというのか?混乱する事態は予測できるのに、事前に誰も気づかないのは、見ようとしない無関心さが形になって現れただけのことである。

 学士力発展科目は本学のキャンパスで開講されるので、火曜日と木曜日に出かけるようになったとき、農学部(↓)の事務室で顔見知りの教授から「非常勤があって、呆(ぼ)けなくていいですね」と言われた。退職してすることがなくなって呆けるひとが周りに多いので心配してくれたのかも知れないが、定期的に職場に行かなくなっても、結構することは多い。することの内容が変わるだけである。食べることは生きることに直結するので、今までならトーストに珈琲で済ましていた食事が、野菜をたっぷり、胃癖にやさしい粘り気のあるもの、飲む点滴と言われる甘酒、具のたっぷりと入った味噌汁などに変わった。毎回時間をかけて用意している。野菜は専(もっぱ)ら私の担当で、今ならまだ残っているレタス、たくさん生り始めた胡瓜(きゅうり)は庭の畑で賄(まかな)えるし、時々トマトも穫れる。甘酒は米麹(こうじ)を買って、ほぐして炊(た)いた糯(もち)米と混ぜてあとは麹菌にまかせるだけ。しかし、どれも手間と暇がかかる。

 去年植えた苗の株から延びたランナーを植え替えた苺が、口に入る。露地物は味が違うが、虫と競争である。虫も甘くておいしいものは、よく知っている。希釈した酢と焼酎(しょうちゅう)を丹念にかけて虫を追い遣(や)らないと、口には入らない。今年は西瓜(すいか)の苗を8本かって、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↓)の柵(さく)の下に植えた。肥料を丹念に入れる作業は、なかなか手間がかかる。大根の下の方に入れた肥料を掘り起こして、新しく植える胡瓜や茄子(なす)の根元に運ぶのも重労働である。畑が整備された分だけ、身体に跳(は)ね返ってきた。中腰や屈(かが)んでする植え替えの作業などは、腰に来て当然である。

 それに、机に座る時間も長くなった。パソコンを使って書いているので、じっとしている時間も長く、やはり腰には禁物である。「つれづれに」も4月と5月の20日までは毎日更新している。机に座る時間も長く、少し書き溜(た)めたものがあったので、腰が痛くなったあともしばらく更新している。少しばかり筆が走っていたということだろう。1860年を他の国と日本を比較して考えてみたことはあるが、コンゴとエボラの連載を書きながら、自分が生きた1949年から今までと比較して書いて見るのもおもしろいかも、エボラとコンゴ以外に、南アフリカ、エイズの一塊(かたまり)を精査して、自分の生きた時代と比較してみるのもおもしろいかも、と枠組みが頭の中で広がっていった。自然と書く筆も滑らかだった。筆といっても実際はパソコンの画面上だが。気がついてみると、腰に違和感を感じていたというわけである。30分したら、立って歩いてよ、合間にラジオ体操してよと何度も妻が言ってくれていたのに、本当に懲(こ)りないというか、愚かしいというか?ええ加減に観念せえよ、ほんまに。

1995年のCNNニュース

つれづれに

つれづれに:腸腰筋

 腸腰筋を痛めた。なかなかきつかった。50代の半ばに腸の調子が悪くなって、毎日トイレに座りながら、これが痛みなんやと思った時以来である。その時は痛みがひと月ほど続いたが、今回の痛みも相当で、期間もほぼ同じ程度である。違う種類の痛みを一月ずつ味わったわけである。まだ左腰の辺りに少し痛みが残っているが、だいぶ楽にはなっている。

腸腰筋は腰椎から始まる大腰筋と骨盤上部から始まる腸骨筋からなっていて、腰から太ももの付け根辺りについている。小腰筋もあるが、半数以下の人にしかないらしい。太ももの骨の内側につながり、上半身と下半身をつなぐ大切な筋肉である。今回痛めたのは大腰筋の方である。大腰筋は腰椎のスタイルを保つ役割があり、その筋肉が硬いと動きに制限が生じるために、腰痛を引き起こす。

最初、左腰に違和感を覚えた。何度か同じ個所に痛みを感じたことがあったので、今回も同じような意識でいたら、おおごとになった。最近は可能な限り自転車で週に一度手入れをしてもらいに行っているから、今回も腰が少し痛いんですけどと言ってから治療を始めてもらった。気を遣って、鍼(はり)も打ってくれ、痛みのある個所を普段よりも丁寧に揉(も)んでくれた。いつもならそれで痛みが取れていくのだが、左の腰から尻の辺りの張りと痛みがだんだんと激しくなっていき、仰向けになって寝られなくなった。週に2度揉んでもらうようにしたが、とうとう仰向けどころか右にも左にもなれずに、一晩じゅう寝られない状態になった。堪(こら)えきれずに、定休日を承知で無理をお願いした。遠出してすぐには戻れないようだったが、夕方に車で迎えに来てくれて治療室まで行って揉んでもらえた。帰りは、座席に座っていられず、後ろの座席で横向きに寝たままだった。車から降りて家の中まで歩くのも、きつかった。座ることもできないのでパソコンも使えず、書けなかった。

