つれづれに:生野峠(2022年5月12日)

2022年5月12日つれづれに

 

生野峠

生野峠

 →「阿蘇に自転車で」(5月11日)行く前の夏に、自転車で生野峠を越えた。→「関門海峡」(4月26日)まで行って以来、長距離は2度目だった。八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えようと思いつき、寝袋を積んで、自転車で出かけた。ついでなので、鳥取砂丘に行き、北部の海岸線を回って来るか、そんな感じだった。他にも、二月初めの一番寒い時期に宇高フェリーで四国に渡り、室戸岬を回って足摺岬まで、どの時期でもいいが日本海側を北上して北海道まで、と考えていたが、どちらにも行けなかった。片道一時間余りが限界の今の体力では、実現の可能性はない。

生野峠周辺の山々

 朝早く家を出て姫路の手前辺りで北に向かい、福崎町を過ぎて生野峠まで一度も降りないで、一気に自転車をこいだ。その時点で、八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えるという今回の目的は達成された。

辛夷と播但線

 中国山脈のど真ん中、周囲はもちろん山々である。辛夷(こぶし)の花(↑)が咲いていた。姫路からは播但線(↑)が走っていて、福崎、和田山(↓)の地名は何度か見かけたことがあった。

 生野は銀山でも有名である。平安時代初期に開坑、16世紀半ばに石見銀山からの技術導入で本格的な採掘が始まったらしい。信長、秀吉、家康は直轄地にして、佐渡の金山、石見の銀山とともに重要な財源としたようだ。江戸時代中期に銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。明治に入ってから政府が直轄して近代化が進められたが、資源の減少と採掘コストが増加して1973年に閉山、今は史跡になっている。以前南アフリカ関連で金鉱が見たくなって、鹿児島県の串木野ゴールドパークに行ったことがあるが、生野でも観光用に坑道を見せてくれるようだ。閉山後は三菱鉱業(現・三菱マテリアル)が銀山周辺で事業を展開しているらしい。その時、銀山の跡地(↓)を見たのか、標示だけを見たのかははっきりしないが、自転車の上で銀山を意識していたのは覚えている。

 生野峠を越えたあと、すぐ北の和田山から北西の方角に進んで、鳥取県に入り、砂丘に着いた。夕方近くになっていたと思う。砂丘に入って、寝袋を広げて寝た。海の近くなので蚊はいないと思っていたが、夜中じゅう蚊の音に悩まされた。もっと海の近くで寝ればよかったが、入り口からそう遠くない場所で寝たように思う。砂丘なのでずーっと向こうまで砂の海、を想像していたが、周辺には草も生えていたし、人の出入りも結構あるようで、勝手に想像していたイメージとはずいぶんと違っていた。

 翌日は海岸線を行きながら、途中の諸寄、浜坂、香住では港に立ち寄り、海岸線では時折自転車を停めて、お茶を飲んだ。

香住海岸

 その後、竹野海岸から城崎に入った。兵庫県は南北に結構広い土地なので、南部に住んでいると普段は日本海側のことを考えることはない。香住や浜坂くらいしか名前も知らなかった。北部のこの辺りの海岸沿いの道も、思いのほか起伏が激しかった。地図ではわからないが、想像以上に急な坂が続いていた。体力があったのだろう。今回はぐっと踏ん張れるように下駄を履いていたので、意地でも降りるものかと、大声を出しながら立ってこぎ続けた。今から思うと、どうしてそんなに向きになってこぎ続けたのか。そのあと城崎に入ったが、温泉街だったのに好きな温泉にも浸からないまま通り過ぎたように思う。

城崎温泉街

 そこからは豊岡、そばで有名な出石城下、和田山経由で戻って来た、ようである。今回、行ったと思われる所を辿りながら、あれこれウェブで画像や地図を探してみた。ずいぶんと前のことなので記憶は極めて曖昧だが、一番暑い時期に生野峠を越えた、砂丘で蚊に悩まされた、海岸線の坂がきつかった、という感覚だけは今も残っている。

出石城下

 次回は、街でばったり、か。