つれづれに:彼岸花(2024年9月14日)

つれづれに

つれづれに:彼岸花(ひがんばな)

小島けい画

 相変わらず暑い毎日が続いている、台風の影響で時に風も強く吹くし、雨も多い。昨日は雨雲が出ていたので、直接の陽にやられずに済むかと清武の量販店に自転車で出かけた。急な坂の道を通れば、30分ほどで着く。これから蒔(ま)く種が主な目当てだった。近くで探したが、どれも400円前後もする。一気に値上がりした。大根、丸莢(さや)オクラ、絹莢豌豆(えんどう)、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)は種も大きいので採りやすいが、レタスは細かいので採りにくい。細葱(ねぎ)とピーマンとブロッコリーはやや微妙だ。葱は葱坊主が出来るまで待てないで取り入れてしまうことが多い。無事、すべて百円台で買えた。

大根の葉は野菜スープに必要なので一年分を春先に取って冷凍しておく。夏場は冬野菜の大根を蒔いてもうまく育たない。保存した葉が切れてしまったので、1回か2回かは買わないといけない。今日種を蒔いたが、すぐに大きくなるわけでもないので。

葱も去年はたくさん冷凍保存したが、1月程前に切れてしまって、2度ほど買って冷凍保存している。冷凍のきく大根葉と葱は去年より多めに保存するとしよう。言うのは簡単だが、手間はかかる。葱を細かく切るのは特に面倒くさい。切って冷蔵庫に入れて、だめにしてしまうことも多い。わかっていても、出来ないときもある。

 行く道で彼岸花が咲いていた。世話になった出版社の人は墓の花だからと嫌っていたが、私は彼岸花をみると必ず山頭火の句を思い出す。

移ってきてお彼岸花の花ざかり

 昭和7年(1932)に山口県小郡町矢足(やあし)の農家を借りて移り住んだ日である。其中庵(ごちゅうあん、↑)と名付けたらしい。移って来た初日の日記の最後にある。父親と財産を潰(つぶ)し、妻と熊本に逃げている。市電に飛び込んでも死にきれず、得度してしばらく堂守(どうもり)をしたが、その後は行乞(ぎょうこつ)の旅にでた。

黒い衣を身につけ、笠をかむり、手には鉄鉢(てっぱつ)を持ち、軒に立って経も読む。僧侶の姿はしているものの、自分は乞食坊主に過ぎないと自覚しての流浪である。愚かな旅人として、水が流れるように、雲が無心に動くように、ただただ大自然にこの身を任せて、ゆけるところまで行こう、その思いで旅を続けた。毎日のように日記をつけ、末尾に句を載せている。しかし自分が嫌になったのか、古い日記を頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて持って歩くのが相当やっかいになったのか、昭和五年(1930)に人吉町あたりで、あっさり日記を焼き捨ててしまった。その日の日記の句である。

焼捨てて日記の灰のこれだけか

 行乞の旅がきつかったのか、昭和七年(1932)に川棚温泉で結庵しようとして失敗、そのあとに其中庵に落ち着いたのである。しばらく、心静かな毎日が続く。入庵の日の日記である。彼岸花の句もある。乞食姿の山頭火を受け入れなかった川棚温泉、山頭火を売りにしている。山頭火が見たら苦笑しそうである。

昭和七年九月廿一日

庵居第一日(昨日から今日にかけて)。

朝夕、山村の閑静満喫。

虫、虫、月、月、柿、柿、曼殊沙華、々々々々。

・移ってきてお彼岸花の花ざかり

・蠅も移って来てゐる‥‥

近隣の井本老人来庵、四方山話一時間あまり、ついでに神保夫婦来庵、子供を連れて(此家此地の持主)。

――矢足の矢は八が真 大タブ樹 大垂松 松月庵跡――

樹明兄も来庵、藁灰をこしらへて下さった、胡瓜を持って来て下さった(この胡瓜は何ともいへないいうまさだった、私は単に胡瓜のうまさといふよりも、草の実のほんとうのうまさに触れたやうな気がした)。

酒なしではすまないので、ちょんびりショウチュウを買ふ、同時にハガキを買ふことも忘れなかった。

今夜もうよう寝た、三時半に起床したけれど。

・さみしい嘱託の辛子からいこと

・柿が落ちるまた落ちるしづかにも

 帰りにまた、百日紅(さるすべり)をもらってきた。名前に百日が入っているだけのことはある。暑中に勢いがあった花は、今も咲き続けている。今年は何回か摘ませてもらっている。

 今日は昼に雨が少し止んだとき、丸莢オクラを採りに畑に出たついでに、大根とブロッコリーと細葱とサニーレタスの種を蒔いた。うまく芽が出てくれればいいが。

今年はこれから台風が次々と来そうだから、芽が出ても強い雨にやられるかも知れない。しかし、先ずは芽をだすかどうかである。