つれづれに

つれづれに:ナイス・ピープル

 エイズに関するアフリカの9回目で、今回はナイス・ピープルである。ナイス・ピープルはエイズの小説のタイトルに使われた言葉で、どんな素敵な人たちの話かと思って読んでみたら、とんでもない、エロ親父の話だった。英語ではSugar daddy、いっしょにシンポジウム(→「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」、→「報告2」、→「報告3」、→「報告4」、→「報告5」、→「報告6」)をした卒業生がタンザニアでの経験を次のように紹介していた。

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私がタンザニアで教えていた学校の近くにも、このような看板を見つけることができました。書いてあるのは「Say No! to sugar daddy」とか、「Refuse offers from sugar daddies」とかだったりします。それぞれ「Sugar daddyにはNoと言おう!」とか、「Sugar daddyからの申し出を断ろう」という意味ですが、ここで言うSugar daddyとは、若い女性と性的な関係を持つ代わりに金銭や物品を与える年上の男性のことです。Sugar daddyそのものは欧米に元々あった概念ですし、日本では「援助交際」などという言葉もあるわけですが、アフリカの場合、学費を得たり家族を養ったりする目的、つまり、生活上やむを得ずこうした関係をもつ若い女性がいます。

発表後にもらった資料の中の写真、使う諒解ももらった本人が撮った写真

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小説はたまたまケニアの友人に借りたものである。その友人ともいっしょにシンポジウム(「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」、宮崎大学医学部国際医療保健研究会編)をしたことがあり、貴重な記事や図書を紹介してもらっていた。その中の1冊である。知り合いの書いた本だと紹介された。後にアフリカ文学と医学の狭間でというタイトルで科学研究費をもらったときに出遭ったダウニングの本の中に、エイズの小説として紹介されていた19冊の中の1冊で、1992年の出版である。

 1981年にアメリカで最初のエイズ患者が出た。アフリカで最初の患者が出たのは1985年で、欧米より急速に感染が拡大した。1992年に在外研究でジンバブエ大学に行ったとき、シェラトンホテルの前でブックフェアが開催されていた。ケニアからの出版社の主催で、ナイロビの出版社のヘンリー・チャカバさんは私が世話になっていた横浜の出版社の人とも知り合いだった。グギさんの翻訳出版がきっかけで知り合ったようで、書かせてもらっていた雑誌の創刊号でチャカバさんが寄せてくれた祝辞を読んだところだった。事情を話すと、とても喜んでくれた。「南アフリカ、このジンバブエからタンザニア、ケニアの東海岸一帯は広大なサバンナに牛を飼う人たちが代々住んでいて、バンツーと呼ばれてるよ。People of the peopleという意味で誇りに思ってるね。ケニアから見たらハラレは庭みたいなもんだから」そんな話を一しきりしてくれた。『ナイス・ピープル』の話をしたら「うちから出してるね」と言っていた。当時はイギリス資本のハイネマンナイロビ支社の支社長のようだった。

 1985年に最初の患者が出た後のケニア社会を描き出したわけだが、歴史的に見ても貴重な本である。

舞台はケニア中央病院(Kenya Central Hospital, KCH)である。在外研究から戻ったあと何年かして、その病院で実習をした学生が3人、研究室に来て話をしてくれた。医学科では英語の授業で全員にアフリカとアフリカ系アメリカの歴史とエイズとエボラ出血熱の話はしていたので、ケニアでの体験を話に来てくれたんだろう。人事の採用制度を変えた立役者の一人、基礎医学の教授の薦めだった。ずっとず教授の推薦によるずぶずぶの採用人事だったが、公募で残った3人が講演をして直後の投票で決めるという透明な制度に変えた。まだ学生交換制度のない時で、今から思えば、画期的な試みだったと思う。学生の一人は神戸の第3学区の進学校を出ていた。私は理解して覚えるのが主体の制度に馴染めずに受験勉強が出来なかったので、進学校では嫌な思いしか残っていない。教師は県下一斉の模試試験のある度に神戸第3学区と姫路の進学校と平均点を比較して文句を言っていたので、全く関係ないのに散々名前を吹き込まれていた。関西や中部や関東やからの学生は、地元の医学部には点数が足りずに地方を選んだ人が多かった。その学生もその理由で入学して来たと言っていたが、まさかケニアの病院で臨床実習を体験できるとは想像もしていなかっただろう。部屋に来て、楽しそうに報告している3人を見て、なぜか嬉しかった。部屋で話してくれた内容は、2002年の大学の「学園だより」に、「ケニア滞在記」として紹介されていた。

