つれづれに:雑誌記事(2022年9月12日)
つれづれに:雑誌記事
1988年4月に「宮崎に」来る頃にはだいぶ雑誌に書いた記事も溜まっていた。大学の職を探そうにも、構造的に途中から博士課程(→「大学院入試3」)に入れてくれないみたいだったので、教歴と業績を少しでも積んでいくしか道はなく、浪人の期間が長くなった分、業績も溜まっていたというわけである。研究誌以外で書いていたのは門土社の雑誌「ゴンドワナ」である。創刊号の表紙(↑)には1984年9月と印刷されている。実際に発行された年月と数字は必ずしも一致してはいないが、雑誌は発行されて実物も残っている。最初に「横浜」で社長さんと会う少し前くらいに創刊されていたようである。A5版(A4の半分)32ページで、定価が600円、ハイネマンナイロビ支局のヘンリー・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿もある。どれも原稿料なしである。エンクルマの翻訳などを精力的に出していた理論社のα(アルファ)でさえも7号で廃刊している。アフリカ関係のものは売れないのだから、出版されただけでも奇跡に近い。
貫名さんの追悼号(↑)が1986年6月で、そのあと7号(↓、1986年7月)に記事を二つ書いた。「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」は、ミシシッピの会議で会ったファーブルさんから届いたAfram Newsletterの中のラ・グーマへのインタビュー記事を日本語訳したものである。パリにはフランスに植民地化された国から人が集まっているが、ラ・グーマにインタビューしたサマンさんもその中の一人である。住所を教えてもらってコートジボワールに手紙を書いて、諒解をもらった。「アフリカ・アメリカ・日本」は当時の南アフリカを巡る状況を書いたものだが、その時点では、すぐあとにマンデラが釈放されて、アパルトヘイトが廃止されるのは推測の域を出ていなかった。
その後、8号(1987年5月)、9号(6月)、10号(↓、7月)で、ラ・グーマの作家論を書いた。(8号→「闘争家として、作家として」、9号→「拘禁されて」、10号「祖国を離れて」)1987年12月の「MLA」に向けて準備している時にまとめたものだ。10号ではラ・グーマの伝記家の訪問記が出ている。発行年月は1987年7月だが、訪れたのはその少しあとである。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」
11号(1988年4月)にはエイブラハムズさんへの手紙の形式で「遠い夜明け」(↓)の映画評を書いた。1988年に医学科で授業をするようになってから、必ず「遠い夜明け」を見てもらうようになっていた。最初の年はまだ字幕版がなかったので、その前の年に「ニューヨーク」で買ったVHSの英語版を観てもらった。当時はプロジェクターの質も悪く、分厚いカーテンを閉め切って真っ暗にしないと見え難かった。2時間40分もある長編映画なので、字幕なしで大丈夫かと心配したが、暗い中で目を凝らして見る限り、寝ている人は誰もいなかった。「わいABCもわからへんねん」という大阪の私大(→「二つ目の大学」)では授業そのものが成立しなかったので「長い映画を、それも字幕なしの英語版を暗い中でつけても誰も寝てないわ」と思うだけで感激して、天国に思えた。
亡命を強いられたエイブラハムズさんや他の南アフリカの人たちと映画の中のウッズが重なって、涙が止まらなかった。暗かったので見られなくて済んだ。今は学生が映像に慣れてしまっているからか、寝てしまう人も多い。今は昔である。その当時「映像を使っていたのは、たまさんだけだった」と、研究室に来てくれていた当時2年生の次郎さんから聞いた。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」
他にもこの時期に何本か書いている。いざと言う時に備えて業績が要ったとはいえ、3年足らずの間に、研究誌の他にもたくさん書いていたわけである。週に16コマの非常勤に行きながら、いつ決まるともわからないままの浪人の時期だった。