峠を越したある時期から、その痛みが和らぎ、だいぶ楽になっている。距離が長くなければ、自転車で買い物にも行っている。あとは1時間ほどの散歩が出来、机に向かって座って書けるようになり、自転車で白浜(↓)まで行ければ、通常に戻る。書く方は、先に何とか始めることにした。

 1時間ほど歩き、自転車で買い物やマッサージに通う日常をいつも感謝しながら実感しているが、こんなことがあると、余計にその思いが強くなる。3ケ月に一度の検診と1か月に一度のズームの集まりも1か月延期してもらった。

原因は、オーバーワークと年齢に対する自覚のなさである。動けなくなるほどの痛みは体からの強烈なSOSだから、それまでやっていた内容を変える必要性に迫られているわけである。しかし、まだ大丈夫だろうという根拠のない無意識の慢心を拭(ぬぐ)えないのが愚かしいところである。年とともに体は衰えていくのだから、年相応に対処するのも当然だ。しかし実際には、前には出来ていたのにという弁解がましい過信が邪魔をする。特に元々体が強い場合は尚更で、困ったものである。痛みに苦しんでいる間に6月になり、カレンダーの更新も出来なかった。紫陽花(あじさい)もすでに枯れ、そろそろ梔子(くちなし)も終わろうとしている。

<猫(Mちゃん)とデルフィニウム> (4号)

つれづれに

つれづれに:関門橋

2023年11月9日宮崎日日新聞から

 「関門橋、本州結び半世紀」の昨年1月の新聞の切り抜きをみて、初めて関門橋があるのを知った。1973年11月14日に開通された立派な橋(↑)である。明石海峡大橋などの長大つり橋の先駆的な存在だったらしい。学生の頃に「関門海峡を渡ってみるか?」とふと思い着いて、友人を誘って出かけたが、渡ったのは海底を通る「関門国道トンネル」だったのである。海底トンネルは58年に開通したらしい。1970年の安保再改定の年に入学して、行ったのが2年目か3年目だから、関門橋が開通される前だったわけである。工事が行われていたはずだが、見た記憶はない。行ったのがもう少しずれていたら、関門橋のつり橋から関門海峡を自転車の上から眺めながら、九州に渡っていたのは間違いない。

いつも自転車に乗っていたが、特にサイクリストというわけでもないので、スポーツサイクリング車とは関わりがなかった。1時間に20キロ、1日に200キロ、関門海峡まで600キロか800キロか知らんけど、何日かで着くやろ、そんな程度の計算をして出かけた。今なら人を誘わず一人で行くが、一人で自転車というのは初めてだったし、長距離も初めてだったので、ま、誘ってみるかと、いっしょにバスケットをしていた同級生を誘った。

岡山城の後楽園に自転車を置き、岡山城に登った。10年ほど前に、高校で担任をした人が岡山から息子さんを連れて、ある日突然訪ねて来てくれたので、お返しに神戸に行ったついでに足を延ばしたのである。自転車を停めた場所を思い出しながら写真を撮った。

 倉敷にも寄った。一角だけ古風な街並みがあって、たしか美術館に入った気もする。そのとき読んでいた作家の書いた『心のふるさとを行く』の中に入っていたのも、立ち寄った理由である。尾道が坂の多い街だとは知らなかった。広島では川の側のホテル横でテントを張ったが、蚊はいなかった。川に海水が流れ込んでいたのかも知れない。防府はその年に入部して来た女子部員の家に立ち寄ったあと、佐波川でテントを張った。川はあかん、蚊だらけや、テントを張る間にようさん噛まれた、大変だった。

種田山頭火のふるさと、という番組だったか?

 国道を通っていたら、そのまま海底トンネルに入って行った。脇の細い自転車道を通って、一気に渡った。九州だった、ようである。この時点で、目的は達成された。

海底トンネルの中

 チームメイトは神戸市第1学区の2番手の高校から志して入学していたので、いくところがなくて通い出した似非(えせ)夜間学生の私とは代物(しろもの)が違う。真面目な優等生である。生きても30までかと斜交(はすか)いに構えながら、中学生のバスケットのコーチをやり始めたら授業に行けなくなって留年、などということもなく、4年でしっかりと卒業して大手の電気メーカーに就職している。就職後しばらくして英米学科法経商コースで学んだことや英語を実際の就職で生かしていたわけだ。