 大学の職が決まっても大学用のテキストと翻訳だけはしたくないとなぜか思い込んでいたが、出遭ってしまった出版社の人に次から次に言われて断れないまま押し切られてしまった。最初で最後の日本語訳の本が形になったのは、1992年である。その後も、グギさんの評論(↓)と、このエイズの小説の翻訳も依頼された。どちらも日本語訳をつけるのに2年ほどかかったが、結局は出版されずじまいである。いろいろ勉強はさせてもらったが、なかなかきつかった。特にグギさんの評論は、ギクユ語も混じっていたし、グギさん自身の何冊かの大作の作品論に加えて、反体制の韓国の詩人の詩と、アフリカ系アメリカの歴史まであって、最初はうそぉーと思ったくらいである。アフリカ系アメリカの歴史はやってはいたものの、作品を理解するためにケニアと韓国の歴史を辿(たど)ってからと考えると、とてもやないけど今の自分では手に余る、そんな思いが強かった。しかし、流れには逆らえなかったのだろう。ただ、エイズという免疫不全の病気がテーマなので、医学科や看護学科の英語の資料に使えたのは有難かった。2000年くらいから半期15回の授業形態になって小説を読む時間を取るのは難しかったので、文字にして要約を紹介したり、参考資料として配ったりした。アフリカ文学を読む機会はあまりないので、貴重な機会を提供したいという思いもあった。

 グギさんの翻訳を機にケニアの歴史を辿ってわかったのだが、ケニアも恐ろしい国である。南アフリカの入植者が侵略してきた時、ケニヤッタの下で国をあげて団結して侵略者と戦った。1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれ、長く険しい闘いを強いられた。そして、1963年に独立した。

独立戦争の戦士の一人

 ケニヤッタ(↓)が初代首相になった。しかし、独立して間もなく、多国籍企業が資本投資や貿易を展開するアメリカやイギリス、日本などと手を結んでしまったのである。ケニヤッタは1969年に左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を禁止して、一党独裁政治を始めた。ケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派が存在していたが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増してしまった。ケニヤッタとその取り巻きは外国資本を後ろ盾に、数の力で、誰憚(はばか)ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を駆使して完全勝利を果たした。1978年にケニヤッタが死んだ後も、モイが大統領になり、一党独裁政治はしっかりと維持・強化されていった。独立をいっしょに闘ったグギさんたちはケニヤッタの変節を批判して、亡命を強いられた。その人の評論の翻訳を頼まれて、日本語訳をつけたのである。自分の著書の作品論と、アメリカに亡命中に発表した評論を集めた本だった。

ジョモ・ケニヤッタ

 出版社の人からは『ナイス・ピープル』のタイトルは考えないといけませんねと言われていた。色事師、エロ親父、好きものたち、どれもしっくりいかないままである。小説の主人公は医者のジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) で、ナイジェリアのイバダン大学(↓)医学部を卒業後、KCHで働き始めたという設定である。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が週末に経営する診療所でも稼ぎながら勤務医を続ける。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎(だたい)手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまう。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続する。

 金回りはよかったので、金持ち階級の仲間入りをした。その人たちはナイス・ピープルと呼ばれ、高級クラブに出入りしていた。

「ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の『ケニア銀行家クラブ』の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている」

「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されている。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めている。

 1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきた。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去った。

法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになった。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思ったが、どうも違うようである。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI, ↓)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着く。

 「あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている」

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったが、元同僚の意見を求めた。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でもアメリカ人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれた。興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめる。

