つれづれに:叛逆の系譜(2022年10月18日)
つれづれに:反逆の系譜
誰も奴隷になりたい人はいなかったわけだから、そこから逃れようとするのは自然の流れである。最初は一人で逃げたが、そのうち仲間が集まって一つの大きな動きを起こすようになった。それも南部の奴隷制で富を築いていた人たちの力加減による。
奴隷を所有し、自分は働かないで奴隷たちの生産物の上前をはねるのだから、当然富の偏り方は大きい。しかし、上前をはねられる方もただ黙っているわけではない。逃げる意志を持つ人たちは言葉を奪われ、世の中の事情を知らされない状況にいるので当初は現状から抜け出したい一心で逃亡したが、やがて禁じられている文字を知り、北部の噂も知るようになると、社会をある程度把握した上で逃亡を計画をするようになっている。それ自体、南部の寡頭勢力に対抗する勢力が間接的に影響して来たということだろう。奴隷制に保持されている奴隷の労働力を欲しがる対抗勢力が現れたのである。
奴隷貿易の資本蓄積によって産業革命を起こして産業化を歩み始めた産業資本家が力をつけ始め、アメリカ北部でも台頭してきたというわけである。その人たちは当然、メディアにも影響力を持っていた。奴隷解放を願う奴隷制廃止論者と奴隷解放という点では一致した。その流れが秘密組織「地下鉄道」を産んだ。もちろん、それは個人の逃亡と大きな蜂起の積み重ねの先に生み出された産物である。
ヒューズはそ叛逆の系譜の代表6人を時系列に「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)の中に盛り込んでいる。ガブリエル・プロッサ―→ナット・ターナー→サジャナー・ツゥルース→ハリエット・タブマン→フレデリック・ダグラス→ジョン・ブラウンの6人である。ガブリエルとターナーとブラウンは同胞と共に体制に果敢に挑んで死んでいった。ツゥルースとタブマンとダグラスは北部に救い出されたあと、奴隷制廃止のために闘い続けた。
ガブリエル・プロッサ―(↓、Gabriel Prosser, c. 1775-1800)は1800年に反乱を起こした。南部の寡頭勢力の強かった時代だから、集団で動くのも難しかっただろう。黒人ガブリエルはヴァージニアで数千人の黒人男女が関わった反乱を組織した。しかし反乱が予定されていた日に大嵐と洪水のために計画が失敗に終わり、ガブリエルと約30人が処刑された。ハイチで成功した革命(1790-1803)ように、ヴァージニア州に黒人国家を樹立する計画だったと言われる。
ナット・ターナー(Nat Turner、1800-31)は1831年にヴァージニアで反乱を起こした。宗教心が厚く「神の声」によって奴隷解放の計画を進め、蜂起した。1日目に白人61人、黒人120人以上が犠牲になった。17人の奴隷が裁判にかけられ、2ヶ月後に本人も絞首刑になった。絞首台に連れて行かれる前に「ある偉大な目的のためだった」とターナーは言った。もちろん、その目的は自由だった。
ジョン・ブラウン(John Brown、1800-1859) は僅かに23人で、バージニア州の連邦政府の兵器庫を襲い、武器を奴隷たちに与えた。ブラウンは絞首刑になったが、奴隷帝国を根底から揺さぶり、奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を植え付けた。→(「モーゼ?」)
サジャナー・ツゥルース(Sojourner Truth、1799-1883)は5人のこどもと生別したのち、単身奴隷主のもとから逃れ、北部各地で布教活動に励み、奴隷制反対運動を続けた。(→「そっとお行きよ」)
ハリエット・タブマン(Harriet Tubman、1822–1913)はメリーランドの農園から一人で逃亡したあと、奴隷の領地に何度も戻り、親戚や友人を救い北部へ連れて行った。奴隷主から首に4万ドルの懸賞金をかけられ、一時アメリカで最も危険な女性と呼ばれた。自由への地下鉄道の偉大な車掌でもあり、南北戦争では北軍の従軍看護師・スパイでもあった。
フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass、1817-95)は少年の頃に密かに読み書きを覚え、21歳の時にメリーランドからマサチューセッツへ逃亡した。そこで仕事を得て、解放運動に参加した。地下鉄道でも重要な役割を果たし、弁舌と文筆活動でも有名になった。後年には治安判事やハイチ大使も歴任している。著書も多く、ヒューズはダグラスの自伝の中から、奴隷監督から受けた鞭打ちの場面を載せている。「監督は私の所に突進して来て着ていた服を引き裂き、ゴムの木から切って来た重たい突き棒で私の背中を殴り続けました。殴られている間、血が流れっ放しでした。小指ほどのみみず腫れが背中に残りました。そこに居た最初の半年の間私は棒か牛革かで毎週鞭を打たれました。」そのあとダグラスは「逃げよう。失なっても人の命はひとつだけだ、このまま奴隷として生きて死んで行くなんてあり得ない」と決意して、逃亡した。
ヒューズはだだダクラスについて書いた後「おお、自由よ」の曲を挟んだ。
おお、自由よ
おお、自由よ! / おお、自由よ! / 我が頭上に自由よ! / そして奴隷になる前に、 / 墓に埋もれて / 天国の神さまの元へ行き、自由になるでしょう…..
OH, FREEDOM
Oh, freedom! / Oh, freedom! / Oh, freedom over me! / And before I’ll be a slave / I’ll be buried in my grave / And go home to my Lord and be free…
叛逆の系譜の6人の流れに沿って、「深い河」(→「深い河?」)、「下り行け、モーゼ」(→「モーゼ?」)、「ジョン・ブラウンの屍」、「共和国の戦いの賛歌」、「ジェリコの戦い」、「そっとお行きよ」、「静かに軋れ、素敵な四輪馬車」、「年老いたライリー」などのたくさんの歌や奴隷体験記を織り交ぜながら、黒人同胞の苦難の歴史を優しい息遣い(→「慈しむ心」、→「寛容」)でヒューズは綴ったわけである。
(「黒人史の栄光」の編註者に送られた写真)