つれづれに:運動クラブ(2022年3月29日)
つれづれに:運動クラブ
キャンパス全景(同窓会HPから)
学内全体に漂う自由な雰囲気もよかったが、思いがけなく入った運動クラブは、思っていたよりも自由で居心地がよかった。社会活動を優先して敢えて運動クラブには入らなかった高校の時の反動で、可能なら何か運動をしたいと思っていた。今なら他のスポーツを選んだかも知れないが、入学した時点では、中学校で中途半端に終わっていたバスケットボールをもう一度やりたい気持ちが強かった。しかし、放課後練習するにしても仕事に差し支えない程度にしかやれないだろうし、遅くなれば帰りの電車がなくなるし。昼間の人といっしょにやれればいいが、体育会系の色合いが強いかも知れないし。そう思いながら、体育館を覗いてみたら、180センチ以上もありそうな恰好いい人が一人で黙々とシュートを打っていた。リングの近くまで近づいて、Ⅱ部でも入部出来ますかと声をかけた。Ⅱ部の部員がいたこともあるから大丈夫、練習は月水土の午後の2時間やで、とその人から返事が返って来た。それと、体育館は土足禁止やから靴は脱いで入って来てや、と足元を見ながら言われた。文字通り、足元を見透かされている感じだった。先輩風を吹かされたら反抗してやるぞと身構えていたのに、その必要はまったくなく、拍子外れに終わってしまった。嬉しい誤算だった。あとからその人が4年生で、3年生の時は主将をしていたことを知った。
いっしょに練習を始めたら、背が高いうえにプレイもなかなかだった。たま、いっしょに掃除しようや、と練習のあとは全員でさっと掃除をした。お前ら掃除しとけよ、という先輩たちでなくてよかった。練習中は厳しく、コートに入ったら普段とは別人になれ、2時間はプレイのことだけ考えて集中しろ、と言われたが、全員その通りで、逆らうも何も、すべてすんなりと受け入れてしまった。3年生の主将が冬休み前に怪我をして見舞いに行ったとき、お前シュートが特別よう入るわけやない、そう速う走れるわけやない、けど、たま、お前が主将やれ、と言われた。本来主将をすべき学年の人が大学から始めたので主将の自信はなく、2年生の二人が中途半端で、というチーム事情もあった。一年から?という気持ちも少しあったが、中学校でも2年生の早い時期にキャプテンをやらされていたので、またかという気持ちで言うことを聞いた。一年生の終わりに主将を引き受けるチームだけのことはあった。その次の年の春の大きな大会では一回戦で当たった2部1位の大阪経済大とあたり、開始から40対0。180以上の人が多い相手に、悉くシュートをカットされて速攻を決められた。あんまり惨めな思いがしたので、一人でドリブルで相手コートまで行って初得点、割れんばかりの拍手喝采だった。夏の関西学生リーグ戦(最下部の4部)では12戦全敗、4年生の元主将が留学先のアメリカから戻って試合に出てくれた最終戦の滋賀大との試合だけ、96対60の大差で勝った。4年の先輩が取ってくれたリバウンドを僕が先に走って入れただけだったが、56得点、後にも先にも50得点を越えたのはその試合限りである。リーグ戦より短期のアメリカ留学を優先、が当たり前の雰囲気だった。一つ下の主将も、夏のリーグ戦の時はスペインにいて試合には参加しなかった。
毎月のようにOB戦があった。割と背の高い人も多くチームとしても強かったらしいが、毎回僅差の試合だった。終わったあとは学生会館で食事をしたが、OBが酒を無理強いすることもなく、現役が食事代を出すこともなかった。みな紳士で、なぜか松下電器貿易に勤めている人が多かった。大学には語学文学コースと法経商コースがあって、全般には法経商コースから大企業や大手メーカーなどに就職している人が多かったようだ。OBも含めて誰からも体育会系のにおいがしなかったのが何よりだった。
一年生の時は出来る先輩といっしょにプレイをしたので練習自体が楽しかったが、キャプテンになってからは、プレイングコーチ的な役割も多かったので、プレイ自体を楽しめなかったように思う。しかし、運動クラブに入ってよかった、素敵な人たちの集まりでよかった、という思いは残っている。
授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)
入学してから半世紀ほど経っているので、大学の環境も大きく変わっている。神戸市の東の端にあった二階建ての木造校舎も西の学園都市の高い建物に代わっているし、だいぶ前に大学のホームページで見つけた旧校舎の写真も、今はホームページには載っていないようである。体育館の写真はないかと同窓会のホームページを探してみたら、50年史か何かの中に旧校舎の写真が掲載されていたが、体育館の写真は見つからなかった。上の写真の講義棟の奥の建物、右端に一部が見える4階建ての建物が部室会館で、その右隣が体育館だった。一番上のキャンパス全景の写真では手前の大学会館と講義棟の間にある大きな建物がよくわかる。入学を決めたときに写真を焼いた影響を引き摺っていたので、大学の時の写真もほとんどない。卒業式に行ってないので、卒業写真も見たことがない。小説を書くと決めていたわりには、資料として写真くらいは残しておくべきだったような気もする。今回いろいろ書いて見て思うのだが、以前に比べてウェブで探せる度合いが格段に高くなった。しかし、その時にしか残せないものもある。あとの祭りである。
次回は、牛乳配達か。