 「私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた」

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちだった。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されたが抵抗したために暴力をふるわれたのだが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようである。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけた。

元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたが、実際の役には立ちそうにはなかった。こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのである。

 幼馴染(おさななじ)みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会ったナイス・ピープルである。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しむ。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にある。エイズを発症し、イギリスで治療を受けるために帰国しようとするが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆく。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに送り返される。

高級住宅街に住むマインバ夫妻もナイス・ピープルである。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれる。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになる。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来る。

 作者は小説の中で「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書いているが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしている。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わってくる。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事である。

「著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう』と言っています。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます」

最初は友人から借りた本という認識で気軽に読み始めた。まさか、ケニアッタの取り巻きの金持ちたちの実態を描き出す小説に出会えるとは思ってもいなかった。搾り取られる側(the poor, the robbed, the haves-not)を描いた作品は数多いが、絞る側の金持ち層(the rich, the robber, the haves)これほど細かく描いた作品にはなかなかお目にかかれないからである。変節したケニアッタにぶら下がっていい思いをしていた人たちはこんな生活してたんや、改めてそんな思いがした作品だった。

次回は『最後の疫病』(The Last Plague)である。

つれづれに

つれづれに:タボ・ムベキ

 エイズに関するアフリカの8回目で、今回はタボ・ムベキである。ムベキほど、一個人でアフリカのエイズ問題で論争を巻き起こした人物もいないだろう。2000年7月に南アフリカのダーバンで開かれた国際エイズ会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」というそれまでの主張を繰り返し、国内の医療関係者にも、欧米のメデイアにも厳しく非難された。①ムベキの生い立ち、②ムベキのたたかったもの、③ムベキの伝えたもの、について書きたいと思う。

①ムベキの生い立ち

ムベキは1942年に東ケープ州で生まれた。私より7歳上である。私が講師として医学科に赴任したとき、いろいろ世話してもらった助教授の方も7歳上だった。2年目に入学してきた既卒組も7歳上だった。自分より年上の人が授業にいたのは初めてだった。どちらもよく出来る人で、実際より年の差を感じた。ムベキと会う機会があったら、どんなかんじだったんだろう?父親は、1964年のリボニアの裁判でネルソン・マンデラ他7名と共に終身刑を言い渡されたゴバン・ムベキ(↓)である。野間寛二郎さんでさえ、農民にあれだけの陳述ができたと驚かれたという風なことを書いていたが、フォートヘア大を出た超エリートである。大学では政治と心理学の学位を取得している。幼少から父親の影響を受けて、解放闘争にかかわるようになったわけである。

 1956年、14歳の時にANC青年同盟に参加し、1962年にANCの指示でタンザニアからロンドンに渡っている。1970年に軍事訓練のためにソ連に派遣され、その後ボツワナなどを回ったのち、ANC本部で議長オリバー・タンボ(↓)の政策秘書になった。1989年からはANCの国際関係部門の責任者となり、白人政府との折衝役になった。1994年のマンデラ政権では大統領代行となり、1997年にANC議長、1999年の6月には第2代大統領に就任した。

②ムベキのたたかったもの

南アフリカに最初に入植したのはオランダ人で、17世紀の半ばである。その後18世紀の後半にイギリスが大軍をケープに送り、イギリス人も入植した。入植者はアフリカ人から土地を奪った。最初は農業中心の社会だったが、奴隷貿易の蓄積資本で産業化を果たしてからは、南アフリカもその影響を受けた。当初は東洋への要衝をフランスに取られないための派兵だったが、19世紀の半ば以降に金とダイヤモンドが発見されてから、俄然、国自体の重要性が増した。鉱物資源をめぐってオランダ系アフリカーナーとイギリス人は殺し合いをしたが、双方とも銃を持っていたので相手を殲滅(せんめつ)も出来ずに、戦いの手を止め、握手して国を創ってしまった。1910年の南アフリカ連邦である。アフリカ人を搾取する1点で合意した妥協の産物だった。そのころには、広大な鉱床の中心地周辺に、短期契約の大量のアフリカ人労働者を作り出すシステムを構築し終えていた。鉱山(↓)だけでなく、農場や工場や白人の家庭でも最低賃金でこき使えるシステムだった。

