つれづれに:武力闘争(2024年8月14日)

2024年8月15日つれづれに

つれづれに:武力闘争

 1960年にアフリカ民族会議(ANC)がそれまでの非暴力を捨て、武力闘争部門民族の槍(ウムコントシズウェ、旗↑)を創設して武力闘争を始めた。最初は人は狙わずに、送電線や建物を標的にする破壊活動を都市部を中心に全国規模で展開した。あちこちで爆発が起こるので、政府は恐怖に感じて、警察や軍隊を総動員して警戒を強めた。すでにANCとパンアフリカニスト会議(PAC)は非合法化されていたので、すべて地下活動だった。ANCは本部を隣国のザンビアの首都ルサカに移し、共産圏のソ連とキューバの支援を受けて、国外から武力闘争の指揮を執った。

PACの創始者ソブクエ(小島けい挿画)

入植者が侵略を始めた時と比べて、武器の需要は桁違いに拡大し、各国は軍備のために多額の予算を使うようになっていた。その間、絶えず戦争を引き起こして、その度に軍備の規模が拡大し、精度も上がっている。

南アフリカでは、1879年ズールー人が→「イギリス人」と戦ったイサンドルワナの戦いでは槍と銃で戦っている。今では考えられないが、戦いの前にお互いに歌ってエールの交換をしている。→「セシル・ローズ」が友人に任せたマタベレ戦争(↓)では機関銃と大砲を使ってマタベレ人を屈服させ、戦いのあと広大な土地と莫大な数の牛を略奪した。

 アメリカは1890年代にフィリピンをスペインの手から主導権を奪ったあと、オキナワ、ソウル、ハノイ、モガジシオを次々と攻め、その後もアフガニスタン、イラン、イラクとペンタゴン(↓)の環太平洋構想を継続している。どこかで戦争をずっとやってきたわけだ。それだけ武器を作り続けたので、軍需産業は国家予算の何割かを占めるようになっている。重工業で家族を養っている人の数は、その分だけ膨大である。

ペンタゴン(アメリカ国防総省)

 無理矢理開国されて、欧米諸国を追いかけた日本は、元々最大の武器保有国であった技術を持っていたので、産業化は加速して、大国の中国と1890年代の日清戦争で、1900年代にソ連と日露戦争で、1940年代にはアメリカと第2次大戦で衝突している。無条件降伏に従って名目上は軍隊を持たないが、自衛隊の軍備は世界で8番目だと言われている。それだけ、国の繁栄が重工業に支えられているということだろう。

1960年にアパルトヘイト政権と長期の通商条約を結んで、南アフリカの人には日本は最大の裏切り国だと思われているが、条約を結んで八幡製鉄(↓)は莫大な利益をあげ、その従業員も給料を得て生活をしていたわけだ。私たちの日常と無縁というわけにはいかない。医学科にいる時はよく学生や教職員と昼を食べに出かけていた。何人かの再入学してきた既卒組と食事に行ったとき、たまたま就職活動の話が出て、東大と九大を出た医学生が新日鉄の話をしていた。二人は方向転換して、医学科に入学してきた。

「あそこは1次を通った人は昼食に呼ばれ、2次に残った人は夕食に招待されるようですね。僕は夕食にはよばれませんでしたけど‥‥」(九大卒)

「僕は夕食に呼ばれたね」(東大卒)

私は受験勉強が出来なかったし、生きても30くらいまでやろと思っていたし、就職活動を考えたこともなかったので、二人の話はもの珍しかった。

 1950年に発足した八幡製鐵株式會社(八幡製鐵所)、富士製鐵株式會社(室蘭、釜石、広畑の各製鉄所と川崎製鋼所)が1970年に合併して新日本製鐵株式會社になり、2001年にその新日本製鉄と住友金属が統合して新日鉄住金なった、と会社のホームページにあった。今は2019年4月に商号を変更した日本製鉄となっているようである。何気ない医学生との話のなかで、かつて南アフリカが一番窮地にあったときに通商条約を結んだ八幡製鉄に関係する話を聞けるとは思わなかった。1988年に、亡命中に亡くなった作家の記念大会に行って発表の前に日本の南アフリカ事情について話をしたことがあるが、大半が北アメリカに亡命中の参加者たちの視線は極めて厳しかった。エコノミック・アニマルと呼ばれている日本からやって来ましたと自嘲気味に話を始めた。初めての経験だった。マンデラが釈放される2年前のことである。通商条約1960と記念大会1988を思う時の胸中は、やや複雑である。

記念大会のゲストの作家夫人