つれづれに:体の悲鳴(2022年7月3日)

2022年7月3日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:体の悲鳴

 危うく死ぬところだった。ずっと体が重く、背中や最後辺りは頭の先まで痺れていた。背中を伸ばして寝られないことが多かった。黒髪も半分は白髪になっていた。大学(↑、→「夜間課程」、3月28日)でバスケットボール(→「運動クラブ」、3月29日)を始めてからは鍛えるためにずっと体を動かしていたのに、採用試験の準備を始めてからは(→「採用試験」、5月8日))、憑りつかれたようにほとんど座り詰めだった。一年間、ずいぶんと無理を続けた。一年が終わる頃から、その兆候はあった。

教員で学校に行き(→「新採用一年目」、5月18日)、結婚もして子供が出来(↑、→「明石」、→「中朝霧丘」、6月17日)、毎日が一杯一杯だった。ずっと、体が悲鳴をあげていた。若さで持ってはいたが、そろそろ限界に近かったらしい。わたしには弟が二人いる。上の弟の結婚相手は看護師で、結婚を機にしばらく同居したことがある。その弟夫婦が心配して、看護師仲間の話を聞いて「兄貴、かなりきついマッサージらしいけど、行ってみるか?」と勧めてくれた。そう期待していたわけではないが、体も辛かったし、思い切って訪ねてみることにした。明石市の北隣にある三木市の住宅街(↓)に治療院があった。住宅の一室が治療室で、縦長の治療台が二つ、間にドーム型のサウナが置いてあった。治療室の隣に待合室も兼ねた狭い事務所があった。座頭市の主人公のような小太りの中年の人だった。最初に血圧を測って、太い指で私の足の甲をぐっと押しながら「よかったでんな。あとにふた月ほどでクモ膜下でしたな。あぶないとこでしたで」が第一声だった。34歳の時である。血圧は上が120で、下が15だった。

 「すべて、血液とリンパの流れでんな。下が15て、血液がまともに流れてまへんがな。ほんま危なかったでっせ。最初は一週間ごとにきてくれまっか。少し落ち着いたひと月にいっぺん、ようなったらふた月に一回くらいでよろしいでっしゃろ。」先にサウナで体を温めるように言われた。一人用のドーム型のスチームサウナである。うつ伏せになり、肩の辺りまで中に入った状態で1時間ほど、だいぶ汗をかいた。次に電動式のローラーに乗るように言われた。胸と足首の辺りに重しを三つずつ置いて、30分ほどだったと思う。最初なので、背中が痛かったが、我慢できないほどではなかった。それからマッサージが始まった。両脚が最初だった。太い指が筋肉の中まで食い込んで来る。弟の言葉通りかなりきつい。サウナとローラーの時に別の治療台にいた人が「あたたたたーっ、あたたたたーっ・・・・」と大きな声を連発して痛がっていたので、少し意地になって、声を出さないと決めて我慢した。太腿と足の裏など何個所かは肘と全身を使ってぐりぐり、ぐりぐり、結構中まで食い込んで来る。肘と骨が接触するくらいの感じだった。「調子がようないと痛いでっしゃろ。ようなったら気持ちようなりまっせ。脹脛(ふくらはぎ)だけは、ようなっても痛(いと)うおますけどな。」太い指が筋肉の中に食い込んだ。終わったら、ふーっと気が遠くなるような感じだった。次に両腕、最後に肩から腰と尻、要所要所で肘を使っていた。ぐーっと奥まで肘が入ってくる尻の痛さも、また別格だった。逃げようがない。ようそんなに痛いとこ見つけるもんやなと思うほどの2時間だった。歯を食いしばって最後まで声は出さなかったが、気が遠くなるくらい痛かった。脹脛に指が食い込んだとき、その後一度だけ気を失ったことがある。ぐっと歯を食いしばって堪えてはいたが、ふーっと暗くなって意識が飛んだ。きっと痛さの限界を超えていたんだろう。「わたしの場合、ブルドーザーでがあーっと、という感じでんな。」ほんとうに、その言葉通りだった。
2時間悶え苦しんだ後の血圧は、上が120で、下が58だった。1983年の10月23日が初日で、大学院を修了した次の年のことである。毎週の治療は1月30日まで、三か月余り続いた。
次は、手入れか。

最寄りの神戸電鉄緑が丘駅