 第2次大戦後、アフリカ人労働者が総人口の僅(わず)か15%の入植者を相手に非暴力の解放運動を展開したが、1948年の白人だけの総選挙で人種差別を政治スローガンに掲げたアフリカーナーのアパルトヘイト政権が誕生して、短期契約の安価なアフリカ人労働者からの搾取体制は温存された。人種差別がスローガンの政権が長く続いたのは、戦後にアメリカ主導で再構築された多国籍企業による資本投資と貿易に群がるイギリス、アメリカ、西ドイツ、日本などがアフリカ人から搾り取った富を分かち合っていたからである。

その体制も、東側諸国の崩壊や経済制裁、イギリス人主導の経済界の動きやアフリカ人の闘争の激化などで維持するのが難しくなり、アフリカ人の搾取構造は基本的に変えない形でアフリカ人に政権移譲を行なった。スムーズな移譲譲には、白人とも妥協できるマンデラのような人物は不可欠で、法律を変えないままマンデラを釈放したあと、1994年にアフリカ人主導の新政権を誕生させた。ムベキの人生の大半はアパルトヘイトとの闘いだったことがわかる。

③ムベキの伝えたもの

ムベキはマンデラからエイズ問題を一任された。獄中から出てスムーズに政権移譲する役割は、日和見(ひよりみ)的なマンデラでも手に余った。1960年に武力闘争を開始したあと、資金集めにアフリカ諸国を回ったが余り成果がなかったように、日本にもアメリカにも式集めに回ったが、今回も思わしくなかった。100万個の住宅建設を約束したマンデラは、悔しい思いを押し殺しながら毎日の雑事に忙殺された。釈放後辺りから感染が急速に拡大し大変な事態に陥っていたが、エイズ問題まで手が回らなかった。ムベキも、引き受けるしかなかった。当初は欧米で主流の「ABC (Abstain, Be faithful, use Condoms) アプローチ」を踏襲したが、2000年初めにはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていた。そして、国の内外から専門家を招聘(しょうへい)して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請した。ダーバン会議の1週間前の第2回会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言が発表されたが、欧米のメディアの反応は極めて批判的で、ムベキは厳しい批判を浴びた。そして、ダーバンの会議では意識的にその主張を繰り返した。

 「私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。私がずっと考えて来た疑問の一つは『安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうか?』ということです」

会場は水を打ったように静まりかえり、ムベキの演説を聞いて数百人が会場から出て行ったと言う。つまり、「安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来る」と考える多数派が思い描いていた期待に、ムベキの演説が応えなかったということだろう。

 しかし、ムベキの発言は2つの意味で歴史的にも非常に大きな意味を持っている。1つは、病気の原因であるウィルスに抗HIV製剤で対抗するという先進国で主流の生物医学的なアプローチだけによるのではなく、病気を包括的に捉(とら)える公衆衛生的なアプローチによってアフリカのエイズ問題を捉えない限り本当の意味での解決策はありえないというもっと広い観点からエイズを考える機会を提供したことである。

もう1つは、1505年のキルワの虐殺(↓)以来、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配と形を変えながらアフリカを食いものにしてきた先進国の歴史を踏まえたうえで、南アフリカでは鉱山労働者やスラムを介して現実にエイズが広がり続けているのだから、その現状を生み出している経済的な基本構造を変えない限り根本的なエイズ問題の解決策はないと、改めて認識させたことである。

 私はアフリカ系アメリカ人の文学がきっかけで、たまたまアフリカの歴史を追うようになったのだが、その結論から言えば、アフリカとアフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えない。根本的な改善策には、バズゥル・デヴィドスン(↓)が指摘するように、大幅な先進国の譲歩が必要である。しかし、現実には譲歩のかけらも見えない。南アフリカが「国家的な危機や特に緊急な場合」でさえ、アメリカは製薬会社の利益を最優先させて、一国の元首に「合法的に」譲歩を迫ったのが現実だから。

