つれづれに:紀要(2022年7月18日)

2022年7月17日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:紀要

 大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)に通い始めて一年目が過ぎたころ、先輩から「紀要に書くか?」と言われた。2年目からは昼の授業も加わり、出講日が2日になった。補助員3人ともずいぶんと仲良くなり、「LL教室」(7月12日)での授業時間も増えていた。気軽にカセットテープのダビングやビデオの編集も頼んだ。ダビングや編集には時間がかかるが、謝金が払われている時間内にやれるので頼みやすかった。予算を確保してくれていた先輩に感謝である。ESSの顧問になって、代々の部長と部員を毎年3名補助員に採用していた。お蔭で、大学にいる時はLL準備室で補助員の誰かといっしょだった。他の大学の非常勤ではこうはいかない。ロッカーを使うために部屋に入る時もあったが、大抵は授業をする教室か、キャンパスのベンチに座るかして時間を過ごした。元々たくさんの人は苦手なので、知らない人と話す機会を作らないようにしていたのかも知れない。

 紀要は大学専用の研究誌らしかった。大学に入る前も業績が必要だが、中に入ってからも業績が要るらしい。いわゆる研究成果である。後に医学部に行くことになって、文科系とはずいぶんと仕組みが違うと肌で感じた。黒船に脅されて開国したので、西洋に追い付け追い越せの富国強兵策を取るしかなかった。信長が堺商人に武器を集めさせて戦った長篠の戦いは当時の最大規模の銃撃戦だったらしいが、その時点では世界有数の武器保有国だったわけである。しかし、鎖国している間に、西洋諸国は奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こし、産業社会に突入していた。安価な原材料と労働力を求める植民地争奪戦は熾烈を極めたので、当然武器も格段に優れたものとなり、維新の頃には旧来の体制を破るほどの威力があったということである。植民地化されないためには産業と軍隊が必要で、国家予算も多く流れる。産業化で需要の高い工学部にも当然多くの金が流れ、優秀な人材が集まる。今でこそ医学部偏重が強くなっているが、明治初期には、工学部と医学部の大学での予算はほぼ同額だったと聞く。いまだ東大だけはその名残りをとどめているらしい。文科系のようにテーマがどうの、作家がどうのと証明のしようがない似非研究と違って、実験データに基づく研究論文はごまかしがきかない。極めて実利的で利益と直結している。大学では研究成果が求められ、研究促進のための紀要が不可欠である。しかし、それは正職員のためのもので、非常勤に声をかけてもらえるとは思っていなかった。「黒人研究」(↑、→「黒人研究の会」、6月29日)と「言語表現研究」(↓、→「言語表現学会」、6月30日))に加えて三つ目の活字にする場が確保出来たわけである。

 文科系の場合、1年か2年に1本書ければいい方と言われていたようだが、浪人中の身だったので、出来るだけ稼いでおく必要がある。その点、紀要はありがたく、書けば載せてもらえて活字になるようだった。いい機会だったので、今までの書いた分を英語訳して載せてもらうことにした。その時はそう深く考えなかったが、後にアメリカの学会に行ったり、医学部に決まってからは、英語で書いたものが大いに役に立った。医学科ではペーパーは、英語が当然で、日本語だと評価が低かった。大半が理科系の中では、理科系の流儀で評価されるので、それに合わせるしかない。教授会でも、業績の基本は英文で年に5本が普通だったので、ずいぶんと鍛えられた気もする。ただ、いっしょに研究したことにして名前を入れる分も含めての論文も換算されるんで、その点は、文科系とは基本的に違うようだ。

 日本語訳や英語訳を実際にやってみればしみじみ感じるが、日本語が如何にできるか、英語が如何に出来るかを嫌でも思い知らされる。単語や語句が再生産(アウトプット)出来るようになるまでに時間がかかり、どれくらいの蓄積があるかが問われる。「地下にひそむ男」や『アメリカの息子』の擬声語表現を英訳したが、言語学に関する英文を読んだ貯えのなさは隠しようもなく、ほんとに苦戦を強いられた。院の「同級生」(→「修了と退職」、7月9日)を頼りに日曜日まで押しかけたのは、その悪あがきの結果である。心配していた娘さんにも「同級生」にも申し訳ないことをしたと思う。人に迷惑かけてばかりの人生だったなあと少し哀しい気もする。院も受けてみるかと準備したときに(→「大学院入試」、5月10日)英作文や英語学も少し齧ったが、その時の乾亮一の「擬声語雑記」(↑、→「英作文2」、5月7日)やオットー・イェスペルセンの「サウンド・シンボリズム」などが役に立った。

 大阪工大学非常勤2年目の1984年に“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”(↑2年後の1986に、“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son"(↓)を載せてもらった。

 1988年の4月に宮崎に行くまでにあと2本を出してもらった。すべてたくさんの抜き刷り付きである。

 “Richard Wright and Black Power”(↑1986)と「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(↓1988)も出してもらっている。最後の論文の出来上がりは、宮崎医科大学に決まってから着任するまでの間だった。教歴に加えて、「黒人研究」と併せて業績まで、先輩のお陰である。
次は、二つの学院大学、か。