つれづれに: 歩くコース2の②(2021年8月15日)

2021年8月29日つれづれに

 歩くコース2の②・・・

高台から入る道

木花神社の中を通る「 歩くコース2の①」(7月30日)の続きである。木花神社には高台から入る道を右手に進む。両側の竹林の中の平坦な小道をしばらく歩くと、正面の鳥居の前に出る。

鳥居をくぐって短い階段をのぼれば、本殿の前に出る。無人で、普段は誰もいない。時折、たぶん氏子の誰かが単独で作業をしているのに出くわす。訪れる人もあまり見かけない。最近では年寄り夫妻が二か所ある展望所の一つの長椅子に座って休憩したのを見かけたのと、運動用のジャージを着た若い人とすれ違ったくらいである。年に何回かは定期的に何かの行事で、人が集まるようである。

いつも思うのだが、何が祀ってあるんだろう。正面は格子が嵌めてあって、賽銭箱のガラスだけがお金を投げ込めるように切ってある。格子の間からカメラをいれて中を撮影した。夕方だったが、わりときれいに撮れている。祭壇には鏡とか供え物の酒などが並べてある。宮崎神宮も同じようだったような気がするが、お盆に紙切れ、たぶん護符のようなものが置いてあるようだ。ご神体が何なのか、わからないままである。

神や仏のような目に見えないがあると思われる絶対的なもの、創造物とでもいうようなものは、信じ方によるのかもしれない。小さい頃は南印度の廬舎那仏、よく言われるお釈迦さんに魅かれて少しの間かかわったことがあるが、心の中で葛藤があり、結論は「わからない」だった。わかったように生きるのには抵抗があり、絶対的なものがあるかも知れないが、「あると信じる振りはやめよう。わからないのだから」、それが結論だった。今もかわらない。

アフリカ系アメリカ人の作家からアフリカに関心が向いて、ガーナ、南アフリカ、コンゴ、ケニアについていろいろ読むようになった。ケニアに関しては、何人かと親しくしたことがある。親しくした人の一人はクリスチャンだった。ケニア人がクリスチャンであることが当たり前のように言うのにカチンと来て、ある日、「イギリスに侵略されて、キリスト教も押し付けられたのに、クリスチャンておかしいやろ、何がクリスチャンやねん」、と言ったら、「タマダサン、実はケニア山の麓には神様がいて、それがキリスト、本当はキリストは黒人やねん」とその人が言っていた。関西に住むギくユ人である。

次回は「 歩くコース2の③」、ケニアの続きを少々と、神社の境内を写真入りで紹介、か。