つれづれに:コーチ(2022年4月15日)

つれづれに

つれづれに:コーチ

通った高校(高校のホームページから)

社会活動を最優先して運動クラブには入らなかった高校時の反動もあって、大学では運動クラブに入ると決めていた。幸い、バスケットボール部で昼間の人といっしょにやれることになった。(→「運動クラブ」、3月29日)

キャンパス全景(同窓会HPから

体育会系特有の理不尽さもなく、月水土の2時間は実力のある先輩とプレイができて大満足だったが、5年近くブランクがあったせいか、もう少しどこかで練習がしたかった。それで、近くの中学校にでかけた。シュート練習が出来ればいいが、くらいにしか考えていなかったが、いつの間にか混ぜてもらっていっしょに練習もするようになっていた。5つ年下の弟がいる3年生が主体のチームで、試合を見に来て下さいと言われて出かけたら、顧問の人からベンチに入って下さいと頼まれた。顧問が熱心で強いチームもあったようだが、そのチームの顧問は名前だけで、気が付いたらコーチまがいのことをやるようになっていた。男子チームが早々に負けてしまい、同じ体育館で練習していた女子チームの試合にもついて行くように言われ、練習もいっしょにするようになった。

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

3年生のチームは夏までで試合が終わる。私の時も7月早々に市内大会で負けて試合が終わり、引退した。一年生の終わりに2年で主力になる予定の同級生が二人突然辞めた。事情は知らないが、親の影響が強かった気がする。一人は親が開業医で、朴訥だが背は高くチームには必要だ思っていた。もう一人も家が資産家のようで、シュートが一番うまく、リーダーシップもありそうだったので、主将をやってくれると思っていた。どちらも進学のための受験勉強を辞める理由にしていたが、理由は他にあったのではないか。高校でいっしょになった。辞めてからは話をしていないが、高校でも受験勉強はしているようだった。二人が抜けてどうしようと思っていたら、背の高い同級生が入って来た。怒りっぽくて、よく喧嘩もしていたようだった。癖はあったが、何とか最後までコンビを組んだ。しかし、もう一試合勝てば市内の代表の一つとして次の大会に出られるところで、負けてしまった。最初からいっしょにやっていた二人が途中でやめて、早い時期に主将をやらされたうえ、最後の試合にも負けて、不消化のまま終わってしまった。

僕と同じように、同じ進学校に行ってクラブ活動をしていない年上の人が時々練習に顔を出して見てくれていたが、試合当日は授業があったのでベンチには座れずに、来てくれたときは試合が終わったあとだった。負けたことを話したら、何も言わずに悲しそうな表情を見せていた。まさか、少しあとで、私自身が同じようにベンチに座るとは、その時は思いもしなかった。

男女のチームの練習に1年半ほど参加し、試合にも帯同した。一年目は7月までの短い期間、2年目は丸一年間、かなりの時間を割いた。一年目は大学紛争のどさくさで何とか単位を取って二年にはなっていたが、二年目はほとんど授業に出なかったので、留年をした。練習後に急いでも、授業には出られなかったからである。家庭教師を頼まれてから、時間的にも責任を持てそうになかったので牛乳配達はやめていたが、経済的には苦しかった。2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った記憶がある。

練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、ベンチにも座るように言われてコーチのまねごとをすることになったが、チームの人にとってよかったのかどうか。本来は教員がすべきことを代わりにやることが生徒にとってよかったのかどうか、そんな本質的な疑問である。後に教員になり、今度は顧問として生徒とかかわるようになるとは、不思議なものである。

次回は、家庭教師2か。

庭のイリスが咲き出した