つれづれに:深い河?(2022年10月13日)

つれづれに

つれづれに:深い河?

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 アフリカから無理やり奴隷として北アメリカに連れて来られた人たちは英語もキリスト教も強要されて、自分たちのアフリカの言葉を奪われた。もちろん抵抗する人もいたが、そのうち日曜日には教会に行くようになった。教会では白人の聖歌隊(Choir)が歌う讃美歌(Hymn)などの教会音楽を聴かされた。「深い河」もその一つで、歌詞は旧約聖書「出エジプト記」から来ている。

深い河 故郷はヨルダン川(↑)の向こう岸/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground. / 福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ / 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

ポール・ロブソン

 モーゼが神から使命を受け、エジプト(↓)のヘブライ人を連れ出し、辿り着いた約束の土地カナンの東の境界がヨルダン川だったわけである。故郷に戻りたいと願うヘブライ人にとっては、ヨルダン川は故郷に戻る前の障壁だった。

 白人のスピリチャル「深い河」を聴いたとき、奴隷たちはエジプトに捕らわれたヘブライ人たちの境遇を自分たちの今に準えた。故郷のアフリカ大陸に戻りたいが、その間には深くて広大な大西洋がある。奴隷にはそれが「深い河」、歌詞のヨルダン川(Jordan River)で、アフリカ大陸と北アメリカの間にある大西洋(↓、Atlantic Ocean)だった。

 奴隷たちにとって「深い河」の意味は時代とともに変わってゆく。南北戦争のころは、奴隷州と自由州の間に流れるオハイオ川(↓)が「深い河」だった。有名なストウ(Harriet E.B. Stowe, 1811-1896)の『アンクル・トムの小屋』の中に出て来る川で、奴隷売買の話を立ち聞きした若い母親イライザが逃亡中に息子抱いて裸足で流氷の上を渡ったオハイオ川である。奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとったケンタッキーと、自由州のオハイオの間を流れていた。北極星を見ながら北部に逃亡するとき、オハイオ川が「深い河」だった。その後、アメリカとカナダの境の5大湖が「深い河」になった時期もあるようである。

 南北戦争が起きたのは、それまで独占していた富を巡って国が真っ二つに分かれて利害が対立したからである。いわゆる市民戦争 Civil War で、この時期の戦争は南部と北部が戦ったので南北戦争と言われる。南部は大農園主が富を独占し、議会制民主主義を利用して民主党を作り、代弁者を首都ワシントンに送って16代まで大統領を独占していたが、奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こしてから事態は変化して行った。産業化に成功した産業資本家が北部で台頭し、共和党を作って民主党と拮抗するようになっていた。1860年の総選挙でリンカーン(↓)が大統領になって、南部は奴隷制を守るために南部諸州連合を作って合衆国を離脱し、南北戦争となった。産業資本家には労働力が必要で、南部にいる奴隷は魅力的だった、奴隷制を廃止すれば北部に奴隷が労働力として流れる。そのためには奴隷制を廃止する必要があった。南部の寡頭勢力は基盤の奴隷制を廃止するわけにはいかない。それが原因だが、銃で殺し合いをして片方が殲滅するまで戦えば、お互いに被害が大き過ぎる。形だけ奴隷を解放して、戦争を止めるしかない。それだけ双方に力の差がなかったということになる。従って、奴隷解放宣言は形式的なもの、奴隷には土地もなく、食べるものもなく、仕事もなく、結局奴隷から名前が小作人(share-croppers)に変わっただけだった。現物支給の低賃金、他に道はなかったのである。北部に行こうにも、体制側の番犬として雇われた貧乏白人の警ら係やKKK(奴隷狩りや奴隷監督や奴隷調教人をしていたような人たち)に阻まれて、実際には移動も叶わなかった。

北部の連邦諸州(自由州)はメイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、オハイオ、ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン、アイオワ、ミネソタ、カンサス、オレゴン、カリフォルニアの19州である。1980年代に6度渡米したが、私が行ったのはニューヨーク、ニュージャージー、オハイオ、イリノイ、カリフォルニアの6州だけである。

奴隷州ではあったが北部との結びつきが強く、中立策をとった境界州はデラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)の5州である。

南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州)はヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソー、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、テキサスの11州で、通常、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、サウスカロライナの5州は「深南部」(Deep South)と言われる。私はテネシー、ミシシッピー、ルイジアナに少し行っただけである。わずかに9州しか行っていない。アメリカはとても広い。

1864年アメリカ地図

 国内でも行っていない県は多い。北半分はほどんど行っていない。行ったからどうと言うことはないが、さまざまな人が暮らしているわけである。生きても30くらいやろと早々に諦めなければ、行ってみたいという好奇心に動かされて、多くの人がやっているように大きな学会を利用して公費で全国を回っていたかも知れない。あとからなら何とでも言える。

十年余り暮らした明石はほぼ日本の真ん中、明石城を軸にした城下町だった