つれづれに:研究費(2024年4月8日)

つれづれに

つれづれに:研究費

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 授業で使う映像を録画するのに衛星放送の工事をしてもらったが、研究費を使えるのは有難かった。研究室や自分のテキストもそうだったが、非常勤の時にはなかったものである。研究室に学生が来るというのも考えもしなかった。非常勤で行く場合、非常勤講師室に寄ることはあったが、大抵は講義室にいることが多かった。非常勤なのでと、何かの相談や雑談に来る学生もそういなかった。講義時間の少し前に行って、講義が終わるとすぐに帰るというのが普通だった。最初の常勤の話が駄目になったあと、推薦してくれた人が気を遣ってまた常勤の話を持って来てくれた大学は、英語などの教養科目は9割ほどが非常勤だと誰かが言っていたが、その割には非常勤室がよかったという印象はない。その点、先輩の世話になった大阪工大では、LL教室を使わせてもらったので多少居心地がよかった。予算をつけた補助員3名のうちの誰かがいて、いっしょに話を出来たからである。夜間の授業のある日は、外に出て道路脇の店屋で夕食をいっしょに食べた。関西はどこに入っても味はまあまあで、うどんや丼もののその店もどれもおいしかった。

大阪工大

 研究費は使い勝手があった。テレビやビデオデッキなど以外にも、文房具などの消耗品も買えたし、図書の購入や雑誌の定期購読にも使えた。今は本屋が回ってくることはないが、当時は紀伊国屋の福岡支店か鹿児島支店の人が、注文を取りに研究室を回っていた。その人に頼めば、事務官が手続きや支払業務をしてくれた。統合して初めて知ったが、事務官がコピーや印刷をしてくれたり、事務手続きをしてくれるのは医学部だけだと知った。本学のセンターに再任されたあとは、教養の大きなクラスの印刷も、自分でする必要があった。1クラス400人を超えたクラスの印刷物は、運ぶだけでも大変だった。全学で持つ教養の教官が使う印刷室にはコピー機が3台か4台しかなく、混むのも待つのも好きでないので、土曜日か日曜日に行って印刷することが多かった。家が近いからよかったものの、最初の借家のときのように20キロも離れていたら、ひと苦労あった気もする。共通科目は全学共同体制で出発したので強制力はない。意欲もそうだが、わざわざ本学まで行き、資料の印刷までして教養科目を進んで持つ人がそう多くいるようには思えない。教養科目が大事だ思わない多くの学生と持つ意欲に欠ける教員という全学無責任体制のなかで、南アフリカ概論やアフリカ系アメリカの歴史と音楽などの150人クラスを毎年2つ以上は持っていた。カリキュラムが変わって学士力発展科目で履修出来ない学生が溢れた時は、見兼ねて半期1000人ほどを担当したこともある。自分でぜんぶ背負うつもりでいたのか。

旧宮崎大本学キャンパス

 旅費に研究費が使えるのも有難かった。小説を書くために大学の職を探したので、基本的に研究は考えてなかったが、大学にいるとそうもいかなかった。それで、研究をしている振りをしていたが、その研究まがいの費用に旅費が使えたのは有難かった。神戸外大と吹田の国立民族学博物館には「資料探し」で世話になった。外部資金で予算が増えるようになってからは、東京外大のAA研と国立国会図書館でも世話になった。名古屋大の中央図書館を利用したときには、図書館の違いを実感した。あれだけ手厚いサポートがあれば、研究まがいでも恩恵にあずかれたかも知れない。

東京外大

 人件費で謝金が使えるのも有難かった。教授になるまではそれほど余裕はなかったが、外部資金も使えるようになって謝金を使わせてもらった。看護学科の人は医学科ほど恵まれず、海外実習でタイに行く費用も大変そうな人もいたから、資料の整理などを手伝ってもらって旅費滞在費分の謝金を出した。医学科でもごく稀に経済的にきつい学生もいたからその人や、留年したひとなどに謝金を出した。一時他学部からの要請で、日本語支援教育専修の設立と授業を手伝った時には、卒業して非常勤をしていた人たち何人かに謝金を出した。修士課程を出ても、日本語支援の就職先がほとんどなかったからである。その人ちには、留学生用の冊子の英訳や編集、医学用語の冊子作成などを手伝ってもらった。

永年に渡って、いろいろと、ずいぶんと研究費には世話になったというわけである。

宮崎医科大学(今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)