つれづれに:一般教養(2022年4月8日)
一般教養
六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)
一般教養科目も→「第2外国語」(4月4日、→「ロシア語」、4月5日)、→「英会話」(4月7日)と同じように、高校までなかったものの一つだった。体育もあった。正職員として昼間働く夜間学生にとっては、授業の中で運動が出来るのは楽しみだったかも知れない。昼間の学生といっしょに運動クラブで練習をしていなければ、もっと新鮮だったと思うが、それでもそれなりに楽しかった。検察庁の事務官をしていたクラスメイトと帰り道でも気軽に話をするようになった。身長のあったクラスメイトがリバウンドを取り、私がパスを受けて得点することが多かった。法経商コースを取り、4年で卒業して大手の電機メーカーに就職したことを得意そうに自慢していたので、いっしょにプレイしていなければ話をしていなかったような気がする。「内定をもらったあとの二人は阪大と市大やった」と嬉しそうに言っていたから、神戸の経済を二度落ちて傷ついていた入学時の自尊心を、ある程度は回復出来たのではないか。→「夜間課程」(3月28日)
事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)
すべて選択制だったが、選択の幅はそう広くなかったように思う。地理学、心理学、哲学を取ったが、学年全体の定員がそう多くなかったわりには、地理学と心理学はかなり大きな教室に学生もたくさんいたように思う。哲学は敬遠されたのか、受けている学生はそう多くなかった。3科目とも自分の専門分野の入門的な色彩が強く、浅く広く、だったような気がする。ただ、一年目は前期の学舎封鎖のお陰で、一般教養の科目は出席をあまり問わなかったので、授業にはほとんど出ていなかったのに試験を受けることが出来た。特別準備もしていかなかったので、心理学は全くのお手上げだった。行きの電車で偶に会っていた隣のクラスの人に、お手上げなので写してもええかと聞いたら、ええでと言ってくれたので、丸写しで出した。良だった気がするが、担当者が見逃してくれたのか、答案を読んでいなかったのか。
地理学と心理学は普通の人のようで、話はつまらなかった。哲学は出ている学生も少なく、マイクなしに終始ぼそぼそ話すので聞いている学生もそう多くなかったようだが、聞き取れる場所まで言って聞いてみると、なかなか内容は面白かった。哲学を説明するには哲学的用語を使わないと説明が出来ない、というようなわかったようでわからない話を、聞こえないくらいの声でぼそぼそと言っているのがよかった。教えてやっているという高慢な姿勢はなく、聞いていなくても、淡々と自分の思ったことをしゃべる、そんな感じだった。一度だけ、黒っぽいコートを着た哲学的な顔のそこの君、と名指しで質問された。何を聞かれたかは覚えてないが、右端のいつも同じ席に座り、何も持たず、コートのポケットに手を突っ込んだままじっと見つめるように聞いている姿が目に映ったんだろう。
今と違って映像や画像や音声を使う人はいなかったので、100分間しゃべり続けるのは、結構難しかったはずである。内容が濃いか話し方がうまいか、そうでないと学生は話を聞こうとしない。そこは今も同じだ。
キャンパス全景(同窓会HPから)
ただ、世間や常識の枠内にいなかった私のような学生がいるのも困ったものである。40年ほど大学の授業を持って強く感じたのは、一般教養は大切である、だから、皮肉なものである。宮崎医科大学では教養の教官として採用されて、教養科目の英語の授業を持った。(→「宮崎医科大学 」、2020年4月20日)旧宮崎大学との統合では共通教育(一般教養)が目玉の一つだったが、教師も学生も一般教養を軽く見る傾向は実質的に変わらなかった。共通教育を持つ教員側は全学共同体制で出発したが、名ばかりの無責任体制、担当しても担当しなくても給料は同じ、従って科目数が増える筈もなく、学生の選択肢は極めて少ないままだった。内容が面白くなければ、学生も興味の持ちようがない。統合時、教養担当の会議にも出ていたので根本的に変える努力をすべきだったが、両学長が文部省に呼ばれて恫喝されたあと急発進した統合までの期限も一年半、全体の会議の他に入試の会議にも駆り出されて、共通教育まで手がまわらなかった。違う制度の擦り合わせは想像以上に手間と時間がかかる。共通教育は旧宮崎大学の制度をそのままま援用したが、職場の権利を主張する組合の強い大学の教員が作っただけのことはある、基本的に教師向けに作られていて、学生の方を向いていなかった。そこまでは手が回らず、申し訳ないことをした。
そんな思いもあって、統合後の共通教育の科目も、退職後の学士力発展科目も、可能な限りたくさん持った。半期で1000人近く、1クラスが500人を超えたこともあり、その時は、課題を読んで成績をつけるのに2か月もかかった。期限までに成績が出せないのではないかと心配しながら、せっせと課題を読み続けた。学生の頃に、世間の枠外にいて関われなかった償いの気持ちがあったのかも知れない。中高で意図的に、無意識に避けられてきた話題で、聞く側の自己意識に届くような内容を心掛けた。一方的にしゃべり続けるのではなく、聞き手の話にも耳を傾け、新聞や雑誌、映像や画像を目一杯使った。慣れないパソコンも使うようになった。視覚や聴覚にも訴えれば、ある日ぱっちりと眼を開き、聞いてる人が自らの足で歩き出すかも知れないと、ひそかに願っていたと思う。
宮崎に来た頃の宮崎医科大学(大学ホームページから)
次は家庭教師、か。