つれづれに:衛星放送(2024年4月7日)

つれづれに

つれづれに:衛星放送

 2冊目の編註テキスト(↑)の装画は衛星放送BS2のニュースの場面を見て妻に描いてもらったが、衛星放送にはずいぶんと世話になった。医学科の授業で映像や音声をたくさん使っていたからである。当時、研究費で定期購読していたアフリカ系アメリカに関するエボニー(Ebony)という雑誌や、日刊英字新聞Daily Yomiuriや南アフリカの週刊紙Daily Mailなどの活字以外に、衛星放送の音声と画像はことの他役にたった。

1995年のエボラ出血熱の特集記事

 1988年に赴任した当初はまだビデオテープやカセットテープの時代で、画質もよくなかった。ビデオテープもまだVHSとβが半々の時代である。両方のテープがあったので、編集にはデッキが2台ずつ必要だった。世話になった大阪工大のLL教室には音声機器と、教室付き補助員3人の予算も先輩がつけていた。テープの複製や編集を頼んだ。次回には出来ていたので有難かった。専任になってからの授業でも使わせてもらった。私は深くその恩恵にあずかっていたわけである。

大学に来た当初、研究費は出てはいたが、それぞれ2台を購入するだけの予算はなかった。旧宮崎大学と統合して教授180万が一気に40万ほどに減って、医学部の予算が多かったのを知ったが、赴任当初は配分されたものを使うだけだった。多いとか少ないとかは考えたことがなかった。外部資金も世話してくれた理系の人に言われて締め切り間際に慌てて出しただけで、本当に研究費が出るとは思ってもいなかった。実際に単年で100円出ると通知があったとき、ほんまに出るもんなんやというのが正直な感想だった。その予算でも、一年ではデッキ4台は買えなかった。助教授は120万で講師はそれより少なめ、それになぜか語学の教官は他の教官の半分だと言われた。大学内の力関係で決まっていたのだろう。教授会には教授しか参加しない中で、新任の教師が内実を知る術はない。デッキはまだ20万以上する高級品だった。

 授業用に大きなテレビも購入した。大きな講義室にはビデオを拡大して白いスクリーンに映すプロジェクターがあったが、まだ映像の性能はよくなかったので、分厚い暗幕をきっちりと閉めてもそれほど鮮明な映像にはならなかった。従って、1クラス25人の教室には、台車にテレビとビデオデッキを乗せて運んだ。できるだけ前に座ってもらって授業をすれば、顔もよくわかるし、マイクを使わなくて済む、と考えたのだろう。

研究室で衛星放送が見られるように工事をしてもらった。録画も編集も謝金を出して手伝ってもらうようになったのはずっとあとのことで、その頃は録画も編集も自分でやっていた。衛星放送で一番世話になったのはニュース番組で、マンデラの釈放前後にはBBCやABC、その後エボラ出血熱騒動やエイズではCNNなどをよく録画した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 ニュース番組のほか、NBAのマイケル・ジャクソン(↓)やMLBの野茂や、アフリカ系アメリカ史の公民権運動やブラックミュージックや医療に関するドキュメンタリーもたくさん録画して編集した。のちに、パソコンを使うようになったとき、ビデオテープの映像や音声をファイルにして、授業で使えるように編集をした。研究費を充分に使わせてもらえたのは有難かった。

1997年NBAファイナルズ第1戦