 欧米のメディアはムベキの発言に批判的だったが、アフリカ人には好意的な意見が多かった。ダウニング医師も著書(↓)の中で、2003年にブッシュがアフリカなどのエイズ対策費用として抗HIV製剤に150億ドル(約1兆350億円)を拠出したあとで行なった前ザンビアの大統領ケネス・カウンダのインタビューを紹介している。

 「違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、HIV・エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、12000ドル(約108万円)で生活していますからね。数字は合っていますか。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしていますから。もしうまく行って……将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる……私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかりと食べて、ちゃんと風呂にも入り、何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、わざと言う言葉は使うべきじゃないか、わざとは撤回しますが、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね」

 仮にブッシュが約束した多額の援助金で抗HIV製剤が手に入ったとしても、制度的に食うや食わずの生活を強いられている多数のアフリカ人の現状を考えれば、それが即エイズに苦しむ人たちの根本的な解決策にならないのは、容易に想像がつく。医学科と看護学の授業では何かのテーマを決めて論述するという課題を出して評価していた。その中に看護学科の学生の「HIV/AIDS―今私にできること」という課題があり、日赤看護師の報告を引用していた。自分で探し当てたのだろう。

「日赤看護師・助産師が出会った人々~ジンバブエにおけるHIV・エイズ対策事業~

桜井亜矢子看護師による報告(前橋赤十字病院、2007年5月21日から11月20日にマショナランド・ウェスト州にて活動)

ジンバブエの地図(南アフリカ観光局のパンフレットから)

■ エイズ治療薬はある。でも……

HIV感染者やエイズ発症者などで在宅看護のケアを受けている患者さんの中に、ザンビア出身の40代の女性がいます。彼女は1年以上前から毎月ザンビアに行き、エイズウイルスの増殖を抑える抗レトロウイルス薬(以下、ARV)を処方してもらい内服しています。以前、彼女を家庭訪問したとき、ARVを飲み忘れることはないかと尋ねたところ、「絶対に忘れない。これは、命綱だから」と真剣な表情で答えていました。

それから1か月、再び彼女の自宅を訪問したところ、彼女の顔の皮膚がやや黒ずみ、硬くなっていました。彼女にARVをきちんと飲んでいるか尋ねたところ、毎日欠かさず飲んでいると答えてくれました。ところが、「今日は飲みましたか?」の質問に彼女はうつむいてしまいました。すでに11時を過ぎています。本来であればとっくに飲んでいなければならない時間です。

「この薬は決められた時間に飲むように言われませんでしたか?」と確認すると、「薬をきちんと飲まなければ死んでしまうのはわかっている。しかし、この薬は空腹時に飲むと副作用がひどく耐えられないので、必ず食後に飲むようにしている。今日は食べるものがなくて、朝から食べ物を探しているがまだ手に入らないので飲めずにいる……。私だって早く薬を飲みたい……。」涙ぐむ彼女を前に、私は返す言葉が見当たりませんでした。

抗HIV製剤の一つ3TC

 次回はエイズの小説『ナイス・ピープル』である。

つれづれに

つれづれに:HIV人工説詳細

 エイズに関するアフリカの7回目で、HIV人工説の詳細である。大枠は→「HIV人工説」で書いているので、今回はその詳細である。

HIVはアメリカが生物兵器を製造する過程で故意または偶発的に漏れたウィルスであるというと如何にも荒唐無稽(こうとうむけい)な話に聞こえるが、少し歴史を辿(たど)ればそうではないことに気づく。第2次大戦で日本やドイツで毒ガス兵器や生物兵器が製造されて戦場で使用された。特に、大日本帝国陸軍731部隊は中国大陸で細菌兵器を4度も使用した。たくさんの死者を出し、詳しい経緯も明らかになっている。第2次大戦後も、アメリカやソ連などの軍事大国が生物兵器の製造を止める理由がない。それに、人工説を強く主張したのは、自分が関わる医療行為が生物兵器製造関連の流れの中にあるとは知らずに参加した人たちが、周りの状況から考えてその流れの中にいることを気づいて行動に出たという一種の内部告発でもあった。莫大な利益を追う製薬会社、資金を集めたい国連エイズ合同計画や世界保健機構(WHO)、研究費や運営費を獲得を狙う研究者や非政府組織(NGO)、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論(もくろ)むアフリカ政府が複雑に絡(から)まって、こぞって公式データまで捏造(ねつぞう)したのである。荒唐無稽な話だとは言えない。