海底トンネルはあかん。自転車の荷物は重たいし、出るまで車の音はゴォーーーーーーーーーッと半端やないし、自転車には最悪である。それに、今ほど自動車の排ガスにうるさくなかったはずだから、空気の汚れ方も酷かったと思う。関門海峡に行ってみるかと思って行ったのに、トンネルの記憶が強かったせいか、→「関門海峡」を見た記憶がない。帰りの記憶もない。たぶん、小倉から神戸行きのフェリーに乗った確率が高い気がする。

海底トンネル入り口

つれづれに

つれづれに:混沌(こんとん)

 →「『悪夢』」(↑)の続編である。タイトルは『失われた友を求めて』、悪夢から目覚めたあとの世界である。混沌(こんとん)という言葉が相応(ふさわ)しい。コバチュと補助員をマテンダの診療所に残したままキサンガニに戻ったカーターは、ボランティア活動を終えて帰国した。そして、再びシカゴの救急での忙しい日々が始まった。救急での現実も、マテンダとは違う意味だが、いつも死と隣り合わせである。気を抜けない緊張の日々が続く。ある日、職員の一人(↓)が受話器を取ったら、国際電話のようだった。電波が弱くて、音声がはっきりしない。しかし、緊急を要する案件のようだった。相手は、なかなか電話を切ろうとしない。マテンダでコバチュが死んだという知らせだった。

 ERが日本でも人気があったのは、小児科役のジョージ・クルーニーや、カーター役のノア・ワイリーのようなハンサムな俳優の影響もあるが、しゃれた設定というのもあるだろう。カーターは祖父がカーター財団を持つ大金持ちで、元奴隷を所有していた大農園主の末裔(まつえい)、臨床実習先のシカゴのERでの指導医が元奴隷の末裔で医師のベントン、なかなか気の効いた如何にも公民権闘争を経たアメリカという設定である。同僚たち(↓)は実習生のカーターを見て、みんなで楽しそうに冷やかす。

Dr. ベントン「おー、嘘だろ、見てみろよ!」

Dr. グリーン「オーダーの高級白衣だ」

Dr. スーザン「かわいい」

Dr. ロス「決まってる」

Dr. グリーン「腕はどうかな?」

Dr. ベントン「俺の学生だ」

 カーターはこの態度のでかいベントンに、散散に振り回される。ただ、ベントンは野心家で口は相当悪いが、腕は確かである。指導医に振り回されながらも、ベントンの先輩でもあるグリーンの陰ながらのサポートもあって救急の厳しい状況のなかで、カーターは色々と学んで行く。

 コバチュの訃報(ふほう)を知ったカーターは、金持ちのコネを使ってクロアチアの大使館に情報の確認をして、手当たり次第に顕微鏡や縫合セットや薬や注射針を大きなバッグに放り込んで、パリ経由のその日の便で再びコンゴに戻った。友の遺体を引き取るためだった。キンシャサではアメリカ大使館から紹介された国連や赤十字関係を尋ね歩いたが、成果はなかった。遺体の場所を発見するのは困難を極めた。大使館で、飛行機で隣り合わせになったアメリカ大使館の人を思い出して、訪ねて行く。国連や赤十字の事務所を回った経緯を聞いたあと、その人がカーターに言う。

「では、ドクター・カーター、これはお勧めしてるわけではありませんが、私の長年の経験では‥‥」

 カーターは現金2万ドルを持って、赤十字で働くキサンガニでのボランティア看護師の知り合いを訪ねた。その女性(↓)は赤十字で働いていたが、難しいと言われた。しかし、キブ州の負傷者のために派遣される医師に聞いてみると言ってくれた。

 キサンガニに戻り、そこからの遺体探しは困難を極めた。避難所を回り手懸(が)かりを探していたある日、マテンダの診療所でワクチンを打った少年の父親に遭遇する。そして、死体のある場所に辿(たど)り着く。小屋の中に積まれた死体は腐臭を放っていたが、体格の似た人を見つけた。俯(うつぶ)せになっていた死体を引っくり返すと、コバチュとは別人だった。

 付き添っていた兵士に写真を見せて、食い下がって居場所を聞くと「神父は別の場所に生きている」と、小屋まで連れて行ってくれた。小屋の入り口の側に、足を切断して手術した娘と母親も生きていた。そして、奥にコバチュが向こう向きに横たわっていた。カーターが頸(くび)の脈を取ると、まだ生きていたのである。

 逃げ惑ってマテンダの診療所に戻ったときに反政府軍が来て、コバチュたちも捕らえられた。他で捕らえられた人たちが集められ、女性はレイプされた。男性は一人一人銃殺された。

 最後にコバチュが残ったが、無意識に昔クロアチアで通っていた教会を思い出し、「神父」のように説教を始めたのである。凶暴な兵士も、神父だけは別らしい。コバチュの周りに伏せて、お祈りの姿勢を見せた。

 カーターは失われた友を求めてさ迷ったが、生きた友を見つけて、アメリカに送り返した。そこでは、この世のものとも思われぬ混沌とした世界が繰り広げられていたのである。