つれづれに:こむらど委員会(2022年8月6日)

2022年8月6日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:こむらど委員会

 「MLA(Modern Language Association of America)」の発表を「ラ・グーマ」(7月27日)ですると決めて準備しているとき、政治的な構図がぼんやりと浮かんで来るようになっていた。『アフリカは遠いか』(↑)を書いた楠原彰さんではないが、日頃意識しない限りアフリカは遠い存在である。新聞でも雑誌でもテレビでもごく僅かしか報道されない、ように見える。私の場合、新聞も雑誌もテレビもほとんど見なかったから尚更である。1980年代の初めにエチオピアで今世紀最大の旱魃で大勢の死者が出たことも、イギリスではバンドを組んでライブエイド(↓)で募金活動をしたり、マイケル・ジャクソンが曲を書いた「ウィアーザワールド」(7月16日)を大スターが集まって歌ったことも知らなかった。

 しかし、ラ・グーマの作品を理解するために歴史に関する本を読み始めてみると、嫌でも南アフリカと日本の関係を考えるようになっていた。1960年の初めに日本は高度経済成長期に突入して目に見えて日頃の生活が豊かになっていくのを体験していたが、南アフリカが同じ時期に暗黒時代に突入したのは知らなかった。主にオランダとイギリスからの入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安い賃金で鉱山や大農園や召使として白人家庭で扱き使った。つまり、南部一帯(↓)に極めて安価な賃金で扱き使える非正規短期契約労働者を無尽蔵生み出す一大搾取機構をうち立てていたのである。選挙権も含め基本的人権を完全に無視する白人政府にアフリカ人が抗議して立ち上がったとき、その一大搾取機構を守るために、軍事と警察の予算を増強して全面的にアフリカ人を押さえ込みにかかった。僅か15パーセント足らずの白人側が多数派のアフリカ人を抑え込めないのは誰にでもわかる。抑え込めたのは、白人政府の一大搾取機構に群がって莫大な利益を貪り続けていたアメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などの良きパートナーによる全面的協力があったからある。世界的にも第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ諸国から独立しようとアフリカ大陸には「変革の嵐」(The Wind of Change)が激しく吹き荒れていた。南アフリカでも「変革の嵐」に乗ってアフリカ人側は白人政府に果敢に挑んだが、結局抑え込まれてしまった。

 1960年のシャープヴィルの虐殺(↓)を機にアフリカ人側は武力闘争を始めたが、結局南アフリカを救えるソブクエやマンデラなどの指導者は殺されるか、逮捕されるか、国外逃亡するかで、地上には指導者がいなくなり、暗黒の時代が始まった。「ラ・グーマ」(7月27日)やエイブラハムズさん(→「1」、→「2」、7月30日~31日)もこの時期に亡命を余儀なくされている。アフリカ人には、白人政府と良きパートナーの欧米諸国と日本は同罪だった。富国強兵で産業化を目指し、欧米諸国に追い付き追い越せの国策を取る日本にとって、豊かな資源を持つ南アフリカの安価な原材料は不可欠である。国民には政治的実態に気づかせない政策も必要である。アフリカの情報が少ないのは、そういった国策の結果で、大半の人はそれに気づくことはない。豊かになって行く生活を享受しながら「アフリカは貧しい、ODAで援助して助けてやっている」、と考えている日本人が実際には多い。自分が加害者の側にいるなどと、考えたこともない。

 こむらど委員会は反アパルトヘイト委員会の大阪支部だった。「ライトシンポジウム」(7月22日)のあとファーブルさんから届くようになったAFRICAN NEWS LETTER (仏文) の中に1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在していたラ・グーマのインタビュー記事(1987年1月24号)が載っていので、雑誌に日本語訳を紹介した。(→「MLA」、8月3日)同時期にアリューシャの会議に出席していた野間寛二郎さんはラ・グーマに「日本のインテリはアパルトヘイト体制に何をしていますか?黙っているとしたら、加害者と同じです」と厳しく問われて何も言えず、戻ってから後の反アパルトヘイト委員会の人たちと活動を始めたと述懐していた。野間さんは南アフリカに関しても『差別と叛逆の原点』(1969)を書いているし、アフリカで最初に独立したガーナの首相になったクワメ・エンクルマ(↓、小島けい画)の本をたくさん日本語訳している。一つのアフリカを夢見て祖国を独立に導いたものの毛沢東とベトナム戦争終結に向けて話し合っている時にクーデターが起こり失脚、その後ガーナに戻れないで1972年にルーマニアで死んでいる。私も出ている本はほとんど集めたが、膨大な量である。その本を何冊も日本語訳して理論社からシリーズで出版されている。歴史的な宝物である。あとがきに、わからないところはガーナの大使館に通って教えてもらったと書いている。その姿勢が後の反アパルトヘイト委員会を生んだような気がする。私は手紙を書いて会員になり、担当の人から毎月会報のようなものを受け取るようになった。いろいろな案内もあり、集会に出かけた。1980年代後半なので、アパルトヘイト政権の終わり頃のことである。
次は、「遠い夜明け」、か。