前にも書いたが、エイズのアフリカ起源説を言い出したのは、CDCが重用した人物ギャロである。ギャロは国立癌(がん)研究所でエイズウィルスを発見したと主張していた。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設である。

 「ニューアフリカン」の編集長バッフォ・アンコマー(Baffour Ankomah)は、生物兵器製造疑惑説に応えた国会証言やB型肝炎の男性同性愛者などへの実態実験と最初のエイズ患者との時期的な符合している、というのを主な根拠に早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張していた。皮膚科医アラン・キャントウェルJr(Alan Cantwell Jr.)はエイズと癌(がん)研究者として数々の具体的な根拠を示して、HIVが米国産の人工ウィルスで、エイズが生物兵器の実験から生まれたものではないかと結論づけた。起源説を主張するロバート・ギャロやマックス・エセックスは政府や製薬会社やマスコミとの繋(つな)がりが強く、学問的に過去に重大な間違いをおかしてきたこと、1978年に男性同性愛者に実施されたB型肝炎の人体実験がエイズの発症に大きく影響した可能性が強いこと、過去に米国政府が人体実験を行なった疑いが濃いことなどがキャントウェルの根拠だった。キャントウェルもすでに紹介した1994年のエイズ会議の立役者の一人で、会議は政府や製薬会社やマスコミに黙殺された。

 政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑は、医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言した1969年に遡(さかのぼ)る。マッカーサーは、専門家なら遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能であることを示唆し、「次の5年10年の間に、既存の病原因子とはある重要な点で異なる新しい感染性の微生物を作る可能性があり、感染症から比較的容易に身を守るために頼っている現存の免疫学的な手法や治療方法では手に負えなくなると思います」と証言した。その証言は80年代初頭の最初のエイズ患者騒動と時期が符合している。

過去に米国がB型肝炎の人体実験を男性同性愛者に行なった事実や、癌研究の名の下に生物兵器の研究を継続し、放射能の人体実験を行なった疑いが濃いこと、それらが兵器産業や製薬会社などと密接に繋がっていたという構図を考えれば、「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」が主張し続けるエイズのアフリカ起源説より、エイズが人工的に造り出された病気であるという主張の方がはるかに信憑性がある。

次回はタボ・ムベキである。

つれづれに

つれづれに:エイズ検査

 エイズに関するアフリカの6回目で、エイズ検査である。当時のエイズ検査はかなりいい加減で、診察でもマラリアや風邪の初期症状の患者もHIV感染者に入れた感染者数のデータそのものが間違っていた、それも国連や世界保健機構(WHO)や米国疾病予防センター(CDC、↓)などの西側諸国の主要機関ぐるみの捏造(ねつぞう)だったというとんでもない話である。忖度(そんたく)政治のあおりを受けて、国の文書自体の書き換えを公務員が強要され、一国の首相が国会で嘘の答弁を繰り返す、日本も負けていない。さすが「先進国」の一員である。

 ゲシェクターはアフリカ人が「性にふしだら」という思い込みに反論して、「アフリカ人が特に性にふしだらだとする証拠はなく、結果的に考えられるのは、(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していないか、(2)流行の原因が他にあるかだ」と指摘した。

ゲシェクターが(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していない、と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからでる。エイズ検査が実施される以前は、アフリカでは医者が患者の咳(せき)や下痢(げり)や体重減などの症状を見て診断を出していた。咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の疾病(しっぺい)にも見られる初期症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛(まぎ)れ込んでいる確率が高かったわけである。検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものの信憑(しんぴょう)性がやはり非常に低かった。著書(↓)で「アフリカ人に聞け」と提言したダウニングも、自分の妻が陽性の検査結果だったので、アメリカで再検査をしたら陰性だと判ってほっとしたと書いている。エイズを描いた小説の中でも、何回かそんな場面があった。

