つれづれに:英語科(2022年8月22日)

2022年8月22日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:英語科

講義棟

 同僚に初めて会った時、在外研究と非常勤の話のあと、授業をどう持つかについて「あなたが1年生、私が2年生を担当、それでどうですか?」と言われた。開学当初は5年生まで英語があって隣の大学の非常勤の助けを借りていたそうだが、赴任した時は、外国人教師と2人で1、2年生を担当していた。授業は1、2年次に週2コマずつ、1年生は英語と英会話、2年生は医療英語と英会話の授業があり、通年100分が30コマだった。私が決まって1年生の英語を私が、2年生の医療英語を日本人の同僚が、1、2年生の英会話を外国人教師が担当することになったわけである。外国人教師はアメリカ人だった。同僚はアメリカ人にずっと難儀させられていたようで「あの人とは関わらない方がいいですね。私が間に入りますから、直接接しないようにしたらどうですか?」と言ってくれた。元々英語もアメリカ人も苦手だったし、日本の職場で当然のような顔をして英語を使う神経にはついて行けなかったので、有難く同僚の気持ちに従うことにした。その後、案の定、学生から何度も苦情を聞いた。一人は親も呼んで面談したようだが、学生は話のあと私の研究室に来て「毛唐は嫌い、と言ってしまいました」と哀しそうに言っていた。アメリカ人は折れずに、その学生は単位を落としていた。隣の事務室で、オランダから帰ったその人から話しかけられたことがある。もちろん日本語でだが。「オランダ人、押しが強い。勝てませんでした」ということだった。南アフリカのことをやり始めたところだったので、なるほどと変に感心した。南アフリカは先に来たオランダ人とあとから来たイギリス人がアフリカ人から土地を奪って白人連合の政府を作った国である。今はそこにアメリカも加わっているので、得心するしかなかった。日本政府も白人政府と手を握って甘い汁を吸い続けているので、何とも微妙ではあるが。

 元々英語科は教授1、助教授か講師1、外国人教師1の枠だったようで、初代の教授が移動した後は長い間教授のポストは空きのままだった。当然、教授会での投票権はない。私は教授の代わりに、講師で採用されたことになる。力関係は予算にも反映される。語学はなぜか他の講座の半分だった。社会学と数学はどちらも私と同じ時期に講師が採用されていたが、教授枠の予算がついていた。研究活動をやっている人は人件費や旅費を有効に使うが、二人は研究成果も芳しくなく予算を使いこなせていないように見えた。人事には教授の推薦が要る規定なので、実際に担当している人の声が反映されないのも構造的におかしい。不補充の教授枠を埋めるのが執行部次第というのも正常とは言えない。

最初の年に隣の部屋の事務の人が「撮りましょか?」と言って撮ってくれた

 医学生の場合、その時は医学生と接したこともなかったのでよくはわからなかったが、1年生と2年生では少し条件が違うらしかった。それも考慮したうえで、私を1年生の担当にしてくれてたようだ。当時、解剖が1年次からあったが、入学当初は受験モードが消えないうえ、受験を終えてほっとしている傾向が強い。医学部に入学したのに、1年次では専門が一つもなくて拍子抜けしたという声が大きかった点が考慮されたようだが、実際には筋骨や臓器の予備知識なしにいきなり解剖と言っても問題がある。インパクトの点では十分だろうが、しっかりと理解するには準備不足は否めない。2年になると、急に基礎医学が増える。生化学が2つと生理学が2つに組織学、それぞれ十分すぎるくらいの内容で、化学が苦手な人には結構ハードだし「1年生がなんだったんだろう?」と言えるだけの分量である。そうなると、教養の枠組みの英語は自然におろそかになる、という傾向があった。1学年100人を4つのクラスに分けるので、1クラス25人、非常勤で行っていた旧宮崎大学(↓)に比べればかなり少人数である。基本的に出席は取らなかったので、大抵は20人前後で授業が出来た。在外研究の期間だけ2年生も私が持つことになった。その人が在外研究に行かなかったら、一1目に2年生とは会えなかったわけである。
 次は、秋桜(こすもす)、か。