つれづれに:修学旅行(2022年6月1日)

2022年6月2日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修学旅行

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫ときどき馬~」6月

 今日から6月(↑)である。6日の芒種まであとわずか、一年で一番過ごし易い小満の時期を大切にしたい。とまとの柵は二つ完了、いるだけでひりひりする陽射しの時期が間もなくやって来る前に、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)用のジャングルジム風の柵が終わればいいのだが。 →「ホームルーム」(5月24日)を運営する、それ自体が教師の思いこみである。考えてみれば、自分がホームルームに参加したいと思ったこともないし、必要性を感じたこともないのに、教師になったとたんに「ホームルームを運営する」など、不自然である。それにするのは生徒である。「二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。」と書いたが、その延長線上に、修学旅行があった。クラスは集団なので、何もしないと動くわけでもない。干渉はしたくなかったが「好きなようにやってや」と言うだけでうまく行くはずもない。人前に出るのは出来ればさけたいと望むリーダーといつもつるんでいる仲良し5人組、学校でも一目置かれている「ワル」(↓)、女子の仲良し五人組、そんな役者が揃い、自分たちの意思で動き始めてこそうまく行くものらしい。すべて、運次第というか。(→「ホームルーム2」、5月31日)

 修学旅行のスタンツをどうするか、放課後決めようや、と何日かかかって決めたらしい。修学旅行の初日の夕食後に各クラスの出し物をやるのがスタンツ、持ち時間は20分らしかった。「現代版”かぐや姫”」(↓)という寸劇をすることに決まったらしい。いろいろごちゃごちゃやって、最後にシンデレラ役が誰かに押されて倒れ、一人が覗き込んで「死んでれら」という落ちをつける、如何にも関西人が考えるパターンだった。それだけ決めるのに、何日もかかり、一応練習もやったらしい。文集を編集したときに初めてお目にかかったが、詳細な台本もあり、文集の中に綴じられて残っている。

 当日、旅館の大広間でスタンツが行われた。私も見物人の一人だったが、クラスのスタンツには担ぎ出された。なぜか聖徳太子役で、一万円札をと書いた紙きれを持たされて、晒しものになった。(↓)

 予め聞かされていた「現代版”かぐや姫”」が無事終わったところまでは予定通りだったが、なぜか乗り始めたリーダーがマイクを離さず(↓)、そのまま、バスの中で歌い続けた「夏のお嬢さん」という曲を手始めに、次から次へとヒットパレードが繰り広げられた。

 予定などそっちのけ、会場も乗りに乗って、2時間もそのロックコンサートは続いた。(↓)誰もが生き生きとしている。クラスだけでなく、学年全体を引っかき回したのである。いやあ、やるもんだ。

 その余韻は、部屋に戻っても続いていた。教員の部屋で寝るのも嫌なので、みんなの部屋に行って誰かのふとんに入れてもらった。楽しそうな時間は延々と続く。夜中に「こらー、はよ寝んか!」と見回りの体育教師の怒鳴り声が聞こえ、何人かが廊下に呼び出されていた。どうやら殴られていたらしい。「たまさん、ばれるとやばいんちゃう?」と誰かが言っていた。「そやな、隠れとこか」次の日、誰からも「どこ行ってたん?」とは聞かれなかったので、誰も気づかなかったのかもしれない。「みんなで飲んでて、気づかなかったんやろか?」
余波はその後も続いた。集団に馴染むのが難しそうな男子生徒の一人が川に入り、なんとみんなの手拍子に乗せられて、梓川を泳いで渡り始めたのである。(↓)夏でも雪渓が残っている地域、氷が解けた水が滔滔とながれている川である。また手拍子に乗せられて、向こう岸から戻って来た。ほんま、ようやるわ。その晩、その生徒はふとんに包まってぶるぶる震えていた。「大丈夫か?」誰かが聞いていた。「第4日 そして、ついに最後の夜をむかえる日 ー上高地 “音もなく流れる梓川”というイメージとは違っていたが、その、山をバックにした静寂さは予想以上のものだ。ちょっと見ただけでもその澄んだ水からその冷たさが伝わってくる。澄んでいて、浅く見えた川が実際にはいってみると腰あたりまであってずぶぬれになってしまった。そのしばれる冷たさはひときわだった。あとで足ががくがくふるえた。」と文集の中で書いていた。

 行った先は信州である。名古屋までは新幹線、あとはバスだった。「バスはただの運送機構でそのバスの中ですごす時間があまりに長いことはつまらないkとおだと考えていたのがくつがえされた。」と「梓川」が旅日記に書いていた通りだった。そして、その余韻は学校に戻ってからも続いた。学年で作る文集の原稿を集めて読んだとき、みんなにも読んでもらいたいと感じた。「クラスの文集を作らへんか?」と提案してみたら、作るかということになって「2-5 信州への旅 ’78」が出来た。B4わら半紙85枚、写真用B4白上質コピー紙5枚、合計180ページの大冊である。ガリ版刷の手書き、原稿集めも組み込んだ特集もすべて自主的に放課後に残って作ってくれ、写真や原稿の最後の編集などは私がやった。バスの車掌さん(↓)が生徒と同じ中学の何年か上で、その人にも原稿を依頼して寄稿してもらっていた。

 その学年が始まる前に結婚をしていたので、妻に47人分の似顔絵を頼んで描いてもらった。一人一人の特徴を捉えて、その人そのままの似顔絵である。バスの車掌さんと隣のクラスの担任の似顔絵まである。
「学級運営」は教師の思い上がり、ホームルームをするのは生徒、そのことをしみじみと教えられた修学旅行だった。次の年にみんなは卒業して、新たに一年生の担任をしたあと、大学院に行ったので、2度目の修学旅行がなかったのは幸いである。
次は、また暫く戻って、反体制ーグギさんの場合、か。