 1994年の「感染症ジャーナル」の症例研究では、「結核やマラリアやハンセン病などの病原菌が広く行き渡っている中央アフリカではHIV検査は有効ではなく70%の擬陽性が報告されている」という結論が出されている、つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクター(↓)は判断したのである。2000年前後に「30%以上の感染率で、崩壊する国が出るかも知れない」という類の多数の記事が出た。しかし、潜伏期間の長さを考えても、10年以上経った以降にエイズで崩壊した国はないので、報道そのものの元データが不正確だったと言うことになる。

 (2)流行の原因が他にある、とゲシェクターは考えた。アフリカがエイズ危機にあるのは異性間の性交渉や過度の性行動が原因ではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得なかったからである。その主張は、後にムベキ(↓)が欧米の猛烈な批判や攻撃に怯(ひる)むことなく主張し続けた内容と同じである。

 不正確な検査や統計に基づいたエイズ報道は信用せずに、アフリカ政府は援助に頼る悪弊(あくへい)を断ち切って適切な対策をとるべきだと「ニューアフリカン」は主張してきた。2000年前後に欧米のマスコミは、意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てた。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズ/HIVは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズ/HIVで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズ/HIVで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズ/HIVの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませた。

 同じ年に国連は、エイズが多くのアフリカ諸国で劇的に平均寿命を縮め、次の10年から15年の間に想像以上に人口が激減するという予測の世界人口調査結果を発表し、その結果を元にニューヨークタイムズなどが「サハラ砂漠以南のアフリカで最も被害が大きい国ボツワナでは、わずか5年前には61歳であった平均寿命が今や47歳に落ち、2000年から2005年の間には41歳まで下がるでしょう。成人の5人に1人がHIVの陽性であるジンバブエでは、死亡率は国の人口増加を激減させており、1980年から1985年の間の年間3.3%から現在の1.4%に、2001年には1%以下に下がると予測されています。もしウィルスがなければ、現在恐らく2.4%の増加率を示していたでしょう。」という類の記事をさかんに載せた。

 それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものだ。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なる。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなるので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになる。つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカの実態を反映したものではなかったのである。

 英国のテレビプロデューサー/ジャーナリストのジョーン・シェントンは研究者チームを連れてガーナとコートジボワールに渡って調査を行ない「ガーナで227名の患者に、コートジボワールでは135名の患者に『HIVと関わりのないエイズ』を発見した。すべての患者はアフリカに昔からあるスリム病(Slim Disease)と呼ばれる体重減、下痢、慢性的な熱、肺炎、神経的な疾病の症状を呈していた。しかも「ガーナの227名、コートジボワールの135名がHIVの陰性でした」と報告した。

 エイズ検査の結果も極めて不確かで、資金不足のためにアフリカの病院で一般に行われていたELISA法[酵素免疫吸着測定法]による血液検査では83%も擬陽性が出る可能性があると言われていたし、ロンドンでも研究所によって結果が違い、一ヶ月の間に検査結果が二転三転した例も報告されていた。ダウニングの妻が受けた検査もELISA法だった。ナイロビの病院でウエスタンブロット検査を受けたが判定できないと言われ、結局アメリカで検査を受けて陰性ではないと判ったと著書(↓)で紹介している。

エイズの検査キット

 なぜ、そんなでたらめなデータがまことしやかに流れたのか?理由は簡単で、日本の原子力エネルギー政策に似て、利害が複雑に絡(から)でいたからである。

シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣ジェイムズ・マクンビは「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えたと言う。別のウガンダ人バデゥル・セマンダは「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」と語っている。シェントンが言うように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです」ということである。

製薬会社(「エイズの時代」、2006年)

 莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけである。

次回はHIIV人工説詳細である。