つれづれに:臼杵(2022年4月25日)

つれづれに

臼杵(うすき)

 大学が決まり宮崎に住むようになる前に、宮崎には2度来ている。一度目は大分から宮崎に列車で来た時で、2度目は自転車で阿蘇経由で高千穂に来た時である。1回目はなぜか全体の記憶がおぼろげだが、2度目はわりとはっきりとしている。宮崎に来てから、高千穂や阿蘇に何度か出かけたからかも知れない。

家庭教師で少し余裕が出てから古本を買って読むようになっていたが、思い立って泊りがけで出かけるようにもなっていた。立原正秋の『心のふるさとを行く』の悪影響もある。1回目は大分の国東半島を中心に東海岸をめぐるつもりで出て、最後に宮崎に来たようだ。実際には国東半島には行かなかった。ぼんやりと覚えているのは竹田城跡と臼杵の石仏だけである。城跡の案内板で、岡城跡(国指定史跡)が竹田市ゆかりの瀧廉太郎の「荒城の月」のモデルになったとされる、と読んだような気がする。臼杵の石仏も見に出かけたようで、宮崎に来てから妻と二人で訪ねて写真を撮り、絵に描いてもらっている。(↑)大分の日田と宮崎でユースホステルに泊まったようだ。県庁近くの婦人会館(↓)の前を自転車で通った時に、そうや、ここがユースホステルやったんや、と思い出し、今でもまだやってるんや、と変に得心した覚えがある。宮崎に来てすぐの、宮崎神宮の北辺りから清武の大学まで自転車で通い始めたばかりの頃だった。

 ユースホステルでは4人が同室だった。朝は30年ぶりの雪らしいね、という上段に寝ていた人の話から始まった。向かいのベッドで寝ていた人の人差し指が異常に曲がっているのを見て、どうしたんですかと聞いてみたら、パチプロでね、ということだった。座り直して「負けた時はこれを質屋に入れて、また稼ぎながら、転々としてるねえ」、と腕から時計を外して見せてくれた。強面ではなく、優しそうな顔の人だった。その上の段に寝ていた人が「僕の家、名古屋でパチンコ屋をしてますよ」、と話に加わって来た。そんな偶然があるもんなんやと感心した。「30年ぶりの雪らしいね」と言った人が「この分だと通行規制が出されるから、阿蘇は自転車を押して行くしかないな」と呟いた。へえー、山て自転車で登れるもんなんや、その時に発想転換をしてもらったおかげで、自転車で山も登るようになった。

2回目に宮崎に来た時は、神戸からフェリーに自転車を積み込み、別府からやまなみハイウェイ、阿蘇、高千穂経由で宮崎に入り、鹿児島から九州の南端佐多岬に行く予定だった。しかし、なぜか高千穂から延岡に下りる旧道でパンクしたとき、もう帰ろ、と思って、日向からフェリーに乗り込んでしまった。したがって、宮崎に来たと言っても、高千穂に寄り、途中でパンクを貼って、日向からフェリーに乗っただけである。

やまなみハイウェイ(→「九州芸術の杜」