作州
作州
双石山
初めて双石山(ぼろいしやま)を見た時、いつかあの山の洞窟で何か彫っていそうね、と妻に言われた。宮本武蔵が晩年熊本の洞窟で岩に仏像を彫った話をしたことがあったからだろう。
吉川英治の『宮本武蔵』を読んだ時期がある。すっかり諦めたつもりで世の中に背を向け、生き在らえて30くらいかと思いながら、たくさんの本を読んだ。その中の一つである。冬の寒い時期に暖房も入れずに夜中じゅう、本を読んでいた。すぐにその気になるので、和服に素足、寒くなると家の前の道路で夜中に木刀を振った。暁け方が一番頭が冴える気がした。陽が昇る頃に、近くの川の堤防を、海まで走った。十キロほどだったと思う。この時期、朝日を眩しく感じ始めていた。
行くところがなくて夜間の英米学科に入ったが、読んでいたのは日本のもので、古典も多かった。同時期に世阿弥の風姿花伝の文庫本も読んだ。作中の武蔵の恋人お通が京都で身を寄せた先が世阿弥宅という設定で、武蔵とも会っている。なぜかはわからなかったが、茶の稽古に和服で通い、百グラム三千円の煎茶を飲んだ。授業料が一月千円の時に百グラム三千円の茶である。将来を考えていたら、そんなことはしなかっただろう。稽古の時に立てられた茶は飲まなかった。抹茶が粉臭く感じたからである。
同じ時期、立原正秋を読み始めた。神戸と大阪の古本屋を回っているときに、出ている単行本はほとんど見つけて読んだ。讀賣新聞の夕刊に連載されていた『冬の旅』を読んだ。小説を書くと思いこんだのはこの辺りである。美や勁さに対する感覚が、すっと心に沁み込んで来た、そんな気がしたのである。
美や勁さが心に沁み込んだ「お陰」で、体はぼろぼろになった。よくも生き在らえたものである。そのあと生きることになって、大変な思いをした。
木花神社横にあった法満寺が飫肥藩の菩提寺だと知って、なぜか作州を思い浮かべて書いた。『宮本武蔵』で「作州浪人宮本武蔵(たけぞう)」に慣れていたせいか、作州(美作国の異称)生まれ、岡山県生まれか、と得心していたが、兵庫県高砂市米田町米田生まれ、兵庫県揖保郡太子町宮本162生まれだと言っている人たちもいる。それぞれ一理ありそうだが、生まれた所は一つである。